第二章 4「仇にまで祈られて」 上
なにか苦い水を飲まされた気がした。
まぶたをこじあけられ、ランプの光をあてられた気がした。
側頭部に痛みを感じ、ひどくうめいた気がした。
誰かが怒鳴る声を聞き、ついでしっかりと手をにぎられた気がした。
「ジン、そばにいて」
のぞきこんだジンの目が青く見えた気がした。
「……ああ、ここにいる」
優しく髪をなでられる感触に安心した気がした。
*
ウラルは丘に立っていた。
ジンがいる。前と同じように水晶の棺に腰かけ、夕日を眺めていた。ジンの視線の先でふたの開いたイズンの棺と、ふたの閉まったネザの棺が金色の光を反射していた。
黙ってジンの後ろに立つと、ジンの手がぽんぽんと水晶をたたいた。ジンの隣に、ジンの棺に腰かける。
「さっき、来てくれた?」
話しかけると、ジンは「いいや」と首を振った。
「俺はもう、現実にはいない。俺は俺の世界にいる。わかっているだろう、ウラル?」
やっぱり、とウラルは目を伏せた。
「あれはエヴァンスだ。エヴァンスと俺は体格が似ているからな。背丈も、肩幅も、胸の厚さも、腕の太さも。俺とエヴァンスと、ついでにサイフォスもあわせて三人で同じ服を着て並んだらなかなか見ものになったろうな。三人そろって声まで似ている」
サイフォスもジンと体格が似ていた。殺され森の中で首をつられていたサイフォスをおろすとき、はじめて気づいたのだ。よく覚えている。
「ウラル、アラーハを止めてくれてありがとうな。だが、あんまりにも無茶が過ぎる。もっと自分を大切にするんだ。もしお前が自分の手にかかって死んだとなれば、アラーハはどうなると思う? 発狂しかねんぞ」
「でも、あれ以外にどうすればよかったの? あのままエヴァンスかアラーハのどちらかが死ぬまで放っておくなんて、私にはできなかった。アラーハなら私は殴らないと思ってたんだけど」
「フギンもやられてしまったしな」
ウラルはぎょっとフギンの棺を見た。ファイヤオパールの棺は空っぽだ。アラーハのアレキサンドライトの棺、エヴァンスのサファイアの棺、シャルトルのペリドットの棺もそれぞれ空で、持ち主が死にかけたときに現れるという人影もない。
「お前を除いて、みんな無事だ」
「私、そんなにひどいの?」
「死にはしないが、あの戦いに慣れた連中がそろって青ざめるくらいには」
怒りで我を失った巨獣の前に立ちはだかったのだ。ツノの一撃をまともに食らえば即死はまぬがれなかっただろうから、命があっただけよかったと思うしかないだろう。
ジンが立ち上がった。
「お前が起きられるようになるにはまだ時間がかかる。少し歩かないか」
うなずき、手をとられて立ちあがる。ジンの手は生前と同じくあたたかで、やはりエヴァンスの手に似ていた。
「やっぱりここ、私の夢の中なのね。ね、ジン、墓守って知ってる? 夢の中にお墓を持つ人をそう呼ぶんだって」
「ああ、お前は墓守だ」
「フギンとアラーハも?」
「アラーハはそうだ。フギンも、まぁ似たようなものだな」
フギンが「似たようなもの」なのは、墓ではなく戦場の夢を見ているからだろうか。
それにしても、アラーハも墓の夢を見ていたとは。そういえば隠れ家で「北へ行かなきゃならない」と強い直感に見舞われたとき、アラーハは何か言いたげにしていた。あれはもしや、墓守と関係があるのではないだろうか。
「墓守って、何なの?」
ジンの足が止まった。
「この墓を心に持つ人だ、という説明では物足りなさそうだな」
「うん。だから聞いてるの」
すぐに何らかの答えが返ってくると思っていたが、ジンはうつむき何かを考えるそぶりを見せた。
「すぐに答えられないようなことなの?」
「ああ。申し訳ないんだが」
