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第四章 7「女神が示したこの道を」 上

 エヴァンスと小屋へ戻ると、アラーハがぼんやりと頭をもたげて出迎えてくれた。ウラルが泣いているのに気付いたのだろう、怪訝そうに首をかしげている。

「ウラルが全てを思い出した」

 アラーハがぎょっと目を見開いた。

「皆を起こしてくる」

「いいわ、エヴァンス。起こさないで」

「だが」

 エヴァンスの目は自分ひとりには到底負えないと語っている。きっとエヴァンスが陶芸窯でうずくまっているウラルを見つけたとき、すぐ悲鳴をあげて気を失ってしまったウラルの傍らでずっと座っていてくれたとき。ずっとそう思っていたのだろう。彼には珍しいことに誰かがいてくれたらと感じていたのだろう。

「なんだかすごく疲れちゃった。私たちも寝ましょ」

「眠れそうか?」

「うん……。疲れたわ。本当に、なんだか」

 窓からアラーハの視線を感じた。彼はそうして一晩見守り続ける気らしい。出会ってからこのかた、ウラルが苦しんでいるときはいつもそうしてくれたように。

「眠れなければ薬がある。必要なら言ってくれ」

 うなずき、ウラルは床に伏して目を閉じた。

 エヴァンスに眠る気はなさそうだ。灯火は消したが横になる気配はなく、誰かが廃材でこしらえた椅子にどっかと座った気配がした。

 長いことエヴァンスはそうして身じろぎもせず座っていたが、やがて足音を忍ばせウラルのかたわらに来ると眠ったふりを続けるウラルの髪にそうっと触れた。声も出していない、洟もすすっていない、でもエヴァンスにはお見通しだったらしい。無言のまま涙をぬぐってくれる武骨な手をウラルはそっと握った。

「エヴァンス、眠って。身体がもたないわ」

 ささやいたけれどエヴァンスは動かない。沈黙と暖かな気配にこらえなくなって、ウラルは嗚咽を漏らし始めた。ウラルが泣けばエヴァンスは苦しむ。分かっているのにこらえきれなくて、ウラルはエヴァンスの手を握りしめたまま喉から洩れる嗚咽と悲鳴と呻きを必死で押し殺しながら泣きじゃくった。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 異変に気づいたのか最初に寝付いたばかりだったシャルトルが、眠りが浅かったらしいメイルが、ついでマームが、ぱらぱらと起きてきた。ウラルの望みだ、眠っている者は起こすなと断りつつ事情を説明してくれるエヴァンスの声をどこか遠くに聞きながら、ウラルはすがるように、命綱にしがみつくようにエヴァンスの手を固く固く握り続けた。


     *


「ウラル!」

 耳元で大きな声を出されたのに、やっとウラルは何度も何度も名前を呼ばれていたのに気がついた。どれだけぼんやりしていたのだろう、顔をあげてみれば小屋にいる全員の視線がウラルに集まっていた。

 結局耐えきれずエヴァンスに薬をもらって無理に眠ったけれど、酷く夢にうなされて起こされたり飛び起きたりの連続だった。眠りとは言えない眠り、それでも少しは落ち着いて、今は動いていた方が気がまぎれるからと朝食の準備を手伝っている。

「大丈夫ですか? さっきから呼んでるのに全然気づいてくれなくて。辛かったら休んでいてください」

「大丈夫よ、メイルこそ休んでて。大事な身体なんだから」

 言いつつスープをかき混ぜようとして、今まで握っていたはずのお玉がスープの中に沈没しているのに気がついた。深い鍋の底で横になっているお玉を袖をまくりあげてすくいあげ、べとべとになった柄を布巾でぬぐう。

「ウラル、あなた手が……」

 メイルが何を言っているのかわからずウラルは首をかしげた。メイルは信じられないと言いたげな顔で鍋とウラルを見比べている――コンロの上でぐらぐら煮立っているスープと、真っ赤になって水ぶくれができはじめているウラルの手を。

「すぐに冷やして!」

 メイルが血相を変えてウラルの手を鷲掴みにすると、キッチンの脇にある水瓶の中へ突っ込ませた。

「熱くなかったんですか! すぐに手を引くでしょう普通!」

 悲鳴まじりの声に「どうした」とエヴァンスとフギンが駆け寄ってくる。ウラルは爛れた自分の手をまじまじ見つめた。

「ここで冷やしていてください。エヴァンス、傍についてて」

「ごめんなさい、どうしたのかしら私」

 何があったかはメイルの声と状況とですぐ察してくれたのだろう。エヴァンスがすぐ側に来て、晩秋の冷たい水の中の手を取って火傷の程度を診た。フギンは慌てふためいて包帯やガーゼを準備してくれている。

