第三話:奥多摩忍者は立川に行く
月曜日の午前十時となれば、駅前も人がまばらだ。
といっても、奥多摩駅前ではない。古民家風の情緒ある奥多摩駅前に人はいない。ボタンで電車のドアを開けると言うと笑いがとれるのは納得いかない。
今いるのは立川駅だ。都会である。奥多摩からはるばる一時間かけて上がってきた。
特徴的な赤いアーチが目立つ北口で時計を見る。正しくは、午前十時の五分前だった。
「やあ、待たせたかな」
と声をかけてきたのは黒い腐ったナメクジだ。
もとい、ご令嬢。通りがかった若い男性が鼻の下を伸ばして二度見している。
「おはようございます。いえ、待っていませんよ」
ちらと足元を見る。
盛り塩は黒ずんで、床に塩水で引いた方陣はあっという間に割れている。デカブツのほうに関わるとおまじないは役に立たない。
「ふふ。今日はよろしく頼む。楽しみだ」
「俺も今日のことを考えて、なかなか寝られませんでした」
寝ずに作り続けたお祓いセットが片掛け鞄に詰まっている。いくらあっても足りやしない。
「そ、そうか。実は私もなんだ。その――」
生ゴミがうつむいてもじもじと揺れる。
「でぇとは、初めてだから」
そう。
ご令嬢の頼みたいこととは、デート、という名の市街地探訪だった。
「悪霊のこともあって、なかなか機会がなかったからな」
こんな祟りが街を歩いていたら堪ったものじゃないだろう。
ちなみに、独り身よりもカップルのほうが悪霊に狙われやすい。それだけ恋愛関係の問題で死んだ者が多いということだ。ホラー映画もあながち間違いじゃない。
俺が頼まれたのは、残念ながらデートの相手役ではない。厄除けおよび通行人の保護だ。霊視能力と陰陽の知識、そして忍者の身体能力がなければ果たせまい。その意味で間違いなく俺が適任だろう。
ご令嬢は立派な駅舎と回廊で接続される駅ビルを見渡す。
「しかし、立川か……。新宿とか渋谷とか行ってみたかった」
「さすがに無理です、手が回りません」
ご令嬢は苦笑するような息を交えた。
「分かっているよ。立川も悪くない」
「都心ほどじゃありませんが、ここも都会ですからね」
「ん?」
「ん、なんですか?」
「……いや、なんでもない」
生温かい視線を感じる。なぜだろう。
腐塊が身を傾け、茶色い液体をばたばたとこぼす。
「ところで、どこに行くかは決まっているのかな?」
「ええ、大まかには。夏の洋服を見たいとのことでしたよね。他にご希望がありましたら優先しますよ」
「いや任せる。行こう」
そうですね、と答えて先導する。
長時間ここにいると、歩行者用回廊が崩落しかねない。今垂れた汁で厄の溜まった床がヤバい感じにカビている。
スマホを開いて、想定ルートが赤いラインで表示された地図を呼び出す。八卦と渾天儀を使って占ったルートだ。少しでも悪霊を避けられる道を選ばなければおっつかない。その問題があるので、ルート選定を俺に任せてもらった。
「事前にお伝えした決まりは守っていただけましたか」
「ああ。紙にまとめてある。確認するか?」
言いながら、なんと巻物が悪霊の表皮からハミ出した。頬が引きつったのが自分でわかる。
「いえ、守っていただけているなら結構です」
手を近づけたくない。というか巻物って。忍者かぶれのアメリカ人じゃないんだから。
しかしながら、内心で舌を巻く。
俺が伝えた決まり事とは、陰陽のクソ面倒くさいゲン担ぎのことだ。
穢れを避ける物忌み、神の居る方角を犯す際の許可取りである方違え、旅立つ前の反閇などがある。
物忌みはヒンドゥー教の戒律みたいなものだが、方違えは他所に一泊して基点の方位を変える必要があったり、反閇では手順の決まった儀式が必要であったり、とにかくややこしい。いくつか守れないことを前提に考えていた。
このご令嬢、デートひとつにどんだけ本気なんだ。
「しかし驚いたよ」
ご令嬢が言う。
「あんな長文の電子書簡で事前の作法を伝えてくるとは。本気で取り組んでくれているんだな」
「電子書簡?? あ、いえ……任務ですから」
ちょっと嬉しそうな声に居たたまれなくなる。
任務だから取り組むのは当然のことだが、同時に護身のためでもある。ご令嬢と違って俺は霊障の影響を受けやすい。
それでも。ご令嬢に隠れて襟を正す。依頼主が本気だというなら、俺も最善を尽くすまで。それが忍びというものだ。
声をかけようと振り返って、ご令嬢はおもむろに身を屈めた。眼前に迫る空き瓶を白刃取りィッ!? 瓶だと!? 紙でも缶でもなく、瓶!? 遅れて突風が吹き抜ける。
「陰陽師の知識だけではない。忍びとしての身のこなしも確かなようだ」
ご令嬢は何食わぬ顔で体を伸ばした。弾みで腐汁がほとばしる。最悪だ。
「では行こうか。まずはどの店に行けばいい?」
爛れた腐れナメクジに重なって、たおやかな野菊のごとき微笑が控えめに咲いている。
ほんと勘弁してほしい。
7/26 締めの流れ微修正