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第四章 6「崩壊のおと」 上

「ウラル」

「私はいったい何人の人を殺したの?」

 尋ねたとたん、ぽろりと涙が頬をつたった。

 ウラルは泣き虫だ。昔からよく泣いていた。きっとこの男の前でも幾度となく泣き顔を見せていただろうに、エヴァンスは初めて見るもののようにウラルの頬をまじまじ見つめて、ぎゅうとウラルを抱く腕に力をこめた。

 その距離は「片思い」の距離じゃないよ。この腕の力は「片思い」の相手に向けるものじゃないよ――。喉まで出かかった言葉を呑み下してエヴァンスの言葉を待った。

「お前が自ら望んで人を殺めたのなら、わたしは隠したりなどしない。わかってくれるな?」

 この男は嘘をつかない。隠し事はするけれど。真摯な前置きの言葉に少しだけ、少しだけ心が軽くなる。それを感じたのだろうか、エヴァンスは身体を離し、青い瞳でウラルをじっと覗きこんだ。

「セラという女はお前をかばって死んだ。セラ以外にも何十人かの者がお前を守るため自らの意思で凶刃に身をさらした」

「どうして。私なんかのために」

「お前は聖女と呼ばれる存在だった。お前はお前をかばって死んでいった何倍もの人を救った。わたしもお前に救われたひとりだ」

「私が?」

「お前は身体を張ってひとつの町を守った。わたしの祖国の人間が麻薬を使って人を惑わせ、リーグ人に同士討ちさせようとしたところにお前が割り込んで止めたのだ」

 本当に、本当にそんな壮大なことをウラルはやってのけたのだろうか。一介の村娘でしかないウラルが?

「本当です」

 メイルの静かな声がためらいがちに割って入ってきた。

「あなたは私たちの町フランメを救ってくださいました。私はそのときからあなたに従っています。死んだ者もみな、あなたをお慕いしていました」

 そうだよ、と小柄な巨鳥乗りの声が続ける。

「セラが死んだのはお前のせいじゃないよ、ウラル。……たしかに率いてたのは君だった。セラたちが死もお前の判断が招いたことだった。でも奴らはついてくるなってさんざん言ってた君に強引についていったんだし、俺たちも助けるどころか囮に使ったんだ。謝りこそすれ責められるわけがない」

 つらい戦争だったのだ。攻めてはいない、ウラルが悪いのではないと言いながら。マルクの言葉は鉛の涙のようにころんと胸へ落ちてきた。

 実際にウラルが手を下したわけではないようだけれど、親しい人を失った人は誰かを恨まずにいられない、そうして憎まれ恨まれる立場にウラルは立っているようだ――いや、それだけだったはずがない。エヴァンスがあれほどかたくなに口を閉ざしたのだから。今のはウラルに負担がかからないよう幾重にも幾重にも真綿でくるんだ言葉だったに違いない。

(あんたは人殺しだ。あんだけのことやって全部きれいさっぱり忘れるとか許されると思ってんのかよ……)

 ウラルは何をしたのだろう。助けた人も多いらしいのが救いだけれど、ウラルはいったいどれだけの人に鉛の涙を流させてしまったのだろう。

「さっきの子、大丈夫かしら。みんなが普段いるところからここってかなり遠いのよね?」

「シガルがすぐ追いかけたし大丈夫だよ。まさかあのまま〈ジュルコンラ〉までは帰ってないだろ。いきなりあんな爆弾ぶちかますとは思わなかったけど」

 そこまで言って、小柄な巨鳥乗りは苦しげに目をそらす。

「ウラルが記憶喪失になったって聞いてから様子がおかしかったんだ。セラたちには懐いてたから」

 記憶を捨てて、責任を置き去りにして。どんなに腹立たしかったことだろう。そんな相手に自分はどうしてあんなことを言ってしまったのだろう――その人は? 今日ここには来ていないの?