「痛むか?」

「あんまり……。熱さも痛みも言われてみれば程度で」

「わたしが手を握っているのはわかるか?」

 エヴァンスがウラルの腕を握った手に力を込める。確かめるように、祈るように。夜の間ウラルがずっとそうしていたように。

「分かるけど、なんか変な感じ。分厚いコートの上から握られてるみたい」

 まるで分厚い透明なカーテンに覆われているような。あるいは神経が少しずつだめになっているかのような。

 不意に焦げくさい臭いがウラルの鼻の奥をかすめた。鼻の奥で警告が響くような髪と肉と骨の焼ける臭いが。急に顔をしかめ鼻を押さえてうずくまったウラルの肩を「どうした」とエヴァンスが揺さぶった。

 現実の臭いでないことはすぐにわかった。耳鳴りのようなものだ。幻覚のようなものだ。肉体的な火傷の痛みは感じない、でもその恐怖は。

「ウラル、どうした!」

 悲鳴が耳の奥を灼いた。頭の中で人が殺されていく。何人も何人も。

「エ、ヴァン、ス……」

 耐えなければならない。助けを求めてはいけない。ウラルはそれだけのことをした。

 そっとエヴァンスを押しのける。ナウトが今のウラルを見たらどう思うだろう。優しい男の、それもベンベル人の腕に身を預けて慰められているウラルを見たら。ウラルが殺してきた何百何千もの人の家族はどう思うだろう。

 差し伸べられた手を払う。なお差し伸べられる手をまた振り払う。それでやっと手は離れたけれど、青い視線がウラルを追って離れない。

「大丈夫。大丈夫だから……」

 震える声に、エヴァンスが気圧された様子で身を引いた。

 青い瞳は傷ついていた。エヴァンスがウラルをとても心配しているのはわかるのに。でも迫ってくる手が、リーグ人にはありえない色の瞳が急に怖くなった。いとおしい相手のはずなのに怖くて怖くて仕方がない。

 エヴァンスはウラルを殺さないしウラルもエヴァンスを殺すことはないのに。炎の中でリーグ人を殺すベンベル人が目に浮かぶ。黒い風の中で血を吹き倒れていくベンベル人たちが目に浮かぶ……。

「ウラル、手を」

 割って入った声に顔をあげてみれば、メイルが油漬けの薬草を手にたたずんでいた。ああ、火傷のことを忘れていた。

「塗らなくていい」

 メイルが目をむいた。

「そういうわけにはいきません。化膿します」

「死体に薬を塗ったって気休めにもならないから。痛くもないし。このままでいい」

「死体、って」

「何言ってんだ、ウラル。お前はちゃんと生きてる。生き返った。そうだろ?」

 フギンがこわばった笑みを向けている。ウラルは首を振った。ウラルは一度死んでいる。この身体も、その内で響く鼓動もまがいもの。死体や幻に薬を塗って効くとはとても思えない。

「朝ごはんの準備、中断させちゃった。早く準備しないとみんな帰ってくるわ」

 ウラルには食べ物も飲み水も、もうなにも必要ないけれど。唖然とする三人をよそにウラルは外を見た。ウラルが記憶を取り戻した旨を伝えにアズのもとへ向かったイズンとシガル、朝ごはんにできそうな野菜を集めに行っていたマームとシャルトルが四人そろって帰ってくるのが遠くに見える。

「何言ってるんですか、そんな状態で! そこへ座って手を出して!」

「メイル」

「いいから早く! フギン、そのスープ勿体ないけど捨ててきて。飲めないでしょ。ウラルの手の出汁入りのスープなんて」

 隻腕のフギンが両手持ちの重い鍋を前にあたふたしている。問答無用でウラルの手をひっつかみ、薬草とガーゼを当てて手際よく包帯を巻きはじめた。

「医者として言わせてもらいます。今のあなたは普通じゃない。私たちの言う通りにしてください。いいですね?」

「ごめんなさい」

 怒気と心配のないまぜになった声が怖かった。傷ついた手をとられたままウラルは謝罪する。メイルに、エヴァンスに、フギンに――いや、誰にともなく。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」


