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第二章 5「戦場へ」 下

   *


 〈スヴェル〉軍はその日のうちに〈ゴウランラ〉に到着した。

 〈ゴウランラ〉はそれ自体が天然の要塞たる小高い岩山の中腹にあった。東と南を岩壁に囲まれ、北と西も絶壁に面している。要塞に行くには、馬が二頭ならんでやっと通れる道が東と南に一箇所ずつあるだけだ。しかも、周囲の森にはネザの罠が山ほど張られている。少人数で大群を相手に篭城するには最適の要塞といえた。ただし、まったくの素人であるウラルの目にそう見えた、というだけではあるのだが。

「夜が勝負だ」

 ジンは全員を集め、宣言した。

「盛大にかがり火をたけ。ベンベル軍が避けたくても避けて通れないように。ここ数晩が勝負だ」

 城壁にはウラルが両手を広げたくらいの間隔をおき、ずらりと松明がならべられた。昼間のように明るい。遠くからでもくっきりと要塞が見えることだろう。

 ウラルは城壁に立って北をながめていた。遠くの森の中に火がともっている場所がある。かなり広範囲だ。ベンベル軍の宿営地。

 ウラルは身震いした。ここでウラル自身も死ぬかもしれない。

「ウラル、こっちに来いよ。寒いだろ?」

 フギンがウラルの肩に手を置いた。

 たしかに、ウラルの体は冷えきっていた。コートをしっかりと体に巻きつけてはいるが、それでもやはり寒い。

「ベンベル軍は、今夜は攻めてこないさ。こっちは見えているだろうけど、たぶん、斥候を待ってるんだろうな」

 フギンの言葉からもさすがに軽口が消えている。

「今日は酒盛りだぞ。みんなコップ一杯ずつしか飲めないけどな。ウラルもおいでよ」

 ウラルはうなずいて、フギンのあとについていった。

「俺さ、ウラルが帰ってきてくれて、ちょっとうれしかった」

 ウラルが驚いてフギンの顔を見ると、フギンはいつもの、人なつっこい笑みを見せた。

「ウラルは逃げたほうがよかった。でもな、正直、ひとりだけそうやって突き放すのもどうかと思ってたんだ。やっぱり、最後まで一緒にいたいからさ」

 ウラルはほほえんだ。泣き笑いの表情に近かったと思う。フギンも複雑な笑みを浮かべていた。

 ふたりとも、明日には死ぬかもしれないのだ。

 フギンがまた、ちらりと歯を見せて笑い、明るい口調で続けた。

「そういやさ、ウラルが帰ってきたとき、イッペルス連れてたよな。あいつ、どうしたんだ?」

「さぁ?」

 さすがに本当のことを言うわけにはいかない。

 ウラルの言い方をまねして、フギンは「さぁ?」と繰り返した。

「変なやつだな。イッペルスって、絶対に人に慣れない生き物なんだぞ。まるでウラルにくっついてきたみたいじゃないか」

 アラーハの仏頂面を思い出して、ウラルはあやうく笑い出しそうになった。ここで笑い出したらよけい変に思われてしまう。

「あのイッペルス、やけにアラーハに似てたよな。あの目といい、態度といい。あいつがアラーハだったとしても、俺、驚かないよ」

 フギンは大声をあげて笑いはじめた。

 そうはいっても、実際そうなのだと説明しても、フギンは冗談と思って笑い飛ばしてしまうだろう。ウラルはあいまいに笑い返した。ここまでやっても、アラーハの正体はばれていないのだ。

 大広間の扉は開けはなたれていた。コップ一杯の酒だけしかふるまわれていないはずだから誰もさほどには酔っていないはずなのだが、全員が顔を赤くして笑い転げていた。最後の晩餐である。少ない酒を飲み、歌って、踊って、めいいっぱい明るく楽しくやっているのだ。

「ウラル、こっちこっち!」

 マライが手を振っている。〈スヴェル〉のメンバーが酒を飲みかわしていた。伝令として飛びまわっていたリゼも帰ってきて、にこにこしながらテーブルについている。ジンも笑いながら酒を飲んでいた。

