第二章 1「邂逅」 上
シガルとナウトはあの再会から数日後、ムニンから贈られたロク鳥で森の隠れ家へ帰っていった。それから幾度となくロクで飛んできては、ダイオとムニンの意思疎通の手助けをしてくれる。むろんウラルらにもダイオの状況を伝えてくれ、何か言いたいことがあれば手紙の代筆もしてくれた。
メンバーがメンバーだけにかなりにぎやかではあるが、穏やかな日々が続いた。ウラルは炊事の手伝いや、山ほど持ってこられる穴あき衣類の繕い物に精を出し、フギンは片腕ながら槍や剣の稽古に励んだ。アラーハはもっぱら子どもらの遊び相手が仕事だったが、そのうち森が恋しくなってきたのだろう。軽々と城壁を飛び越え〈エルディタラ〉を取り巻く山に入っていき、何日かに一度、顔を見せに帰ってくるようになっていた。
〈エルディタラ〉に着いたのが冬半ば、それから春が過ぎ、夏も終わりかけている。もともとの〈エルディタラ〉要塞に陣取ったベンベル人たちはこちらににらみをきかせながらも動かず、エヴァンスらも姿を見せない。イズンも行方がわからないままだ。
そんなある日のことだった。
「ウラルさん、ダイオ将軍がそろそろこちらに向けて出発したいとおっしゃっています」
シガルがそう伝えてくれたのだ。傷を受けてからもう一年。もう十分に体力を取り戻し、馬にも乗れる。ウラル、フギンにも会いたいし、ムニンに礼を述べたいと。
やっとダイオに会える、とウラルの胸はふくらんだ。一年も待ち望んだ再会だ、当然フギンも喜ぶと思っていたのだが。
「いや、シガル、ダイオにはちょいと待つように伝えてくれないか?」
ばつ悪そうに目を泳がせるフギンに、シガルは心外だとばかり目をしばたいた。
「なぜです?」
「いやさ、一年前にダイオを見捨てて逃げちまったから。ウラルを守るためには仕方なかったんだけどな。俺さ、ちゃんとダイオに謝りたいんだ。だから謝られる立場のダイオを自分のところへ呼び寄せるなんてまねはしたくないんだよ。俺の方からダイオのところへ行きたい」
「ダイオ将軍は気にされていませんよ」
フギンは首を振った。
「けじめ、ちゃんとつけさせてくれ。なに、馬だったら四日もあれば着けるからさ。それから一緒に〈エルディタラ〉へ戻ってこようって。そう伝えてもらえるか?」
四日で〈エルディタラ〉から森の隠れ家、リーグ国の西の端から東の端というのは、いくらリーグ国が南北に長い国土だとはいえかなりのハイペースだ。シガルは「四日は無理でしょう」と言いかけ、〈エルディタラ〉がもとは騎馬盗賊団だったことを思い出したらしい。口をつぐんでうなずいた。
「でも、エヴァンスがまだ私たちのこと狙ってないかな。フギンひとりで行くのは危ないんじゃ」
「ウラル、まだ気にしてるのか? 最後にやつを見てからどれだけ経つ。いい加減あきらめてどっか行ったんじゃないか? 〈エルディタラ〉着いてすぐに山狩りできてればなぁ、こてんぱんにやっつけてやれたのに」
急に怒気まじりになったフギンの口調にウラルは身をすくめた。たしかにもう半年、エヴァンスは気配のかけらすら見せていない。
「そうよね。狙われる危険もないわけだし、私も一緒に行っていい? フギンがダイオに謝らなきゃならないなら、私も同じよ。いいでしょ?」
「ウラルはあのとき気を失っててどうしようもなかったわけだし、べつに謝ることはないと思うぞ。でもまぁ、一緒に来るって言うんなら。ウラルが一緒なら四日じゃ無理だな。シガル、六日ってことでダイオに伝えといてくれよ」
「わかりました、ダイオ将軍の方も断りはしないでしょう。まぁ一応、ダイオ将軍の答えを待ってから出発してくださいね」
シガルはすぐに飛び立ち、ダイオの「了解」の答えを携えて戻ってきた。それでムニンに十二、三日ほどで帰る旨を伝え、準備を整えた。
フギンが貸し馬屋から借りていた馬はとうに人を介して帰してある。かわりに〈ゴウランラ〉の戦いで死んでしまったというフギンの愛馬ステラの姉妹馬ディアンをムニンから贈られ、フギンは大喜びしていた。ウラルの方は犬笛でアラーハに合図し、森から帰ってきたイッペルスに旅立つ旨を伝える。ダイオに会いに行くのだ、喜ぶかと思ったが案外そうでもなく、ただ穏やかにうなずいただけだった。
