第九話:ちょっと鬱回
その後やっぱり浴衣を見に行くことになった。
ご令嬢は意外と足を止めずにさらさらっと眺めるばかりだ。ついで帯を見て回り、帯留めをいくつか手に取って眺め、またきびすを返して浴衣に戻った。
「じっくり見てもいいんですよ……?」
「ん? ああ、見ているさ。和服は布面積が大きいからぱっと見の印象が大事だし、なにより組み合わせだからな。一つをにらめっこしたらもったいない」
彼女なりの哲学があるらしい。
というより、和服を見慣れていて品定めしやすいという感じだ。
「染の仕上げがちょっと気になるな。お、あっちの棚もあるじゃないか」
迷わず二倍くらい高い浴衣に向かい、そちらは気に入ったのか頷いて手に取った。
はは……いくら和服は手入れを間違えなければ長く使えると言っても、気軽に手を出せる値段じゃない。やっぱりお嬢様なんだろう。
「なあ」
「はい!?」
「どうかな、似合うだろうか?」
ちょっと自信ありげな声。
ノータイムで思考停止の追従をしていいタイミングではなかった。お札を破って厄の形代にしてから右目を閉じる。
ご令嬢が胸に当てているのは朝顔柄の浴衣だった。
濡羽色の艶やかな髪と白い肌、しゅっと伸びる背筋に合わさって、しっとりと優艶な魅力があふれている。これを本当に着たらと想像して唾を呑んだ。
右目を開ける。
ぬめつく腐乱死体の集積場を歩かせたような化体がいる。
すごく落ち着いた。
「似合います、とても」
「そうか」
ご令嬢は思いのほか淡白な反応で浴衣を眺める。
「これにしよう。買ってくるよ」
レジでお金を払う。
ご令嬢が店員に手渡した、その紙幣に紫色のシミがあった。瞠目する。
「お預かりします……」
店員の女性は何食わぬ顔で受け取ってレジスターに収めた。
はっとして右目を閉じる。紙幣にシミは見えない。
「霊障!」
最悪だ。
奪って清めることもできない。香を焚いても届かないし、塩をすり込んだら強盗にしか見えない。
店員はにこやかに商品をご令嬢に手渡した。
「ありがとうございました」
「はい、どうも」
そうだ、御札をレジ機に張り付けてしのいで、タイミングを待とう……!
バンッ! と火花が吹きあがった。
「ひゃ」
悲鳴がふっつりと途切れた。
店員が力を失って崩れ落ちる。商品を放り投げて身を乗り出したご令嬢が捕まえ、かろうじて倒れることを防いだ。停電する。
「今だ……!」
御札を貼っても対症療法だ。
ロウを塗り、九字を切って榊の枝で払い、最後に形代を破る。二つに裂けた形代に厄が無事に移ってきた。塩水で濡らして潰す。
よし。これを後で燃やせばいい。
「ご令嬢、ご無事ですか」
「あ、ああ……私は」
寝かせた店員から手を放したご令嬢は、震える自分の両手を見つめた。
「私はなんてことを」
「ご令嬢?」
気づいた。エプロンをつけている店員のお腹が少しだけ膨らんでいる。
レジ機が突如漏電し、彼女は感電して倒れた。とすると、お腹の赤ん坊は……。
「私は……ッ!」
明かりが戻った。
まるで自分が迷子になっていると気づいた子どものように、ご令嬢は明るくなった店内を見まわして。
「ご令嬢!」
逃げた。
飛ぶように走り、人々をすり抜けて階段を飛び降り、デパートから飛び出す。
追いかけられたのはそこまでだ。
俺が出入り口にたどり着いた時には、ご令嬢は小さくなって家々の屋根を跳びわたっていた。
「電車と並走してる……」
俺ごときでは、忍者の技量が物足りないと感じるわけだ……。
「とにかく店に戻って、救急車を呼ばないと」
店員はもう起きていた。
同僚に介抱されて、火傷したらしい指を冷やされている。
「救急車は呼びましたか」
「あ……そうですね、見てもらった方がいいでしょう」
同僚はテンパっていたのか救急車も呼んでいなかったようだ。救急ナンバーを呼び出している間に女性に声をかける。
「ご気分はどうですか、意識のほどは。何か月ですか?」
「はい、平気です。しっかりしています。……何か月とは?」
「お腹の赤ん坊です」
店員の女性ははっとしてお腹を隠すように抱いた。
「私、妊婦じゃないんですけどッ!」
「えっ」
「ひどい! そんな言い方で結婚できない太ってる毒女だなんて言うことないじゃないですか……ッ!」
えっえっ、と戸惑っていると、上司らしい初老のおば様がそっと背中から耳打ちしてくれた。
「彼女、三十歳の誕生日に彼氏に振られたばかりなの。本気で受け止めなくていいわよ」
「それは……」
思わず会釈してしまった。
「ご愁傷様です」
「ありがとうございます!!」
ボロボロ泣きながら叫ばれた。
残念ながらその不幸は、祟りや霊障とは何の関係もない彼女独力の結果だった。