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第二章 2「青い瞳」 上

 薬はよく効いたが、ウラルのダメージは深い。最初の丸一昼夜はこんこんと眠り、それからは時々目を覚ましながら、それでもほとんどの時間眠っていた。シャルトルかティアルースが来てくれているのだろう。目を覚ますたび体にかかった毛布が一枚増えていたり、ひたいの布がひんやり冷たいものに換えられたり、枕元に薬と水が置かれていたりしていた。その薬と水の横には真鍮のアサミィが置かれている。馬車の中で眠ったとき、また落としてしまったらしい。ウラルはアサミィを布団の中に引っ張りこみ、顔のすぐ近く、枕の横に置いた。

 眠り、目覚めることを繰り返したその何度目か、そばに人の気配を感じてウラルは目を開けた。顔を傾けるとシャルトルが水差しの水を足してくれているところだった。

「シャルトルさん」

 振り返った緑の瞳にほっとした。

「ああ、起こしてしまいましたか。具合はいかがです?」

「おかげさまで随分よくなりました。なんとお礼を言ったらいいか」

 ウラルは半身を起こして頭を下げた。シャルトルは微笑する。

「顔色もよくなりましたね、よかった。ティアルースも何度か様子を見に来ていましたよ。僕の母やあなたのご主人、エヴァンス様も。起きられるようになったら挨拶へ行きましょうね」

「お母さま?」

 ウラルはベンベル人の女性を見たことがなかった。リーグ国やコーリラ国に来るベンベル人はほとんど兵士。最近になってようやく商人らがベンベル産の食べ物を扱う店を開き始めたようだが、それでもやはり女や子どもは見かけない。

「母は地図職人のミュシェといいます。リーグはまだ落ち着いていない、まだ危ないから国に残るよう言ったんですが、僕と一緒にいたいと、そして緑の山野や巨鳥ムールを見てみたいとごねられましてね」

 シャルトルはくすくす笑った。

「港で止められるだろうと『じゃあ来たら』と言ったが運のつき、なまじ腕がいいだけに受け入れられてしまいまして。地図の需要は大きいですから」

 ウラルは二の句が告げられない。女、子どもを見かけなかったおかげで、ベンベル人は残忍な男しかいない、人でない別の生き物のように思っていた節があった。けれど、ひと皮むけば――この緑の目のベンベル人に、こんな人間味あふれるお母さんがいる。その母のことをこんな愛情たっぷりに話すシャルトルがいる。

「どうかしましたか?」

「い、いえ。女の方がちょっと珍しかったんです。お会いしてみたいな」

 と、ノックの音がした。

「Chartre? Mou iu uatee zi reeme?(シャルトル? 入っていいかしら)」

「噂をすれば。って、リーグでも同じように言いますか? 噂をすればその人が来る、と」

「言います」

 ウラルは思わず笑った。シャルトルが一瞬なぜか呆然としたように立ちすくみ、それから満面の笑みになる。きっとシャルトルもリーグ人の笑顔を見るのが初めてだったのだ。

 シャルトルがベンベル語でドアの外に声をかけると、栗色の髪と緑の目をした婦人が入ってきた。シャルトルは母に似たのだろう、はっとするほどそっくりだ。その後ろには門番のティアルースが湯気の立つものの乗ったお盆を持って従っている。どうやらお粥を持ってきてくれたようだ。ウラルの顔をみとめ、嬉しそうにほほえんでくれた。

「こんにちは、初めまして。ウラルと申します。いろいろお世話をかけて申し訳ありません。ティアルースさん、以前はありがとうございました」

 シャルトルが通訳してくれる。二人はどうやらリーグ語がわからないらしい。通訳が終わるとミュシェはにっこりほほえみ、ティアルースはくすぐったげに首の後ろに手をやった。

「Hie iea yoo?」

「もう大丈夫なのか、と言っています」

 またシャルトルに通訳をお願いするのが少し申し訳なくて、ウラルはにっこり笑ってみせた。ティアルースの頬が一瞬赤くなり、ベンベル語を口の中でもごもご言いながらうつむいてしまう。

「若い娘さんを間近で見るのが久しぶりだから、彼も緊張しているんですよ」

 シャルトルがティアルースを小突いた。ベンベル語でなにかを言うと、ティアルースもベンベル語でなにやらむきになって言葉を返す。にやにやしているシャルトル。どうやらからかっているらしかった。思わずもう一度ほほえむと二人がぴたりとウラルを見つめ、顔を見合わせて笑った。

「よかった、本当にお元気になられたようだ」

「はい。私はメイドの仕事をすればいいんですよね。つくろい物なんかなら今からでもできますよ。さすがに家事はまだちょっとつらそうなんですが、明日からなら」

「いえ、念のため明日いっぱいまではお休みしてください。またそこから体調を崩されては。ウラルさんのお仕事はこの屋敷の者、ご主人エヴァンス様や僕、ティアルースらの使用人の炊事と洗濯、それから屋敷の掃除ですね。慣れるまでは僕と母も手伝いましょう」

 黙って聞いていたミュシェがウラルの視線を受けてにっこりほほえんだ。

「買い出しは?」

「ティアルースが行ってくれます。やはり祖国の素材を使った食事がいいのでね、ベンベル人の市場で買うことにしているんですよ」

 ウラルはうなだれた。これでは屋敷の外に出られない。

「外に出たいですか? それもそうですよね、あんな監獄に閉じ込められて、こんな異国人ばかりのところへ連れてこられて。寂しければご友人をお招きしても構いませんよ。場所を教えていただければ誰か使いをやりますが」

