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第四章 4「泣かないで・泣いてくれ」 上

 その日、フェラスルト川は隣に立つ人の顔すらろくに見えないほどの濃霧に覆われた。

 風ひとつなく、物音ひとつせず。牛乳瓶の底に立ったかのような尋常でない霧、その上空から満月が静かに照らす中。幾千人の人々を乗せた巨大な〈船〉が世界を超えて旅立った。

「本当に消えちまった……」

 緑豊かな穀倉地帯も、エヴァンスの処刑場があったオグラン町も、焼け落ちた森の中の教会も。霧が晴れた時きれいさっぱり消え失せていた。そこには遥かな海があるばかり。

 呆然とする人々の中でエヴァンスは。

「Ka miu Gdda.(我らが神よ)」

 涙のように祈りの言葉を呟いた。


     *


「エヴァンス、ダイオから鳩便がきたぞ」

 その場でがさがさ開いたはいいが、フギンもエヴァンスもリーグ語の文章が読めない。適当に文字の読めるものをつかまえて読み上げてもらった。

――〈墓所の悪魔〉はリーグ北部のどこかにいる。王都奪還以降情報がないため、どこか人気のないところに閉じこもっていると考えていいだろう。フギン、エヴァンスの二名は〈墓所の悪魔〉を探し出し、ウラルを取り戻せ――

 ダイオじきじきの文章はそれだけで、あとは〈墓所の悪魔〉の目撃情報が事務的に書き連ねられていた。十五日前、エヴァンスが王都を出る少し前に王都北部の町にいた。それが最後の情報だった。

 エヴァンスはかすかに苦笑した。王都からフランメ町までは鳩の翼で三日かかる。少なくとも三日前、ふたつの世界が分かたれる前にエヴァンスが残ることを把握していたかのような。まるで神のように振舞う男だ。

「行くよな」

「無論だ」

「闇雲に探すわけにもいかねぇ。たぶん〈悪魔〉はウラルの記憶を頼りにどっかへ向かったと思うんだ」

 フギンはかつて〈悪魔〉に憑かれた。フギンに憑いた〈悪魔〉が頼りにしたのもやはりフギンの記憶だった。

 この状況でウラルが行きそうな人気のない場所。ふたりとも口にせずともわかっている――廃墟になったウラルの村と〈ゴウランラ〉の戦場跡のどちらかだ。

「今回は俺たちふたりで行くしかない。アラーハはまだ走れねぇし、〈悪魔〉への耐性がないシャルトルもウラルに近づいたら死んじまうぞ。俺がいりゃ治せるけど場所が二カ所なんだから分かれて行った方がいいだろ。ベンベルの残党狩りにあったら抵抗できずに死んじまいそうだし、せっかくお前についてきたとこ悪いけどここに残した方がいい」

 〈墓所の悪魔〉の病は一度感染し治った後は二度とかからないらしい。〈火神の墓守〉に治療してもらったとき流れ込んできたものが体に残って抵抗力になるのだそうだ。

「あの女医は連れていかないのか」

「その……具合が悪いみたいなんだ」

「医者の不養生というやつか」

「気分悪くて食い物受け付けないらしい。熱っぽいやら変に眠いやらでつらいそうだ」

 命に関わるほどではなさそうだが妙に心配している。流行り病の症状か何かなのだろうか。

「薬ならいくらでも持っているんだろう。おとなしくしていればすぐ治る」

「エヴァンス……あの、その、さ」

「なんだ」

「俺、あいつ孕ませちまったかもしれねぇ」

 いきなりの爆弾発言にエヴァンスは言葉を失った。フギンは目をそらして恥ずかしそうに鼻をこすっている。

「その、つわりってそんな風に吐き気したりするんだろ? それかもしれねぇと思うと心配でよ」

「……心当たりがあるのか」

 まぁ、と頼りない返事をしたフギンをエヴァンスはにらみつけた。

「貴様、この戦時に妻でもない女となにをしておった!」

「なんだよいきなり怒鳴るなよ、俺だって早まったと思ってるよ!」

「この軟弱者が、見損なったぞ! 七罪のひとつを真っ向から犯すとは恥を知れ! 教会へ突き出してくれるわ!」

「なんでお前がそんな怒るんだ! というかここリーグだから! ベンベルじゃないから! 落ち着いてくれ!」

 思わず飛び出した怒声をなんとか飲み下す。これほどの罪をおかしておきながら平然としているとは。ベンベルへ行かないと決めたら急に元気になっちまって、狂信者め。フギンはそんなことをぼそぼそ言っている。

