第二章 1「邂逅」 中
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アラーハが落ち着いてから人に見られぬよう、街道からは見えない位置まで森に分け入った。まったく、あのいななきと遠吠えの応酬の間、よく誰一人道を通らなかったものだ。もしかすると通行人はみんな異変を感じて迂回していたのかもしれないが。
「ウラル、説明してくれよ。あの男、なんだったんだ?」
「ケナイは森の守護者。アラーハと同じ」
「違う。アラーハは人間だ。守護者なんかいるもんか」
首を振るフギンにウラルはため息をついた。
「目の前で変身までされて、まだ信じないの?」
思わずあきれ声になった。フギンの目が怒気を帯びる。
「百歩ゆずって守護者がいて、あの毛皮の男が本当にそれだったとしてもだな、アラーハは違う。アラーハは人間だ」
ウラルはため息をついた。まさかここまで頑固だとは。
「町、帰ろうぜ。もういいだろ、ここは」
「もう少しアラーハのそばにいさせて」
アラーハがフギンと一緒に行けと言いたげに鼻先でウラルをつつく。ウラルはその鼻面をそっと押しのけ、アラーハの肩のあたりに身を預けた。
アラーハは今、すさまじく落ちこんでいる。旧友ケナイにツノを向けかけ、自分がいかに人の心を失っているかしらしめられ、フギンにまた「アラーハ」だということを否定されて……。とても一人にはしていたくない。よりそっていたかったし、ウラルもウラルでアラーハと向き合い、気持ちを整理する時間が必要だった。
「付き合ってられねぇ。俺は行くからな。まだ買い物があるんだから」
とうとうフギンは声を荒げ、きびすを返してしまった。街道に向かって数歩踏み出し、ウラルがついてきていないのを確かめるように振り返る。アラーハのそばで動かないウラルをじっと見つめ、それからゆっくり悲しげなため息をついた。
「適当に宿、帰ってこいよ。閉門時間には気をつけるんだぞ。壁の外に荷物もなしに取り残されるなんてことになったら」
「うん。晩ごはんまでには戻るから」
ちゃんと具体的な時間を言ったのがよかったのだろう。フギンはほっとしたような顔になり、ゆっくりと街道の方へ歩いていった。
下草を踏む音が遠ざかるのを聞きながらアラーハのたてがみを指ですく。
「フギン、どうしたら信じてくれるんだろう。もう諦めた方がいいのかもしれない……」
ほかの守護者に目の前で変身してもらう。アラーハのことを語ってもらう。それよりいい手段がほかにあるとは思えない。万策つきたと言っても良さそうだ。そして、アラーハはこれからますます人の心を失っていく。人の言葉も忘れていく。
なでられるままじっとしていたアラーハがくるりと振り返り、ウラルの目をのぞきこんだ。
フギンのことはもういい。気にするな。
ありがとう。
まっすぐに向けられた瞳は、はっきりとした言葉を宿していて。
「そうよね、馬だって犬だって心を持ってる。イッペルスだって。完全に獣になっても、全部わからなくなるわけじゃない。完全に人の心をなくしても、私やフギンがわからなくなるわけじゃない……」
ああ、とアラーハが嘆息するような声を出した。ウラルは涙をこらえ、ぐっと額をアラーハの首に押しつける。
ケナイが言っていた「認めろ」というのは、きっとそういうことなのだ。
***
結局閉門ぎりぎりまでアラーハと一緒にいたウラルは日暮れ直後の薄明の中、宿に向かっていた。夕飯までに戻るとは言ったが、食べる先は屋台なのだ。具体的な時間を言ったつもりが妙に幅のある表現だったなと苦笑いしつつ、まぁべつに真っ暗にならないうちに戻ればフギンも怒らないだろうと思いつつ。
思えばこうして一人で町を歩くのは本当に久しぶりだ。あの森の隠れ家を旅立って以来、フギンがずっとそばにいた。ウラルがどこか知らないところへ行ってしまわないように、恐怖の色さえ浮かべてウラルのそばを片時も離れなかった。
ひとりでぶらりと散歩に行きたい衝動にかられたが、ぐっとこらえた。これ以上遅くなってはフギンが心配するだろうし、暗くなってからの女の一人歩きは危ない。今まで本当に窮屈だったが、フギンも本当にウラルのことを思ってくれているのはわかっている。今回こうしてちゃんと戻っておけば、次からはもう少し自由にさせてもらえるだろうか。
今夜の宿は、この町では中規模の酒場の二階にあった。荷物を置きに昼間来たときは酒場の入り口からフギンと一緒に入ったが、今その入り口は仕事帰りの一杯をひっかけようと来た男らでにぎわっている。その中を女一人でつっきっていくのは怖くて、ウラルは酒場のすぐ脇にある路地へと回った。酒場を通らず二階の部屋に戻れるよう、建物の脇に階段が取りつけてあったのだ。
狭い路地に入ろうとしてウラルは首をかしげた。階段のわきに何か光るものがある。夕暮れ後の赤い薄ら明かりに照らされて、ぼんやり金色に光るもの。
近づいてみれば、金色の小さな短剣だった。チュユル、八枚花弁の金百合が刻まれた真鍮のアサミィ。ぐっと胸元のペンダントを握りしめる。見覚えのありすぎるアサミィに胸がどくどくと高鳴っていた。なくしてしまったジンのアサミィに瓜二つ。
