テンパるとダメなタイプ
「おい、大丈夫なんか篠部さん」
「や……やべぇかも」
二人分のひそひそ声は、当人たちにしか聞こえていない。下駄箱付近の自動販売機の陰、身を隠しながら下駄箱の様子を窺えるポイントに、夕菜と遊人は待機していた。二人が見つめる先にいるのは、変わらぬボブカットを揺らし仁王立ちする明花。第二次恋文作戦、実行の日だ。実行人たる明花は、姿勢だけ見れば堂々としているようにも見える――が、
「やらかしそうだね、ランナー一二塁で鈍足の打者がバントするくらいヤバいね」
「そういう微妙なたとえやめろ。逆によく分からん」
明花の緊張感は、十メートル以上離れた二人の位置からでも感じ取れた。普段は滑らかな白い肌が目立つが、今の明花は顔全体が林檎の如く赤くなっていた。小さな鼻の頂点から、顎・耳の先に至るまで、純粋且つ危なっかしい熱気を帯びているのだ。
「ただ渡すだけでいいのに、篠部さん何であんなに……」
遊人の声に押され、見かねた夕菜が飛び出そうとした直前、標的は姿を見せた。奥崎良介は一人で、音も立てずに姿を現した。遊人と夕菜は心臓の鼓動を速め、明花は一層熟れていく。
「お……奥崎君!」
明花は既視感を感じた。先日の朝もこう呼びかけたはずだ。そんな発想を消して、明花は良介を見据える。一方で自販機の陰では、二人に聞こえない程度の小さな声が絶えず漏れていた。
(しかし良介、本当に無愛想だな……顔は良いけど性格で損してるわ)
(いやまぁ……あの子はあの子で、良い所有るんだぜ?)
苦笑しながら夕菜は良介の、見慣れた幼馴染の顔をもう一度直視する。短い髪は特別手入れされているようにも見えないが、烏の様な濃い色は綺麗な物だった。その短髪は彫りの深い顔立ち、細い輪郭にもよく合い、外見は贔屓目抜きにも上等と言える。ただ必要以上に鋭いその目つきと、感情の起伏の無さ、もとい表情の変化の無さは、確かに人受けが良いものではない。
「篠部さん……か」
良介は独り言のように小さく呟いた。
「あの、時間……有るかな? 話したいことが、あるんだ」
小声を聴こうと躍起になった見学二人組は、体のバランスを崩して必死に立て直していた。
「時間なら有るけど」
表情に加え、声色も不変。しかしその素っ気無さの中には、先日の出来事による警戒心もあるのではないか――持ち直した夕菜は、ふと感じた。一方の明花は少し大袈裟に咳払いをする。少し震えた体躯を見て、怯えたウサギなどという形容を思い浮かべたのは遊人である。
「こ、こないだ……手紙、読んで、くれなかった、よね」
(国語の授業で文法やった時、あんな区切り方したよな)
(ちょっと黙っちょれお前)
呑気な事を口走る遊人を夕菜が窘めた。明花はその二人の様子に気づくことも無く、上着の内側から一回り小さな封筒を取り出す。最初の封筒より少し薄い、しかし上品な色をしていた。
「あ……あれから、色々考えたんだけどね? やっぱりその、読んでほしい、といいますか」
(考えたセリフと大分違わねえか篠部さん)
怪訝そうな声に夕菜は返事をしない。沈黙を以て同意を示す。静かにヒートアップしていく明花を見て、緊迫感に飲まれつつある。その緊張感などどこ吹く風で、良介は静かに首を振る。
「悪いけど、読むつもりは」
「なんで!」
空気が一変した。ぼそぼそ話していた明花の声が、一瞬で暴発した。その場にいた三人は例外無く肝を抜かれた。良介の驚いた顔を明花は見たことが無かった。それでも少し間を開け、
「なんで読みすらしてくれないんですか?」
いくらか声を落ち着けて、明花は続けた。
(な、何故に怒ったの篠部さん!? いや、怒った理由は分かるけど、このタイミングで……)
(う、うむむ……テンパってるだけちゃうか?)
「……読まないっていうなら、せめて理由を教えてください」
(いや、でも……ただテンパってるだけでもなくね? どういうことなの……)
その場にいた明花以外の人間はただ困惑するばかりである。その困惑から完全に復帰はできないまま、良介は明花に向き直る。
「その……なんというか、読みたくない、というか」
しどろもどろになって答える。立場が逆転していた。
「私が嫌いなら、素直にそう言ってください。忙しいとか、恋人を作る気はないとか、でも」
物陰の二人を気にすることなく、明花は良介をじっと見据える。良介は依然歯切れが悪い。
「……いや……そういう訳でも……なんというか、その」
向き直ってもなお明花を直視できない良介は、バッグを持たない右手で頬をかくようにしながら懸命に思案する。それでも、その口から気の利いた回答が出てくることは無い。
「傷付ける心配とか……しなくて大丈夫です。本当に、ただ言ってくれるだけで」
「あああああ、もう!」
(!?)
