ラブレターを読まないという選択
『奥崎良介様へ 伝えたいことがあります すぐに読んでください 篠部明花』
下駄箱から現れた封筒にはそう書いてあった。長方形、薄いピンク色のそれは、ハートのシールで封をされている。使い古された靴と同居していたにも関わらず、仄かに甘い匂いがした。
少年はそれを掴んだまま、表情を崩さず沈黙を保っていた。その封筒をただ見据えている。一分ほどが経ち、少年はようやく動き出す。肩から下げた鞄を開き、手中の物体を放り込んだ。シールが捲れることは無かった。素早くバッグを閉じて、ゆったりと二本の足が動き始める。そのまま横引きの扉をすり抜け、まだ濃く残る陽射しの中へふらふらと歩を進めていった。
*
「おい、開けないでいっちまったぞ……やべぇよやべぇよ」
彼の姿が遠ざかり、三つの影は蠢き出す。下駄箱の裏、先ず口を開いたのは黒縁眼鏡の男子。
「だから言ったじゃん、計画甘いんだって!」
叫ぶように囁くのは、その右横にいた女子。肩程まで伸びたくすんだ髪を乱暴に掻いていた。
そしてその更に右隣。盛んに言葉を発する二人から少し離れた位置――薄暗い下駄箱の影で、
「……はぁ」
体育座りをした小柄な少女が、安堵とも落胆とも取れぬ溜息を漏らしたのだった。
*
「お……奥崎君!」
早朝の四橋高校。朝練に勤しむ運動部員と教員以外に、人の影は殆どない。静寂に包まれた校舎、その一階、隅の部屋――生物室に少女は現れた。小ぶりな少女だ。制服のベストの裾もシャツの袖も、少し丈を余していた。澄んだ大きな瞳はしっかり開かれていたが、その視線は度々横へ逸れて定まらない。白い左手を不安げに口元に添え、そこから必死に細い声を漏らす。
「その……あの、昨日は、何というか……ごめん」
たどたどしくそう言うと、少女――篠部明花は、軽く頭を下げた。ボブカットの黒髪が柔らかく揺れる。擦れた音が微かに静寂を満たした。合わせて籠のインコは一言鳴いた。
「いや、謝ることは無いだろう」
明花の対面、ウサギの檻の前に屈んでいた少年、奥崎良介が少し間を置いて返事を呟く。低く、起伏のない声だ。彼の鋭い視線は明花と対照的に、ぶれないで明花の表情へ刺さっていた。
「え、でも……あんなの出しちゃって」
「寧ろ謝るのは僕の方だ」
「あれにはちょっとワケがぇ?」
明花の予想に反して響いた良介の声に、彼女の言葉は途切れた。
「昨日のあれ、読んでない」
「えっ」
更に続いた声と共に良介は立ち上がり、最前列の机に置かれたエナメルバッグを掴んだ。右手で中を探り、数秒の後に綺麗な長方形が姿を見せた。
「読まなかった」
繰り返す。ハートのシールは、寸分のズレさえなく、ぴったりと張り付いたままだった。
「……ええ!? どうして……」
動揺する明花を気にもせず、淡々とした音声はもう一つ響いた。
「悪いけど、君の気持ちには応えられない」
そしてそれ以上良介は喋らなかった。封筒を半ば強引に明花の手に握らせて、バッグを担ぎ、戸の方へと真っ直ぐに向かっていく。挨拶も無しに扉をすり抜けて、校舎へと歩いて行った。
後に残された少女は、しばし昨日の良介のように黙って立ち尽くしていたが、やがてぽとりと座り込んだ。廊下からは生徒の雑談の声が聞こえた。先程まで良介がバッグを載せていた机にもたれかかり、一瞬天井を見上げた。それから、手の中にある微かに温かい封筒を見つめる。
「……あはっ、はは」
いきなり顔を綻ばせて、小さな口からは笑い声がこぼれた。誰もいなくなった部屋で、少しばかりの時間、笑い続けた。檻の中のウサギが、明花を怪訝そうに見る。
「……はぁ」
それでも音量は下がっていき、笑いの最後に明花は一つ溜息を漏らした。昨日、放課後の下駄箱と同じ風景がそこにあった。そうして、少女はしばらく俯く。外の生徒の声が一際賑やかになったあたりで、明花はよろよろと腰を上げたのだった。
*
「……それが、今朝の一部始終……と」
「……うん」
「よし殴りに行こう」
昼休み、体育館裏。そこに並ぶ三つの影の一つ――横島遊人は拳を上げ怒りを露わにした。
