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二話

 研究室のある地下へ降り、金属製の扉を叩く。手を下す間もなく重苦しい声が返事をした。


「FH二二六三、入れ」


 丁寧でも横柄でもなく、淡々と用件のみを伝えるような口調。深い湖の底からせり上がってきたかのような暗く冷たい声だった。

 扉を押し開けて部屋に入ると、そこは打ちっぱなしのコンクリートで四方を固めた殺風景な部屋だった。広さは三十畳ほど。机などのものは一切置いておらず、ただ灰色の空間が広がる。

 何もない、という恐怖が背中を駆けあがる。ここに入ったらもう出ては来られないのではないかと悠人は思った。海や砂漠や宇宙空間が不安をそそるのと同じように、この部屋もまた不安に満ちていた。

 中央に海条が立っていなければ今すぐにでも逃げ出していただろう。海条は彫の深い眼孔の奥で悠人を見つめていた。いや、見つめていたというよりは捉えていたというのが正しい。人に向ける目ではない。冷たく研究材料を見る目だ。

 恐い。

 悠人は率直にそう思った。逃げたい。だが、背を向けるのはそれよりも遥かに恐ろしい気がした。

 何も出来ずにいると、海条が自分の方へ歩いてきた。足音がコンクリートに反響する。


「FH二二六三は確か、先天性憑依者だったと記憶している。先天性、極めて珍しい症例だ」


 気づけば海条はすぐ目の前まで迫っていた。肘を伸ばさずとも触れられるような距離。海条の表情は変わらない。

 瞬間、体が飛んでいた。回転する視界は灰色の壁を無差別に写し、やがて体が硬い床に叩きつけられる衝撃。遅れて、脇腹に強烈な痛みを感じる。

 なんだ? 何が起こった? 

 突然のことに理解が追い付かない。あの一瞬で殴られたのか?

 思い出したように体中が痛みを訴える。

 痛みと吐き気にゆらぐ視界の中で、自分が部屋の隅にうずくまっていることを何とか確認する。


「先天性憑依者よ、見せてみろ。己の中に憑く悪魔を」


 海条が近づいてくる。悠人は咄嗟に起き上がって身構えた。

 もう一度吹き飛ばされては体が壊れる。もうすでに肋骨に一本や二本は折れているのかもしれないが、今度は背骨でも折られるかもしれない。防衛本能が頭の中で悲鳴を上げる。


「……なんだよ……何がしたいんだよ……!」


 悠人の呟きが聞こえたのか、海条は硬そうな唇を動かした。


「これは研究である。私の研究にFH二二六三の先天性憑依が利用可能かを調べるためのだ」

「なんだよ、研究って……?」


 魔術師の研究とやらの為に吹き飛ばされる自分。人権など埃ほども重さを持たない世界なのだ、特異者刑務所というものは。悠人は改めてそれを思い知らされる。

 蹈鞴を踏みながら、おぼつかない足取りで後ずさる。この何もない空間は逃げる場所を奪うためのものなのかもしれない。

 海条はまた悠人の目の前にまで歩み寄っていた。


「ぐっ!」


 鳩尾を突かれる。吹き飛ばされるような力ではないが、一瞬で呼吸機能が失われた。

 息を吸うことすら出来ずに床にうずくまり、こみ上げた吐き気が胃液を床に散らせた。

 コンクリートに触れた頬が冷たい。

 どうしてこんなことをされなくちゃならないんだ? 自分がなにをした? 

 心の中で渦巻く疑問は、やがて怒りに変わる。悠人は体の中で怒りという感情がはっきりと形を持つのを感じた。同時に、まずい、とも。だが、この程度ならまだ持ちこたえられる。


「しぶといな。貴様はよほど妹が大事だったらしい。自分の身よりも」


 海条はそう言った。

 妹。香奈多。秋沢香奈多。その名前は、嫌でもあの日を思い出させる。人生最悪の日。何もかもが終わった日。何もかもを失った日。


「酷い事件だったらしいな。あの頭の悪そうな犯人どもは今頃なにをやっているだろうな」


 海条が言った。

 心臓に、冷たい刃が刺さるような気がした。

 やめろ、その話をするな。

 しかし未だに呼吸は浅すぎて、話すことなど不可能だった。冷徹にただ事実を述べる声を静かに聞くことしかできない。


「おそらく、緩い刑務所で安穏と暮らしているのだろう。あと数年もすれば仮釈放かも知れぬ。奴らはまた社会に出て何食わぬ顔で生活するのだ」


 やめろ。やめろ、やめろ、やめろ! 