声のトーンを落としながら追及する明花に対し、今度異変が発生したのは良介の方だった。頬の手は頭に移動し、顔は露骨なまでに歪んだ。
「言えない。とにかく、言えない!」
先程の落ち着き払った態度が嘘のようだった。今度はあとの三人が呆然とする番だ。
「僕は読む気も受け取る気も無い。説明する気も無い。それだけ、それで終わり!」
(……どーした良介!?)
一方的に会話を打ち切った良介は、それでも直ぐには足を踏み出せない。
(あの子もかなりテンパってたんか? どんだけポーカーフェイスなんだ、昔以上だぜ……!)
二人の混乱も届かず、良介と明花の会話は最早同じ句の繰り返しになっていた。なんでなんで、言えない言えない、本当になんで、本当に言えない――延々ループした挙句。
「僕は帰る! 言えないもんは言えない!」
痺れを切らした良介は、とうとう逃亡を図ったのである。
そうはさせじと明花は靴入れを塞ごうとしたが、良介のバッグによる咄嗟のブロックが先に決まった。そして下校妨害はあえなく失敗し、良介は解けた紐靴で飛び出していったのである。
一分足らずの攻防を眺めていた二人組は、ぽかんとした表情のまましばらく動かず、動けずにいた。予想外の展開、それも二重三重になったものを目撃して、反応に困っていた。
それでもやがて身体が動き始め、自販機の陰から二つの人影がゆっくりと現れる。そして、
「なんじゃ今の面白い展開は!」
沈黙を壊したのが、夕菜の派手な第一声である。
「え、いや、どの辺が面白かった!?」
「いや、なんか色々と」
二人の会話に明花は反応しない。良介が去った方をじっと見つめ、無表情で座り込んでいる。
「あのー……メイちゃん? 大丈夫かい?」
夕菜の軽い口調での問いかけに、反応は無かった。
「なんつーか……第二次も失敗、なのか?」
遊人は気を使ってか、真面目な表情でそう呟く。
二人の言葉にも、しばらく明花の応答は無い。二人がどうしようかと顔を見合わせ――
「……なんですか」
他に喋り声でも有ったら聞き逃していたであろう、小さな声だった。一瞬経ってから、その声が座り込んだ眼前の少女から漏れたことに遊人は気付いた。
「こっちはえらく悩んで、度胸出して、覚悟決めて挑んだってのに……拒絶されてもいいって、思ってやったのに」
段々と声量を増していく明花に、二人は口出しができない。
「何なんだあの態度はぁっ!!」
驚き続きの放課後にあって、夕菜と遊人が一番驚愕しているのは今である。明花の顔が、明らかにさっきとは違う意味で赤い。今の明花は林檎というより赤鬼だ。
「理由も言わずに逃げるとか……イライラする! 断るのはいいとして、断る段階で煮え切らないとか本当にイライラする!」
ヒートアップは続く。角が生えてもおかしくない勢いで、盛大な独り言を連ねる。
「緊張から解放されて、一気に怒りが込み上げて……って感じなんかな!? これ……」
「せ、せやな」
明花の後ろで遊人の発言に相槌を打ちながら、夕菜は自分の認識不足を実感した。遊人が良介の実体をまだ知らないのと同じように、自分もこの後輩のことをまだ分かっていなかった。
「……まだ終わりになんかしない」
怒りを一通りぶちまけた後で、静かな感情の籠った言葉を明花は続けた。
「遊人君……ごめんなさい、計画台無しにしちゃって。夕菜先輩も」
明花はいくらか落ち着きを取り戻して二人に詫びた。遊人は依然戸惑うばかりだが、
「いや、別に謝らんでも。それよっか今後に興味があるよウチは」
夕菜がやんわりと明花に発言を促す。それを受け、明花は一呼吸置いて再び話し出す。
「何としても、あのハッキリしない人に手紙を読ませます」
明花の明瞭な言葉を、二人は聞く。
「すいませんが考えがまだ纏まってないので、やることは後日また話させてください」
明花はやっと立ち上がり、少し頭を下げた。
「御免なさい、今日はちょっと……これで帰りますね」
そう言うと、ふらふらと明花は自分の靴入れに向かう。良介の隣の列、一番下からローファーを取り出す。その細い後ろ姿を、背後の二人が引き止めることは無かった。
「……なんという激動の時間だったのだろう」
半ばふざけたような夕菜が壁の時計を見る。待機を始めた時から今に至るまで、二十分も経っていない。体感時間はその何倍あったことか。
「いや、俺マジで状況がさっぱり分からん」
遊人は頭を抱えてそう呻くしかない。夕菜は苦笑した。
「……ユウト君にも報告すべきかねぇ……メイちゃんが嫌がるかなぁ」
「なんだよ報告って……」
夕菜は一時悩んだような表情を見せた。しかし悩み続ける遊人を前に、やがて笑い顔に戻る。
「ここまでの状況になっちゃったら、やっぱ君も知っといてくれや」