 ウラルを挟んでエヴァンスとフギンの視線が交錯する。後ろめたそうな、ほっとしたようなふたりの視線。ごまかせたか? たぶん。

「……エヴァンス」

 全部、話して。真実をそのままに、真綿でくるみこんだりせずに。今言ったことが全部じゃないことくらい、わかってるから。本当にウラルが悪くないのならこんなに空気が重いわけがない。「三人目の男」のことも聞いていない。

 言いたかった。言えなかった。エヴァンスの悲痛な声が、腕の力が、耳に、肌に、蘇る。

(違う。お前の意思ではなかった。お前のせいではないのだ。信じてくれ……)

 それに今聞いた以上のことを聞くと思うと。真実を知りたいとこれほど強く望んでいるのに全身がぶるぶる震えてくる。ウラルは人を殺した。おそらくは完全にウラルの咎で、おそろしい形で。

 ふぅっとフギンがため息をついた。

「エヴァンス、無理だ。このままお前が黙っててもナウトが帰ってきたらウラルは自分で聞きだしちまうぞ。その前にお前から話してやれよ」

 エヴァンスが返したのは沈黙だった。

「なぁ、エヴァンス。お前が話さないんだったら俺が話す」

「嘘はつきたくない。隠してもお前にはわかってしまうようだ。お前が思い出さなければならないと思っているのは重々承知しているが、話せばお前は傷つく。思い出せばそのまま正気を失いかねない。わたしが黙っていても、わたしがどれだけ周りに口止めしても、いつかお前は思い出す」

 それまでは、せめて。痛々しい祈りがウラルの胸を焦がす。

「エヴァンス、お前いまがウラルにとっての執行猶予だと思ってるんだろ」

 フギンの声が低くなった。

「あれはウラルがやったんじゃない、〈悪魔〉がやったことだ。ウラルが背負うことじゃない。これは執行猶予なんかじゃない。ウラルがちゃんと立ち直って、これから生きていくために必要な緩衝期だ!」

「執行猶予? ウラルに罪があり罰があるとお前まで言うのか。誰が罰を下すと言うのだ。ウラルはこの国の神に従いその道具として動いたというのに」

「そういう意味じゃない。今が最期の時だからできる限り楽しく過ごさせてやろうとか考えてるんじゃないだろうな? 思い出すなって言い続けて、できるだけその時を引き延ばそうとしてるんじゃないだろうな?」

「臆病なのは自覚している、だがわたしはウラルに笑っていてほしいのだ。いつか明かさねばならない時が必ず来ることはわかっている、だがその時を一瞬でも引き延ばしたいと思うのは間違っているか? 今思い出せと言うのはあまりに残酷だ」

「間違ってない。間違ってないさ……。でも俺言ったろ? その先を考えなきゃならない。未来を信じろよ」

「せめて何年も経った後ならば。時は万能の薬、少しは受け入れやすくもなるだろう。受け入られなかったとしても今すぐ伝えるよりはずっといい。わたしはそう思う」

「でも、私は聞きたい」

 二人が口を止め、ぱっとウラルを振り返った。

「人の生死にかかわることだもの。私には責任がある。そうでしょ? 思い出したら狂ってしまうのなら、私はそれだけのことを受け入れなきゃならない。それだけのことをしたんだもの。私は罰されなきゃならない」

 罰、と言ったところでエヴァンスがぎゅうっと眉を寄せる。

「聞かせて、エヴァンス。何かがあった、途方もない何かがあった。でもそれを何も思い出せないんじゃ私、すごく怖いの。想像するだけで狂っちゃいそうになる」

 想像しても想像しても果てがない。旅芸人から初めて世界の終りの歌を聞いた時のような言いようのない恐怖だけが胸の底へわだかまる。誰かを殺めた、それ以上のことがあるならば。

「……そうだな。お前のことだ。わたしが決められることではなかった」

 え、とエヴァンスを除く全員が息をのんだ。エヴァンスは固い顔で唇を引き結んでいる。

「ナウトが明かしてしまったのだからもう隠しておくこともできんし、これほど止めても望むならわたしにお前を拘束することなどできはしない。償わねばならない、その気持ちもわかる。それとももう少し時間を置いた方がいいか?」

