三話
目が覚めると、灰色ばかりが目に入った。コンクリートが冷たい。体中の痛みに小さく悲鳴を上げて、悠人は自分の置かれた状況を思い出した。
自分の中にいるもう一人の自分。あいつが起こされたのだ。
そこに良い思い出などない。考えるまいと頭を振って、悠人は上体を起こした。
海条はすでにいなくなっている。それだけのことで、コンクリートの密室は異様に広くなった気がした。
入口の扉は僅かに開いているのは勝手に帰れということだろう。
立ち上がろうとすると全身の痛みに驚愕し、蹈鞴を踏んで壁に手をつく。とりわけ腹部の痛みが酷かった。
医務室に行くことになりそうだ。そういえば、先日の新規入所者は医務室勤務だという噂を聞いた覚えがある。医務室勤務は基本一人であとは緊急時の助っ人だけのため、ポストは非常に少ない。そんな中で入所早々医務室勤務とはどういうことだろう。ぼんやり考えながら歩いているうちに、扉にたどり着いていた。廊下に出て後ろ手に扉を閉め、一息つく。
その時、何か小さな音が聞こえた気がした。人の声かもしれない。悠人は薄暗い廊下に耳を澄ませた。
「…………っ」
壁に反響して、苦しげなか細い声が聞こえた。女の子のものだろうか。聞いたことのない声だった。
悠人はこの状況に酷く不吉なものを感じていた。覚えがある。いや、心身の奥底に刻まれた記憶を反芻しているようだった。
視界の悪い道。少女の声。
頭で考えるより先に体が動いていた。声のする方へと駆ける。
地下は入口の階段から長い廊下が伸び、その先には海条と佐伯副所長の自室。途中、唯一の曲がり角を曲がると研究室が3つ、という構造だ。俯瞰すれば廊下は単純なT字型。見つけられないわけはない。
案の定、曲がり角を曲がったところで悠人は少女と出くわした。いや、少女はその場で倒れ込んでいたから、発見したという表現がしっくり来る。
「おい、お前大丈夫か!」
倒れた少女を覗き込む。あ、と悠人は小さく声を上げた。少女は先日の新規入所者だった。海条が直接シャバまで出向いて確保した初の女囚である。
だが悠人はまずそれ以外のことで狼狽していた。
少女があまりにも、綺麗だったのだ。
品のある長い睫、整った鼻と薄い唇が、彫刻芸術のような輪郭にそつなくおさまっている。やや挑戦的な眼差しは美しい顔立ちに少女らしさを強調していた。
先日は遠目だったから気が付かなかったが、近くで見るとこんなに可愛い子だったのか。悠人はどぎまぎしながら次の言葉を探すが、脳みそは空回りするばかりだった。
少女然とした雰囲気は美人というよりも、可憐という言葉が当てはまる。その美貌に、今は疲労の色が浮かんでいた。
長い睫は伏せられ、ミルク色の頬に影を落としている。気を失っているようだった。
どうしようかと一瞬悩んで、すぐに少女の脇にしゃがみ込んだ。こんな状況で、こんな状況の少女を放っておけるわけがないのだ。それはあまりにも香奈多を彷彿とさせるものだったから。
肩と膝の下にそっと腕を回して、ゆっくりと持ち上げる。テニス部だったころの名残で体力には自信がある。だがそれも取り越し苦労だと笑わんばかりに、少女の身体は軽かった。羽のよう、とまではいかないが予想よりは遥かに楽に持ち上がった。
(それよりなによりこの手に伝わる温もりと柔らかさはいかん……)
悠人の手に伝わるはまさしく女の子な感触。ほっそりとしていながらもふにふにと柔らかい。ちらりと寝顔を盗み見、頭を振っては邪念を打ち払う。理由は知れないが、この少女は廊下で倒れていたのだ。浮かれている場合ではない。
自分とて怪我だらけの身体に鞭打って、悠人は医務室へと向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「お人よし」
灰崎はぶつくさ言いながら、ベッドに寝かせた少女に毛布を掛けた。
「お人よしで悪いか」
「悪いよ。おかげで仕事が増えちゃったじゃない」
ため息をつきながら、灰崎は隣のベッドに腰を降ろす。
薬品棚とベッドが数台しつらえられており、医務室は特異者刑務所の中とは思えないようなのんびりとした空気が流れている。高校の保健室に似ていた。病的なまでに白い壁は、午後の日差しを受けてきらきらと輝いている。悠人自身、数時間は気絶していたらしい。
