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目の前で燃えさかる今まで暮らしてきた館が燃える様子を見ていると、後ろから先程まで会話していた女性の声が聞こえてきた。
「優、私の優、これでもう邪魔する人間はいないわ、あの男はもうこの世にはいない……これで優は私だけのモノよ!!」
狂ったような眼差しを優に向ける女性に、優は先程までの甘ったるい色を消し、その瞳に正反対な冷静な光を浮かべた。
彼女が優に狂っているのも、人形のように、モノとして扱っていることは分かっている。事実、一年前まで意志を持つことが面倒で放棄していたのだから。あの頃は人形といっても仕方がないし、はっきり言って反論の余地はない。だが優は今はもう彼女が知る人形でも、館の白花であると同時に籠の鳥などではない。
借金と呼べるものがもうないと知っていて逃げなかったのは、彼女は逃げられなかったからと思い込んでいるようだが、真実はただ一つ、単純に面倒だったからにすぎない。
だがそれは昔の理由だ。優にとってすれば口にするのは癪だが、優が館から逃げないのは寿がいるからに他ならない。それ以外に理由なんてないのだ。
(なのに、今この女は何と言った?)
「……瑠璃様、今あの男はこの世にはいないと言ってましたね。それは、誰の事ですか?」
「寿に決まっているじゃない!腕力では劣るけど、さすがに炎相手じゃあの男だって無理よ!!あの男は私からあなたを奪ったわ!!一生私だけのモノなのに、私からあなたを取り上げるような奴!この手で殺してやるのよ!!はハッハハはっハッハハはっははっははっははっはハッははっはっはっはっはハハ」
「こ、とぶきが。……死んだ?」
「ええそうよ!ねえ、あんな男いらないでしょう?私しかいらないでしょう?あの男に脅されて、仕方なく会話してたんでしょう?大丈夫、もうこれで邪魔者はいないわ、私が殺してあげたもの。これで私とあなただけの楽園が完成するの。ハッピーエンドよ?あの男がいなくなってうれしいでしょう?」
「……本当、貴女という人は」
優の体から全身の力が抜け、歓喜に震えていた心が収まり、逆に無機質になっていくのを優は冷静に受け止めていた。今まで美しいとすら感じていたその炎が一瞬にして憎くて憎くてたまらなくなり、頭がおかしくなってしまいそうだ。
この女の狂気を優は知っていた。知っていたのに、まさかそれが自分では無く寿に向くとは全く考えていなかった。そこまで考えて、優は小さく自嘲の笑みをこぼした。
一緒にいる時間が続くと思っていたほど、優は夢見がちな子供ではなかった。だが、すぐにこの心地のいい日常がぽっかりと消えてしまうということを考えるほど、大人でもなかった。
狂ったように叫びともつかない笑い声をあげる女性に優は酷く冷めた眼差しを向けた。もう反射的にも甘ったるい声を、瞳を向けることはできない。
「お前なんかいらない。お前を憎んでもいないが、愛しても欲してもいなかった。それに俺はお前のモノでもなんでもない、それにお前は寿を殺した、あいつが俺の唯一だったのに」
「……な、んで!なんで何で何でナンデ何でなんでナンデナンデ何で!!!!!もうあの男はいないのよ!?私を見てくれればそれでいいの!!」
「狂ったお前の側に何ていたくない」
「……」
その言葉に一瞬動きを止めたと思うと、その袖から女性はナイフを取り出した。それを見て、ああ、殺されるのか。と妙に冷静な頭でそれを受け止めた。
未練など一切なかった。寿がいないこの世界など、優にとっては何の意味もない。もとより自分の命になど全く執着など持っていなかったからだろうか。
それを見てもずっと平静を保ったままの優に逆上したのか、女性はこの場では不釣り合いなほどやさしい笑みを浮かべた。その瞳だけは妖しく、焦点があってない。
「ふふ、そう、貴方も私を否定するのね…大丈夫、私を否定するような小鳥なんて殺してあげる。それから私も死ぬから心配なんてしなくていいのよ?」
そういって優にナイフが振り上げられるのをただ静かに観察していた。
女性は嗤っている。
