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第四章 5「このぬくもりを胸に抱いて」 上

「お前は辛い、本当に辛い目にあった。目覚めたときは間違いなく正気を失っているだろうと思っていた。これはお前の神の恩寵だろう」

 男は暖炉に残っていた熾火をかきおこしている。薪を足して水の入った鍋をかけた。どうやらお茶にする気らしい。

「あの、いったい何が」

「思い出さないほうがいい。わたしも忘れられたのは辛いが、それ以上にほっとしているところだ」

 その言葉に嘘はないようで、ウラルがこの小屋を飛び出したとき男の青い目に踊っていた「裏切られた」とでも言いたげな驚きと痛みの入り混じったものは失せていた。辛そうではあるが穏やかな目で静かに暖炉の火を見つめている。

「村の人はどうなったかご存知ですか?」

「いや。ただそこの丘に墓らしいものがある。気になるなら行ってみるといい」

 髪も目もありえない色合いだし、纏っている雰囲気は無骨で怖い。だが落ち着いてみれば悪い人ではなさそうだ。ウラルを怖がらせないよう一定の距離をおいて、ウラルが家の前でしゃがみこむまで声をかけなかったりマントを持ってきてくれたり細かく気を配ってくれているのがわかる。

「覚えていることを話してもらえるか。この村が焼け落ちたときの記憶はないんだな?」

 ウラルはこっくりうなずいた。エヴァンスは淡々とお茶を淹れている。たちのぼった香りはウラルにとって少し違和感のあるもので、男が「外」から来たことを否応なく感じさせた。たぶんリーグ南部の茶葉だ。

「フギンという男を覚えているか。片腕で、馬に乗るのが上手い」

「覚えてないです」

「アラーハは。人の言葉を話せるイッペルスだ」

「冗談ですか?」

「となると、ベンベル国が攻めてきたこともリーグ国が一度滅びたことも知らないな」

 え、と固まったウラルにエヴァンスは自分はベンベルという国から来たからこんな容姿なのだと説明し、となると何年分の記憶がないんだと考えこむそぶりを見せた。

「そうだ、お前の歳はいくつだ」

「二十一です」

「わたしの知っているウラルは二十六歳だったはずだ。これでわかった、お前にはおそらく五年分の記憶がない」

 五年、そんなに。でも肩までの髪が腰にかかるまで伸びているのだから、それくらい経っていてもおかしくない。

「わたしがお前と出会ったのは三年前だ」

 そう前置きして、エヴァンスはこの五年間のことをざっくりと話してくれた。ベンベル国の侵攻のこと。リーグが一度滅びたこと。そしてリーグがベンベルを打ち破り、やっと戦争が終わったこと。その戦争のさなかで村を失ったウラルは今この小屋へ向かっているであろうフギンという男に救われて生き延び、敗戦の混乱のなか彼とはぐれてエヴァンスの家のメイドになった。その後は戦況の変化と運命のいたずらに翻弄されるままフギンとエヴァンスのもとを行ったり来たりしていたらしい。

 戦争のことを話しているときは台詞でも語るかのように淡々としていたのに、ウラルのことを話すときは何度も途中で黙り込んでしまった。全てを話していないことはすぐにわかった。でも質問したらとたんに困って黙ってしまうのが目に見えていた。嘘をつかぬように、おそらくはウラルが記憶を失う原因になったことに決して触れぬように。とても気を使って話してくれているのが伝わってきたからウラルは一度全てを信じることにして、黙って話を聞いていた。

 不思議な人だった。さっきまでリーグ人にはありえない容姿と顔色ひとつ変えず人を殺せそうな剣呑な雰囲気がただひたすら怖かったのに。

 と、突然頭上でものすごい鳥の鳴き声がした。鷹に似ているがそれよりはるかに巨大ですさまじい雷のようなさえずりに、ウラルは思わず小さく悲鳴をあげて身をすくませていた。

「大丈夫だ。仲間がロクに乗って来ただけだ」

 落ち着かせる響きをもった、だがわずかに驚きをはらんだ声だった。どうやらウラルは巨鳥のさえずりくらいでは動じない人間だったらしい。不思議そうにしているエヴァンスに照れ笑いしてみせると、エヴァンスも金色の睫を揺らして微笑んでくれた。

「外へ出よう」

 エヴァンスが鋭く指笛を鳴らすと、空を舞っていた巨鳥は二人に気づいた様子で翼をたたみ丘へふわりと降り立った。巨鳥乗りのシガルだ。聞き覚えのない名前におずおずうなずいてみれば、エヴァンスは大丈夫だとうなずいて、「お前にとってはわたしよりも長い付き合いのはずだ」と補足してくれた。

「ウラルさん! エヴァンスさん!」

 騎手は腰からつま先までをがっちり留めたベルトを次々とはずしている。その褐色の髪と瞳にほっとしていたところを巨鳥の琥珀の瞳に突然きょろんと覗きこまれ、ウラルは小さく悲鳴をあげてエヴァンスの後ろへ身を隠した。

 その様子で何かおかしいと感じたのだろうか。騎手が「ウラルさん?」と目をぱちくりさせている。ああやっぱりこの男とも知り合いなんだと納得と気味悪さと申し訳なさのいっしょくたになったものが押し寄せてきて、ウラルはエヴァンスの後ろでおろおろ視線をさまよわせた。