 あの糞野郎どものことは忘れたのだ。二度と思い出さないと決めたのだ。

 香奈多が殺されて、自分の大切なものが全て消滅したあの日。あの悲劇を遊び半分で引き起こした奴らを、悠人は忘れたつもりでいた。

 でも、違ったらしい。海条に少しつつかれただけですぐに奴らの顔が浮かんだ。

 怒りが身体に浸透していく感覚があった。あの日、あの男たちの顔を思い出しただけで、黒く冷たい感情が湧き上がる。浸み渡った怒りがゆっくりと溶け、真ん中にあった殺意という感情が顔を覗かせる。


「貴様の妹のことなど忘れて」


 限界だ。もう抑えられない。

 妹を、香奈多を返せ。返してくれ。

 殺してやる、殺してやる、殺してやる――――――!


「あああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 自分の口から絶叫が漏れる。

 それはヒトの声ではなく、凶暴な獣の声だった。

 胃が食い破られるような感覚に体中が痺れる。それは内臓全体に広がり、やがて心臓が破裂するような猛烈な痛みが体内で爆発する。


「ようやくお出ましか」


 寒気がした。吐き気がした。眩暈がした。


 そして、意識が薄れていく――――。




◇◆◇◆◇◆◇◆




 悠人の両親は悠人が二歳、香奈多がまだ一歳の時に亡くなった。二人で買い物に出かけ、帰りに飲酒運転の乗用車に撥ねられたのだ。父は即死、母は病院に搬送されて二時間後に息を引き取ったらしい。 当時の悠人には「即死」という言葉も「飲酒運転」という言葉も知らなかった。「死」と言うものさえ解らなかった。

 悠人と香奈多は孤児たちの集まる養護施設に入った。駆け落ちで結婚した両親の親戚には、悠人たちを引き取ろうとするものはいなかった。一人ずつなら、という話は出たが、悠人自身がそれを強く拒んだ。

 職員の人たちはみな兄妹に優しくしてくれた。同情もしてくれたし、慰めてもくれた。でも悠人にはそれがどういうことかよく分からなかった。両親が亡くなった時、あまりにも自分が幼かったため両親の顔は思い出せなかったのだ。

 小学校に上がったころ、自分が周りの子とは違うことが判った。自分には「おかあさん」や「おとうさん」がいないし、帰るところは「おうち」ではなく「しせつ」だった。でも、それを悲観したことはあまりなかった。両親のことは覚えていないし、初めからいなかったような気さえする。自分を世話してくれる職員たちはみな優しい。なにより、自分には妹がいた。何より大切な妹がいた。

 小学校四年生に上がったころだろうか。妹が上級生にちょっかいを出されていた。とはいっても持ち物を取られたり、髪を引っ張られる程度だ。それでも悠人は上級生たちの所へ赴いて、大声で言った。


「香奈多をいじめるな!」


 すると、上級生たちは偉そうな悠人に腹を立てたのか、香奈多を羽交い絞めにした。所詮は小学生のすることだ。その先何をするつもりでもなかった。

 しかしその時悠人の心の奥で、自分ではない自分が首をもたげた。

 気が付いた時には上級生たちは痣だらけで床に突っ伏していた。自分がやったのだとは信じられなかった。しかし、悠人は自分がやったことを覚えていた。拳には殴った感覚が残っているし、倒れる瞬間の上級生の顔も思い出せる。酷く混乱した。悠人はその場から逃げた。幸いにも誰もいない校舎裏だったためか、目撃されることは無かった。上級生たちもさらなる報復を恐れてか、そのことを公言することは無かった。

 自分の中に自分ではない悪魔が存在する。

 悠人はそう感じた。自分の意識にもう一人の自分が入り込み、体の機能が上昇する。自分の中に悪魔が棲みついているようだった。

 それと同じようなことが二三度あり、悠人は理解した。怒りの感情が一定以上に達すると、もう一人の自分が目を覚ます。そいつは自分と意識を半分ずつ共用して、破壊を行う。身体的な能力も飛躍的に上がるようだった。

