第二章 2「風神画」 下
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〈ジュルコンラ〉は堅牢な要塞だった。ジンが開門、と叫ぶ。城門の見張り台に立っていた兵が何かをどなり、それを合図に門の隙間が開いた。
「お久しぶりです、ジンさん。お連れの方も。どうぞ、こちらへ」
事務的に言った中年の男のあとについて三人は要塞の中に入り、客間らしい殺風景な部屋に通された。すでに、サイフォスとマライ、イズンが待っている。
サイフォスとマライは別れたときと変わらなかったが、イズンの変貌ぶりにウラルは驚きを隠せなかった。裾を引きずるほど丈が長く、ゆったりとした淡いブルーの上着を着ている。裾には花びらの形にきりとられた優雅な模様がつらなり、腰に巻かれた皮ベルトには繊細な細工のほどこされた銀ボタンがいくつかついている。ひと目で司法官あたりの知的階級貴族だとわかった。普段から裕福そうな格好はしていたが、さすが貴族だ。
「早かったな」
ジンの声にイズンは帽子をとり、帽子と衣服を指して笑った。
「こころよく両親が協力してくれましたから。明日にでも、これを古着屋にでも売ってきましょう」
「助かるな。お父上とお母上に、よろしく言っておいてくれ」
「ありがとうございます。これが頼まれていた文書です」
イズンはふところから巻紙を出し、広げた。読みあげる。
「拝啓、北方国境警護の任務に封じられし軍事総督殿。我らはリーグ全土から集まった義勇軍〈スヴェル〉。貴殿に加勢したい。敵意、悪意のないことはヤワラン地区中央役所書記官カル・エルムトが保障するものとする。全軍に火神のご加護を。草々」
「ずいぶんと難しい文章だな」
「小難しい文章のほうが、相手は喜ぶのですよ。自分が上級階級であることを再確認できますからね。とりあえず、リーグ軍に加勢したい、との旨さえ伝われば問題ありません」
しれっとした顔で言うイズンの顔をジンは見やり、「それが王都役所の書記官の息子の言い草か」と苦笑して文書を受け取った。サイフォスとマライに向きなおる。
「ふたりも、ご苦労だった。現状を報告してくれ」
サイフォスが羊皮紙を広げた。
「〈ナヴァイオラ〉、歩兵二百三十、騎兵七十、馬が百七十。ほかにスカール港には戦船三十が待機しています」
マライも同じように羊皮紙を広げる。
「〈ジュルコンラ〉、歩兵百三十、騎兵八十、馬が二百です。戦慣れした者がおもだって徴兵を進めています」
「兵糧、武器は」
「半年分は用意してあります。それ以上は難しいかと」
「城を落とすわけじゃない。半年もあれば十分だ。王都の様子は」
貴族の装いをしたイズンが口を開いた。
「追加出兵された二千が五日前、王都を出発したようです。外門の警備が厳しくなり、夜でも灯火が絶えなくなりました」
やはり、ジンは軍事司令官なのだ、とウラルは思った。ジンの部下はウラルやマームを含めて十人だけではないことを、今のウラルは知っている。サイフォスの二百三十、マライの二百。あわせて四百三十がジンの部下にここで加わった。まだ、何百人も仲間がいるのだろう。ジンはそれを束ねる要なのだ。ウラルはわずかに肩を震わせた。
アラーハがちらりとウラルを見た。ウラルもアラーハを見返したが、アラーハは興味なさそうに窓の外を見るだけだった。真剣な様子でジン、サイフォス、マライ、イズンの四人は話しこんでいる。
「俺と、ウラル、アラーハは王都経由で北上する。ふたりは自分の指揮する部隊をそれぞれ八つに分けて、それぞれ違う道を通って北上してくれ。心配はいらんと思うが、できる限りめだたないよう、慎重に。四日後、カクオス村で会おう」
四人が立ちあがった。ウラルも驚いて立ちあがる。この短時間ですべての会話が済んでしまったらしい。もともと決まっていたことなので話す必要もないということだろうか。サイフォスとマライが重々しくドアを開け、部屋を出ていく。
「待たせた。今日はここに泊めてもらおう。明日、王都へ発つ」
