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第一章 2「孤児院の母」 下

     ***


 子供らの笑い声を聞きながらリーグの料理をのんびり食べる。これがこんなに幸せなことだとは思わなかった。ヒュガルト町からここまでの道中はベンベル兵舎に泊めてもらっていたのだが、リーグ女のウラルはそんな場所では目立ちすぎる。部屋まで食事を運んでもらって一人で食べることが多かった。乳製品とスパイス、パンとコーヒーのベンベル料理にもやっと慣れたつもりでいたが、やっぱりウラルにはたっぷり具の入ったシチューと香草をたっぷり使ったサラダ、それにハーブティが肌に合う。子供らの後に湯を使わせてもらいさっぱりすると、すっかりリーグ人に戻った気分になった。

 マームは湯からあがったら自分の部屋へ来るように言っていた。重くなった気分をこらえつつマームの部屋へむかったが、どうしたのだろう、留守だ。食堂とリビングを覗いてみたがマームの姿はない。トイレだろうか。ウラルは首をかしげ、もう一度マームの部屋へ行ってみようと引き返し――。

「あの子は何か隠しているはずなんです。それがいいものなのか悪いものなのかだけでもわかりませんか? あの子はたぶん相当面倒なことに巻き込まれてる。私にできることを知りたいんです」

 マームの声。尋常ではない響きにウラルはどきりと足を止めた。振り向いてみれば明かりの漏れている部屋がある。

「彼女をここに泊めてちゃんと世話をしてやること、明日の朝は笑って送り出してやること。それだけだね」

 老婆の声が答えた。そんな、と言いかけたマームの声がさえぎられる。

「心配せんでいい、彼女は風神の強い加護を受けている。おそらく風神から何らかの仕事をおおせつかっているのだろう。何かの火種にはなろうが、それは神々のご意思。わたしたちがどうこうすることではない」

 やはりこの老婆には予言の力があるようだ。何かの火種。どういうことか尋ねたい気持ちをこらえて壁に手をあてる。

 その時だった。上の階から子供の甲高い泣き声がした。続いてドアが開く音とエリスのものらしい足音がする。子供が悪夢でも見たのだろうか。

「……ウラルさんとやら。立ち聞きでいいのかね? どうぞ中へお入りなさい」

 ウラルはびくりと肩をすくめた。振り返ればウラルの隣でドアが開き、老婆の顔が覗いている。その後ろにはマームも立っていた。

「申し訳ないです、立ち聞きなんて」

「あなたには悪いが、今夜悪夢に泣く子は少なくなかろう」

 その言葉の真意を悟り、ウラルはもう一度上の階を見つめた。エリスがあれだけ怒ったのも無理はない。子供たちはベンベル人を、家族を皆殺しにした人々を久しぶりにすぐ近くで見たのだ。

「本当に申し訳ありません」

 老婆はうなずき、ウラルを部屋に招き入れた。

「子供らのことはエリスに任せよう。気性は激しいが情の深い女だ、心配はいらん。今マームと話しておったんだが」

 老婆はぴたりとウラルを見据え、けれどウラルの後ろにいる何かを見つめる様子で目を細めた。

「マームはひどくお前さんを心配しておるようだ。心配をかけまいとするお前さんの心はわかるが、マームの性格も考えるがよい。一度言い出したら何があろうと引き下がらん女だ」

 ウラルはマームをまじまじと見つめた。マームが怒ったような目で強いうなずきを返してくる。

「わたしは姉のような予言の力は持たないが、そのかわり感情を読み取る力がある。いや、感情というよりはその人の雰囲気を分析できると言ったほうが正しいか」

「雰囲気というのはつまり、喜怒哀楽だけでなく風神の加護やなんかを感じ取れるということですか」

「飲み込みが早くて助かるよ。あなたは隠したがっているようだが、マームの不安を解消するためにも単刀直入に聞かせていただこう。〈セテーダンの聖女〉はあなたのことだね? イッペルスを従え〈風神の墓守〉を名乗る娘が現れたというが」