「本当ですか?」

 フギンに自分の居場所を教えられる。居場所さえわかれば、きっとまた夜の目立たない時間を選んでウラルを迎えに来れるはずだ。

 ウラルは飛びつきかけ、待てよ、とこらえる。フギンは今、お尋ね者だ。監獄から脱走し、しかも監獄に囚われていたリーグ人をみんなまとめて逃がしてしまった。あの拷問は何のためだったのか、フギンらの居場所を聞き出すものだったはずだ。そしてシャルトルはあのとき処刑場にいた。シャルトルは優しい。本当の好意かもしれない。けれど。

「すごく嬉しい……嬉しいんですが、でも、みんなベンベル人の姿を見たら警戒して逃げてしまうと思うんです。怖がらせるのは本意じゃないので、今は、まだ」

 シャルトルは申し訳なさそうにうなずいた。

「たしかにそうかもしれません。あなたがたのお気持ちも考えず、申し訳ない」

「Kae, Mc.Chartre.(ああ、シャルトルさん)」

 今まで黙っていたティアルースがシャルトルにベンベル語で何かを話しかけた。

「ウラルさん、そろそろお祈りの時間だそうです。ウラルさんはウセリメ教の信者ですか?」

「ウセリメ教?」

「ああ、やはり違いましたか。四大神教の信者ですか?」

「四大神教?」

 まったく聞いたことのない単語に面食らいながら尋ねると、シャルトルはくるりと首をかしげた。

「こう言うと、リーグ人はわからないんですね。地、火、風、水の四大神に仕えている方ですか?」

「仕える、という感じではないんですが」

 ウラルは故郷の村にあった小さな像を思い出した。白い大理石でできた、四人の神の像。その像はふっと形を変え、ジンと見た、王都の神殿にある二枚組みの絵画になった。

 憎悪の風神。片手に髑髏を持った悲しい風神の絵。

「ウセリメ教信者ではないんですね。これからお祈りの時間なんですが。一緒においでなさい、改宗しましょう」

「改宗、ですか?」

「そうです。私たちの神は厳しいですが、優しい方です。一日に五度のお祈り、ほかにもたくさんの決まりごとがありますが、それさえ守れば、戦の勝利、豊作、そして来世の安楽を約束してくれます。四大神は、そんなことはしないでしょう?」

「来世の安楽? 来世って、何ですか?」

「人は死ぬと、私たちの神によって裁かれるのです。主の教えを守って生きていれば楽園へ導かれ、教えを守らなければ煉獄へと落とされるのです」

「楽園と煉獄って、どんな場所なんですか?」

「楽園は、神のおられる場所です。神によって永遠の安息を約束され、そこでは飢えることも、渇きに悩むことも決してありません。しかし煉獄に落とされた人間は、永遠の業火に焼かれ続けるといわれています。人は二度死にませんから、業火に焼かれる苦しみを永遠に与え続けられるのです」

 ウラルは身震いした。目の奥に炎の色が広がる。死んだ赤ん坊を抱き、陶芸窯の空気穴から見た、あの炎。

「私の神は、そんなことはしません。人が死ねば、死をつかさどる風神がその人の心の中へ魂を戻して、安らかな眠りにつかせるのです。そんな、楽園なんて信じられませんし、行きたいとも思いません。ましてや人をそんな恐ろしいところへ行かせる神に仕えるなんて、私にはできません」

 シャルトルが激しくかぶりを振る。

「いいえ。たとえ異国人であっても、私たちの神に裁かれるのですよ。あなたはお祈りをしていない上、私たちの神を否定していますから、煉獄へと落とされてしまいます。今なら、慈悲深い私たちの神は許してくださると思いますが」

 シャルトルの口調は、嘘や冗談を言っているものではない。シャルトルは心からその恐ろしい神を信じているのだ。

「このままでは、あなたは、煉獄の炎に焼かれ続けることになってしまいますよ」

 ウラルはそっとチュユルの紋章が描かれたペンダントをにぎった。この紋章は角笛とあわせて、地神をあらわすものなのだ。

 ウラルは風神に仕えている。死を司る風の女神に。そんなおそろしい神を信じるなんて、絶対にできない。

 シャルトルはまた何かを言いかけ、けれど何も言わず悲しげに口を閉ざした。

「今から、お祈りがあります。二階の祭壇の間で行いますので、あなたはあがってこないでくださいね。異教徒が祈りの間に入ることは禁じられていますから。じゃあ、お加減もよさそうだし明日は屋敷を案内しましょうか。夜にはいよいよエヴァンス様とのご対面ということで」

「はい。お願いします」

 ベンベル語でシャルトルが何事かを言うと、ティアルースとミュシェがうなずいてドアの方へ行ってしまった。そろそろ行こう、あたりのことを言っていたのだろう。

 部屋を出ていく三人を見送り、しばらくぼんやりしていると上の階から歌が聞こえてきた。これが彼らの「お祈り」なのだろう。とてもきれいで、おごそかな歌声だ。ウラルは目を閉じ、耳を澄ませた。シャルトルが言うようなおそろしい神への祈りが、こんなに美しい歌声だなんて。けれどこうして慰撫しなければ荒れるような神様なのだとしたら。それは、とても悲しいことに思えた。



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