「いや、落ち着け! もちつけって! どうした!」
「あいつのスカしっぷりがイラッと来た! あとお前そのスラングは死語だ!」
「先輩をお前と呼ぶな! それに今のは死語じゃないい!」
「あの……夕菜先輩も遊人君も、もうちょっと静かにしようよ……」
明花の声は弱弱しい声に、遊人は汗ばんだ拳を下げ、夕菜と呼ばれた女子はむぅと唸る。
「しかし、開きもせんとはねぇ……中が本当にラブレターかどうかも分からんだろうに」
「いや、流石に外見で分かると思うが……いずれにせよ第一次作戦は、失敗しちまったわけだ」
三人は体育館の影にいたが、それでも夏の暑さが場を覆っていた。一旦落ち着いた遊人は眼鏡にかかった茶色の前髪をかき上げ、夕菜は暑苦しい赤ジャージの裾を捲り上げる。
「とにかく、まだ終わりにするには早い。やり方を練り直せば、まだ成功の可能性は有る」
「んん、方法自体を変えた方がいいんでないかな? 手紙じゃなくて、もっと何か……」
「お前良い案あるの?」
「お前じゃなくて夕菜先輩と呼びたまえユウト君」
明花は、夕菜が生徒会庶務と陸上部マネージャーを兼務していること、そして遊人が陸上部員であることを知っていた。それでも、ここまで打ち解けているとは思わなかったのだが。
「とにかく方法変えよう。読まずには立ち去りづらい状況を作るんだ」
「簡単に言うけど、どうやってやんのさ? ウチは思いつかんぜ」
話題が戻り、軽口を叩いていた二人は沈黙する。何だかんだと言って二人とも良策など見つけていないことを、場の空気が如実に語っていた。
「あのさ、二人とも……私、ちょっと考えたんですけども」
合間を縫い、ようやく明花は発言権を得る。
「一回……直接渡しに行きます」
おずおずと続けた言葉に遊人は驚きの表情を浮かべ、夕菜はにやりと薄い笑みを見せた。
「え……いや篠部さんがそうやりたいってんならいいけど、なんか理由でもあるの?」
「理由というか、何というか……」
躊躇いがちに言葉を発していく。
「その方が受け取ってくれそうだし、もしダメでも理由を聞けると思うので」
緊張のせいか顔を背ける。遊人は顎に手をやり思案し、夕菜は整った顔を一層綻ばせた。
「なるほど……じゃ一回、やってみようか」
やがて遊人は二度三度と頷いた。そして、明花の手元にあるピンクの封筒を改めて見る。
「同じやつ使うの? 開いてないとは言ってたけど、使いまわしだと思われないかな」
「せやな」
遊人の意見を夕菜が肯定する。先輩は生まれも育ちも関東だったよね、と明花は一瞬思う。
「ちょっと内容とか検討するか。実行は明日以降だ」
遊人が携帯の画面を確認しながら言う。昼休みはあと十分。彼のクラス――イコール良介と明花が所属するクラスの次の授業は体育であり、時間はあまり無かった。
「あのクール鉄仮面に『ファッ!?』とか言わしてやるぜ!」
「ふぁ、ふぁっ……?」
「……リアルでネットスラングを、それも脈絡もなく使っちゃう人とか、正直痛いよね……」
「お前がそのセリフ言うのか、このデッドスラングユーザーがよ」
よく内容を理解できていない明花を尻目に、遊人は呆れた口調で返す。
「とにかく放課後にでもまた話そうぜ! 丁度今日は陸上部もない事だし」
「ういーす、じゃ陸上部の部室にでも集まろっか。部活ない日は皆さっさと帰っちゃうしね」
そもそもうちの陸上部は部員数える程しかおらんしね、とは喉まで出かかった夕菜の心の声。
「よし決まり、じゃ俺は体育行くから。篠部さんも急いだ方がいいよ!」
話が一段落すると、遊人はワイシャツの裾を出したまま校舎の方へと駆けていく。その背を見ながら、残った二人の女子はゆっくりと歩き始めた。
「んん、フォームがバラバラだ。もっと速くなってもらわんと」
「……あ、あの、先輩」
呑気な声を漏らす夕菜に明花は話しかける。夕菜はそれに反応し、のんびりと後輩の方に顔を向ける。そして再び、口元を動かして、小さく――しかし楽しそうに笑った。
「言いたいことがあるんだね、メイちゃん?」
分かってると言わんばかりの顔付きに、明花は息を呑んだ。