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ざああああ、と水が流れる音に少年は目を開いた。
気持ちが悪いのと頭が割れそうなほどの苦痛を訴えるのとでいつもの無表情が保てず、少年は顔をしかめる。
背中の感触で自分がやわらかいベットに横になっていることが分かるが、確か気を失う前までは気持ちの悪い薬を無理矢理飲ませられて更には縛られ、暴力を受けていたはずだ。
窓の外を見る限り今は真夜中で何故自分はベットにいるのだろうという疑問が埋め尽くす思考は聞こえてきた声で吹っ飛んだ。
「あ、起きたかー?いつもは気を失ったように眠ってて起きないのに珍しい」
「……寿?」
コップに救急箱を手にした寿が今目の前に立っていることが信じられず、優は疑うような眼差しを向けた。目を覚ました水の流れる音がコップの中に水を入れる音だということにさえ思考が回らず、頭の痛みからかいつもより素直に感情が顔に出てしまう。
それに対して、失礼ともいえる優の視線に寿は微笑んだ。
「うん、まあ声をかすれてる訳じゃねーし大丈夫か。薬を体の中に入れたからもう少しで頭痛とか気持ち悪さとかもなくなるだろうけど、熱とかはないよな?」
「……何でこんな夜中に寿がいるんですか」
「夜中じゃねーよ。今は三時」
「十分夜中じゃないですか」
床にコップと救急箱を置き、優の言葉に反論することも無く顔を近づけた。寿の突然の行動に反射的に後ろに下がるとそれごと抑えるように寿が優を抱きしめた。
「なっ……」
「大丈夫。別にお前の客みたいに酷いことも怖いこともしねーよ。安心しな」
「……バカじゃないんですか」
弱弱しく抱きしめ返す優に、かもねー。と軽く寿は返す。
薬のせいか、段々と安らいでいく痛みと不快感に優は初めてだともいえるその優しいぬくもりに目を閉じた。
「んー、熱はないみたいだな。特別凄い熱いわけじゃねーみたいだし」
「別に熱はありませんから」
「ま、ならいーや。じゃ、脱いで」
「……別に手当なんてしなくてもいいです。こんなもの、してもしなくても一緒ですよ。次の日にはまた新しいものが出来てるんですから」
ギュッと抱きしめている腕を強くして少し痛む体を無視する。
痛みなど、優にとっては日常茶飯事過ぎているからかもう痛いなんて感覚はほとんど麻痺している。大体、そんなものを感じることも無くなる方法を覚えてしまった体はそんなことに慣れっこで痛いのか痛くないのかの区別すらつかないときだってあるくらいだ。
「そういう訳にはいかねーよ。だって体に傷を作るのなんかだめに決まってるじゃん?後だって残るんだしさー。それにお前がよくても俺がやりたいの。これはさ、オレのただの自己満足で。我が儘みたいなもんだよ」
「そういう言い方はずるいんじゃないですか?」
「そうか?ま、お前の事を大切に思ってるんだよ。幸せになってほしーし」
花が幸せになどなれるわけがない。
そう思っているのに優には言葉が出なかった。嬉しそうに、明るく笑う寿に対して優の闇になど触れてほしくはないというのもある。
何よりも純粋に笑う寿を自分のせいで穢してしまうのが何よりも恐ろしい。
「じゃ、はい、痛いだろーけどさっさと脱げ」
「……」
上に羽織ってある白い着物の帯をほどき、上半身をその場に晒す。所々に痣や切り傷、火傷などありとあらゆる様々な傷がその体に刻み込まれ、中にはキスマークと呼ばれる鬱血まであるその体が優には憎くて仕方がない。一番嫌いなものを聞かれたら真っ先に自分の体と答える位には憎んでいた。
「うっわ!これまたひどい痣だな。変色してやがる。」
「いつもの事です」
「いつもは赤いくらいじゃん。前に切り傷がついてた時はマジでビビったけどさー」