 ごくりとウラルの喉が鳴った。やはり噂は広まっているようだ。マームをちらりと見る。言いたくない。だが人の感情を読む老婆が相手でははぐらかすこともできない。

 ウラルは窓の外に目をやり、腹をくくった。

「イッペルスは近くの森に潜んでいるはずです。私が呼べばすぐに来ます」

「ウラル、イッペルスなんてどこで」

 マームがウラルの腕をつかんだ。ウラルはほんの少しだけ笑ってみせる。絶対に言うまいと思っていたのに、認めてしまうと案外楽だった。

「呼んでも構いませんか? 彼もマームさんに会いたがってると思うから」

「私に?」

 窓を開けて犬笛を鳴らす。それからマームに向き直った。

「マームさん。信じてもらえないと思うけど、そのイッペルスはアラーハなの」

 ウラルは今まで幾度となくしてきた説明をする。マームは開いた口がふさがらない様子だ。

 アラーハは近くにいたようだ。すぐそばの林で二つの眼が光っている。人家のそばとあってアラーハもためらっているのだろう。

「アラーハ!」

 ウラルが呼ぶと、アラーハは林を出てまっすぐこちらに向かってきた。ウラルに危険はなさそうだと安心した様子で歩いてきたアラーハだが、マームのにおいを嗅ぎつけたのか途中からは血相を変えて駆け寄ってきた。

 ウラルはそっとマームの背を押した。窓から顔をのぞかせるアラーハ、マームが恐怖の色を浮かべて後ずさる。アラーハは悲しげに耳を垂れ、けれどわかっているとばかりに身を引いた。

「信じがたい話だが」

 老婆がゆっくりと立ち上がり、イッペルスに手を伸ばす。アラーハが不思議そうに老婆の手をしわくちゃな手を見つめ、首を伸ばして鼻先をなでられるに任せた。

「このイッペルスの心は驚きと喜びに満たされておるよ。暖かい気持ちだ、お前さんは好かれておったようじゃな。少なくとも今が初対面ではないようだ」

「そんな」

「動物の感情がこれだけはっきり見えるのは初めてだよ。このイッペルスはどうも人間と同じ思考回路を持っているらしい。それにこのイッペルスは地神の強い加護を受けている。森の守護者か、初めてお目にかかるが」

 アラーハが説明を求める目をウラルに向ける。軽く紹介すると、納得した様子で老婆を見つめた。

「おや、わたしに感謝しているのかね? 雄弁なイッペルスよ」

 アラーハがぶるりと鼻をふるわせ応じる。ウラル以外の人間とも意思が通じるのが心底嬉しそうだ。

「アラーハ……」

 ようやくマームが気を取り直したようだ。

「本当にアラーハなの? ウラルとおばあちゃん、二人がグルになってびっくり大作戦やってるなら容赦しないんだから」

 アラーハが困った様子でウラルを見やる。

「アラーハなら当ててみて。私とサイフォスは結婚暦何年? 蹄を鳴らして答えてよ」

 ウラルは老婆と思わず顔を見合わせた。

 アラーハは首をかしげ、しばらく悩む仕草をしてから蹄で地面をひっかきはじめた。一回、二回、三回……。蹄の音は八回で止まった。

「それは今年まで含んでる?」

 アラーハがうなずくと、マームは髪をぐしゃぐしゃに引っかきまわした。

「正解、じゃあ次よ。森の隠れ家を建てたのは誰? 一番、〈スヴェル〉のみんな。二番、〈ジュルコンラ〉に手伝ってもらった。三番、〈ナヴァイオラ〉に手伝ってもらった」

 マームはわざとウラルにもわからない問題を言っているに違いない。アラーハは迷いなく蹄を三度鳴らした。

「これも正解ね。わかったわ、最後の問題。私がアラーハに対して思っていたことは次のうちどれでしょう。一番、土足でリビングにあがりこまないで。二番、夏のうちは毛皮脱ぎなさい。三番、たまにはうちでご飯食べなさい」