「ウラルの分も、酒、とっといたよ」

「私、お酒はちょっと」

「そんなつれないこと言って。最後の晩餐なんだからパーッと飲みなよ。ウラル用の薄い酒にしといたからさ」

 ウラルもテーブルにつく。フギンが貴重な自分の酒を一息に飲み干した。

「少ない酒しかないなら一気飲みするのが一番さ」

 フギンがウインクして、ウラルのほうにウラル分の酒をおしやった。薄緑色の液体が静かにゆたっている。

 ウラルはもう一度コップを見つめた。夏祭りのとき、マライとネザに飲まされた酒が頭をよぎる。ものすごく強い酒だった。この酒は大丈夫なのだろうか。

「ネザ、変な薬、入れてないよね?」

「お望みなら」

 猫背の軍医が笑いながら怪しい色の液体が入った小瓶を出す。

 どっとテーブル全体がわいた。ウラルも声をあげて笑い、一気にグラスを口に持っていった。どこかで一度感じたことのある妙な苦味があったが、喉ごしが心地いい。グラスを全部あけると、周りから拍手がわいた。

「いい飲みっぷりだな、ウラル! 一杯しか飲めないのが惜しい!」

 ウラルは笑った。体が一気に熱くなっている。

 と、いきなり視界が妙な感じに揺れた。

「ウラル?」

「大丈夫、大丈夫」

 一気飲みしたので、酔いがまわってきたのだろう。

 が、もう一度、次はさっきよりも激しく視界が揺れた。急にまぶたが重くなってくる。

「どうしたんだろう。なんか、変……」

 最後まで言えなかった。視界がまた、大きく揺れる。ひどい熱を出したかのように視界がぐわんぐわんと揺れだし、座っていることすらできなくなった。

 大きくふらついたウラルの体を隣に座っていたフギンが支える。フギンの腕の中に倒れこんだまま、ウラルは身動きがとれなくなってしまった。

「ウラル! 大丈夫か? どうしたんだ!」

 眠い。おそろしく眠い。これが本当に酔いというものなのだろうか? そう思った瞬間、ふいにはっとした。

 酒の苦味。どこかで一度感じたことのある苦味。はじめて森の中の隠れ家に連れてこられたとき、飲んだ眠り薬入りの風邪薬と同じ味だ。

「心配ない。そのまま寝させてやってくれ」

 ジンの声がした。妙に声が遠く、体の中でわーんと反響している感じがする。

 そっと右手をにぎられる感触がした。ウラルは閉じていた目を開ける。ジンの顔が目の前にあった。

「ウラル。こんなことをして悪かった。もう戻ってくるんじゃないぞ」

 右手のこぶしを、ぐっとにぎられる感触がした。これが、右手のこぶしをしっかりとにぎるこの仕草が、ジン流の「がんばれよ」という感情の伝えかたなのだ。

「ジン、どういうことだ!」

 アラーハの怒鳴り声がするが、ジンは言い返さない。

「頭目! そりゃ、あんまりだぞ!」

 フギンの声もしたが、ジンはこれにも無反応だった。

 ジンは自分が着ていた黒いマントをぬぎ、ウラルの体にかけた。ポケットに何か重いものが入っている。ジンがフギンからウラルを受け取り抱き上げた。

「ジン」

 ジンの厚い胸板が頬に当たる。息苦しいほど強く抱きしめられて。

「ジン……」

 何か言いたいのに、言葉が続かない。


     **


 見覚えのある丘が広がっていた。だが、その丘はウラルの記憶にあるより大きい。陶芸じいさんの窯が見えるから、故郷の村であることは間違いないのだが。

 ジンらが掘った墓地が広がっていた。ごつごつとした自然石の墓標ではなく、色とりどりの貴石の棺がならんでいる。

 ウラルの目の前に黄水晶の棺があった。半透明の棺の中に、小さな遺体がぼんやりとすけて見える。ウラルは棺をのぞきこんだ。文字が彫られている。「サウ」と読めた。

 ざっ、と背中に怖気が走った。なぜ、この名前がわかったのか。ウラルは字が読めないはずなのだ。「サウ」はウラルが殺してしまった赤ん坊の名だった。

 竪琴の音がした。音のするほうを見れば喪服の女が立っている。どこかで見た覚えのある女だ。ウラルを誘うように竪琴をかき鳴らしていた。

 ウラルは女に近づいていった。

 女の右隣に中身のない水晶の棺があった。ウラルは棺に書かれた名前を読む。「ジン」。その隣にフギン、リゼ、マライと続いていた。ひとりひとり種類の違う石の棺。いずれも骸はおさめられていない。