「ベンベルでなら姦淫の罪で男女ともに死罪、追放、あるいは強制労働だぞ」

「嘘だろ?」

 ぽかんとしたフギンの表情に怒りが引いていった。ここはリーグだ。聖典のない異教の民族だ。

「……決してやってはならぬと戒められ、一日五回も誓い続けている法を破るのだ。それくらいは架されてしかるべき」

「どんだけストイックな国なんだよ。じゃあ娼館もないのか?」

「あれは異教徒と背教徒の行くところだ」

「それってお前が変人なだけなんじゃ」

「黙れ。お前はウラル一途ではなかったのか。こうも簡単に心変わりするとは」

「俺は誰かさんと違ってすっぱりばっさり振られてるんだよ!」

 やけっぱちのように怒鳴ってぷいと後ろを向いてしまった。

「認知はするんだろうな?」

「当たり前だ! 次の風神祭で夫婦になるよ。というかベンベルって一年中いつでも結婚できるんだっけか? 俺たちは秋の風神祭でしか結婚式あげられないんだからな。妊婦はむしろ祝福されるんだ。ベンベルの法律押しつけないでくれ」

 むくれてから、またそわそわし始めた。

「あー、男の子かな。男の子だったらいいなぁ」

 気が早い。生まれてくる子の心配らしい。

「メイルなら俺が片腕でも立派に子ども育ててくれそうだ。息子ができたら一緒にやりたいと思ってたこと、できないこと多いのが残念だけどさ。でも全部じゃねぇ。乗馬だってイタズラだって教えられる。いっぱいいろんなことやって一緒にメイル困らせてやるんだ」

 次はひとりで笑っている。むくれたりご機嫌になったり忙しいものだ。

 フギンの夢。ウラルを追って「あちら」へ行けないフギンの、ウラルを必死で引き戻そうとし続けたフギンの。三年前のウラルなら叶えられただろう。一年前のウラルでもまだきっと叶えられた。だが今は。

「ばか言わないでちょうだい。夫と子どもの代わりに子どもが二人できるなんて嫌よ」

 トイレにでも行っていたのだろうか、部屋で寝込んでいるはずの張本人の声がした。

「メイル! そ、その、つわりの具合はどうなんだ?」

「つわり? 昨日の今日で始まるわけがないでしょ、ただの風邪よ」

 つっけんどんに言い放ってからちらりとエヴァンスの方を見る。みるみる頬が赤くなった。

「ばか、そんな堂々と公表しないで。恥ずかしいでしょ」

「なんだよ、繊細なふりしやがって」

 フギンがほっとした様子でわしわしメイルの頭をなでている。メイルは迷惑そうに頭を振って自分の部屋の方へ逃げていった。

「一応言っとくけど、ウラルのことが嫌いになったわけじゃねぇからな。ウラルもずっと、一生かけてずっと傍にいてやりたいよ。でもこれが俺の夢だったんだ。卑怯とでも軟弱とでも好きに言ってくれ。ほんとのことだ。ウラルにはお前がいる、俺なんかよりずっとウラルにふさわしいお前が」

 メイルは昨日今日の話だと言っていた。フギンはエヴァンスの決断を待って、そのうえでメイルを抱きしめたのだ。フギンなりの誠意なのだろう。エヴァンスとはまるで価値観の違うフギンなりの。

「話戻すぞ。ウラルの故郷と〈ゴウランラ〉の戦場跡、ウラルはどっちにいると思う? お前がこっちだと思う方へ行ってくれ。俺はもう一カ所の方へ行くから」

 そうしてにかっと子供っぽい笑顔を浮かべた。

「ウラルを取り戻して四人で暮らそうぜ。あ、アラーハも加えりゃ五人か。隣あわせで家たててさ。〈エルディタラ〉と〈フェスオ・ソルド〉の連中も近所に暮らしてりゃ楽しいだろうなぁ」

 そんなところにエヴァンスはいられるだろうか。戦争もない世界でなにかしらの職につき、ウラルが台所に立って迎えてくれるようなところに。

 まったく想像がつかない。平凡に暮られせばウラルも普通の女に戻るだろうか。平穏に暮らせればエヴァンスも穏やかな男になれるだろうか。

「……そのときはシャルトルも一緒に住ませてやってくれ」

「ああ、忘れてた。もちろんだ」

 笑顔で答えるフギン、だが続けられた声は重かった。

「お前たちを放り出したりはしねぇよ。――たとえ、ウラルが戻ってこなくても」


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