死ぬ前だからか、優の瞳に映る妙にスローモーションな景色を見ていると、聞きなれた声が優の耳を刺激した。
「優!」
「……こ、とぶき」
刃を手で握り、その手が血に染まっていることに対して気にも留めずに温かい眼差しを向ける寿に優は驚いて目を見開いた。
「あー、もう、何普通に殺されそうになってんの!」
「……第一声がそれとか、本当バカというかアホというか」
「あー、もうこの馬鹿。この状況で毒はくとかなにそれ。必死になったオレが馬鹿みたいじゃん」
むくれた様にそう言うと、そこでやっと寿は女性の方へと目を向けた。
手から流れた血を止めず、驚いている女性の手から武器を没収した。
「はい、これ、殺人未遂の現行犯逮捕だから諦めなよ。それに精神科に狂ってるって診断されると思うし病院から多分一生出れないだろーね。さすがに自業自得なんじゃない?」
「っ!国の犬ごときが!何で生きてるのよ!」
「この時間帯仕事してるのすら忘れたの?オレ、ここにいないんだってば。まあその判断つかないほど精神状態がやばかったんだろうけどさ」
「死ねシネシね死ね死ネシね死ね死ねシネ死ね死ね死ねシネ!!!!」
「うっわ、あっぶな」
掴みかかった女性に対し、何かの拳法なのか、逆にその手をつかんで寿の方が女性を地面にときふせる。その衝撃で意識を失ったのか、立ち上がる気配はない。
「寿、どういうことだ?」
「あれ?敬語抜けてるじゃん」
「敬語止めたら本名言うんじゃないのか、さっさと寿の正体を教えろ。この状況で教えないとかいうなよ」
「そーだね。まああんま言いふらしたくないんだけどさぁ。国家公務員、会社および物事取締り管理部の公務員。本名は四季侑真、ちなみに寿っていうのはこの仕事いろいろ面倒事多いから出張るときに名乗る偽名なの」
にっこりとそういった寿の言葉に優は一瞬眉を顰めたが、ちらりと女性をいっぺいした後に、無表情を崩して溜め息を吐いた。
「寿が公務員って世も末だな」
「っておい!感想はそれだけなの!?」
「偽名っていうのは何となく察してはいた。大体、こちらもある意味偽名だ」
「いやまー、そーだけどね。なんか妙にあっさりしてるじゃん。なんか心境に変化でもあった?」
「疲れたんだ。いい加減」
眉を顰めた優に、寿が何かを言おうとしたところで後ろから怪我をした手を引っ張った。
黒い髪に黒い瞳。精悍な顔つきをした男だ。寿の腕を引っ張った男を見て、優は座り込んでいた恰好から自らの足で立った。
「あれ?水都じゃん。どーしたの」
「お前な、いきなり職場から駆け出して行ったら誰でも驚くだろうが。九十九さんももうすぐしたらつくぞ、というか何で怪我してんだよ。バカ」
「あー、大丈夫大丈夫。これくらい慣れてるし。それにこいつが無事だったから十分だしさ」
「寿、俺に責任を押し付けるつもりか?」
「そーでもないよ」
水都は掴んでいた寿の腕を離した。埒が明かないとでも思ったのか、呆れたのかと思ったが正直優はこの男には興味がないので考えただけで終わる。
今は目の前でにっこり笑っている寿が無事ならいい。
「……あれ?お前、誰だよ」
「……」
「無視かよ、おい。聞いてるのか?」
「……寿、そういえば名前なんて呼べばいいんだ?」
「別に何でもいーよ。寿がいいならそのまんまでいいんじゃない?優しだいだよ」
「なあ四季。俺嫌われてるんじゃねーか?こいつに」
真剣な顔をして寿の肩に腕を置き聞く水都を興味なさそうに優が見た。事実興味がないのだろう、むしろどうでもいいという言葉の方が近いかもしれないが。
「初めて会ったんだしこんなもんじゃないの?」
「というか、どんな知り合いだよ」
「それには俺が答えます。一年前、今燃えている館、俺の働いていた高級娼館で白花として働いていた時にいきなり世話役として強引に決まったんですけど。寿、これを一体どう説明するんだ?」
「えー、面倒じゃん。仕事だよ、仕事」
まあそれ以外は無いだろうと優は納得した。大体、いきなり後任が決まったりそれを簡単に瑠璃が肯定したりと納得がいかないような事ばかりだった。
それに寿がこの娼館内で明らかに異質だというのはわかる。どう考えても借金のせいでに売られたような人間では無いだろうとは思っていた。