 女は左隣を見た。黒曜石の棺がある。不透明の石なので中は見えない。

「数日前に亡くなられたばかりの方ですよ。名前をごらんなさい」

 名前は、「フェイス」。

「ジンの、お父様」

「ええ」

 墓守は即答する。ウラルは胸からせりあがってきた冷たいものをこらえながら、墓守の右隣にある水晶の棺を見た。

「なぜ、まだ生きている人の棺もあるのですか?」

「その人も、じきにやってきます」

「どういうことですか?」

「あなたも見たでしょう。サウの墓を。ここはあなたの心の墓地です。あなたがであった人は誰であってもここに棺を持つことになる。まだ生きている人も」

 墓守はそっと水晶の棺をなでた。それまで気にならなかった女の喪服が、急に忌まわしいものに見えた。

「そして死ぬと、ここへ来るのです」

 ウラルは肩を震わせ、確認するように墓守に問いかけた。

「ジンが、もうすぐ死ぬということですか」

 墓守は答えない。ただ静かに竪琴をかき鳴らしている。戦死者に捧げられる葬送歌――。


     ***


 不吉な夢だ。

 目を開けたが真っ暗だった。狭い部屋、ウラルが横たわるだけでいっぱいになってしまうほど狭い場所に寝かされている。天井もひどく低く、立ち上がることはおろか座るだけでいっぱいいっぱいになりそうだ。棺のようだ、とウラルは思った。四角ではなく卵形をした棺。

 ゆるやかに湾曲したその卵形のわきから円形に光が漏れている。穴があって、それを石か何かでふさいでいるようだ。そこから出られるかもしれない、とウラルは手を伸ばした。否、伸ばそうとしたが手がひどく重い。自分の体を見てウラルは目をしばたいた。毛皮と毛布に厚く厚くくるまれ、まるで芋虫のようになってしまっている。

 どうにか苦労して片手を出し、ウラルはそっと明かりをふさぐ石に手をやった。触れると同時にあわてて手を引く。穴をふさいでいるものはひどくフワフワして、しかも温かく、ついでにウラルが触れたのに驚いて身をよじったのだ。

「気がついたのか?」

 『石』がもぞもぞ身動きすると、自分からそろりと穴を離れていく。とたん、極寒の空気が穴の中に流れこみ、ウラルはあわてて手を毛皮と毛布の中に引きこんだ。

「ああ、悪かった」

 ウラルの動きに気づいたのだろう、再び『石』が穴をふさいだ。

「アラーハ?」

「ああ。気がついてよかった。心配していたんだ」

 獣の姿のアラーハが外から自分の体で穴をふさいでいたのだ。その体から発される熱が少しずつ穴の空気を暖めていく。ウラルはぶるぶる震えながら毛布と毛皮をかき抱いた。

「ここはどこ?」

「木のうろだ。おそらくクマの冬眠用の穴だろう。お前は丸四日、ここで眠っていた」

「四日? じゃあジンたちは」

「発った」

 短すぎる答えが押し殺したような声で。

「そこの皮袋に食べ物を置いていってくれている。食うといい」

 ウラルは手を伸ばして、皮袋を引き寄せた。ずしりと重い。

 袋の口を開いてみると、小さな袋がいくつも入っていた。そのうちのひとつを開けてみると、たくさんの金貨がつまっていた。

(俺たちには、もう、必要のないものだ。持っていってくれ)

 ほかにいくつか入っている袋も、口を開いてはみなかったが、持った感じからしてどうやら金貨がつまっているらしい。おそらく、〈スヴェル〉全員の財布だ。

 皮袋の奥のほうに干し肉の束があった。ウラルはそのひとつを手に取り、ゆっくりと噛んで、飲み込んだ。少し食べると、体の芯のほうから温まってくるのがわかった。

「ジンはお前の命をたてに、俺に逃げろと迫った」

 ウラルは干し肉をかじりながら顔をあげ、穴の方を見つめた。うろの中にいるウラルからはアラーハの顔が見えない。

「誰かがそばについて世話してやらないと、お前は凍死すると言われた。そうでなくとも意識のないお前をひとりにしては腹をすかした獣に食われかねん。ベンベル軍に見つかって殺されるかもしれん。俺は、お前を連れて逃げるしかなかった」