「複雑だからどう説明しようか考えてるの? それとも単純に話せないこと?」
「後者だな、説明しようと思えば一言で済むんだが。もうしばらく待ってくれないか?」
「じゃあ、いくつか質問するから、答えられるところだけ答えて」
ジンは苦笑しながらもうなずいてくれた。
「墓守は予言をすることがあるの?」
「ああ。ただし、お前もわかっている通り未来が見えるわけじゃない。この墓所から読み取れることだけに限られるが、予言は予言だな。知らないことを知る」
「じゃあ、ふたつめ。私、前にここであなたに会ってから、妙な直感をすごく感じるの。北へ行かなきゃ、とか。それも墓守と関係しているの?」
「それは、そうだな。墓守だからといえるだろう。ここから見ている俺の心がお前に伝染していたんだ。すまんな。ちなみに、アラーハをどうしても止めなきゃならんとお前が思ったのもそれだよ。ただ、あんな無茶に出るとは思っていなかった」
そうだったんだとジンの目をのぞきこみ、ウラルはほほえんだ。
「じゃあ私が急な直感に襲われたら、それはジンがそう言っていると思えばいいのね」
ジンも微笑を返してくれる。
「そうだな。ただ、無茶はくれぐれもするなよ。ほかには?」
「今のところはこれだけ。ほかはまた、次に会うときに。ごめんね、遺言もあまりちゃんと実行できなくて。少しずつ伝えていくから」
ああ、とジンは寂しげにうなずいた。
お墓参りにつきあって、と二人で墓地をそぞろ歩く。時々立ち止まっては花、そこらじゅうに咲く青いナタ草をつんだ。
この墓地はいつも夕方だ。ナタ草は時間によって赤、橙、黄、黄緑、緑、水色、青、紫の八色に色を変えるにもかかわらず、このところいつも夕方の色、青いナタ草ばかりをつんでいる。ジンの無骨な手にも青い花は思いのほか似合っていた。
途中、両親と兄の棺が見つかった。病死した母は看取ったが、父と兄はリーグの老騎士カフスに死んだと聞かされただけで遺骨も戻ってきていない。まだどこかで生きているような気はしていたが、二人の棺のふたはぴっちりと閉まっていた。
棺のふたに刻まれた家族の名前を指でなぞるウラルの後ろで、ジンはぼんやりと棺を、〈スヴェル〉のメンバーたちの棺の群れを見つめている。
ここには本当にたくさんの棺があった。ウラルが一度だけしか話をしたことがない人も、顔だけ知っていて名前は知らなかった人も。ふたの開いた棺の群れをのぞきこんでみれば、〈エルディタラ〉のメンバーたちだった。あの二重人格一歩手前なムニン団長やロク騎手のマルクの棺もある。このふたが閉まりませんようにとウラルは心から祈った。
「それは誰の棺だ?」
ジンに声をかけられたのは、小さな黄水晶の棺の前でウラルがぼんやりたたずんでいる時だった。
「ジン、私と初めて会ったとき、私、陶芸窯の中で赤ちゃん抱いてたよね。あの子」
ジンが手に持っていたナタ草をそっと棺の前に置いた。
「アラーハがエヴァンスを殺そうとするのを私は必死に止めたけど、私も人殺しなのよね……」
ジンの大きな手がウラルの肩に乗せられた。それきり何も言わないジン、ウラルもまた黙ったまま黄水晶に透ける小さな影を見つめていた。
「ウラル」
長い追悼の後、ジンが口を開く。
「そろそろ帰ってやれ。フギンが心配している」
忘れていた。ウラルは瀕死の重傷を負って気を失っているのだ。
「帰ったらその棺の持ち主のことをフギンに聞いてみるといい。知っているはずだ」
ジンがすぐそばの棺を指す。
ウラルは首をかしげた。今までここになかった棺だ。乳白色の石、そのところどころが青くぼんやりと光っている。ブルームーンストーンの棺がフギンのファイヤオパールの棺とマライのタイガーズアイの棺にはさまれる形で出現していた。