なぜここに。似ているだけの別物だろうが、なつかしかった。ゆっくりとかがみ、拾い上げようと手を伸ばし――
ふっとアサミィを輝かせていた光がさえぎられた、と思った瞬間、口元になにか湿った布があてられた。慌てて振り払おうとしたが、すぐさま背後から羽交い絞めにされる。暴れた拍子に大きく吸いこんだ息、鼻から入ってくる嫌なにおいとぼやける頭。
眠り薬だと直感し、とっさに息を止め体の力を抜いた。それでも緊張に体はこわばっていたはずだが、背後の男は気づかなかったらしい。そっとウラルの口元を覆っていた布をはずした。
「Mesze.Ural… Iu ime seerxu.(ウラルさん……申し訳ない)」
降ってきたベンベル語にぎょっとしたが、なんとか驚きの声は出さずにいられた。
シャルトル。ヒュガルト町に帰ったのでははなかったか。いや、それはただの予想だ。本当は執念深く追い続けていて、チャンスをうかがっていたに違いない。ウラルとフギンが油断する、互いに単独行動に出る、その機会を。
シャルトルがここにいるということは、エヴァンスも近くにいるはずだ。けれど声はしない。足音も、気配もない。どこにいるのか。まさか、フギンのところにいるのでは。
シャルトルはウラルを背負おうとしている。ウラルを一度壁にもたれかからせ座らせて、ウラルの両腕をとって自身の肩に回し。
立ちあがりかけたその一瞬、ウラルはシャルトルの腰のあたりを思いきり蹴りつけた。油断していたらしいシャルトルはあっけなく前につんのめり、体勢を崩す。その一瞬にウラルは立ちあがり、路地の入り口に向かって駆け出した。
「助けて! 助けてください!」
酒場の男らに大声で助けを求める。シャルトルは追ってこなかった。分が悪いと判断したのだろう。それとも呆然としていたのか。
「どうしたね、お嬢さん」
「フギンを、連れを知りませんか! この宿に泊まってる片腕の男なんですが。ベンベル人の二人組みに命を狙われているんです」
酒場がざわつきはじめた。
「あの男なら馬のところに行くと言ってましたがねぇ。本当ですかい?」
馬、とつぶやき、ウラルは中庭に続くドアに手をかけた。宿や酒場の客の馬はみんな中庭につながれているのだ。
ドアを一気に押し開ける。とたん、フギンの怒声が飛びこんできた。
「ベンベル人のくそったれが! ここで会ったが百年目だこの野郎!」
恐慌状態の馬の群れの中、剣を振りかざした金髪の男と義手で剣を受けているフギン。フギンも油断していたようだ。武器は何も持っていない。左手に誰かの乗用鞭を持っているだけだ。
「フギン、危ない後ろ!」
フギンが身をひるがえした瞬間、今までフギンがいた場所に矢が音を立てて突き刺さった。ウラルを諦めたシャルトルが路地の間から弓でフギンを狙っている。
「お嬢さん、中へ。大丈夫か!」
こうなれば酒場の男らも黙っていられなかったようだ。勇気のある男らが十人ばかり武器を手にフギンの加勢に出てくれる。
「もう大丈夫だ、まぁ座んなよ。なにか飲み物、いれてやろうか?」
店の主人が椅子を持ってきてくれた。座ったとたん眠気が襲ってくる。さっき一瞬吸いこんでしまった眠り薬が効いてきているのだ。眠りこみそうになるのを必死でこらえ、中庭の音に神経を集中する。エヴァンスは凄腕だ。シャルトルもあの弓の腕。大丈夫だろうか……。怒声の応酬と馬の悲鳴。
眠ってはいけない、いけないと思いつつも少し寝ていたらしい。中庭に面するドアが開く音でウラルはあわてて顔をあげた。
むっと血と汗のにおいが香る。フギンの加勢に出てくれた男らがうめきながら酒場になだれこんできた。
「くそっ、なんて野郎だ……」
うめいた男にウラルはあわてて駆け寄った。傷の具合を確かめる。右腕に大きな傷を負っていた。
「ごめんなさい、今すぐ手当てを」
あわてて荷物の中にある薬を取りに走ろうとしたウラルを男が止めた。
「ここにいなさい。一人にならない方がいい」
ウラルはうなずき、震えながら自分のシャツを破いて止血をする男を手伝いはじめた。
「おい兄ちゃん、動けないやつが二人、外にいる。手当てしてやってくれ」
呼びかけられた若い店員がうなずき、走り出ていった。フギンの顔はなだれこんできた男らの中にない。その「動けない二人」のどちらかだろうか。
「嬢さん、あの片腕は自分がベンベル人どもを引きつけるから、嬢さんを頼むって馬で逃げていったんだ。やつはほとんど無傷だったし、剣も渡したんだが」
男の言にウラルは息をのみ、奥歯を噛みしめた。
ひとりにしては危ない。二対一でまともに戦うことになれば、フギンに勝機はないのだ。それでも何の関係もないのに体を張ってくれた彼らには文句の言いようがなかった。ごめんなさい、ありがとうございます、を繰り返しながら手当て道具一式を持ってきてくれた酒場の主人に礼を言い、縫合用の針を強い酒に浸して消毒する。
「あのベンベル人……十人がかりでもかなわないなんてな。すまん。なんとかしてやりたかったんだが」
自嘲する男の傷を、ウラルは真っ青になりながら縫い始めた。