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第一章 1「秘めた怒りはどこへゆく」 下

     *


 その日は近くの兵舎に泊めてもらった。壁の中から逃げる者がいないか監視するベンベル兵の兵舎だ。兵士らはどうやらウィグードではなく別の騎士の部下らしい。

 エヴァンスは静かに頼んでいた。今夜一晩泊めてもらえぬかと。そう頼むところにウラルが居合わせるのは初めてだった。エヴァンスは「リーグ人、しかも女が一緒だと渋られる」といつも話がつくまでウラルとシャルトルに席を外させていたのだ。

 あれだけ矜持の高いエヴァンスだ。いくら必要なこととはいえ、毎晩宿を頼むのは辛いのだろう。いくら対価は金銭や剣の稽古で払っていても、ここは宿ではなく兵舎。頭を下げて宿を乞うていることには変わりない。

 ウラルがいても兵士らは怪訝そうな顔こそしたものの渋りはしなかった。相手が償い行中の高位騎士だと知ると平身低頭し、客室ふたつと食事を提供してくれた。エヴァンスは「礼に剣の稽古をつけよう」と兵士らを連れ外へ出て行ってから、しばらく帰ってきていない。

 カン、カカン、と激しく木刀で打ち合う音が聞こえてくる。窓から外を覗いてみれば月明かりの中、十五人ばかりの兵士を次々相手にするエヴァンスがいた。闇の中でエヴァンスの金髪は目立つ。いや、エヴァンスという男自体がよく目立つ。豹のようにしなやかに、そして獰猛に。五人ずつ打ちかかるのをエヴァンスが低く怒鳴りながら蹴散らしていく。

 エヴァンスのあまりの強さに兵士らが怯え始めると、エヴァンスは五対一から一対一に切り替えた。

「(わたしは打つ前に狙う場所を言う。防御するなり避けるなりして反撃してこい。手加減する気はない、もしお前たちに闘志がないようなら容赦なく滅多打ちにする。かかってこい!)」

 おずおずと一人が木刀を構える。瞬間。

「(右手首!)」

 エヴァンスの木刀が跳ね上がり、兵士の木刀に激しくぶつかった。エヴァンスの声で反射的に防御していなければ手首が折れていたに違いない。

「(ぼやぼやするな、次は胴を突く!)」

 打ち倒した兵士には「攻撃に夢中になって防御を忘れるな」だの「足腰をもっと鍛えろ」だの簡単な助言を与える。腰の引けている者は本当に容赦なく滅多打ちにした。骨にヒビくらいは入れたのではないだろうか。

「(左脇が甘い!)」

「(首!)」

 夜が更け、窓辺のウラルが座ったままうつらうつらし始めたころ、ようやくエヴァンスは解散を命じた。

 半分は体をひきずるようにして兵舎の中へ入っていった。残る半数は疲れのためか痛みのためか、その場に座り込んだままぐったりしている。そこへエヴァンスに呼ばれたのか軍医らしき男が現れ、具合を診始めた。

 しばらくして廊下からエヴァンスのものらしい足音が聞こえてきた。今まで周りが静かだったから気づかなかったが、びっくりするほど壁が薄い。内装は新しいが、どうやらリーグ人夫のやっつけ仕事のようだ。

「(あの八人はまだのびているか?)」

 隣のドアが開く音と共に声がした。一応は心配しているようだ。

「(ふたりは戻りましたよ。でも六人はまだ動けないようです)」

「(少しやりすぎたようだ)」

「(珍しいですね。スー・エヴァンスが口に出して反省するなんて)」

 エヴァンスは黙っている。シャルトルが笑い混じりのため息をついた。

「(あなたが厳しいのは今に始まったことではないでしょう。『十人の兵士がカクテュス卿の稽古を受ければ、ひとりは再起不能となり、二人は顔も見たくないほど嫌い、六人は恐れて距離を置き、最後のひとりが教えを受け入れ大きく伸びる』。昼間の八つ当たりをしたわけでもないでしょうに)」