わかった、と窓の外を見ながらアラーハが答えた。
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食べ物、装飾品、衣服、その他雑多な品々を売る店が露天を連ねていた。馬が五頭か六頭はならんで通ることができるであろう広い通りには人が満ち満ちて、川のような流れを作っている。
ほかの人より頭ふたつも背の高いアラーハはどこにいてもすぐに見つけられるが、平均以下のウラルは一度迷えばジンも探しづらいはずだ。必死でジンのあとについて歩いていく。おかげで、物珍しい市場の品物もほとんど見ることができない。
リーグで一番大きいといわれる王都の市場に三人は来ているのだった。
「ふたりとも、こんなに人が多い場所は初めてか。これでも普段に比べれば人が少ないくらいだけどな。少し、どこかで休むか」
すっかり目を回してしまったウラルに、ジンが半ばあきれたような口調で言ってきた。周りの喧騒にのみこまれ、ずいぶんと声が聞き取りにくい。ウラルはともかく、アラーハはかなり具合が悪そうだ。今にも吐きそうな顔をしている。
ジンは王都の市場をよく知っているらしい。すいすいと人波をかきわけ、進んでいく。
白い石でつくられた立派な建物に入った。しん、と周りの雑音が消える。ろくに確認せず入ったが、この建物はどうやら神殿であるらしい。正方形の広いホール。四方に神の像があった。
東の狩猟と農耕の神、地神。
南に戦の神、火神。
西には風神。唯一の女神で、死を司る神。
最後に北、旅の守護神といわれる水神。
「ここなら静かだろう。お参りしていこう」
小声でジンは言い、火神像の方へ歩いていった。アラーハは地神像へむかって歩いていく。職業や階級によっても違うが、自分がもっとも崇拝する神から右回りに、全ての像に跪礼するのが一般的だ。
ウラルは風神像へ向かった。喪服を着て、竪琴を胸に抱いて目を閉じた若い女性。風神は死をつかさどる神であると同時に、女性の守護神だといわれている。ウラルは祈っているほかの女にまじり、礼をほどこした。水神、地神と順にまわっていく。
火神像の前で肩を軽く叩かれてふりかえると、ジンとアラーハが立っていた。
「二階へ行こう」
ジンの指す方を見ると、階段があった。聖職者が一人階段の前に立っていて、二階へ行こうとする信者を呼びとめている。二階がある神殿は初めてだった。
「このアサミィを奉納したい」
ジンが言うと、聖職者はあっさりと通してくれた。
二階は一階とほとんど同じつくりだ。像のあった場所に大きな二枚組みの絵が飾られ、ホールの中央に台座が置かれている。奉納品がきれいに並べられていた。ジンはアサミィを台座の上に置き、その場で南を向いて祈った。初めて見る作法だった。祈りの対象が火神、奉納品がアサミィということは戦士や騎士の礼なのだろうか。
「ウラル、絵のある神殿は初めてだろう?」
ウラルがうなずくと、見せてやりたかった、とジンはほほえんだ。
一枚は森の中で地神が角笛を口に当てている絵だった。たくさんの動物が集まり、地神によりそっている。角笛の音に集まった森の守護者が指示をあおいでいるようだ。アラーハに似たイッペルスもいる。
もう一枚は、神の怒りの絵だった。地面が裂け、崩れ落ちている。地神の象徴である獅子が咆哮し、数人を踏みつぶしている図。その後ろで地神は、怒りの形相をあらわにしていた。見慣れた神像とはあまりにも違うその表情に、ウラルは息をのんだ。
「見ての通り、二枚組みになってる。『豊穣』と『逆鱗』の絵だ」
ウラルはうなずいた。ここまで感情をあらわにした絵を見るのは初めてだった。
火神は英雄の誕生を祝う『希望』と凄惨たる戦場で雄牛にまたがった火神が剣を高々と掲げている『狂気』が組になっている。水神は旱魃の村に雨をよぶ『慈悲』と氷に閉ざされた中で水神が天秤を手にしている『絶望』。天秤には一輪の花と剣が乗せられ、剣のほうが下にさがっていた。どの絵もただ無表情に目を閉じている像にはない迫力がある。
