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四話


 悠人はじっとカーテンに背を向けて時が過ぎ去るのを待っていた。

 “研究”という名目によって悠人は今日の刑務作業が全て免除になっている。かといって依頼を引き受けた手前、護衛対象を即刻置いてきぼりにするわけにもいかず、悠人は焦れった過ぎる時間を過ごしていた。

 耳を澄ませばシュル、パサ、という衣擦れの音が鼓膜を刺激する。無論、音源は悠人の背後にあるベッド備え付けのカーテンの中である。

 碧の依頼を引き受けたのは良いが、具体的な内容が悠人にはよく分からない。状況は把握したのだが解決策は手つかずのままだ。本当に休み時間に気を遣う程度で良いのだろうか。いや、そもそも当人からそれを「迷惑だ」と切って捨てられた今、依頼そのものが成立するのかさえ怪しい。


「ねえ、外出てれば?」


 背後からそんな声が聞こえて悠人は嘆息した。まあ、医務室を出てすぐのところで待っているのでも十分だろう。初めからそうすれば良かったと今更気づいて嘆息を重ねる。

 座っていたパイプ椅子から立ち上がる。その瞬間、左の膝に鋭い痛みが奔った。先程の傷が痛むのだろう。普通ならよろける程度で済むのだが、今日は体全体の疲労が悠人のバランスを完全に崩していた。気が付けば世界は反転。藁をも掴む思いでじたばたと腕を回したのだが、これがいけなかった。偶然にも掴んだのはカーテンらしきもの。カーテンレールを容赦なく破壊しながら悠人は地面に倒れ込む。


「…………っ」


 まずい、と思った時には後の祭り。声にならないうめき声を聞いた気がして悠人は青ざめる。

 ベッドの上を見上げれば、そこには琴宮月穂。下着姿の琴宮月穂。装飾の少ない、純白の下着だった。

 かーっと顔の温度が上昇するのを感じる。青くなったり赤くなったり忙しい顔だな、となぜか悠人はのんきなことが頭に浮かんだ。


「…………」

「…………ええと、ご、ごめ」

「最っ低っ」


 月穂はそれこそゴキブリを見るような目で悠人を睨んだ後、枕を引っ掴んだ。それを小さめに振りかぶって思いっきり――


「痛!」


 悠人の顔に投げつけた。低反発枕なのだろうか、枕は悠人の顔にくっついたまま離れない。


「十秒、そのままでいなさいっ」


 叫んでから月穂は慌ただしく囚人服を着る。

 悠人は枕の下で、ああやってしまった、と己の馬鹿さ加減を呪った。スタートダッシュで転んだ後、次の一歩でまた転んだ。二回目の転倒は少なくとも目の保養にはなった、などと楽観視できたらどんなに良いか。現実、そんな愚考をする暇もなく鳩尾に強烈な蹴りが入った。呼吸困難になりながらも咄嗟に起き上がるとそこには鬼の形相。


「ヘンタイは地獄に堕ちなさいっ」

 べしんっ、と痛烈なビンタが悠人の左頬に紅葉を描いた。

「いや、本当にごめん! でも聞いてくれあれはいわゆる不可抗力というやつで!」

「不可抗力!? よくそんな言い訳じみた言い訳ができるわね、まるで本当のこと言ってるみたい!」

「いやそうなんだけど!?」

「黙りなさい!」

「ええ!?」


 もう何がなんだかわからないまま悠人は後ずさる。絹のような長髪を躍らせながら月穂は悠人に詰め寄った。悠人の肩ほどの位置から月穂は睨みつける。


「二度と私に近寄らないで!」

「このことは本当に謝るから! 灰崎からの依頼は……」

「破棄よ! 護衛なんていらない、自分のことくらい自分でなんとかするわ!」


 清流を思わせる月穂の声は美しくありながらも怖いくらいの迫力を持っていた。あるいは、綺麗だからこそ力が宿っていたのかもしれない。どっちにしろ悠人は首を縦にも横にも触れずに固まっていた。

 悠人を一際強く睨みつけたあと、月穂はくるりと背を向けた。廊下に出て医務室の扉を勢いよく閉める。ピシャリ、という音とともに、刑務作業終了のチャイムがスピーカー越しに流れた。




◇◆◇◆◇◆◇




 関東第一特異者刑務所の朝は六時の起床点呼から始まる。

悠人はスウェットめいた舎房着のまま部屋を出た。居室である一一〇号室は男子棟一階最奥の部屋だ。 男子棟は三階建てで、それぞれの階に二十部屋が向かい合う形で四十部屋ある。最大で百二十人の収容が可能だ。女子棟も同じで合計二百四十人。特異者というのは決して多い存在ではなく、二百四十人という規模でも東日本最大である。関東第一特異者刑務所は東京都南部と神奈川全域で起きた特異者犯罪の加害者を収監しているため、必然的にその規模は大きくなるのだ。

 悠人が房から出て三分もすると、一階に収監されている四十人全員が自分の房の前で行儀よく直立した。

 刑務官の合図があると、一〇一号室から順に自分の囚人番号を叫ぶ。それを刑務官がリストと照らし合わせる。

 点呼が終わると粗末な朝食を胃に押し込み、検身場に行く。舎房着から作業着に着替えるための場所だ。

 そうしてから囚人たちは各々の担当している工場へ向かう。そこでは看守たちが警棒(あるいは魔法の杖か)を持って見張っている。

 悠人は担当である洗濯工場へ行く隊列に加わった。


「秋沢」


 呼ぶ声がして振り返ると藤堂が右手を挙げていた。おう、と右手を挙げ返す。


「琴宮の話、灰崎から聞いたか?」

「聞いたし引き受けたけど、速攻失敗した。悪いけど他をあたってくれ」


 昨日の嫌われようは思い出すだけでうんざりだった。女の子に嫌われるというのは塀の内外を問わず男を凹ませる。


「お前が適任だと思ったんだがな」

「あれは誰がやってもいい結果にはならなかったと思うぞ。性格に難あり、だ」

「ほほう。ではますます秋沢が得意そうだが」

「なんでそう思うんだよ?」

「それを問われると返答には窮するな。強いて言えばイメージだ」


 藤堂は真顔だ。どうやら真剣に言っているらしいと感じて嘆息する。藤堂といい灰崎といい秋沢悠人という男を買いかぶり過ぎだ、と悠人は思う。

 列の行進が止まった。薄汚れたコンクリートの建物の前に悠人たち数名が留め置かれる。


「始めろ!」


 悠人の目の前に立った刑務官が叫んだ。頭は禿げあがり腹の肉がベルトに乗っている、いつもの洗濯工場担当刑務官だ。悠人は名前を知らない。

 掛け声とともにぞろぞろと囚人たちは建物へ入っていく。このとき刑務官たちは決して工場内へは入らない。工場内には洗濯機同士の隙間や洗剤庫や扉の後ろ、といくらでも「後ろに逃げられない袋小路」が存在する。そこに押し込められて囚人からリンチを受けないように気を付けると言うのが、特異者刑務所に就職する魔術師が最初に教えられる訓戒なのだ。

 悠人も定位置に向かおうとしたところで、藤堂が声をかけた。


「後で話がある。昼休みに」



お読みくださった方、ありがとうございます。


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