(2)「不可殺(プルガサリ)襲来」
空中抵抗を低減させる鋭角的なフォルム、翼膜を持つ前脚。超音速ジェット戦闘機の主翼めいて突出・拡張された背面装甲――後に“飛翔形態”と呼称されることになる、彼が初めて見せた変態機能により、朝鮮人民軍空軍機は一蹴された。
爆装していたMiG-21や鈍重な攻撃機Su-25は勿論のこと、第4世代ジェット戦闘機であるMiG-29でさえ敵わなかった。
巨大生物の一撃離脱戦法――最大速度マッハ19.50という埒外な飛翔速度に、人民軍空軍機はおろか空対空誘導弾さえ追いつけない。世界最速とされる旧ソ連製MiG-25戦闘機でさえマッハ3が限界であり、世界各国の空対空誘導弾の飛翔速度は、せいぜいマッハ4ないしマッハ5程度である。
朝鮮人民軍空軍の練度の問題ではなかった。
人類の現行航空戦力ではまともにやって勝てる相手ではない、ということだった。
マッハ19.50という速度で攻撃を回避し、音速の2倍がせいぜいの速度で逃げ惑う戦闘機に追いつくと、接触して大破せしめる。まさに鎧袖一触。特殊な攻撃手段は持たないが、堅牢な外皮とその優速ならば、ただ触れるだけで相手を撃墜できる。
出撃した人民軍空軍機が全滅するのに、さほどの時間はかからなかった。
一方の巨大生物は核実験場のある咸鏡北道上空から、咸鏡南道へ侵入――そのまま同道北東部の端川市上空に至り、平屋建ての家屋を薙ぎ倒すように市街地に着陸した。
「人民軍陸軍車輛が通る、道を開けろ!」
「退いてください、退いて! そこ、子供の手は絶対に離さないで!」
「轢き殺されたくなければ早くどけ!」
対する朝鮮人民軍陸軍は、咸鏡南道の第7軍団、第9軍団、第108機械化部隊に戦時展開を指示。
さらに第19警備旅団と人民保安員(警察官)が協力し、端川市や近隣の行政区域にて、非戦闘員の避難誘導にあたり、戦力展開を補助した。
「市民の避難は間に合いそうか」
「接触を保っている偵察部隊によると、現在は南西方向に時速約2、3㎞の速度で前進中とのことです」
「地上の動きは緩慢か」
「こちらが攻撃準備を整える時間は、十分にありそうです」
咸鏡南道に駐留している各軍団司令部では、巨大生物に対する攻撃準備が整えられていた。
といっても巨大生物に関する情報は不足しているため、東海岸に米海兵隊が上陸したことを想定した対米作戦計画や、越境攻撃を仕掛けてきた中華人民解放軍を、咸鏡南道で迎え撃つことを想定した対中作戦計画を流用することで、準備が進められている。
だが各軍団司令部の参謀たちは、巨大生物を撃破する自信はなかった。
相手は現代空軍の空爆に堪えた怪物だ、絶大な火力をぶつけなければ撃破できる相手ではないだろう。
そしてその火力が、彼らにはなかった。
まず巨大生物を迎え撃つ第7・第9軍団は、南朝鮮解放戦争の際に支援を期待されている後方軍団に過ぎない。その主力は軽歩兵であり、南に配備されている前線軍団に比較すれば、攻撃力は期待できなかった。
攻撃の要は第108機械化部隊となるだろうが、これも保有戦力は、旧式戦車・装甲車や50年代からあまり改良されていない牽引式火砲が主装備だ。しかも現代陸戦の花形である機械化部隊にもかかわらず、燃料補給が不十分であり、稼働率は悪い。
現在のままでは、勝算はない。
戦術的には南方から攻撃力を持つ優良部隊を引き抜いてきて、火力拡充を待つべきだろう。
しかし第7・第9軍団を初めとする参謀たちは、「目標を端川市の重工業地帯に侵入する前に殲滅せよ」と上層部から厳命を受けていた。「この国に重工業地帯を一から再建する体力はない」――誰も明言しないが、それが暗黙の了解だった。
これ以上、巨大生物一匹に国益を害されてはたまらない。
「半島北東部で何が起きているのですか……お分かりだとは思いますが、我々は朝鮮人民軍の一挙手一投足を掴んでいます。核実験を行ったことも、人民軍空軍が大規模出動したことも、ね」
「核実験も我が空軍の出動も、貴方がた南朝鮮傀儡政権が呼び寄せた米帝の空母打撃群を殲滅する。その予行演習に過ぎない」
人民軍陸軍が攻撃準備を整えている間に、韓国政府関係者は北朝鮮側の人間に水面下での接触をしていた。
当然ながら韓国・米国は北朝鮮の異変を察知しており、朝鮮半島北東部にて何かが起こっていることを確信していた。あとはその正体を見極めるだけだった。
「こう見えても我々は、貴方がた同胞を心配しているのです。もしもこれが中国に対する備えであり、何かしらの緊急事態に対応するための行動であれば、我々にもなにかお手伝いが出来るかと」
韓国側の人間たちは北朝鮮が、対中国を睨んだ軍事行動を開始しているのではないかと考えていた。
先の戦争では中華人民共和国の参戦により命脈を繋いだ彼らだが、現在両者の関係は良好とは言えない。核実験に伴うトラブルが中朝間で発生し、北朝鮮は万が一に備えて戦力移動を開始している――そう彼らは推測していた。
「その申し出は有難いが、自分のことは自分でできる……貴方がたとは違ってね」
もちろん北朝鮮側の人間は、真実を話したりはしなかった。
南朝鮮の傀儡政権に助けてもらうなど、政治的立場が許さない。
また事実を告げれば、それは必ず米国に漏れる。そうなれば米軍は躊躇なく攻撃を仕掛けてくるだろう――北東部の巨大生物と、どこから攻撃を仕掛けてくるかわからない米軍、両者を相手にするなど悪夢以外の何物でもない。
このとき北朝鮮側の人間はその猜疑心と恐怖心によって、救いの手を拒絶してしまったのであった。
日付が変わり、2017年9月4日午前4時。
闇夜の最中、朝鮮人民軍陸軍の第7・第9両軍団以下諸部隊は、巨大生物に対して包囲陣を敷き、攻撃準備を終えた。
前線部隊の大半は軽歩兵であり、その中に62式軽戦車や59式戦車、旧式装甲車が混じっている。その後方には122mmや130mm級の火砲100門以上が展開しており、攻撃開始の合図を待っていた。
「祖国防衛と南朝鮮解放に用いるべき兵器を、害獣駆除に費やすのか」
前線を視察していた若い参謀は、馬鹿馬鹿しくなる気持ちを抑えるのに必死であった。
相手は生身の動物だ。空軍の連中がどんなヘマをしたかは知らないが、弾丸を撃ち込まれれば傷つくだろうし、砲撃を受ければ即死するだろう。害獣一匹を駆除するのに、2個軍団が動員されるなど、恥でしかない。
ちなみに目標は睡眠でも摂っているのか、もう4時間以上はまったく動いていなかった。つまり現在の相手は、観測済みの静止目標だ。いま攻撃を開始すれば、砲兵の1、2回の砲撃で片付くだろう。
「まあ演習だと思えば……今回の一件で市民たちの意識も引き締まっただろう」
若い参謀の甘い考えは、最悪の結果で裏切られることになる。