 こんなにウラルの幸せを願ってくれている人の気持ちを反故にしていいのだろうか。もう少し、もう少し待った方がいいのではないだろうか。ウラルの中にもう少し優しい思い出が溜まるまで――。

 いや、だめだ。両脇で見守ってくれているマルクとメイルの顔を見た。マルクは苦しげな、メイルは険しい目をしている。ウラルには責任があるのだ。エヴァンスひとりに笑ってもらうより、今まで苦しめた何人もの人に償わなければならない。

「話して」

 エヴァンスはうなずいてくれた。

「聖女として町をひとつ救ったお前は、次の町を救おうとして失敗した。囚われていたわたしを無理に救おうとしたのだ。お前は返り討ちにあい、お前について一緒に町へ来ていた仲間を目の前で何人も失った。その痛みに耐えきれずお前は心を狂わせ、〈悪魔〉に憑かれた」

 メイルが顔を伏せ、マルクがばつの悪そうな顔をする。セラのことを話してくれた時と同じ顔。

「〈悪魔〉?」

「〈墓所の悪魔〉、人に憑きおそろしい疫病をもたらす存在だ。お前は自我を失い〈悪魔〉に身体を操られるままに病を撒き散らした。多くの人間がその病をえて死んだ。この国の将軍ダイオはお前の病を利用してベンベル軍を打ち破り、祖国へ追い返した」

「ダイオ将軍ってそんな人だったのね」

「ああ。お前が、お前の身体を奪った〈悪魔〉がいったい何人の人間を殺したのかはわからん。戦争が終わるほどの人間が死んだのは確かだ。ベンベル軍人だけでなく巻き込まれたリーグ人も女子ども問わず相当数が死んでいる。お前は目の前でそれを見ていた。何千もの人間が苦しみ悶えて死んでゆくさまを、呪いながら、泣きながら眺めていた」

「規模が大きすぎて実感がわかないわ……」

 本当に旅芸人から聞いた世界の終りの歌を聞いた気分だ。神々は去り、かわりに現れた四人の悪魔が全ての生物を殺す。大地は鳴動し山は割れ、海は唸り内陸にある王都まで押し寄せて、人も獣も狂気のうちに見るものすべてを殺し尽くし、真っ黒な風が全てを根こそぎさらってゆく。そんな現実離れしたおそろしい歌の中で自分が悪魔を演じていたと言われたような。

 エヴァンスはウラルの反応にほっとしたのか、少しだけ笑ってくれた。マルクやフギンも詰めていた息を吐いている。

「これで本当に全部だ。村の外へ出れば今の国の様子も見えてくるだろう」

「行きたいって言ったら連れていってくれる?」

「いずれは。マルクとメイルが来たところから別の者もこちらへ向かっているそうだから、到着してからになるが」

 実際にその爪痕を見ればもう少し現実味が沸くのかもしれない。吟遊詩人の物語は面白いけれど、実際にぽんとその場に移されてしまったら気が狂ってしまうかもしれない。村が滅びたどころの騒ぎではないのだから。

 ウラルはうつむいた。償わなくてはならないはずなのに現実感がまるでない。

「さてっと、ずっと立ち話もなんだな。小屋戻ろうぜ」

 ぽんとフギンがウラルの肩を軽く叩いた。

「俺はムールの世話しないと。そういえば繋ぎもせずに待たせてた」

「じゃ、俺も手伝う。そういえばムールの世話とか久しぶりだ」

 待ちくたびれたらしいムールは巨大な翼をすぼめて行儀よく居眠りしているようだ。おきろー、とマルクがくちばしを軽く叩くと眠そうに目をぱちぱちさせた。巨体に似合わない小鳥のようなしぐさにウラルは思わず笑ってしまった。どうやらこれから鞍をおろしてブラシでもかけてもらうらしい。

