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序章 「傷だらけの来訪者」

「ウラル!」

 外からアラーハの低い声がする。アラーハには珍しく急くような口調、不穏な響きをともなった声だ。

 ソファーに座り、ひなたぼっこをしながら繕い物をしていたウラルは立ちあがって、窓の桟に手をかけた。

 森の守護者、この森の長として若い雄の挑戦を毎日のように受けていたアラーハだが、秋の終わりと同時に守護者争奪戦も終わったらしい。アラーハは無事、守護者の座を守り抜いた。今は人間たちが狩猟の時期なので、狩人が道に迷ったり、この森のどこかにある〈聖域〉に入りこまないよう、見回っている。三日に一度はウラルにも顔を見せに来た。

「どうしたの?」

 ウラルは窓から下をのぞきこんだ。

 赤茶の、ふかふかとした冬毛のコートをまとったアラーハが上を見あげていた。アラーハは人の姿で、普段背負っているはずの角の剣を手に持ち、かわりに何かを肩にかつぎあげている。

 人間だ。子どものように見えたが、違うらしい。アラーハが大きすぎるせいで小柄に見えるだけだ。ぼさぼさの髪に隠れて顔が見えない。伸び放題のひげ。黄ばんでボロボロになったシャツ。垢のこびりついた肌の色。左の二の腕に刺青がある。火神の象徴である赤い雄牛だ。二本の前足を高くかかげ、棹立ちになったポーズの見覚えのある刺青。どこで見たんだったかな、とウラルはつかの間、首をかしげた。

 思い出すのにほとんど時間はかからなかった。

 ウラルは口元を押さえる。悲鳴のかわりに、ぐぅ、と自分の喉が鳴った。

「フギン。どうして」

 何度もがんばって、それから、小さな声が漏れた。

「ドアを開けて、薬を用意してくれ」

 アラーハが背負っていたのは、一年来の友人、フギンだった。

 フギンの名前を叫びながらウラルは階段をかけおり、玄関のドアを大きく開け放つ。 フギンは傷だらけだ。意識もない。ぐったりとして、顔色もおそろしく悪かった。浅く速い呼吸を繰り返している。

「大丈夫だ。生きている」

 アラーハの声も心なしか震えていた。

「すぐそこで倒れていた。この家にむかって、歩いてきたんだろう」

「しっかりして。ねぇ、フギン!」

 ウラルはフギンの肩をゆすった。妙な感触にぎょっとして手を離す。あわててフギンの肩を見てみると、右肩から先がなかった。右腕が肩口からないのだ。

「無理をさせるな」

「腕が」

「この傷は、ふさがってる。あの戦いで落とされたんだろう。生きていたんだな」

 ぼそり、とアラーハが呟いた。さっきまでの淡々とした声ではなく、やっと友人の無事を確認した、というような安心した響きが感じられた。

「早く、手当てをしてやってくれ」

 ゆっくりとした低い声に、ウラルも少し落ちつきをとりもどした。玄関から一番近いドアを開ける。もとはリゼの部屋だった場所だ。アラーハがゆっくりと入ってきて、ベッドにフギンの体を横たえた。

 フギンの顔は腫れあがり、何箇所もの傷がある。髪やひげも伸び、やつれて、人相が変わっていた。黄ばんで何箇所も裂けたシャツを着て、そのボロの隙間からも数え切れぬほどの生々しい傷跡や縫いあとが見えている。

「今までどこで、何をしてたんだろう。生きてるならもっと早く、連絡してくれればよかったのに」

 ウラルは二階へ行き、薬箱を持って部屋に戻った。ぼろぼろになったシャツを脱がせてフギンの傷の手当てをする。

 フギンの胸や腹にミミズ腫れがあった。ひとつやふたつどころではない。両手両足の指を使っても数えきれないほどの、血のにじんだ傷跡があった。

「ひどい。どうしたんだろう」

「こいつが目を覚ましてから聞くしかなさそうだ。もっと、薬になる草をとってくる。足りないだろう?」

 ウラルがうなずくと、アラーハは大きな体を縮めてドアをくぐり、部屋を出ていった。アラーハは薬草に詳しい。本性が草食の動物なのだから当然といえば当然だ。

 出て行ってからあまり時間をおかず、アラーハは帰ってきた。大急ぎで薬草をとりに行ってくれたのだろう。アラーハの足は速い。

 ウラルは薬草をもみほぐしてフギンの体に貼り、包帯を巻いた。背中には鞭のあとだけでなく、火傷や打撲の傷も、たくさんあった。

 フギンのわき腹にほとんど白くなってはいるが大きな傷跡がはしっている。これも、あの戦いでの傷跡なのだろう。

 そっとウラルは傷跡に触れた。とても大きな傷だ。槍かなにかでグサリとやられたような傷。そうとう深かっただろう。おそらくは内臓も傷つけていたはずだ。痛かっただろうに。

 ウラルはフギンの腕のない右肩に触れ、それから、残された左手をにぎった。

 ウラルはすべての傷に手当てをし、とろとろと半ば眠りながらフギンの意識が戻るのを待った。

 フギンが目を覚ましたのは夕方、日が落ちてからだった。

「ここは、どこだ?」

「フギン、私。わかる? 生きてたんだ、よかった」

 ぼんやりとした様子で、フギンはピントのあわない目をウラルに向けた。

「ウラル? なつかしいな」

 フギンが左手を伸ばす。体中の傷が痛むのか、顔をゆがめた。歯を食いしばり、その奥からうめき声を漏らす。腫れた顔、切れた唇で物を言うのは、かなりつらそうな様子だった。

「無理しないで。どうしたの? こんなに傷だらけで」

 ウラルが話しかけると、やっとフギンの目に光が戻った。

「そうだ、大変なんだ。マライが」

「マライも生きているのね?」

「明日にでも殺されるかもしれない。監獄から逃げてきたんだ」

 フギンがうめく。必死の表情を浮かべていた。

「俺は、なんとか逃げ出してこれたんだけど、マライは動けなくて、一緒に来れなかった。助けてやらなきゃ」

「監獄? どうして」

 ウラルは部屋の隅に立ちつくすアラーハを見やった。アラーハは何も言わず、じっと見守っている。フギンはアラーハに気づかない様子で、言葉を続けた。

「俺らは、捕虜になったんだ。あの戦いで。それからずっと、檻の中さ。大将や、イズンや、ネザは死んだんだな。ウラルの顔を見てたら、わかる」

「ジンと、リゼと、サイフォスの死体は確認したけど、イズンとネザは、わからないの。でも、生きてはないと思う」

 フギンは「そっか」と力なく笑った。

「腕、あの戦いで?」

「いいや。リーグ軍の情勢を教えろ、って拷問にかけられて。俺はそんなこと知らないし、言うもんかって意地張って、自殺しようとしたんだ。俺だけ残ってるのも、後味悪かったから。そうしたら、腕落とすぞって脅されて、本当に切り落とされちまった」

 フギンは笑おうとしたようだったが、顔がひどく歪んだだけだった。痛みのせいだったのか、それとも笑い飛ばせるような内容ではなかったせいなのか。

 フギンがもう一度、「早く助けてやろう」とうめいた。フギンの左手が、シーツを裂けるのではないかと思うほど強く握りしめる。

 ウラルはその左手の上に、自分の手を重ねた。

「わかった。フギンも早く動けるようにならないと。もう少し、寝ておいたほうがいいよ。私、ここにいるから」

 フギンは手の力をゆるめ、自分をあざわらっているかのように唇の端をもちあげた。それから全身の力をゆるめて、ゆっくりと目を閉じる。

 寝息が聞こえてきた。



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