「近々、お前が知り合いになる相手だ」
空っぽの棺にたてかけられたふたには、メイル、と刻まれていた。
**
ウラルはぼんやりと目を開いた。視界は薄暗い。日没後か夜明け時か。薄青い光が粗造りの部屋を照らしていた。
顔を動かし部屋を見渡そうとしたとたん目の前に火花が散った。頭に走る激痛にまた気を失いそうになり、ウラルはうめいた。
そのうめき声を聞きつけたのだろう。すぐそばで何かが身じろぎする気配がした。ウラルの横たわるベッドのわきの窓が外側から開かれる。冷たい空気と共に大きな獣の鼻面がすべりこんできた。
「アラーハ」
痛みをこらえて無事な左手を差し伸べる。アラーハはそれに鼻面をすりよせ、ウラルの顔に鼻先を近づけて、よかった、と言いたげに長いまつげを伏せた。すまなかった、と言ったかったのかもしれない。
「気がついたのか?」
アラーハとは反対側から椅子を引く音と共に男の声がする。ウラルは驚いて反射的にそちらを振り返ろうとし、痛みにうめいた。
「ずいぶん痛むようだな。待ちなさい、すぐに痛み止めを持ってくる」
男の足音が頭にひどく響く。声ですぐエヴァンスだとはわかったから振り返らなくてよかったのだが。目を閉じて必死に痛みをこらえていると、エヴァンスがかたわらに来る気配がした。
頭を持ち上げるぞ、と声をかけられかすかにうなずく。薬を飲むのに最低限必要な程度に慣れた手つきで顔を傾けてくれた。うまく起こしてくれたのだが、それでも振り向くだけで激痛が走る頭だ。痛いものは痛い。歯を食いしばって痛みをこらえ、薬を飲むどころではないウラルをエヴァンスは辛抱強く待ってくれ、痛みが引き余裕が出てくるのを見計らってうまく薬を飲ませてくれた。
「これでだいぶ楽になるはずだ。ゆっくり横になっていなさい」
薬を飲み終え、再び枕に頭をつけるところで走った激痛にぐったりしているウラルの髪をエヴァンスはそっとなでる。覚えのある感触にウラルはぼんやり目を開いた。おずおずとした、けれど思いのほか優しいしぐさ。青い目と薄い唇には笑みさえ浮かんで。
「ありがとう、エヴァンス……」
エヴァンスの目が不思議そうにウラルを見、次の瞬間、いつもの冷たさと鋭さを帯びた。
「ようやくはっきり目が覚めたようだな」
声もいたわりに満ちた穏やかなものから、普段の鋭いものに変わっている。ウラルは目だけで小さくうなずき、エヴァンスの変化を素直に寂しく思った。
エヴァンスはジンのふりをしていたのだ。エヴァンスにジンを重ね、安堵して笑うウラルに「俺は違う」と言えなかったのだろうか。
「ジンと呼んで、返事をしてくれましたね」
「ジンとは誰だ」
「私の大切な人です。死んでしまったんですが」
そうか、とエヴァンスは短く答えてそっぽを向いた。
即効性の薬なのだろう。痛みがだいぶ楽になり、余裕が出てきた。シャルトルとフギンのものらしい二人分の寝息。どうやら今は夕暮れ時ではなく夜明け時らしい。
窓から鼻先をのぞかせているアラーハに目をやり、ウラルははっと息をのんだ。エヴァンスとアラーハが至近距離にいる。アラーハは枝角が邪魔でそれ以上入ってこれないのだが、それでも十分に鼻先の届く位置。噛みつくぐらいはできる。
それでもアラーハは耳も伏せず目も穏やかなまま、静かにウラルを見下ろしているだけだ。そのアラーハの耳の横では血止め草の束が逆さに吊り下げられている。
「この獣とは休戦状態だ。あの片腕の男とも」
見透かしたようにエヴァンスが答えてくれた。
「互いの武器は袋に入れ、鎖で縛りあげてこのベッドの下にある。鍵はお前の枕の下だ。包丁や薪割り用の斧はそのままだから、いざとなればどうしようもないが、ひとまず武器をとらないことはわたしもシャルトルも示したつもりだ。わたしたちから攻撃はしない。安心して休むがいい」
