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第四章 5「このぬくもりを胸に抱いて」 中

     *


 長いこと塞がれていた窓を開け放って風を入れ、白蟻にぼろぼろにされた家具を外へ運びだし、床を掃いてボロ布で磨いた。使ったボロ布はこの家に住んでいたおじいさんのネズミやら虫やらに食われてボロボロになった服で、見る影もなくなったとはいえやっぱり覚えのあるものだから、床をこすりながら時々発作的に泣き出してしまった。

「エヴァンス」

 そんなときエヴァンスは離れた場所にいるはずなのになぜか必ず気づいてくれて、ウラルが大丈夫だと言うのも構わず傍にいてくれた。

「シガルが荷物に菓子を入れてくれていた。食べないか」

 記憶を失っても時の力は作用するものなのだろうか、認めてしまうと村の人たちの死はしっくりとウラルの心になじんで胸の奥底へ沈んでいった。そこにあるのは生傷ではなく大きいがちゃんとかさぶたのできた傷跡で、ひっかけばきっと血を吹くけれど、もう痛みに身をよじり悶え苦しむほどではない。ただ時々せりあがってきては熾火のように胸を焦がすだけ。もしかするとウラルが薄情なだけなのかもしれないが……。

 エヴァンスはウラルの傍にいてくれた。あたたかい飲み物と甘いお菓子を机に並べ、もともと無口な性格なのか対応に困っているのかほとんど黙りこくったまま、それでもウラルが落ち着くまでずっと傍にいてくれた。


     **


 部屋はふたつあったから、その夜は奥の部屋でウラルが、手前の部屋でエヴァンスが休んだ。うっかり寝返りを打ったら腐りかけた床板を踏み抜きそうでびくびくしながら眠りにつき、明け方、どこからともなく聞こえてくる歌のような声で目が覚めた。

 ちょっと体重をかけただけでぎぃぎぃ鳴る床板をそうっと踏みながら窓際へ行くと、薄暗い中で無心に祈りを捧げる男が見えた。波打つ黄金の髪、白く凍えた息と共に吐き出されるうつくしい異国の言葉。夜明けの薄青い光の中、その光景はまるで別の世界をのぞき見ているようで、ウラルは明け方の寒さも忘れてじっとエヴァンスを見つめていた。

 無意識に口元へ両手をあてて息を吹きかけていたのに我に返って、ウラルは暖炉の熾火をかきおこし、水の入った鍋をその上にかけた。

「起こしてしまったようだな」

 やがて帰ってきたエヴァンスにウラルは首を振り、村娘の朝は早いのよと笑ってみせた。それから沸かしたお湯でお茶を淹れ、もうもうと湯気の立つカップをそっとエヴァンスに手渡した。

「私、今までもこうしてあなたを待ってた?」

「いや。……だが嬉しい」

 あたたかな返事にウラルは頬を染めて微笑んだ。その返事が普段ならほうぼうで噂になりかねないほど珍しかったことなど知る由もなく。そうしていそいそパンを出してチーズを切り分け、朝ごはんの準備を始めた。


     **


「ここが村のみんなで作ってた畑よ。なにか残ってるといいんだけど」

 ウラルは草の海を前にして腕まくりした。あっちもこっちも雑草だらけ、畝もなにもめちゃくちゃだ。長いこと耕していないせいか土も固くしまっているけれど、ところどころ見覚えのある作物がぴょこぴょこはえている。ウラルはそのひとつをひっつかみ、えいやっと抜いてみた。

「よかった、ジャガイモはちゃんとできてるみたい。ちっちゃいけど二人で食べるなら十分そうね」

「どれを抜けばいい?」

「その濃い緑色のよ、それそれ」

 エヴァンスは腕に力をこめると、ものすごい力で一気に抜いてしまった。となれば耕されていない固い地面だ、肝心のジャガイモはほとんど地中に残ったまま。茎の先には親指の爪ほどのちいさなジャガイモがぶらぶらしているだけ。仏頂面でジャガイモの茎を見つめているエヴァンスにウラルは思わずふきだした。

「もしかしてジャガイモの収穫とか初めて?」

「わたしの取り柄は剣技だけだ」

「そんなこと言わないで。大丈夫、肩に力はいってるだけよ。それ抜いてみて」

 今度はうまく抜けた。気を良くした様子のエヴァンスにウラルは笑ってみせて、エプロンの裾をつかんでそこへジャガイモをあるだけ乗せた。

「次はニンジンね、ジャガイモより簡単よ。これをこうやって」

 ふさふさした葉っぱをつかんで引っこ抜き、ウラルは眉をへの字にした。

「なにこれ、ニンジンがただの根っこになっちゃってる!」

 鮮やかなニンジン色をしているはずのそれは濁った茶色に変わり果て、噛めばぽりぽり音がするはずのそれは見るからに筋張って繊維だらけ。これではまるで太くて短いゴボウだ。

「これじゃ食べられないわ……。残念」

 周りの数本を抜いてみたけれど、全部ものの見事に野生化してしまっている。がっくり肩を落としたウラルの様子がおかしかったのだろうか。くすりと傍らで笑みを漏らす気配がした。