「……」
消毒液なのか何かの塗り薬を体につけるひんやりとした感触と指が痣にあたるたびに優の頭にダイレクトに痛みが伝わってくる。唇を噛んで痛みをいつものようにやり過ごし、かなり手際よく包帯を体に巻きつける様子をぼーっと観察していた。
いつもきれいにまかれる包帯はいつもびりびりとお客様にさかれてゴミ箱行きになる事も知っているだろうに。こんなに綺麗にまかなくてもいいはずなのに。
他の花がどうかはよく知らないが、見ている限り世話役が花にこんな風に包帯を巻き、丁寧に傷を負ったら治療をするようなのは寿くらいだろう。
そしてそれは優がこの花の中で一番の白花であるということは全く関係がない。前の世話係もこんなことはしなかったし、話しかけることも、抱きしめることも、笑顔を見せることも無く淡々と今日の仕事を告げ、着替えを手伝い、ご飯を運んですぐに出て行った。後処理だって自分でやっていた。
「ん、よし完成だな。優?」
「……」
「うわー、また無視?痛かったかー?」
「……」
「……えと、なんか言えよ」
「……」
「おーい、生きてるかー?寝てないよなー?起きてるよな?」
「……」
「…黙るなよ!こえーよ!なんか喋りやがれバカガキが!!」
「寿、耳にうるさい」
「もうほんとやだこいつ。……人の話聞きゃーしねー」
項垂れてにぶつぶつと呟く寿は普段なら絶対にしないような源氏名に相応しい笑みで優しく、綺麗に微笑んだ。まるで花のつぼみがほころんだかのような笑みを寿が見ることは無かったが、それは確かに優から寿へと向けられていた。
「寿」
「あ?なーにー?」
「ありがとう」
「……うわっ、やべー、体力の限界で幻聴が聴こえる!え、マジ?精神的に限界が来たのか!?」
あまりに失礼にも程がある反応だが、ある意味当たり前かもしれない。ことごとく無視だの何だのと冷たい態度をとってきた人間がこんなことを言っていたら誰でも驚くだろう。
優は呆れたように溜め息を吐き、寿の目を見た。
「幻聴じゃありませんから落ち着いてください」
「え?は?」
「落ち着いてください」
「って、痛っ!ちょ、蹴るなー!」
「落ち着きましたか」
「…………落ち着いたよ。強制的にねー」
ぼやくように呟く寿を無視して、優はさっきとは逆に、寿を抱きしめた。
「……優?」
「源氏名は嫌いです」
「んなこと言ったってなぁ。オレは好きだよー」
「……俺には似合いませんよ、優なんて」
ベットの上で抱きしめあう男というのも妙な光景だが、優は花で、男に身を売る立場だ。そういうことは特に気にしない。だが、優にとって誰かに抱きしめられることも抱きしめることも、その両方が初体験だ。昔はされていたのかもしれないが、記憶にあるのはここで物心ついたころから花として生きていたことだけ。
そして今抱き着いているのは客じゃなく、世話役だ。仕事相手とは言わないが、他の花よりも遠いが同僚か部下のような人間である。傍から見ていて異常だろうに違いない。
「そーか?まあそこまで深入りはしねーし聞かねーよ。でもさ、言いたいときにいつでもお兄さんに言えよな」
「お兄さんなんて寿には似合わない単語ですね」
「ひっでーな、お前より十歳上なのに」
「じゃ、なんでこんなところで働いてるんですか」
「色々あんの。ま、いつか分かるだろ」
暖かい体温に安心したように、優は体をすり寄せた。上半身は着物を適当に羽織らせているだけのようなものなので寒いのに、何故か暖かい。
「……俺の源氏名、なんで優なんだと思いますか」
「理由なんてあるのか?」
「ある。ここの館の領主様が決めるんです」
「あー、あの人ー?オレあの人嫌いなんだよな~」