「なっ!?こんな子供が花?しかも白花って、館の中で一番の上玉って言われるような高嶺の花だろう?それに、こいつは男じゃないのか?」
「男だって身を売るんですよ。勉強しなさい、おにーさん」
「……それは知らなかったな。にしても前に話した寝起きが花街っていうのは冗談じゃなかったのか」
「花と寝たことは一度もないけどねー。皆いい子だよ、悪い子もいるけど」
驚愕しているらしい水都に目もくれず、水都と話している寿に優は抱きついた。
一瞬驚くような表情をした寿は、困惑しながらも優を抱きしめ返す。
「寿、生きてるよな」
「瑠璃様に何言われたか知らないけど生きてる生きてる。そうだ、一応言っておくけど優逃げないとやばいよ」
「それくらいは分かってる。でももう少しこのままでいさせろ」
「いーよ。それで、これからどうするわけ?学校にでも通うの?金はかなりあるでしょ」
「……どうしような。とりあえず花として以外の生きる道を見つけるつもりだ」
「出来れば普通に暮らせよ?」
それはさすがに無理だろう。
こんな場所で今まで暮らしてきたのだ。客に外国人の男もいるので色々な国の言葉を喋ることはできるが他の事は分からない。外の世界に出たことが一度もないからだろう。
優の胸の内にある不安を感じとったのか、寿は抱きしめる力を強めた。
「大丈夫だろ。この世界は基本的に生きていることはできるしね。安心しな」
「……本当いつも、どうやってこっちの不安を嗅ぎ取るんだよ」
「人のマイナスの感情は何となく伝わってくるんだからしょうがないじゃん」
「名前」
「は?名前?」
突然さっきまでの会話につながらない言葉を吐いた優に対してぽかんとした顔をする寿に、優は微笑んだ。客に見せていたものとも、瑠璃に見せていたものとも違う素の笑い。
呆れたような声色で優は言葉を紡いだ。
「源氏名は嫌いだって何度も言ってる」
「名前教えてくれるの?」
「最初に名前を呼ばれるのは寿がいいんだ。自分で決めた名だし、人に教えたことないから。決めただけだから本名というには抵抗があるけどな。ちなみに名字はお前からそのままいただいた」
「は?」
心底不思議そうに言う寿に、生まれて初めて優は自分の名前を誰かに告白した。
「寿冬真。冬の真実と書いて冬真。決めたその日が冬だからという安易な名前だけどな」
「とうま、冬真、ねぇ。うん、似合うんじゃない?」
「ありがとう。それじゃあ、さようならは言わない、また会おう。絶対に十九歳までに立派になって会いに行く」
無表情が嘘のように微笑む優に、寿も笑みを浮かべる。
「それは楽しみだねー。後十年後じゃん」
「ああ。後、これは餞別だ」
寿の服を引っ張り、優はその唇に口を重ねた。
「な!?は?」
「はい、終了」
「いやいやいや!客としかこういうことしないんじゃ!?」
「まあ、男と寝る趣味はありませんよ。寿以外は」
「……ん?あれ?今オレコクられてる?」
「さー?それじゃあまた会おうな、寿」
にっこりと子供らしい笑みを浮かべ、下駄独特のカランコロン、という音を響かせて寿冬真はその場から立ち去った。
「うわー、友人と少年のキス現場を目撃した俺はどうすればいいんだよ。四季」
「さーね。大体こっちはいろいろ混乱してるんだし本人に聞くかよ。普通聞かないじゃん」
「あの職場に居たら何が普通で何が普通じゃないかとかが分からなくなるんだよ」
「まあ、あの部署自体が変人ばっかだし。でも、十年後が楽しみだねぇ」
「余裕だな……」
友人である水都が溜め息を吐き、女を担ごうとするのを横目に、さっきからずっと燃え続ける館を見た。ここの花達は火事に気付いた時点で逃げ、全員が消息不明の状態だ。
知り合いの顔を思い浮かべ、探そうかなと考えた時点でそれは止めておこうと寿は思考を打ち切った。
「ただの偽名だった寿がねぇ。まさかこんなことになろうとは。まあ、名乗り続けてたら分かり易いよねー」
面白げにそう呟いて、寿という名を持つ四季侑真は血が流れている己の手のひらを見つめた。
花街の中でも一番のトップレベルとされた白花である優は、この日を境に消息を絶った。