「お前はよくシチューを作ってくれた。ジャガイモのたくさん入った真っ白なシチューだ」

「ほんとうに?」

「あとはハーブのサラダだな。お前の料理はいつもいい香りがした」

 シチューもサラダもウラルの得意料理だ。材料のとれる間は毎日のように作っていた。記憶のない五年の間にもやっぱり作っていて、目の前のこの男に食べてもらっていたと思うとやっぱり不思議な感じがした。

「シチューはミルクがないから作れないけど、サラダならきっと作れるわ。ハーブは強いのよ。きっと五年くらい生き残っててくれてる」

 エヴァンスと一緒に食べるサラダを思い描いてウラルは微笑んだ。あとでウラルの家の裏を見に行こう。野生化して辛くなっているかもしれない、秋も暮れだから枯れかけているかもしれない、でもきっと残っていてくれるから。

「やっぱりあなたの中で私がどんな人間だったか気になる。よかったら話せることだけでも話してくれない? 笑い話だけでもいいから」

「笑い話、か。とっさに浮かばん」

 エヴァンスはそっぽを向いてしまったが、その頬がゆるんでいるのが嬉しかった。お願い、と続けるべきかこのまま笑って次の畑へ進むかウラルが迷っているうち、そうだな、とエヴァンスの方が再び口を開いてくれた。

「そうだな、ベンベルにはゴーランという生き物がいる。馬のように人が乗ることができる巨大なトカゲだ。お前はそれが苦手だった。はじめてわたしのゴーランを見た時、悲鳴をあげて部下にしがみついていた」

「ほんと? そんな生き物がいるの?」

「ちなみに体高はこれくらいだ」

 エヴァンスが自分の背丈と同じくらいの高さを手で示す。ウラルは思わず悲鳴をあげた。

「おっきい! なにを食べるの? やっぱりトカゲだから虫とか?」

「放しておくとよく自分で探して食っている。だがそれだけでは足りないから干し肉をやる」

「えええ……」

「若い女の人気はないが、かなり頼りになる生き物だ。馬やムールより餌はかなり少なく済むし、水もあまり必要としない。人を乗せたまま垂直に近い岩山も登れる。ベンベルで旅をするならなくてはならない存在だ」

「ベンベルってどんな国なの? 大きい?」

「大きい。リーグを縦断するなら馬で三十日というが、ベンベルを横断するなら一年かかるといわれている」

「そんなに? すごい!」

「不毛の地も多いがな。砂や礫ばかりの砂漠、広大な塩湖、炎を吹く山……。人の暮らしてゆけぬ険しい自然を抱えた国だ」

 他にもリンゴやらハーブやらを集めながらエヴァンスは祖国のことを話してくれた。信仰のことや料理のこと、〈雷の豹〉とおそれられた父のことや忠実な従者シャルトルのこと。

 「村からほとんど出たことのない」ウラルには全てが新鮮で、記憶のない五年の間にも自分が自分らしく生きていたのが不思議で。だからついつい次の話をせがむのだけれど、エヴァンスはそのつど困ったような顔をしてしばらく黙りこんでしまう。けれど嫌なのかな、やめたほうがいいのかな、と思いつつ待っているとエヴァンスはちらと微笑って、不器用に言葉を選びながら思い出を語ってくれるのだった。


     ***


 夕方、ウラルは身体を清めるために村の目だたない場所にある貯水池へ向かった。村がこんなことになるまではウラルも湯を沸かして部屋の中で体をぬぐっていたのだが、さすがに夫でもない男の人と一緒に暮らしている家でそんなことをするのは気が引ける。だからウラルはヤカンに湯を沸かしてひとり池へ向かった。

 木立ちと藪に覆われた池のほとりで周りに人がいないことを一応確認し、寒さに震えつつ衣服を脱ぎ落とす。布を湯につけて体をぬぐおうとして、ふと自分の身体に傷があるのに気がついた。

「なに、これ」

 胸と腹にふさがってはいるけれど大きな傷跡がひとつずつある。ふさがりたての薄い皮膚の下に血の色が透けた、決して古くはない傷跡。場所も場所だし素人のウラルでもわかる。これは命に係わる大怪我だ。もちろん今のウラルにそんな大怪我をした覚えはない。

「私が記憶を失う原因になったのって、この傷?」

 いや、それにしては傷がきれいに塞がりすぎている。もしこれが直接原因に関わるものならきっとまだ傷はなまなましくて、ウラルはまだ痛みにうめいているはずだ。

「やっぱり私、戦争に巻き込まれてたんだ……」

 よく見てみれば左の二の腕にも白っぽい傷跡があるし、背中も手でなぞってみればひきつれた感触がある。きっとこの数年、ウラルはこんな大怪我をするような環境にいたのだろう。ショックで記憶が吹っ飛ぶほどの酷いことが起こる前から。それに。

 ウラルは首にかかったペンダントを手のひらの上へ置いた。身体をぬぐうだけなら外さなくていいかと思ってそのままにしていたのだ。とても大切なものだった気がする。もしかして誰かの形見かなにかなのだろうか。