 アラーハは目をぱちくりさせている。

「四番、全部」

 カツカツカツカツ。マームは両手を腰にあて盛大にため息をついた。

「わかってるなら直すなり訳を話すなりしなさい。驚かすのもたいがいにしなさいよ、ばか。馬と鹿があわさった生き物、よくいったものだわ。ばーか」

 苦笑のつもりだろう、アラーハがぶるりと鼻を鳴らす。マームは拳を作るとその額をこつりと小突き、それから優しい仕草で鼻先をなでた。

「イッペルスになっても生きているなら、それで御の字よ」

 すねたような声にアラーハの目元が和む。マームがアラーハの首をぎゅっと抱きしめた。アラーハも目を細め、長い首でぎゅっとマームを抱き返した。

 ウラルは老婆に向かって頭を下げた。この老婆がいきなり〈セテーダンの聖女〉のことを暴露しなければ、ウラルは結局アラーハとマームを会わせないまま立ち去っていたはずなのだ。マームはフギン以上にアラーハのことを信じそうにないからと。イッペルスとしてのアラーハを否定されるのをこれ以上見たくないからと。

「ウラルさん、〈風神の墓守〉としてのあなたにひとつ尋ねていいかね。わたしは神を信じないわけではないが、風神があなたを遣わしベンベル人を助ける理由がわからない。セテーダン町に顕れた時も〈戦場の悪魔〉に憑かれた男からベンベル人を救ったというし、今のあなたもベンベル人を連れている。神々は何をお考えだね?」

「風神はもう誰一人として死なないことだけを願っています。リーグ人はもちろん、ベンベル人も。そのためにどうするかは他の三神とこれから話し合う予定です。私がベンベル人と一緒にいる理由は……」

 ウラルがエヴァンスと一緒にいる理由? 自分で言い出した言葉にウラルは戸惑った。フギンを追うため、そしてエヴァンスにいつか殺されるため。いや。

「いつか、きたるべき和解と融和のため、ベンベル人の視点が必要だからです」

 例の「強い直感」だった。胸の奥でジンが呟く言葉。なるほど、風神がエヴァンスに好意的なのはそういうことだったのか――。

「だが、火神はそれをお望みでない」

 ウラルはちらりと西を見やった。フギンがいるはずの場所、〈ジュルコンラ〉。神々の加護を感知できる老婆が火神その人を見誤るわけはないだろう。

「だから彼のもとへ向かっているんです」

 なるほど、老婆が静かにうなずいた。

「ウラル」

 マームがアラーハの隣でおそれを含んだ目を向けている。

「マームさん、見守っててくれる? それが私にとって力になるから」

「アラーハもアラーハだけど、二人して突拍子なさすぎるわよ。我に返ったら大騒ぎしそう」

 力なく笑うマームにウラルも笑い返した。

「フギンもね。まともなのはイズンだけ」

「イズンはどこにいるの? 元気なのね?」

「〈エルディタラ〉に向かったはず。また会ったらマームさんがここにいるって伝えておくね。でもあとの人は……」

 言いかけたウラルをマームがさえぎった。

「その先は言わなくていいわ」

 でも、と続けたウラルをマームがもう一度さえぎる。

「薄情な女と思わないでね。サイフォスがどこでどんなことを思いながら死んでいったか聞きたい気持ちもあるけど、聞きたくない気持ちのほうが大きいの。サイフォスはもう二度と帰ってこない、それだけで私にとっては十分よ。わかってくれる? それよりは生きている人がどこで何をしているか聞きたいわ」

 強い人だ。この大混乱の中で絶望から目をそらし希望を見据えるのは並大抵のことではない。きっと今夜マームはベッドの中で泣くのだろう、けれど明日からはいつものように子供たちを愛情たっぷりに怒鳴り散らしているのだろう。

 老婆に礼を言って部屋を辞し、マームの部屋に移ってアラーハを呼んだ。そして夜遅くまでウラルの身にあったことやダイオとシガルのこと、それに賑やかな〈エルディタラ〉のことを話し続けた。



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