そうい言っているはずの寿の言葉に憎悪や憎しみ、または嫌悪のような感情は全く含まれていないのは何故だろうか。優は何となく今寿は笑っているのではないかとさえ思う。
「それで、言われたんです。欠片も優しい要素がないからだって。心から笑いもしない人形だからだと。当然ですよ、笑い方なんて知らないし分からなかった。客に対して煽るような声や表情をして見せることは出来ても楽しいと思うことも人に優しさを与えるなんでできません。知らないんです、優しい言葉も、態度も」
「……」
「当たり前です。だから言われるんです。優?優しいなんて、ありえないじゃないのって。貴方の何処が優しいのって。言われて当然なんです。だからこんな名前嫌いです。名前なんていりません。大体、こんな人形のような俺を愛してくれる人なんている訳がないんですよ」
「それは違うって、優は人形なんかじゃないじゃん。ちゃんと生きてるし感情だってある。優しい所だってある。ただ、皆が知らないだけだよ」
優しさがあふれる声音で寿はそう囁いた。優しさが滲み出るように優しい響きを持っているのに、それは強い響きを持ったはっきりとした優の言葉に対する否定だ。
包み込むように抱きしめられ、優は水に溺れて何かに縋るように強く抱きしめた。その姿にはいつものような大人のような態度は無く、何かに恐れ、今にも壊れてしまいそうな一人の少年の姿だけがある。
自分の態度にらしくもない。と優が思っても感情があふれて仕方がない。
「……本当に、バカじゃないんですか。というか貴方はガキですよ。俺を優しいなんて言うのはあなたが初めてです」
「いーの。お前を知ってる俺がお前を優しいっていうんだからお前は優しいんだよ!大体、人にお礼を言うことが出来る奴が優しくないわけないだろ?」
「……」
ゆっくりと体を離され、至近距離で寿は優に微笑んだ。優は頭をやや乱暴に撫でられ、優も微かにだが笑う。
「やっぱりバカですね。本当にバカ。俺みたいなのを優しいなんて言うバカは寿だけです」
「バカって言いすぎだろ。バカっていうほうがバカなんだよ」
「じゃあガキ」
「じゃあってなんだじゃあって!それにガキにガキって言われたくねーよ!」
「……」
「だから無視すんなぁーーーー!!!!」
さっきまでのじめじめとした辛気臭い空気を吹き飛ばすかのように寿が叫ぶと、耳が痛くて優はその場で横に転がった。優の体よりも大分にありあまるほどのそのベットはいつものように馬鹿でかい。
優はそこら辺にある毛布の近くにあった帯で着物を整えた。
「寿、喧しい」
「またそのネタ!?一昨日に聞いたっっつーの!」
「喧しい喧しい喧しい喧しい喧しい喧しい喧しい喧しい喧しい喧しい喧し」
「ちょ、ストップ!五月蠅いのは分かったから止めてくれ!!」
「……はあ」
「溜め息吐きたいのはこっちだっつーのー」
毎朝するような、いつもやるような馬鹿みたいなやり取りをし、帯を締め終わった格好で再びベットに寝転がった。
「お、もう寝るのか?」
「寝る。寿ももう帰った方がいいですよ。眠いでしょう」
「だなー、もう一眠りするか」
「そうした方がいいですよ」
それだけ言って目を閉じ、襲ってくる眠気に身を預けようとしたところで、優の耳に寿の言葉という音が入ってきた。
「じゃ、オヤスミ」
「……おやすみなさい」
さらりと髪を撫でられる気配を感じながら、優は再び目を閉じた。
その姿を目におさめ、優は小さく笑い、立ち上がった。
弟や妹のよう兄弟が他にいない寿にとって、優はもしいたらこんなものだろうなと思うような存在だ。実際はもっと普通なのだろうが、そんなことは寿にとってあまり関係はない。
大体、普通の定義が分からないのだから。
「オヤスミ、優」
それだけ言い、寿は欠伸をかみ殺しながら部屋を出た。