1.金曜日、拾いました。【ハル】
1.拾いました。
それは月の出ていない新月の夜。
いつものように仕事から家に帰る途中、私は“それ”を見つけた。
“それ”はうずくまるように私の住んでいるマンションの前に横たわっていた。
「あ…あの……」
どうしよう。私の部屋の前だ。部屋に入れない。
横たわる“それ”は全身が黒く、かなりの長身だとわかる。
困った。救急車に通報したほうがいいのだろうか。
「あの…わかりますか?救急車、呼んだほうがいいですか?」
そっと“それ”の前にしゃがみこみ、覗き込んだ。
“それ”はあまりにも整った顔をしていた。
そして、目を、開ける。
その黒い深い瞳に吸い込まれそうになる。
「………」
首を、力なく横に振る“それ”。
その瞳を見て、私は動けなくなる。
なんて、深い闇のような瞳だろう。
美しいその瞳の力強さに、私はある決意をする。
「ここ、私の家です。立てますか?」
“それ”に手を差し出し、肩の下に腕を入れる。
う……半端ななく重い。そして、背が高い。
なんとか扉の前からどかせると、鍵を入れてドアを開ける。
ずるり、ずるりと“それ”を引きずりながら中に入っていく。
そうして、なんとか1LDKの我が家に入ると、ベッドに“それ”を横たわらせる。
なにやら胸の部分が濡れている……電気をつけると、それは血液のようだった。
「これ……怪我!?」
やはり救急車を呼んだほうがよかっただろうか!?
あわてて外にかけようとした私の袖を掴む“それ”。
玉のような汗をかいた顔は、虚ろな表情をしていたが、どうやら救急車は呼んでほしくないようだった。
私は途方に暮れながら、部屋にあったタオルでその黒い服の上から血液をぬぐう。
すぐにぐっしょりとタオルが赤く染まる。
こんなにも……酷い怪我をしている。
涙が出そうになりながら、“それ”の服を脱がした。
血を吸った衣類は脱がしにくかったが、なんとかボタンを外して前をはだけさせることに成功する。
ざっくりと腹に大きな傷口がみえた。そこから血が流れ出している。
酷い傷だ…。
こういうのは縫ったほうがいいのだろうか。
だが、私では縫えない。
やっぱり救急車を呼んだほうが……。
私にできることは、止血することぐらい。
包帯を持ってくると、傷口をきゅっと巻きつけた。
すぐに血で赤く染まる包帯。だけど、そのぐらいしかできることはない…。
「もっと、ちゃんと応急処置の仕方とか覚えておくんだった…」
服をはだけさせると、先ほどよりは息がしやすくなったのだろう。
“それ”の呼吸がだんだん落ち着いたものになる。
夏の終わりとはいえ、少し肌寒くなってくる季節だ。
“それ”にブランケットを掛ける。
ブランケットにも血が染み出しているけれど、我慢してほしい。
“それ”は意識を失ったのだろう。目を閉じている。
痛みに顔を歪めていても、声一つ上げない“それ”は、あまりにも美しく、そして恐ろしかった。
明日が休日でよかった。
それから、私は夜通し看病し続けた。
これが私と“それ”――彼との出会いだった。
痛みと熱で苦しそうにしていた彼の額の汗を拭っていたら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
慌てて起きると、まだ彼は眠っていた。
だいぶ昨日よりは落ち着いた顔をしている。
ほっとした。まだ死神は彼を連れていかなかったようだ。
それにしても……整った顔立ちをしている。
年齢は20代後半から30代前半ぐらい。
襟首までの髪は少し長めで、前髪も目の下までかかっている。
だが、彼を印象づけるのは、なによりもその閉じられている目だろうか。
漆黒の目は本当に深く、吸い込まれるような瞳だった。
ぼんやりと覗いていると、長い睫毛に淵とられた瞳がうっすらと開いていく。
「あ、起きました?」
まだ彼は自分がどこにいるかがわからないようだ。
瞬きを何度かすると、表情を厳しくして起きようとした。
だが、痛みに顔を歪めると、再びベッドに沈み込んでいく。
「あ!傷がひどいんです。いきなり起きるのは難しいかも」
彼は顔だけ浮かすと、自分の腹部をみる。
そうして、自分が腹にどれだけの傷を負っているかを確認したようだ。
そうだ。その前に、彼は何人なのだろうか。
顔立ちは東洋人らしい。
日本人だと思って話しかけていたけれど、日本人でない可能性だってある。
「言葉は通じますか?日本語伝わりますか?」
日本語わからなかったらどうしよう…英語、少しもできないし……。
彼はこくりとうなずく。どうやら、日本語は伝わるようだ。よかった。
彼は唇を動かす。
「え、なんですか?」
彼は、少し困ったように喉を押さえる。
ああ、もしかして、お水が欲しいのかも。
「お水、ですか?今持ってきますね!」
慌てて台所の蛇口から水をコップに注ぐと、彼のもとに持っていく。
起き上がれない彼の頭を少し持ちあげて、ゆっくりと水を含ませる。
彼はゆっくりと、そして慎重に水を飲んでいく。
彼は水を飲み干すと、ぺろりと唇を舐めた。
「おかわりはいりますか?」
その言葉には首を横に振る。
そうして、他の問いを聞いてきた。
えと、唇の動きは……。
な・ま・こ?