 鞍からおろした荷物をかつぎ、フギンとマルクをムールのところへ残してウラル、エヴァンス、メイルは先に小屋へ戻った。

「あなたにとって私はどんな人だったの? そんなに今と違った?」

「あなたは狂っていました。見えないものを見、聞こえないものを聞き、知らないはずのことを知る人でした。私はあなたが怖かった」

 何気なくメイルに話しかけてみればとんでもない答えが返ってきた。エヴァンスがぎろりとメイルを睨む。メイルが一歩も退かずに睨みかえして、それからウラルの方をちらりと見た。見た目の綺麗さに似合わずかなり気が強いようだ。ウラルがおっかなびっくり視線を合わせると、メイルはちらりと笑ってくれた。

「でもあなたが全て忘れたこと、私は残念です。あなたは偉大な人でした。全てを思い出し、歓喜も憎しみも全て受けて立って生きてくださればと思います」

「勝手なことを」

 低いエヴァンスの声にメイルの目がきつくなる。

「わかったことを言わないでください。狂気の淵であれだけのことをなさったウラル様です。あなたが思っているよりずっと、この方はお強い」

 棘の混じった口調。そうだろうか、とエヴァンスが歯切れ悪く呟いた。

 お茶の準備をメイルに任せてウラルは途中だった繕いものに戻った。エヴァンスのマントの裾を丁寧に繕っていく。青い糸が残り少なくなっているのに気がついて、ウラルはシガルが持ってきてくれた「ウラルの荷物」を開けた。

 何着かの服、裁縫セット、いくつかの小瓶に入った薬草、財布――ウラルは村が焼け落ちた時、家から何も持ち出せなかったに違いない。皮袋の中に詰まっているのは見覚えのないものばかり。その中に真鍮のアサミィを見つけてウラルは首をかしげた。

 実用性重視のこまごました物の中、真鍮の小さなアサミィは異質に見えた。チュユルの花の細かな意匠がほどこされた、とても実用には使えそうにない短剣。鞘から刃を抜いてみてウラルは目をひそめた。一度研がれて、それから丁寧に潰された刃。刀身にはうっすらと錆が浮いている。

 ウラルは首にかかったペンダントを手のひらに乗せた。なにか見覚えがあると思ったら、このアサミィはペンダントと同じ意匠だ。きっと一緒に買ったに違いない。

 そういえば、とウラルはアサミィとペンダントをまじまじ見つめた。「三人目の男」の話が出てこなかった。急に思い出したのだからこのアサミィと何か関係があるのかもしれない。

「その短剣は荷物に入っていたのか」

 顔をあげると薪を両腕に抱えたエヴァンスが傍に立っていた。

「うん。なんか大切なものだった気がして」

 あれだけ大層な話をしてもらった後だから新しいことはしばらく聞かないほうがよさそうだ。黙って見下ろしてくるエヴァンスにウラルは心配しないでと笑ってみせた。

「気のせいよね。私、なにも覚えてないもの」

「それは、わたしが贈ったものだ」

「え?」

「思い出してくれるな。恥ずかしい」

 思わず目をしばたいているウラルから目をそらすと、エヴァンスはストーブの脇へ薪を積みはじめた。ヤカンに水を汲んできたメイルが奇妙なものを見る目でエヴァンスを見ている。

 ウラルは思わず微笑んだ。それからメイルと一緒にキッチンへ立つと、荷物の中からリンゴと蜂蜜を取り出して甘いお菓子を作り始めた。鼻歌まじりにリンゴを刻み始めて、ふと手を止める。

「ウラル様?」

「ううん、なんでもない。この家に住んでたおじいさんのこと思い出しちゃっただけ」

 「知っている人」が誰一人いなくなったこの村で。浮かれて笑っていていいのだろうか。憤りに身を震わせていた少年の姿が目に浮かぶ。自分が神話に出てくるような悪魔のような所業をしたのなら。こんなことをしていていいのだろうか……?

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