 エヴァンスは再び黙りこんだ。

「(……八つ当たりだったんですか?)」

「(無意識にそうなったかもしれん。ウラルはどうした)」

「(もうお休みのはずですよ。足音も聞こえませんし)」

 ウラルはまだ窓辺の椅子に座ったままだった。

 エヴァンスが椅子かベッドかに腰をおろしたらしい音、続けて別の場所から椅子を引く音。シャルトルが椅子を動かしてエヴァンスと向き合ったらしい。

「(本当にあなたらしくもない。どうされたんですか? とりあえず上から見た分では普段と変わらない様子でしたよ。そんなに昼間のことが尾を引いているんですか?)」

「(アウレヌスの暴言はいつものことだ)」

「(それならなぜ?)」

「(言葉にできるならわたしの苛立ちはもう静まっているだろうよ。苛立ってたまらんのもいつものことだが、これほど後を引くのは初めてだな)」

「(本当によくあの場で剣を抜きませんでしたね。施しを乞う、ですか。そんな発想をする時点であの人は煉獄堕ち間違いないですよ)」

「(ああ。……それに加えてウラルのことだ)」

 急に自分の名前が出てきたのに面くらい、ウラルは壁を見つめた。

「(ウラルさんですか?)」

 エヴァンスのため息。

「(そうだな、これが『痛いところを突かれた』という感覚なのかもしれん。たしかに今までウラルを殺さなかったのは間違いだった)」

 ざっと鳥肌がたった。殺さなかったのは間違いだった?

「(ウラルについて、わたしは嘘を塗り重ねている。ウラルには『三人を集めて同時に神にささげねばならぬ』と言い、アウレヌスには『ウラルはほかの二人をおびき寄せるために生かしてある』と言い訳した)」

 オーランド町の神殿でエヴァンスは「三人まとめて生贄に捧げなければ意味がない」と言っていた。少なくともウラル、フギン、ダイオの三人が揃うまで殺す気はないと。……あれは嘘だったのだろうか。

 たしかに違和感はあった。エヴァンスはオーランド町でウラルの首を絞めているのだ。夜の街での逃走劇。間一髪で逃れたものの、エヴァンスは確実にあの場でウラルを殺そうとしていた。

「(実際のところウラルを生かす理由は、わたしの甘さ、それだけだ。昔からわたしは自分の意思で命を救った者を殺すことができぬ。我らが神はお笑いになっておられるのだろう。そしてわたしに試練を与えたのだ。ウラルを殺すことでその甘さを砕いてみせよと)」

 殺す、殺すと。何度も言われていたはずなのに。それを知りながらついてきたはずなのに。エヴァンスはもうしばらく手出ししてこないと安心していた。アラーハがいるからと油断していた。殺意を向けられて平然としていられるほどウラルは肝が太くない。

 あれが嘘なら、本当にいつ殺されてもおかしくない。

 歯を食いしばりながらポケットをさぐった。犬笛。

(アラーハ)

 けれど震える指先に、頼みの綱は滑って落ちた。

 からん、かららら。

「(今のは隣の部屋か。……ウラル。まさか聞こえているのか)」

 血の気が引いた。

「(ウラルさんはお休みのはずですよ)」

「(いや、なんとなく気配は感じていた。気のせいかと思っていたが)」

 たん、たん、と壁が軽く叩かれた。これは壁どころではない、薄い板一枚で部屋が区切られているだけ。エヴァンスが殴ったら簡単に穴が開くのではないだろうか。舌打ちの音。

 隣のドアが開いた。エヴァンスの足音がウラルのドアの前へ迫り来る。

「ウラル、返事をしろ。ドアを開けるぞ」

 ドアノブが回った。一応ウラルが眠っている可能性も考えたのか、そっとドアが開く。

「なぜ返事をしなかった」

 自分で自分の体を抱き、震えを必死に押し殺す。今まで死にかけたことも殺されかけたことも何度もあったはずなのに、どういうわけやら今が一番怖かった。冷静な状態で、たった一人で。今もエヴァンスの腰には長剣がある。このまま何もできないまま胸を貫かれてしまうのだろうか。

 エヴァンスが床に転がった犬笛を見、ため息をついた。

「わたしは野蛮人ではないし、いささかお前に情も移っている。お前を今すぐどうこうする気はない。殺すにしても身辺整理をするくらいの間はやる。アラーハを呼びたいならば呼ぶがいい。お前がこの部屋を出ていっても止めはしない」

 安心させるつもりで言っているのだろうか。それではいそうですかとぐっすり眠れるとでも思っているのだろうか。ウラルは椅子に座ったままうつむき、ぎゅっと目を閉じているほかがない。

 不意に、肩にふわりと優しい感触がした。かたわらのベッドから取り上げた毛布をエヴァンスがかけてくれたのだ。

「……なぜ、あの時わたしを殺そうとした」

 完全に虚をつかれ、ウラルはぼんやりとエヴァンスの顔を見上げた。

「お前があの場にいなければ、わたしはお前を狙わずに済んだ」

 押し殺した声、引き寄せられた眉。伏せられた瞳、引き結ばれた唇。昼間の一件でエヴァンスの感情はどうかしてしまったのだろうか。感情表現に乏しい彼が今は驚くほど苦しげな、悲しげな顔をしている――。

 ウラルの視線に気づいたのかエヴァンスは気まずそうな顔できびすを返すと、そのまま足早に部屋を出ていった。

「エヴァンス」

 迷っている?


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