「なまこは好きでも嫌いでもないです」
首を横に振る。あ、違ったのかな。
な・ま・え?
「あ、私の名前ですか?」
うなずく彼。
「あ、私ハルミといいます。春の海で春海。あなたのお名前はなんていうんですか?」
どうやら、彼は言葉が話せないらしい。
彼は少し困ったような表情をすると、何かをするしぐさをした。
えーと、わかった!
「背中がかゆいんですか!?」
ぶんぶんと首を横に振られた。
えーと。なんだろう。
手に、持って。何かをするしぐさ。
あ!わかった!
「蠅たたきが必要ですか!?でも、なんでそんなもの……」
彼が脱力した。えと、違うのだろうか。
彼が四角く指を動かす。
「これっくらいの、お弁当箱に?」
「…………」
今度は頭を抱えはじめた。えと、違うのだろうか。
四角いものと手に持つもの…。
あ、そうか。
これはペンと紙だ!文字は書けるから、それで会話しようというのだろうか!
「ペンと紙ですね!すぐに持ってきます!」
彼は疲れたようにうなずく。
ペンと紙を持ってくると、彼はすらすらと何かを書いた。
「………」
「………」
どうしよう。字が、汚い。判別できないほどではないけど、結構厳しい。
『好きの呼ぶといい』と書いてあるようだ。
名前のこと、答えてくれたのか。
「わかりました。では、クロと呼びます!」
彼の眼を見たときから、私にはその名前が浮かびあがってきていた。
そう、2か月前に死んだ私の飼い猫のクロ。
その吸い込まれそうな瞳に、すごく似ていたのだ。
「傷、本当にひどいです。病院に行ったほうが…」
『病院には行かない』
「え、でも……」
『熱した針と糸を持ってきてくれないか』
「え、わかり、ました」
彼の言ったように針をガスレンジで熱する。
すると、彼は少し起き上がりながら、自分の腹部を熱した針で縫い始めた。
痛いのだろう。脂汗が浮いている。
器用に自身の腹部を縫い合わせていく。
痛み止め…そうだ。気休めにしかならないけれど、痛み止めがあったほうがいいはず。
「痛み止め、気休めかもしれませんが、いりますか?」
こくりと彼がうなずく。
私は薬箱を探す…えーとえーと、あ、あった!
『女の子の痛い日を軽減!』
……えーと、えーと、男の子の痛い日でも効くのかしら。
まぁ、痛み止めには違いないよね!
「お水とお薬です!」
彼は静かにゆっくりと飲み下す。
再び彼は縫い合わせる作業に戻っていく。
彼は縫い終わると、深い息を吐いた。
そうして、どさりとベッドに沈み込む。
『少し休憩したら出ていく。すまない』
「え!?そんな、その傷では無茶です!!」
『君は小学生だとはいえ、女だ。不用意に不審な人物を家に入れるのは好ましくない』
「………………あの、私。26歳、OLですけど」
彼は今日一番の驚愕をした顔をした。
た、たしかに私、140㎝しかなくて、よく中学生とかに間違われますけど。
彼は「小学生だとはいえ」の部分に二重線をひくと、再び同じ文章を指し示す。
「怪我をした人を放ることはできません!せめて、傷口が塞がって動けるようになるまではここにいてください」
再び同じ文章を指し示すクロ。
「クロは不審人物ばりばりですけど!でも放ってはおけません!」
彼は、諦めたように溜息を吐く。
『世話になる』
彼はそう書き残すと、ふわりとまた意識を失った。
こうして、クロとの奇妙な共同生活がはじまったのだった。