ウラルがもっとも目を引いたのは風神の『祝福』と『憎悪』だった。『祝福』の絵では夫婦の結婚を心から喜ぶ参列者に、ひとりだけ場にそぐわない喪服の女性がまじっている。それが風神だった。母性にあふれた満面の笑みを浮かべている。『憎悪』は戦乱かなにかで村人の全てが倒れた村を背景に、頭蓋骨を手に取って見つめている風神の絵。『祝福』とは違い、あまりにも喪服が場にあっていた。
「なぜこの風神が『憎悪』の象徴なのか、わかるか?」
「答えは知ってる?」
「一応な」
『憎悪』の風神の表情は、憎しみというよりむしろ深い悲しみのようだ。その顔になにかつけたすとしたら、怒りにみちてらんらんと輝く目よりも、涙だろう。
「わからない」
「説明書きを読んでみよう」
ジンは絵の下に張られた貼り紙を指した。字の読めないウラルにかわって読みあげてくれる。
「『祝福の風神』と対になる『憎悪の風神』。はやり病で死に絶えた村に、喪服の風神が訪れている。象徴が『憎悪』であるにもかかわらず、風神の表情は、それでない。一説では、風と死の象徴である風神自身がおこした病による死に、風神がなげき悲しむ姿だといわれている。つまりこの『憎悪』という感情は外界にむけられたものではなく、自らに向けられたものだと思われる。だそうだ」
あくまで一説みたいだけどな、とジンは最後につけたした。
「絵を見るのが趣味なの?」
「まさか。ただ信心深いだけだ」
あまりにもおごそかに言うので、思わずウラルは吹きだした。ジンもにやりとする。階段の前に立った聖職者が眉をひそめているのが見えた。
無表情にもどった聖職者の横を通り、三人は外へ出た。また喧騒につつまれてげんなりとするアラーハに同情しながら、ウラルはどこかへ歩いていくジンの後を追った。
ジンは装飾品を売る露天で足を止めている。何を買うんだろう、とウラルが様子を見ていると、ジンは一本のアサミィを手に取った。どうやら、さっき奉納したアサミィのかわりを買うらしい。
「これをくれ」
ジンが店主に示したアサミィは小さな真鍮製のものだった。チュユルという花の彫刻が彫られている。八枚花弁の金百合ともいわれている、伝説上の花だ。小さな短剣はジンの大きな手の中でよけいに小さく見えた。
「ペンダントもいかがです? このアサミィと同じ銘柄のものですが。奥様にお似合いですよ」
奥様、という言葉にウラルは赤くなった。ジンは優しいような意地の悪いような笑みをうかべ、それもくれ、と店主に頼んだ。
「ちょっと、ジン」
「旦那様からの心のこもった贈り物、受け取るのは騎士の妻になった女性の礼儀のようなものですよ、奥様」
うぶな新妻をさとすような口調で店主は言い、気前よく二割引の価格をジンに示した。
「本当はバラでもつけたいところだけどな」
「残念ながらバラは売っていませんね。むかいの花屋へどうぞ。わたくしの妹が開いている店でして」
ジンは豪快に笑ってそれ以上は値切らずに金を払い、その場でウラルにペンダントを渡した。小さな真鍮の円の中に、ジンのアサミィに刻まれたチュユルと同じ彫刻が刻まれていた。店主がにやにやしながらウラルを見ている。ウラルが困ってアラーハを見ると、アラーハは顔色の悪いままうっすらとほほえんでみせた。もらっておけ、とその口もとが言っている。
「いいの? こんなに高いもの」
「俺がつけるわけにもいかないだろ?」
ウラルはペンダントを受け取り、首にかけた。
「ありがとう」
すっかり夫婦仲向上の仲立ちをしたと思いこんでいるらしい店主に見送られ、三人は店を後にした。
「城へ行こう。めったに来れないんだから、今のうちに観光しておくんだぞ」
ジンはわざわざ夫を装った口調で言い、笑う。それからふっと真顔になって城の方向を見た。城の城壁でリーグ国の紋章である天秤と二本の剣をくみあわせた図柄の旗がはためいている。それぞれ水神と火神の象徴だ。天秤は公平、剣は正義をあらわす。
今、一番、リーグ国に欠けているものなのかもしれなかった。