 と、突然後ろでがさがさ音がした。誰かが池に向かってくる。

 エヴァンスが馬に水を飲ませにでも来てしまったのだろうか? いや、小屋の裏にはちゃんと井戸がある。わざわざここまで来る理由がない。ウラルが遅いから心配してきてしまったのだろうか? ウラルは慌てて服をひっつかんだ。

「たしかこのへんに池があったような、っと。お、あったあった」

 馬がひょっこり藪をかきわけてきてしまった。その鞍上には小柄な男の姿。半裸のウラルをまじまじ見つめて、.ウラルが思わずあげた悲鳴にうわぁっと声をあげた。

「う、ウラルかっ? まさかだよななんでこんなところで水浴びなんか!」

「ウラル、どうした!」

 動転する男の声にかぶって思いのほか近くからエヴァンスの声がした。それに驚くほどほっとして、けれど自分の格好を思い出してウラルはぎゅうっと身を縮めた。

「来ないでっ! ちょっと待ってっ!」

「エヴァンス、来んな! お前が見たら鼻血吹いて卒倒しちまう!」

「その声はフギンか?」

「違うんだ俺はただ馬に水のませに来ただけでべべべべつにウラル覗きに来たわけじゃないからな! これは不可抗力だからな!」

「貴様なにをしている! 今すぐウラルから離れてここへ来い!」

 男の台詞に一拍遅れて状況を察したのだろうか、名を確認したときのほっとした声が冗談だったとしか思えないほど激しい怒声が飛んだ。フギンと呼ばれた男はウラルから目をそらしてあたふたしている。

「とりあえずすまんウラル! またあとでな!」

 男はぱっと身をひるがえすとエヴァンスの声が聞こえた方向へ馬を駆けさせていった。ウラルは冷え切っているのだか火照っているのだか自分でもわからない体に慌てて服をまとい、藪の陰で並んでこちらに背を向け話している二人のもとへおそるおそる歩いていった。


     ****


「この痴れ者が! いい加減恥を知れ!」

「だから言っただろ不可抗力だってば! 俺は馬に水を飲ませようとしただけで!」

 少し離れたところで二人は池に背を向けて話していた。ふたり横に並んでみるとさっき来たばかりの男はエヴァンスより頭ひとつ小さい。これが噂に聞いていたフギンか、とウラルは不思議な気持ちになった。エヴァンスのような人を想像していたけれど、こうも正反対な人が出てくるとは。

「あの、エヴァンス? そんな怒らないであげて。こんなところで水浴びしてた私も私だから」

「ウラル! 元気そうでびっくりした。その、大丈夫なのか?」

 ものすごい勢いで歩み寄ってきたフギンにウラルは思わず身を引いた。エヴァンスがフギンの肩をがっしりつかんで押しとどめる。

「やめろ。怯えているのがわからないか」

「なんだよ、怯えるなんて間柄じゃないぞ俺たち。な、ウラル」

 にこっと笑った男には左腕がなかった。エヴァンスから話は聞いていたけれど、実際に目にすると背筋がぞくりとした。ウラルが後ずさるほどにフギンが前へ進み出てくる。

「あの、ごめんなさい、私……」

「フギン、落ち着いて聞いてくれ。ウラルは記憶喪失だ」

 エヴァンスが間に割って入ってくれた。は? とフギンがすっとんきょんな声をあげる。

「この五年間のことをまったく覚えていない。お前のことも、わたしのことも」

 フギンの顔から血の気が引いた。

「嘘だろ、ウラル。俺のこと覚えてないのか? まさかだよな?」

 ウラルとエヴァンスの間に入り込み、ウラルの肩をがっしり掴む。エヴァンスが引き離そうとするが離れない。

「ウラル、覚えてないのか? 俺だよ、フギンだよ! 思い出してくれ!」

「やめろ!」

 激しい恫喝とともにフギンの身体が吹っ飛んだ。

 怒りのためかエヴァンスの青い眼は煌々と燃え、投げ飛ばされた側のフギンも鋭い目でエヴァンスを睨み付けている。ウラルはすくみあがって二人から距離をとった。

「ウラル、先に帰っていてくれ。わたしはこの男と話がある」

 眼光に似合わない優しい声が怖かった。ウラルが怯えているのに気付いたのだろうか、ふっとエヴァンスが肩から力を抜いてウラルに向き直る。

「言い忘れないうちに言っておこう。どこかへ行くときはあらかじめ行き先を言ってもらえるか。水浴びのようなときは特に。……もう少しでわたしがお前を覗くところだった」

 軽口のつもりだろうか、けれどエヴァンスの顔は大まじめだ。

 エヴァンスの背後でぷっと吹きだす音がした。尻もちをついたままフギンがけらけら笑っている。

「笑うな」

「なんだ、俺がお前を姦淫の罪とやらから助けてやったんじゃないか。感謝しろよー」

 エヴァンスは盛大に顔をしかめている。どうやら二人は見かけより仲がいいらしい。これならお互い剣を帯びていても酷いことにはならなそうだ。ウラルはフギンの馬を連れてそそくさとその場を後にした。


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