 ウラルはぐっと歯の奥を噛みしめた。体を起こし、低すぎる天井に頭をぶつけないよう気をつけながら座りこむ。体の下にシーツ代わりの黒い布が置いてあった。引っ張り出してみれば黒いマントだ。ジンの、黒マント。

「歩けそうか? もう全てが終わった。……行かんとならん」

 気づかうような口調でアラーハがささやき、穴の前から体をどかした。ウラルはそろそろと穴から顔を出してみる。薄く雪をかぶった木々、それに頭と四肢がシカ、体と尾は馬の巨大な草食獣の姿。その獣の姿がすうっと薄れ、見慣れた狩人姿の大男に変わった。

 アラーハに支えてもらって立ちあがり、ジンの黒いマントを着る。内ポケットの中にずしりと重いものがあったが、それが何なのか、ウラルは確かめなかった。ここで取り出してはならないものだと、そう思った。

 アラーハが堅い表情で森の奥へ足を向ける。ウラルも続いた。

 はじめは何のにおいもしなかった風に生臭いものが混じり始めた。進めば進むほど強くなっていく。嗅覚の鋭いアラーハは鼻と眉間にぐっとシワを寄せながら歩いている。ウラルも口元を手で押さえた。

 進むにつれ、ネザがしかけたらしい罠のあとがいくつも見られるようになった。一度、ウラルの目の前で使われた槍ぶすまもある。落とし穴、蜂の巣、殺された毒蛇の群れ。

 そこで死んでいる兵士の目。リーグ人にはありえない髪や瞳の色をしている。金髪。茶髪。赤毛。緑の目。青い目。灰色の目。

 罠にかかっているのは、全員がベンベル人のようだった。あまりの腐臭に、ウラルもアラーハも近づけない。ウラルは服についていたフードを切り取り、それをしっかりと口元に結びつけた。アラーハには皮袋に固定していた毛皮を渡す。アラーハも毛皮を顔に巻きつけ、口もとから胸にかけてをおおった。

 それから、先へ、進んでいく。

 罠。罠。罠。アラーハが鋭い嗅覚と聴覚で発動していない罠を見つけ、壊していくから、ウラルに危険はなかった。

 罠にかかっているのは、ほとんどがベンベル人だ。ときどき罠にかかったベンベル兵にとどめを刺そうとして、返り討ちにあったらしいリーグ人の死体もあったが、圧倒的にベンベル人の死体が多かった。

 頭が痛くなってきた。吐き気とめまいもする。ウラルは口元を押さえた。

 〈スヴェル〉は勝ったのか。それとも、負けたのか。これだけベンベル人の死体ばかりなのだから、〈スヴェル〉が勝っていてもおかしくない。だが、ここは、罠だらけなのだ。ベンベル人を殺すための罠なのだから、ベンベル人がかかっているのは当然で、でも最後は圧倒的兵力でリーグ人を負かしているのかもしれない。

 だが、どちらが勝ったのだとしても。

 手首をおとされ、苦悶の表情を浮かべながら息絶えている少年がいる。獣に食い散らされ、はらわたをむき出しにしている壮年の者の遺体がある。首が落とされ、年齢すらわからなくなっている者もいる。

 生きている人間は、ウラルとアラーハしか、ここにいない。

 ウラルは歌いはじめた。夢の中で墓守が歌っていたのと同じ、戦死者に贈られる弔歌。

 アラーハがすこし離れた木陰でウラルを待っている。ウラルは兵士らの冥福を祈り、立ちあがってアラーハのあとを追った。アラーハがいなければ座りこんだまま動けずに発狂していたかもかもしれなかった。

 リーグ人の死体がある。ウラルは横たわっている躯に近づき、知った顔ではないかを確認した。

 死体は腐り、腹や胸が妙な感じに膨れあがっていた。一人ひとり、顔を見ていく。ハエが飛び交い、ウジがわいている。気持ちのいいことではなかったが、そうしなければならない。ジンは、生き残ってウラルにこのことを伝えてほしい、と頼んだのだから。