「それで、その新規入所者が今日は“研究”だから、灰崎が医務室にいるわけか」
「うん。いつもの洋裁工場より遥かに楽な仕事だよ。患者さえ来なければぼんやりしてるだけだしね」
と、ジト目で悠人を睨む灰崎。
灰崎は医務室担当ではないが、常勤の囚人が何らかの都合で出勤できないか緊急時のみ、医務室での刑務作業に加わる助っ人要員だ。常勤の囚人は今ベッドでダウンしている。
「あのまま放っておくわけにもいかなかったんだって」
「別に良いけどさ。悠人らしいよ、そういうの。自分だって無傷じゃないでしょ。ほら作業着脱いで。湿布と絆創膏くらい貼ってあげるから」
言われるままに傷だらけ痣だらけの上体を晒すと、灰崎はむっと顔をしかめた。
「そうとうやられてるね。魔術使われたみたいだし」
「分かるのか?」
「魔術は痕跡が残るんだよ。魔力の残り香みたいなのが薄らと」
悠人はくんくんと自分の身体を匂ってみるが、湿布の匂いしかしなかった。それを見て灰崎が笑う。
「悠人には無理だよ。超能力者は魔力を自覚出来ない。まあだからこそ超能力者なんだけど」
よく分からないことを言った灰崎は手際よく傷口に消毒液を塗っては絆創膏を貼り、湿布をぺたりとやる。
「なんで灰崎は魔力の残り香がわかるんだよ」
「うーん、まあ色々事情があってね。それより、海条にどんな魔術を使われたの?」
悠人は瓶から白銀色の液体が出てきたこと、それが狼の形になって自分を攻撃したことを説明した。それが酷く悍ましかったことも。
灰崎は片手を顎に当てて思案顔。たっぷり五分ほど悩んでから、多分、と切り出した。
「エクトプラズム、だね」
聞きなれない横文字だった。悠人には当然付いて行けない。
「霊媒の身体から分泌される一種の有機物で、強力な霊媒なら意志によって実体を持たせることも出来る厄介な代物だよ。ただ、霊媒っていうのはつまり霊能力者のことなんだけど、海条は魔術師であって霊能力者じゃない。エクトプラズム自体は関東第一特異者刑務所に収監されてる霊能力者から採取できるにしても、それは持ち主じゃなきゃ操れないはずなんだよ。もしかしたら海条はハイブリットなのかも」
「ハイブリット?」
悠人が馬鹿のように鸚鵡返しすると、灰崎はなんだか嫌そうにため息をついた。
「本当はこういうの説明するの好きじゃないんだけどね、何も知らないまま”研究”され続けるのも可哀想だから教えてあげるよ。あのね、魔術師っていうのは先祖代々魔術系統を受け継いでいく。魔術専用の臓器を生み出すことを命令するDNAの配列が親から子へ受け継がれるんだよ。結果、その家にはその家が得意とする魔術を持つことになる。世代を超えて同じ魔術臓器を持った一族が同じ魔術を研究するから、魔術は時間とともにどんどん強化される。だから古くからの歴史がある魔術師の家系は強いんだよ。一方で、一世代限りの異能者が超能力者。遺伝してないってだけで、摩訶不思議な力を行使する仕組みは魔術師と同じ。魔術を生み出すための臓器が体内にあるんだ。突然変異と一緒だよ。ただ、それが次の世代に遺伝することが稀にある。すると新たな魔術師家系の出来上がりというわけさ。ここで働いてる刑務官の八割方はここ五百年で新たに発生した魔術家系の出身だね。海条と、副所長の佐伯は多分何千年単位の家系だと思うけど。で、魔術師でありながら超能力者としても生まれてきた人のことをハイブリットっていう。確率は極めて低いし、世界中に百人いないと思うけどね。こういう奴らは体内に魔術臓器が二つあるんだ。遺伝したものと、突然変異によって発生したもの。超超厄介だよ」
灰崎には珍しい長台詞を聞き終えて、悠人は恐らくその半分も理解できていなかった。高校に通っていたころの授業を思い出す。いや、数学より遥かに性質が悪い。
「じゃあ、俺の場合の魔術臓器っていうのは……」
「もう一人の自分、だね」
なるほど。