そうして迎えた旅立ちの日。行ってすぐ帰ってくるにもかかわらず、みんな、特に姉さまがたがこれでもばかりウラルを心配してくれ、たくさんの物を持たせてくれた。食料に薬、力の弱いウラルでも使いやすい護身用の武器。エヴァンスがいないとはいえ、ベンベル人の警備厳重地帯を突っ切らなければならない。みんなが心配するのは当然といえば当然だった。
アラーハの背に乗せてもらい、栗毛のディアンに乗ったフギンと並んで〈エルディタラ〉を後にする。
「半年ぶりだな、こうやって外に出るの」
フギンが馬上でうーんと伸びをする。とたん、重心がぶれたのだろう。フギンの乗っていた馬がずるりと足をすべらせた。昨夜の雨でぬかるんでいたのだ。さすがは雨の多い場所をわざわざ選んだだけはある。
「ウラル、これから急斜面だ。鞍なしで大丈夫か?」
「大丈夫かって、どうしようもないでしょ」
「なんだったら代わるぞ。俺、一度そのイッペルス、乗ってみたかったんだ」
フギンが馬を止める。が、アラーハは止まらない。ウラルを乗せたまましらんぷりでそのまま歩いていく。
「アラーハ、止まって」
声に出して言ってみると、アラーハは一応足を止めてそのままウラルを振り返った。耳を伏せ鼻にシワをよせ、不快感をあらわにして。
「フギンを乗せるのは嫌なの?」
アラーハはそっぽを向いた。
「なんだ、女の子しか乗せないってか」
「そうでもないと思う。アラーハ、嫌だったらうなずくはずだし」
困惑しつつもウラルはアラーハの背から飛び降り、フギンの馬のハミを押さえてやった。フギンも馬から降りる。
「でも明らかに嫌がってないか?」
アラーハはこちらを鋭い目でぴたりとにらみすえている。
「ま、ひとまず頼むだけはしてみるか。なぁ、しゃがんでくれないか?」
フギンがぽんとアラーハの肩を軽く叩く。馬の首を愛撫するように。
とたん、アラーハが飛びのき、ぱっとツノを下げた。はえかわりの途中でまだ血の通っている、それでも十分に立派な枝角をこちらに向け、怒りもあらわに威嚇する。
「アラーハ、やめて! フギンじゃない。どうしたの?」
アラーハは我に返ったようにツノをあげ、申し訳なさそうに耳をぱたぱたさせた。
「あー、やっぱり嫌だったか。ウラルじゃなきゃだめなんだなぁ。ウラル、お前本当にどうやって手なづけたんだよ」
おそるおそるアラーハに近づき、そっと目をのぞきこむ。申し訳なさそうな、おどおどとした、人だったころのアラーハには到底にあわない目つき。
「アラーハ?」
おかしい。人に戻れなくなった直後のアラーハは、フギンに肩を叩かれたくらいで怒りはしなかった。シガルが頭をなでても。ウラル以外が乗るのが嫌だったわけでもないはずだ。ナウトは喜んで背に乗せていた。なにかが、おかしい。
「ま、ウラル以外は乗せないっていうんならいいや。先急ぐぞ、お前が鞍なしのイッペルスに乗るんなら時間がかかるんだからな」
再び栗毛のディアンにまたがったフギンにせかされ、ウラルは釈然としないままアラーハの背に乗せてもらった。
*
二晩、野宿でしのいでベンベル人の警戒地域を突っ切った。行きよりずいぶん短い時間で過ぎた気がするが、どうもエヴァンスを警戒して何度も遠回りしたり、後戻りしたせいらしい。まっすぐ行けばあっけないほどの短さだった。
そうして前に通ったセテーダン町、エヴァンスを間一髪でかわしたあの町にたどりついた。
「ま、ここなら交易要所だし、半年も経ってるんだ。あのときの門番だって俺たちの顔なんか覚えちゃいないさ。二日も野宿でしんどかったろ、宿に泊まろうぜ」
ベンベル人は心配だったが、フギンの見立ては今まではずれたことがない。信頼してゆっくり休ませてもらうことにした。アラーハはあのときと同じく近くの森に潜んでいる。
