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第一章 3「揺れる心」 下

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 本当は門のところで待っていてもらうつもりでいたのだが、マルクは「ウラルが心配だから」とエヴァンスの前までついてきた。マルクを見てもエヴァンスは別段驚きも咎めもしなかった。ただいつものように挨拶もなにもすっぽかし、「巨鳥乗りの男か」と一言確認しただけだ。マルクの方はエヴァンスのそっけない反応に驚いたのか、気まずさをたたえた視線でエヴァンスを眺め回している。アラーハもどこからともなく現れた。

「さっき町で会ったの。これからフギンのところに連れて行ってくれることになってる。これ、頼まれていた荷物ね。お弁当も買ってきたから冷めないうちに食べて」

 うさんくさげにマルクを見つめているシャルトルに荷物を渡し、約束通り町の印象を語った。ベンベル人はひとりもいなかったこと。階段と坂がとにかく多く、路地の多い入り組んだ地形をしていること。崖の上にムール部隊がいることはマルクが横にいるし言わなかったが、エヴァンスならおそらくもう気づいている。

「よかったら服、あててみてくれる? 好みに合うといいんだけど」

 マルクが目の前にいるのに、背後からフギンを襲撃するつもりなら格好を伝えられるのがわかっているのに、二人は躊躇なく袋から服を出した。

「よかった、似合う。サイズも大丈夫そうね」

 ひと目で旅人とわかる格好のほうがいい。エヴァンスにはキャラバンの用心棒が着るようなこざっぱりした服、シャルトルには商人風の服にした。色は目立たないよう地味めにエヴァンスが紺、シャルトルが茶色。けれどあまりシンプルすぎるのも似合いそうにないから、両方飾り布をついたものを選んだ。

 これなら二人並んで歩いていても薬か貴金属か、値の張るものを運ぶ商人と護衛に見えるはずだ。エヴァンスがシャルトルの護衛に見えるのはいただけないが、服はエヴァンスのほうが少し豪華だから問題ないだろう。たぶん。

「私に服を買いに行かせた理由、聞いてもいい?」

 これなら面と向かって尋ねても問題なさそうだ。エヴァンスは案の定、気にする様子もなく答えた。

「お前は〈ジュルコンラ〉に入ればしばらく出てくるまい。となればわたしたちは自力で食料を調達せねばならん」

 なるほど、言われてみればそうだ。でも、それならなぜさっきウラルに保存食を買いに行かせなかったのだろう。現時点でそれほど量はないはずなのに。

 不意にエヴァンスが大きく息をつき、あらたまった様子でウラルと向き合った。

「ウラル。昼間はフギンに会ってその印象を話せと言ったが、お前はもうここに帰ってこなくて構わない」

 ウラルはきょとんと首をかしげた。

「本来なら今日ここに帰ってくる必要もなかった。髪染めを持っているのに服を持っていないわけがなかろう、急ぎで買ったものだからサイズが合わなかったのも確かだが。使いを言いつけて戻ってくるよう仕向けたのは、単にわたしがお前の顔を見たかったからだ」

 いきなり何を言っているのだろうこの人は。今回の買い物は無意味だった? 私の顔が見たかったから?

「この感情はどこから来るのか。シャルトルに尋ねれば、それは恋だと返ってきた」

 え?

「スー・エヴァンス、僕はほんの冗談で……」

 おろおろするシャルトルをエヴァンスは黙殺する。

「わたしに愛だの恋だのという感情が備わっているとは思っていなかったが、このところお前を見るたび落ち着かない気分になっていたのも確かだ」

 低いささやきにすうっと頭の芯が冷えた。エヴァンスの姿しか見えなくなる。エヴァンスの声しか聞こえなくなる。動けない。何か言わなければと思うのに何も考えられない。ただ耳の先まで真っ赤になるのを感じるだけ。

「きっかけはお前がアラーハに殴り殺されそうになった時だ。お前は半ば意識を失いながらわたしのことをジンと呼び、わたしにほほえみかけた。わたしに向けられたものではないのはわかっていたが、その笑顔が、たまらなくいとおしかった」

 エヴァンスの口元がいまだ見たことがないほど優しい微笑を浮かべた――いや、この顔は一度だけ見たことがある。あのうす青い夜明けの小屋で、やっと目覚めたウラルに薬を飲ませてくれたエヴァンス。ジンのふりをしていたあの時の顔。