     **


 血と生き物の焼ける臭いが鼻にこべりついて離れない。

 悲鳴と怨嗟が耳にこべりついて剥がれない。

 窓の外から小屋の裏手にある丘を見てみれば、その頂上から地平線の果てまでが全て棺で埋まっている。蓋の閉まった無数の棺。棺に触れればその人の顔も死にざまもまざまざと蘇ってくる。ウラルが殺めた人々がそこで眠りについている。

 ウラルは歌う。弔いの歌を。囁くように、震える声で。

 ナタ草の花を摘み、無数の棺にたむける。花は棺をすりぬけ地面に落ちて、風に飛ばされ上手く置けない。

「ウラル」

 ベンベル人の声が不意に後ろから落ちてきて、ウラルはがたがた震え始めた。なんの脈絡のないむちゃくちゃな、けれど言いようのない恐怖に身じろぎすらできなくなる。

「ここに棺があるのか」

 金の髪を揺らし、男は小さな青い花を摘んだ。

「わたしが何か気に障ったことをしただろうか」

「なにも。なにもしてない」

 ウラルは口元に手を当てた。昨日の夕食と今朝ほんのわずかに飲んだ水を吐き戻す。背をさすってくれるエヴァンスの手のひらから袈裟懸けにされたかのような激しい痛みが伝わってきて、ウラルは悲鳴をあげて身をよじった。

「ならば、なぜ」

「あなたが怖いの。死んだ人たちの想いが私の中に入り込んで、それで……」

 身の内で逃げろと誰かが叫ぶ。いや殺せ、殺すんだと別の誰かが叫び返す。風神と火神への祈りが低く重くその後ろに聞こえる。子どもの泣き声が。母親の絶叫が。兵士の雄叫びが。剣戟が砕ける音が湿った音が潰れる音がすすり泣く声が呪いの言葉が爆ぜる音が爆音が男が女が老人が子どもが乳飲み子が。

「エヴァンス」

 命が消える。貴石の棺の蓋が閉まる。閉まり続けて止まらない。

「私を、殺して」

 死ぬ理由が見つからなかったから生き返った。生きるのは怖かった、でもそこに理由があった。

「なぜだ。なぜ今になってそんなことを言う」

「私は生きてちゃいけない」

 今は。死ぬ理由が、ここにある。

「お願い、エヴァンス。今は大丈夫だけれど、このままじゃ私、いつかあなたを殺す。それに花が、たむけた花が全部すりぬけてしまう……。死んで本物のあの丘に行かないと私は花をたむけることさえできないの」

「……ウラル」

「私はもう死んでる。〈風神の墓守〉としての役目も、〈セテーダンの聖女〉としての役目も、〈墓所の悪魔〉の憑代としての役目も。もう終わったわ。この見かけだけの身体も感覚をなくして風に溶けようとしてる。だから、もう」

 今はただ、あるべきところへ還りたい。

 一度死んだこの身体がもう一度ちゃんと死ぬかはわからない。でもウラルは震えながら、泣きながら、エヴァンスの胸にすがりついた。

「お願い。私を殺して」

「言ったはずだ、わたしにお前は殺せない。お前が死ねば、わたしは」

 エヴァンスが抱き返してくれる。ウラルはエヴァンスの身体に回した腕に力をこめ、がちがち鳴る歯を必死で抑えながらエヴァンスの唇に口づけた。

「ウラル」

 エヴァンスが呆然としたその一瞬。ウラルはエヴァンスが腰に佩いていた剣に手をかけ、すらりと抜き放った。

「何をする気だ」

「ごめんなさい」

 ウラルは迷わず刃を己の胸へつきつけた。

「やめろ!」

 エヴァンスがとっさに素手で刀身をつかむ。剣を引き寄せようとしたがエヴァンスが許さない。刀を手のひらに食いこませ苦痛のうめきを漏らすエヴァンスにウラルも覚悟を決め、首を刀身に押しつけ首を振って一気に掻き切ろうとした。

 が、ウラルが首を押し当てようと刀から目をそむけた瞬間をエヴァンスは逃さなかった。エヴァンスの腕に今まで以上の力がこもる。こらえきれず引き寄せられたウラルが上体を泳がせるやいなや、重い突きがみぞおちに埋まった。

 全身の力が抜ける。そのままエヴァンスに抱きとめられ――ウラルは自身が震えていたせいで気づかなかった、エヴァンスの震えを肌に感じた。

「いくな、ウラル」

 ころんと涙が頬をつたう。ウラルは死んではいけない。もうとっくに死んでいるのに……。


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