宿に馬を預けて荷物を置き、帽子を目深にかぶって食料調達に出かけた。町の様子は半年前とほとんど変わらない。夏服の人々がせわしなく行きかう市場。武器を帯び、一定の距離を置き無表情に立ちつくすベンベル人たち。
ベンベル人たちからこころもち距離を置きながら首を伸ばし、行く手にある前に犬笛を買った店の方を見やったウラルは、雑踏の中に色素の薄い髪を見つけた。ぎょっとフギンのそでを引こうとして思いとどまる。相手は一人。それに、なんということはない。ただの白髪のリーグ人のようだ。
ほっと視線をはずそうとしたがなにか引っかかるものがあって、ウラルはそのまま初老の男をぼんやり見つめながら歩いていた。
白髪の、この暑いのになぜか鋼色の毛皮を身にまとった男。まるでアラーハだ。アラーハもどんなに暑かろうが毛皮が自前なものだから脱げず、いつも汗びっしょりになっていた……。
男が視線を感じたらしく顔をあげた。ウラルを見つめ怪訝そうに顔をしかめて。
そして、横を通り過ぎようとしたウラルの腕をふいにつかんだ。
「娘、どこかで会ったな」
思わずウラルは身を引いた。
「ひ、人違いです」
「いや、確かに会った。イッペルスのにおいがするな、やつは近くにいるのか」
イッペルスのにおい、とオウム返しにつぶやき、ウラルははっとして男の姿を再び確かめた。鋼色の毛皮。白、いや、銀の髪と灰色の瞳。腰にはサーベルがあるがおそらくは鋼鉄製ではない。牙と同じ素材の。
「ウラル、どうした?」
ウラルがついてきていないことに気づいたフギンがぎょっとした表情を浮かべ、駆け寄ってきてくれた。鋭い目をしてウラルと男の間に割りこもうとするフギンを制す。
「大丈夫、アラーハの知り合いなの。でもどこで会ったか記憶が曖昧で。お名前をお聞かせ願えますか?」
「ケナイ。アラス森のオオカミ、といえばわかるか」
アラーハがはじめて人でない姿をウラルの前に見せたときにいた、あのオオカミだ。月光の中、巨大なイッペルスと恐れ気もなく向き合い、人の声で器用に笑ってみせた鋼色のオオカミ。
「ベンベル人じゃないのか?」
うさんくさげなフギンの目。たしかにケナイの髪は銀、目も灰色で、色素が薄い。
ケナイは歯をむき出して笑った。人の姿をしていても鋭い八重歯がきらりと光る。
「リーグ人と胸を張って言えるかどうかは別物として、少なくともベンベルとは関係ない。さて、娘。アラーハのところへ案内してもらおうか。久々に顔を拝んでやろう」
「でもケナイ、アラーハは……」
ウラルは町を取り囲む城壁、その向こうに広がっている森を見やった。
「アラーハの知り合いって、人のアラーハだろ? 獣のほうに案内してどうするんだ」
口を挟んだフギンにケナイが怪訝そうな目を向けた。どういうことだとばかりの視線が突き刺さる。ウラルは答えずきびすを返した。
「歩きながら話します。アラーハは、森にいるので」
町を出る門の方へぶらぶら歩きながら、ケナイにアラーハが森の守護者を退いてしまったことを話した。人の姿をしたオオカミは大きく目を見開き、喉からかすかなうなり声を漏らす。
「それが、どれくらい前のことだ」
「去年の秋。もうすぐ一年になります」
「ならば、心ももうだいぶ獣に戻っているだろう」
「心が、獣に?」
ウラルはぎょっとケナイを見返した。
「知らなかったか。守護者を退いた獣は、少しずつ人の心を失ってゆく。人語を解す能力も衰え、ただの獣に戻ってゆく」
アラーハの変化を思い出し、ウラルは胸に手をやった。胸のペンダントをにぎりしめる。
アラーハはいつから人の多い場所を避けるようになっていただろう。最初は人を驚かせないために町を避けていた。けれど、それがいつの間にか、人そのものを避けるようになっていた。誰かが触れようとすれば鼻にシワをよせ、払いのけ、そしてフギンに威嚇までして……。ずいぶん怒りっぽくもなった気がする。
無意識のうちにフギンの後姿を見つめていたのだろう。手持ちぶさたそうに前を歩いていたフギンが振り返った。暑苦しい毛皮を着た初老の男を気にいらなそうに見つめ、ついと目をそらす。