 じわじわと進んでいく。転がっている死体の数はどんどん増え、全ての死体をあらためるのが、難しくなっていった。

 前方、薄暗い木の影に、人がいる。ウラルは首をかしげた。アラーハは周りに気を配りながら用心深く少し前を歩いている。

 人影に近づいていく。倒れた死体ではない。どうやらこちらに背を向けて、じっと立ちつくしているらしい。マントのすそがはためいている。

 誰だろう。ベンベル兵だとしたらやっかいだが、アラーハは足を止めない。躊躇なく前へと進んでいく。

 背の高い男だった。肩幅もずいぶんと広い。黒いマントを着ている。

 まさか。

 ウラルは息を呑んで、男が振り返るのを待った。やっと顔が見えるくらいの距離だ。人影はウラルたちに気づく風もなく、背を向けて、立ちつくしている。

 見覚えのある、後姿。

 ジン?

 ウラルが声をかけようとしたその瞬間、ごうっと風がうなった。人影が大きく、ぶらり、と揺れる。ぐるっとこちらを向いた。

 首に縄をかけられ、枝からつるされていた死体。アラーハは最初から死んでいるとわかっていたから、声もかけず、ウラルに警戒しようとも言わなかったのだ。

 アラーハがそっと死体に近づいていく。ウラルは口元を押さえた。顔が血まみれでわからなかったのだが、ウラルの知っている人物だった。

 サイフォス。ウラルが見間違えたのも無理はなかった。ジンのような覇気がないので今まで気づかなかったが、背が高く、肩幅も広く、ジンによく似た背格好だったのだ。

「おろしてやろう」

 アラーハの声は低かった。聞き取るのが難しいほどに低かった。

 アラーハが木に登り、サイフォスを吊るしていたロープを切る。そのままドサッとサイフォスの体が落ちてきた。

 ウラルはそっとサイフォスを寝かせ、体の位置を整えた。顔についた血のりをぬぐい、竪琴を抱くような姿勢、風神の加護を願う姿勢に腕を動かす。

「サイフォス、風神のご加護を。マームさんには、私から伝えておくね」

 サイフォスの死んだ場所を。この死に様を。 ウラルはぐっと奥歯を噛みしめた。

 死体を埋めないままに、ウラルとアラーハは先を急ぐ。

 やがて、平野に出た。要塞がある。ネザ率いる〈ゴウランラ〉の要塞だ。平野一面が、そのまま墓場になっていた。カラスやオオカミやイタチやタヌキや、たくさんの動物が群れになって集まり、死骸をむさぼっている。ウラルやアラーハを見ると威嚇のうなり声をあげたが、ふたりがかなり近づいても逃げようとせず、ひたすら死肉に食らいついていた。

 〈スヴェル〉は負けた。平野一面に転がる死体は、褐色の髪だ。リーグ人の躯ばかり。

 ウラルは顔に巻いた布をきつく巻きなおした。腐臭がひどい。森の中とは比べ物にならないひどさだ。

 ムールの死骸があった。数人の手足がムールの下からつきだしている。ベンベル軍にムールはいないはずだ。ウラルは駆けよって騎手の顔をあらためた。

 リゼだった。ムールが喉にクロスボウの太い矢を受けている。空から落ち、敵の槍に刺されて死んだのだろう。ウラルはリゼの顔にべっとりとついた血糊をぬぐい、抱きしめた。

 ジンの遺体はない。ウラルの胸にかすかな希望がうまれた。ジンは生きているのではないだろうか。逃げて、どこかで傷をいやしているのではないだろうか。だが、ジンの性格とあの覚悟からして、それはありえないということもウラルは知っていた。

 サイフォスとリゼ以外にウラルの知った顔の遺体はなかった。フギンやイズンもこの戦場跡のどこかにいるのだろうが、とても探せそうにない。だが、ジンだけはどうしても探しておかなければならない気がした。

 ウラルとアラーハは歩き続けた。戦場の端から端へ。〈ゴウランラ〉の要塞へむかって。



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