「シガル、他の者にも伝えてほしい。ウラルは記憶を失っている」

 男はぽかんと口をあけた。

「ごめんなさい。初めまして」

 頭を下げてみせるとシガルは「冗談ですよね?」と言いたげにでウラルとエヴァンスの顔色を交互にうかがい、それから言葉を失った様子で鞍から飛び降りた。

「そ、そうですか。じゃあ一応名乗りますが僕はシガル・スカルダ、ダイオ将軍の指示であなたを探しに来ました。まさかこんなことになっているとは思いませんでしたが、ご無事なようでなによりです。いや、無事とは言えないのかもしれないですが」

「ダイオ将軍?」

「解放軍の総大将です。あなたはダイオ将軍と共に……」

 シガルが急に顔をしかめて言葉を切った。見ればエヴァンスがシガルの腕をがっしりとつかんでいる。

「すまないが伏せさせてくれ。せっかく全てを忘れたお前に辛い思いはさせたくない」

 きつい静止にシガルも怒るどころか納得の顔でうなずいて、申し訳なさそうにウラルとエヴァンスを交互に見つめた。やはりよほどのことがあったようだ。エヴァンスが見るからに軍人だから戦争がらみかもしれないとは思っていたけれど。

「わかりました。でもいつか教えてね。それから嘘はつかないで。言いたくないって言ってくれたら私、無理には聞かないから」

 あなたを信じます。あなたのことはまだちょっと怖いけど、あなたの気持ちはきっと本物だから。

「ありがとう」

 無骨な男の微笑に胸がふわっと温かくなった。よほどその顔が珍しかったのだろうか、シガルが「どどどどうしたんですか」と言いたげな顔でぽかんとエヴァンスを見ている。エヴァンスが見返すと、シガルは「なんでもないです」と首をぶんぶん振った。

「そ、そうだ、水と食料を持ってきました。あと毛布とウラルさんの荷物も。どうしますか、すぐフランメ町へ戻ります?」

「いや、しばらくここにいるつもりだ。フギンと行き違いになっては困る。ウラルのこともある」

 私? と首をかしげたウラルにエヴァンスはうなずいた。

「ウラル、しばらくわたしと二人きりになるが構わないか。シガルと一緒に行けと言いたいところだが、お前の記憶のことを考えると人の多いところへしばらく行かせたくない」

 ものすごく律儀に大真面目に、なのにまるで恋人の台詞だ。この人はウラルとどういう関係だったのだろう。思わず目をしばたくと拒絶だと思われたのか困った視線が返ってきたから、ウラルは笑ってうなずいた。

「大丈夫。信用するわ」

 一応釘を刺すと、エヴァンスは大真面目で「できるだけ早く誰かを連れて戻ってきてもらえるか」とシガルに頼んだ。「メイルさんを連れて戻ってきます」とシガルはうなずき、ほかにもいくつかエヴァンスの頼みを聞いて再び空へと舞いあがった。

「馬探しを手伝ってもらえるか。ロクに驚いてどこかへ行ってしまったらしい」

 大きな石の上に置いてあった鞍を持ち上げる。合図のように何度か指笛を鳴らしたが、馬が寄ってくる気配はない。

「どんな馬?」

「真っ黒だ。このあたりに水場はあるか?」

「井戸がいくつか。あ、もしかしてあの馬?」

 ウラルたちのいる小屋の裏にある井戸、その脇にある桶をものほしそうにもしゃもしゃやっている馬がいた。

「喉が渇いてるのね」

 井戸は滑車が錆びついて使えなくなっていたが、桶にロープをくくりつけて汲んでみれば水は綺麗に澄んでいた。目の色を変えてじゅうじゅう水を飲む馬の首をウラルはそっとなでさすった。

「綺麗な馬。私、農耕馬しか見たことなかったから」

「お前は乗馬できるはずだ。記憶を失っても身体で覚えたことはできるという。気が向いたらやってみるといい」

「本当? すごく不思議な感じ」

 答えてからものすごく不安になって、ウラルは馬の身体から手を放した。 

「五年で人ってそんなに変わるものかしら。なんか完全に別人になった気がする」

「変わる。わたしもこの三年でほとんど別人になった」

 馬の顔に引き綱をつけ、エヴァンスは陶芸窯へ歩き始めた。どうやらここを即席の馬小屋にするつもりらしい。

「すべて変わったわけではないし、悪く変わったわけでもないだろう。心配するな」

 きっぱりした肯定の言葉が嬉しかった。窯の中からだからだろうか、きっぱりした口調のわりりに少しもごもご聞こえたけれど。

「小屋の掃除してるね」

 聞きたいことは山ほどあるが、聞けば彼は困るのだろう。馬の世話を始めたエヴァンスを横目に小屋へ入って全部のドアを開け、窓に打ち付けられた板をはがしてまわった。視線を感じて振り向けば、拾ってきた木切れを使ってめりめり板をひっぺはがしているウラルに陶芸窯から出てきたエヴァンスが目を丸くしている。

「こういう人間じゃなかった、私?」

 エヴァンスは苦笑してウラルの手から木切れを取りあげ、「拭き掃除を頼む」と床を指差した。

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