悠人は灰崎の能力を知らないが、灰崎は悠人の超能力を知っている。知り合った時にぺらぺらと話したのだ。普通、自分の能力については出来るだけ隠し通すものだが、入所当時の悠人にそんな余裕はなかった。なにか自分の過去に繋がるものを他人に話して、苦痛で満タンになった自分の心を軽くしたかったのだ。破裂してしまってからでは遅い。人狼である藤堂は満月の夜に特別棟に連行されるため隠しようがなく周知のことになっているが。と、そこまで考えて、ふと思い至る。
「藤堂は? 人狼って噛まれると人狼になるってよく言うじゃないか」
「人狼は特別だよ。吸血鬼とかと同じ分類になるんだけど、これは魔術師でも超能力者でもない。そもそも大本は人間ですらないんだ。そういう生き物。ヒトがいてイヌがいてライオンがいるように、幻想種ってやつらがいる。龍とか鳳凰とかもそうだけど、中でも怪狼ってやつは人を噛むと”狼”が感染するんだよ。そうして人狼が生まれて、人狼はさらに人を噛んで人狼を増やす。感染症みたいなもの。これも明らかに非常識の範囲内だから、なにか事を起こせば特異者刑務所に送られるってわけ」
伝説伝承の類にまで入り込んだ壮大な話は酷く掴みどころがなかった。非常識の範囲内、という表現が面白いなーなどと、説明した灰崎に申し訳なくなるような感想をぼんやり浮かべるのが精一杯だった。それを表情から読み取ったのか灰崎は、それはさておき、と話題を切り替える。真剣みを帯びた眼差しは、このあとの話の方がよっぽど大事だと示唆しているようだった。
「道隆に新しい依頼が入ったよ」
「ふうん。どんな?」
依頼とは、藤堂が他の囚人たちから引き受ける便利屋の依頼のことだ。藤堂はその圧倒的な存在感と、義理深く正義感の強い性格から、所内の便利屋として名を馳せている。囚人たちの相談に乗ったり、喧嘩の仲介をしたりしているのだ。自主的に開業したのではなく、自然とそういう位置づけになってしまったあたり、藤堂の人望は地よりも厚い。
彼の友人である灰崎と悠人は付き合いでたびたびその仕事を手伝うことになるのだが、その依頼が今朝方新たに追加されたというわけらしい。
「どっきどきわっくわくな依頼だよ」
「………は?」
真面目に耳を傾けて損をしただろうか。灰崎は先程の真剣味など綺麗さっぱり消し去って、ニヤニヤと嫌な感じな笑みを浮かべている。
「ちなみに依頼主はボク」
「…………ますますわけがわからんのだが」
「あのねえ、悠人がさっき運び込んで来た新規入所者の子を守ってあげて」
さらり、と灰崎はそんなことを言った。
守ってあげて、とは護衛のことだろうか。確かに特異者刑務所は決して治安が良いとは言えないが、わざわざ護衛が要るような生活ではない。刑務作業を淡々とこなし、刑務官の指示に従って漫然と生活していれば、人権以外の必要なものは大方揃う。
視線を上げると、ベッドの上では先程の少女が生け花のように眠っていた。薄い胸の辺りが規則正しく上下しているのを見ると、悠人はなんとなくほっとしたような気分になった。ううん、と子猫のように唸って寝返りを打った少女に、頬が緩む。
「とりあえず、理由を聞く」
「貰ったね。悠人のことだから、その反応は肯定みたいなものでしょ」
「いや別にそういうわけでは」
「本名琴宮月穂、十六歳、A型、一九九五年一月十五日生まれ、二〇一一年三月二十日関東第一特異者刑務所入所、罪名能力共に不明」
悠人には耳も貸さず、滔々と少女の情報を語る灰崎。
「ここからが本題。琴宮月穂はね、やたらと刑務官に従う」
「灰崎と比べてか?」
灰崎は刑務官に対してきわめて反抗的な態度をとることで有名なのだ。懲罰房に入れられたことを指折り数えるのは難しい、とは灰崎の人柄を説明するのによく使われる逸話だ。
「違う。ここに収監されてる全囚人と比べてだよ。悠人よりも、道隆よりも。今朝は看守が女子棟の廊下を全部掃除しろって言ったら掃除したし、この分だと刑務作業の肩代わりだろうと、刑務官舎での奴隷みたいな雑用だってこなすよ。だから刑務官達には妙に気に入られてる。琴宮月穂の房だけは敷布団が一枚多いって噂だよ」
悠人の視界の隅で琴宮が寝返りを打つ。華奢な背中がこちらを向いた。
「こういう囚人がどうなるか、分かるよね?」
「他の囚人には疎まれるな」