「あれ以来、わたしはお前に焦がれているのだ。ウラル」

 不器用に髪をなでる感触が蘇った。

 エヴァンスがその優しい瞳をゆっくりと閉ざす。次の瞬間、開かれた青い眼は嘘のように鋭かった。普段のエヴァンスの顔。鋭利な光を放つ肉食獣の瞳。

「これ以上近づけば、わたしはお前を手にかける機会を永遠に失う。お前を殺したくはない、これがまごうことなき本心だが、わたしはわたしの神に逆らえぬ。生きる時には限りがあるが、死後の時は永遠に続く」

 火照った頬がすうっと熱を失った。エヴァンスは静かに続ける。

「覚悟をしておけ。わたしがフギン、ダイオの二人を手にかけるとき、勢いでそのままお前を斬る」

「スー・エヴァンス! いくらなんでもそれはないでしょう!」

 不意にシャルトルが割って入った。ものすごい勢いで主君にまくしたてる。

「告白したその口で次は殺すと? いったいウラルさんにどんな顔をしてもらいたいんですかあなたは! 本当に、本気でウラルさんがお好きだったんですね? 僕は嬉しいですよ、そうなればとどれだけ思っていたか。ウラルさんがメイドをやっていらしたときからずっと思っていました」

「シャルトル」

「このままずっとお二人が一緒におられれば、そして最後にウラルさんが老衰でお亡くなりになるときに、いまわの苦しみをスー・エヴァンスがお断ちになればと……。僕はずっと思っていました。どうしてそれができないんですか? 一緒におられればいいじゃないですか! 神は期限を定められなかった!」

 シャルトル、とエヴァンスがもう一度さえぎった。なおも続けようとするシャルトルに「黙れ」と険しく低い怒声が飛ぶ。

「たしかに神は期限を定められなかったが、厳しい方であらせられるのは確かだ。一刻も早く全ての始末をつけなければ。それにジンに続き、フギン、ダイオの命を絶ってそれができると思うか」

 昏い光をたたえた双眸。エヴァンスは本気だ。シャルトルが唇を噛み、目を伏せる。

「命は、一度絶てばもう戻らないんですよ? あなたはジンを殺したことを後悔している。違いますか? 彼と出会わなければ、あるいは殺さず捕虜にしておけばウラルさんの命を狙わずに済んだ。そうでしょう? このうえウラルさんを手にかけてしまえば。……僕はもう、見ていられません」

 エヴァンスの目が揺れる。それを悟らせまいとするかのように固く両目が閉ざされた。

「ウラル。シャルトルが何を言おうがわたしに予定を変える気はない。フギンのところへ行くがいい。そろそろ門が閉まるぞ」

「スー・エヴァンス!」

「ウラルが行った後で話し合おう、シャルトル」

 行け、ともう一度うながされる。

「エヴァンス」

 びくりとエヴァンスの全身が震えた。まるでウラルが話せることを忘れていたかのようだ。エヴァンスともあろう人が名前を呼んだだけでこんなに動揺するなんて。

「あなたみたいな人に想ってもらえて嬉しい。さっきも頭が真っ白になっちゃって。こんな状況じゃなかったら手放しで喜んでたと思う。あなたは怖かった。すごく。でも紳士的で、優しかった」

 エヴァンスの目が揺れた。けれど今度は目を閉じずそらしもせず、悲しみの色を浮かべた瞳でウラルを見つめたままでいる。

「殺されるときは私、全力で抵抗するからね。前にも言ったけど、私の命は沢山の人に守られたものだから。そんな簡単に手放したくないの」

「苦しませたくはない」

 そう言うエヴァンスの方が苦しげだ。ウラルは精一杯笑みを浮かべてみせた。

「ありがとう」

 おそらくはエヴァンスに向ける最後の笑顔。エヴァンスはじっとウラルを見つめ、それからゆっくりとまぶたを閉ざした。まぶたの奥に焼き付けるかのように。

 金色の睫毛に彩られたまぶた、高い頬骨、薄い唇。ウラルもじっとエヴァンスの顔を見つめ、不意に湧き上がった衝動をこらえながらきびすを返した。

 なぜ口づけしたいと思ったのだろう。こんな状況でなければ彼を愛したかもしれない。けれどこんな状況でなければウラルはエヴァンスに出会わなかった。それが今は、たまらなく悲しい。

 慌てた様子でついてくるマルクとアラーハの気配を感じながら、追いかけてくださいと怒鳴るシャルトルの声を聞きながら、じっと追ってくるエヴァンスの視線を感じながら。

 ウラルは〈ジュルコンラ〉へ歩き出した。


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