ケナイは続けた。
「これからは老いも速くなるはずだ。守護者になった獣は、人と同じ速さで歳を取る。守護者から降りれば、その獣本来の歳の取り方に戻る。イッペルスの寿命は大体三十年だ、やつの歳から考えて、あと四、五年もすれば寿命が来るだろう」
ウラルは上の空でうなずいた。
「やつが死んだら体の一部、ツノか、重ければたてがみでもいいだろう。今の守護者に頼んでヒュグル森の聖域へ持っていってもらえ。生まれた森へ骸を返すのが、地神の定めた森の掟だ。どうせやつは最後までお前と共に旅をする気なんだろう」
城壁を抜け、小麦畑に出た。小麦畑を取り巻くようにしている森の中にアラーハは潜んでいる。
「ケナイ、耳をふさいでください」
ウラルが犬笛を取り出したのにうなずき、ケナイは耳をふさいだ。フギンがいぶかしげにケナイを見ている。
犬笛を吹くと、ケナイはうるさそうに顔をしかめた。さすがはオオカミだ。人には聞こえない音がやむと彼は耳から手を離し、耳をそばだて鼻をひくつかせる。
「近くにいたようだな。来たぞ」
やがて草を踏むためらいがちな足音がウラルにも聞こえてきた。木立の中に一対の枝角が見え隠れしはじめる。じっとこちらを見つめているようだ。
「アラーハ」
ケナイが呼びかけた。アラーハは木立の中で身を震わせ、ばっと森から飛び出して、ウラルとケナイの間に立った。ウラルをケナイから守るかのように。落ち着きなく足踏みをしながら困惑を色濃く浮かべた瞳でウラルとケナイ、フギンを交互に見やる。
「俺とはわかっているな。だが」
ケナイが手を差し伸べる。とたん、アラーハの喉からうなり声が漏れた。反射的にツノを下げようとし、それを必死にこらえている。このオオカミが友人ケナイであり戦う必要も逃げる必要もないことはわかっているが、それでもオオカミは子どもや弱ったイッペルスを襲うおそろしい獣、刻みつけられた本能が反応してしまうのだ。森の守護者として人の心を持っていた今までのアラーハは抑えることができた。けれど、今は理性で本能を抑えることが難しくなりつつある。
「こいつはもう、ただのイッペルスだ。認めてやれ。そして寿命がつきるまで思うようにさせてやってくれ」
「なぁ、ウラル。お前さっきから一体何の話をしてるんだ?」
フギンが我慢の限界に達したのだろう。ウラルはフギンに一瞥をくれ、ケナイに向き直った。
「ケナイ。フギンに、彼にオオカミに変身するところを見せてくれませんか」
ケナイは鼻を鳴らし、じろりと灰色の瞳でフギンを見やる。反射的にであろう、フギンがぎょっと身を引いた。人の姿をしているとはいえケナイの目はまぎれもなくオオカミの長のもの、人を畏怖させるのに十分な覇気を帯びている。
ケナイはさっと左右に目を走らせ、耳をそばだてて人が来ないことを確かめた。
「よかろう」
低く答えた次の瞬間、ケナイはオオカミの姿に変わっていた。フギンの喉から漏れる息の音。そのまま腰を抜かしそうになり、あわてて地面を踏みしめたようだ。真っ青な顔でオオカミを凝視している。
「認めてやれ。こいつがアラーハだということも、今はただのイッペルスでしかないことも」
オオカミは人の声で言い、イッペルスに向き直った。
アラーハは歯を食いしばっている。何かを振り払うようなしぐさをしてなんとか喉のうなり声を抑えると、そっと首を下げて鼻先をケナイに近づけた。本能に刻みこまれた怒りと恐怖から耳を伏せ、体中の筋肉をハエを払うときのようにぶるぶる震わせながら、やっとこらえてケナイの挨拶に応じたのだ。
「さらばだ、アラーハ」
オオカミは最後に人の言葉でこぼすと、ぱっと森の中へ駆けこんだ。しばらくすると悲しげな、ひどく尾を引く遠吠えが遠くから繰り返し聞こえていた。ケナイの別れの声。アラーハが馬のそれを低くしたようないななきで応じた。ケナイが森の奥で吠えるたび、アラーハもいななく。
何度も、何度も。えんえんと。
「なんだったんだ、今の……」
ウラルは答えず、慟哭するアラーハの首をそっとなでた。