刑務官に抵抗し過ぎると灰崎のように懲罰房を食らうことになるが、従順過ぎるのは他の囚人に好まれない。本人は保身のために焦っているのだろうが、傍からは媚を売っているように見える。囚人内で権力を持っている古株や強力な能力持ちに限って、刑務官と対立する構図が目立つ。従順な囚人は彼らに嫌われるのだが、これは刑務所生活において絶対にあってはならないことなのだ。もし媚を売るなら刑務官ではなく有力囚人に売るのが利口なやり方である。有力囚人を敵に回した日には、三食と布団の保証は無くなるのだから。
「女囚の中ではもうかなり危ない位置づけになってる。いつリンチを受けるかわからない状況だよ。まだ入所二日目だからね、焼きを入れるって意味でも何があってもおかしくないよ」
すぅ、と灰崎は目を細める。そこには侮蔑と怒りが秘められているようだった。灰崎はそのような意味のない暴力を人並み外れて嫌悪している節がある。
「でも、それなら灰崎が護衛をやれば良いんじゃないのか? 女囚同士なら消灯前まで一緒にいられるし、なにかと便利だろ」
「まあ、ボクも出来るだけフォローはするつもりだよ。でもね、ボクみたいなのが味方するのは状況に拍車を掛けかねないんだよ。ボク人付き合い苦手だし。藤堂じゃ月穂を威圧しちゃうし目立ち過ぎ。だから、刑務作業の合間とかにはできるだけ悠人が気を遣ってあげて欲しい。悠人が味方するなら女囚も月穂に嫉妬したりはしないだろうし、状況を悪くしないわけだよ」
「待て、そりゃどういう意味だ」
なんだか聞き捨てならないことを言われた気がして悠人はむっとした。
「まあそれは半分冗談にしても、悠人は人当たり良い善人だからね、向いてるかなって」
「…………」
人が良い、善人、優しい、などというのは果たして褒め言葉に入るのだろうか、とは悠人がシャバにいた頃から抱き続けた疑問だ。顔が良い、運動神経が良い、頭が良い等の具体的で実用性のある長所が無いやつに送られる、不名誉な称号なのではなかろうか。
しかし、そんなことを差し引いても、悠人は灰崎の依頼にたいして首を縦に振りかけていた。
視界の悪い道。少女の声。
二つの要素が絶妙に混ざり合って、悠人の心に螺旋を描く。それはやがて絡み合いながら心臓に達して、ぎゅっと締め付けるのだ。ふとした拍子に憂鬱な案件を思い出して、心臓が収縮した時のそれに似ている。
不安で不安で仕方がない。放っておけない。
知らず、悠人は両手で顔を覆っていた。そのまま首を縦に振る。肯定。依頼を引き受けるという意思表示。悠人の反応が予想外であったのか、灰崎はバツの悪そうな顔になって気遣うような視線をくれた。
しかし悠人がそれに気づく前に、声を上げた者がいた。
「余計なお世話よ」
凛、と響く声。その瞬間、医務室内の空気が冷水を浴びたように張りつめた。
悠人も碧もベッドの上へと反射的に視線を向けた。
「私が刑務官にどう接しようと勝手でしょう? 放っておいて。迷惑よ」
色素の薄い瞳は悠人たちを捕えてはいなかったが、白い壁を強く睨みつけていた。囚人全体、この刑務所そのものを厭うかのような視線だった。
「ええと、まあ、とりあえず落ち着いて……」
「私の囚人服の替えが薬品棚の一番下の引き出しに入ってるから持って来て。着替えるから、カーテン開けたら殺すわよ」
人形のように整いすぎた美貌はいまや凶器であった。上品な顔立ちからは想像できないが、少女の言葉は氷でできた刃のようだ。
悠人は従者か何かのように琴宮月穂の元へ囚人服を届けた。供物でも扱うような手つきである。
月穂は囚人服を受け取るや否や、ベッドに備え付けられたカーテンをぴしゃりと閉めた。礼の言葉など相対性理論の次くらいに知らん、というように。
ここにきて、悠人は碧に文句を言ってやりたい気分だった。今日あれだけ長台詞を吐いた碧だったが、情報がひとつ足りなかった、と。
琴宮月穂が囚人たちに嫌われる理由は、刑務官に媚を売っているからだけではない。根本的な理由はずばり、性格ではないのか。
努めて恨めし気な目をして後ろを振り返る。何かしら言ってやらねば気が済まない。ゆっくりと首を動かす。
やられた、と思った。
碧は医務室から音もなく消えていた。
お読みくださった方、ありがとうございます。
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