 以来、悠人は怒るということをしなくなった。悪魔が起きるのが怖かったのだ。ささいなことでむっとすることはあっても、憤怒するということは絶対にしないように心掛けた。

 事実、「あの日」まで悠人は決して怒らなかった。




◇◆◇◆◇◆◇◆




 自分の意識が半分まで薄れ、何もかもがぼんやりとしている。目の前に海条がいるのを確認すると、体が熱くなった。

 殺してしまえ。

 誰かが言った気がした。

 妹のことをダシにしてわざと自分を怒らせた。研究などという馬鹿げたことのために。


「あああ……」


 歯の間から息が漏れる。獣のような息だった。

 右の拳を握る。自分であり自分ではない何者かの力が四肢に満ちている。湧き上がるそれは限界を超えて溢れ出しそうだった。

 足に力を込める。筋力を一気に爆発させて跳躍した。一瞬で海条の懐に滑り込む。


「――――護れ」


 低く呟かれた海条の言葉は凛と響いた。

 瞬間、見えない壁にぶつかるような感覚があって悠人は弾き飛ばされた。

 身体能力が強化されているため、体の苦痛は少ない。不幸中の幸いだ。

 なんだ、今の?

 半分しかない意識の中で疑問が浮き上がる。海条の言葉とともに空気の壁のようなものが形成された。なるほど、あれが魔法と言うものかもしれない、と悠人は一人納得する。今まで見たことがなかったが、それは相当に厄介なものらしい。

 覚醒した状態でいることはただでさえ香奈多のことを思い出させる。悠人にとってそれは苦痛以外の何物でもなく、ただ早くこの時間が終わって欲しかった。

 だが肉体の使用権はすでに自分にはない。自分では自分の身体を止められない。


「“刑務所破り”」


 海条がその名を呼んだ。

 次々と記憶の扉が開けられていく。傷が抉られていく。

 早く殺してしまおう。

 悪魔が囁く。悠人は己の中の自分に抵抗しながらも、意図せずに走る自分の脚をぼんやり見ていることしかできない。目を覚ました悪魔を止める術はない。時間がたって怒りのほとぼりが冷めるのを待つのみだ。

 駆ける。その速度は常人には視きれまい。しかし、海条唯恒は常人ではない。東日本最大を誇る特異者刑務所の頂点に立つ男である。肉体的な強靭さは勿論、魔術の腕は世界に通用する。

 背後に回った悠人を振り返りもせずに左手で薙ぐ。風を斬るような剛腕をまともに喰らって悠人は真横に跳ね飛ばされた。背中から壁に衝突し、頭を打って脳が揺れる。もとより朧げな意識はさらに混濁し、泥の海を漂っているかのような感覚に襲われる。