「私を殺さなくていいんですか?」
エヴァンスは苦笑する。
「命の恩は命で返す。そうするべきだと我らが神は説いておられる」
おごそかに言い、それに、と続けた。
「それに、お前を殺す気が失せたというのが本当のところだ。なぜわたしを助けた」
「あなたこそ。なぜ私を」
「お前に助けられたからだ」
だから理由を聞いている、とばかりエヴァンスは顎をしゃくった。
「あなたを助けたかったわけじゃない。ただ、アラーハがあなたを殺すのに耐えられなかった。アラーハを止めたかった。それだけです」
ほう、とエヴァンスの目が細くなる。
「ついでで仇の命をかばうのか。自分の命を捨ててまで」
「大切な人が、目の前で人殺しをするのを黙って見ていられますか?」
言ってから目の前の男が人殺しに慣れていることを思い出したが、エヴァンスはそうだなと真面目な顔でウラルの顔をのぞきこみ、それきり何も言わなかった。
「少し話しすぎたようだ。休んでいなさい。何か欲しいものは」
首を振るとエヴァンスはうなずき、ウラルのベッド脇から離れかけて立ち止まった。
「そうだ、これを返しておこう」
エヴァンスは机に置いてあった金色の短剣を取り、ウラルの布団ごしの胸の上に置いた。
「シャルトルからお前の大切なものだと聞いている。刃は、つぶさせてもらったぞ」
ジンの形見のアサミィを無事な左手でぎゅっとにぎりしめる。片手で苦労して刃をわずかに抜いてみれば、言われた通り金槌かなにかで丁寧に刃がつぶされていた。
エヴァンスが少し離れたところの床で眠っているらしいシャルトルを起こしている。すぐにシャルトルは飛び起き、目を開けているウラルを認めて笑顔になった。
「ウラルさん、よかった! お加減はいかがですか?」
息せきって尋ねてから、自分は今までウラルの命をつけ狙っていたことを思い出したのだろう。シャルトルは気まずそうな顔になり、居心地悪げに目を伏せた。
「だいぶ楽です。痛み止めを飲ませてもらったので」
答えてほほえむと、シャルトルはほっとした様子で再び笑顔を見せた。
エヴァンスはシャルトルを起こしてそのままフギンの横にひざまずいている。ウラルが目を覚ましたのを知らせてやろうと思ったらしい。が、エヴァンスがフギンの肩に手をかけたその瞬間。
フギンの左こぶしがエヴァンスの顔のあったところを薙いだ。エヴァンスは顔をのけぞらせて避けている。
「何しやがる」
フギンの声はいかにも不機嫌だった。休戦状態だろうが同じ部屋で寝起きしていようがフギンはフギンだ。
「ごあいさつだな。ウラルが目を覚ましたぞ」
だが、この一言に眠気も不機嫌さも吹っ飛んだらしい。「ウラルが」と呟くなりウラルのベッド脇に駆け寄ってきた。
「よかった。バカ野郎、心配させやがって」
ごめん、ごめんねと謝るしかない。本当に死ぬほど心配していたに違いなかった。
「お前の意識は戻らないし、このベンベル人ども追い出そうとしたんだけどさ、てんで出て行こうとしないし。ウラルの世話をするなら両手がいるだろ、だと! そりゃそうだけどさ。なんとかなるしお前らがいない方がウラルのためだって言っても、追いかける相手がここにいるのにどこへ行けというんだって。なんか俺、妙に納得しちまって言い返すチャンス逃してさ」
まくしたてながらフギンは嫌そうにベンベル人二人をにらむ。
「お前がちゃんと回復して、この小屋を出れるようになるまで居座るってさ。どうするよ。お前、出ていけって言ってくれよ」
え、とエヴァンスとシャルトルを見てみれば、二人は顔を見合わせ苦笑していた。
「そういうことだ」
こともなげに言い放つエヴァンスに、フギンの目元がびくりとひきつった。