「痛っ……」


 だがそれでも悪魔は収まらない。意識が薄い為か、肉体能力が上がっている為か、体の痛みはさほど感じない。半身である悪魔が身体を起き上がらせる。


「無駄に丈夫な体だ。面倒極まる。手を抜く必要もあるまい」


 海条はローブの懐に手を入れ、小瓶を取り出した。中には白銀色の液体が入っている。

 それを左手で握り、力を込めた。ガシャン、と音がしてビンは割れた。

 中の液体が海条の手を伝って床へ落ちる。

 それを見つめる悠人は我知らず全身が粟立った。


「――――狂乱の徒、月より美麗、死よりも昏き怪狼――――」


 経を上げるように呟いた海条の声は深海のように陰鬱で、日本刀のように鋭い。

 白銀色の液体が呼応するように蠢く。コップに一杯ほどしかなかったはずのそれはいつの間にか池のように床に広がっていた。

 やがてそれらは一か所に集まり、一つの形を作り上げる。


「……!?」


 巨大な狼がいた。白銀色の液体はいつの間にか立体的な銀狼を作り出していた。造形から毛並まで完璧に狼だった。体長は裕にニメートルはあろうかという獣が目の前にいる。

 総毛立った。

 それは強烈な力と殺意の塊だった。

 半身の悪魔さえ、一歩下がるという判断をした。

 だが遅い。

 銀狼は速さという枠を超えたスピードで悠人に迫っていた。雷を彷彿とさせるその速度は主である海条でさえ視認するのは難しい。

 やられた、という感覚さえ無いまま、悠人は壁に叩きつけられる。

 肉体機能が強化されているとはいえ、無敵ではない。強度の限界がある。おそらく今の一撃はその強度を裕に超えていた。体中のありとあらゆる箇所が悲鳴を上げる。

 もとより半分しかなかった意識はほとんど零に近い。これだけのダメージを食らえば悪魔も覚醒を保てない。己の中の悪魔が目を閉じるとともに全身の痛みが悠人を苛む。

 狭まっていく視界。五秒としないうちにそれさえ途絶え、暗闇が訪れた。




◇◆◇◆◇◆◇◆




 テニス部の部活の帰りだった。真冬で時間は八時を回っていたため、辺りは夜の底だった。悠人たちの暮らす施設への近道として河川敷を通るルートがある。街灯がほとんどなく、夜になっては人など全くと言っていいほどいない。男である悠人でさえも何度か後ろを振り返りたくなるような道だった。それでもその日は通らなければならなかった。八時半からは香奈多の誕生日パーティーをやる予定だったのだ。部活のミーティングで帰りが遅くなってしまったが、河川敷を通れば間に合うと踏んだ。まさか、妹の誕生日を祝わなくちゃいけないから早く帰る、などと友人や顧問に言えるわけもない。悠人は家路を急いだ。鞄には香奈多にあげるプレゼントが入っている。雑貨屋で買った毛糸の手袋だ。

 そういえば今日は香奈多も料理部の活動で帰りが遅くなると言っていたな、と悠人は思い出す。それもあって誕生日パーティーは八時半からという微妙な時間設定になっているのだった。

 もしかしたら、香奈多も自分と同じように近道をしようとして河川敷を歩いているかもしれないと悠人は思った。一緒に帰ろうかと一瞬考えて、すぐに取り消す。流石にこの歳になって妹と下校するのは恥ずかしい。そもそも河川敷を使うのは危ないからと香奈多には言ってあるのだ。よほどのことが無い限り使わないだろう。

 後ろから白いバンが悠人を追い越して行った。結構なスピードだ。悠人はたまたま道の端を歩いていたから避けられたが、真ん中の方を歩いていたら危なかったかも知れない。バンは右側のヘッドライトが壊れており、酷く視界が悪そうだった。

 誕生日パーティーは、施設の子供たちにとっては堪らなく楽しいものだった。高校生とってはもう恥ずかしいばかりだが、悠人も小学生までは毎年楽しみにしていた。職員と他の子供たちとでいつもより少し贅沢なものを食べ、消灯時間も少し遅くなる。十人程でのパーティー。当時はそれが大きな冒険に覚えたものだ。香奈多は高校一年生だが、何週間も前から楽しみにしていた。

 その時、前方から悲鳴が上がった。

 河川敷の五十メートルほど前で、赤いテールランプが浮かび上がっていた。走行音が消えている。先程の白いバンが停車しているのだろう。

 悲鳴が悠人の耳に粘りついていた。嫌な予感がする。悲鳴は女の子のものであるようだった。

 小走りに白いバンの方へと向かう。道の端で蛙が潰されているのが横目に見えた。どうしてか、それがやけに鮮明に脳裏に焼き付いた。

 十メートルほど走ったところでテールライトが消えた。同時に走行音が復活する。タイヤが砂利を踏みつけるような音も聞こえた。

 何でもなかったのだろうか。

 悠人は怪訝に思いながら、小走りを止めなかった。先程バンが止まっていたところまで辿り着く。

 そして、見てしまった。

 初めは何が何だか解らなかった。それが何であって、どうしてそこにそうあるのか理解できなかった。或いは、理解したくなかっただけかもしれない。

 頭の中が真っ白になった。何も考えられない。自分の頭が馬鹿になってしまったのかと思った。

 でも、幾度目を擦って見ても、それはそこにあった。

 赤い液体に塗れ、力なく四肢を投げ出した彼女を。

 最愛の妹である、香奈多を。


 結果として香奈多は病院で一命を取り留めることができた。長期入院を余儀なくされたものの、香奈多は生きていた。死んだように、生きていたのだ。


 悠人の記憶は、一度そこで途切れる。



お読みくださった皆様、ありがとうございました。


長くなりましたが、どうだったでしょうか?

感想などいただけると幸いです。

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