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第四章 3「ふたつの世界」 上

 火神軍のリーグ王都奪還とほぼ時を同じくしてリーグ・コーリラの東海岸に不思議な、すさまじい嵐が訪れた。

 海は霧と豪雨と高波に閉ざされ、百戦錬磨の海の男もムールも海へ出ることができなくなった。しかし海上ではリーグ・コーリラの境界にある最も高い山ハープガルムの頂よりもさらに高い波が伸びあがり渦巻いているというのに、海岸には津波のひとつも訪れず、しかも港町から内陸側に少し行くだけで空はからりと晴れあがってしまうのだ。

 あの嵐はこの世のものではない、水神が海へ出るなと言っているかのようだ――そう、実際水神が手を下していたのだ。彼がベンベルの神と話し合いを終えてから月は五度欠け、五度満ちた。間もなくこちらとあちらの世界が分かたれる。水神はあちらの神の同意のもと最後の警告を下したのだった。

 大規模な戦の気配、それにシャルトルや三人の神官たちの誘導で非戦闘員のベンベル人は大部分が本国へ戻っていたが、嵐が何日経ってもおさまらないとなるとベンベル人たちの間には不安と混乱の波が広がり始めた。

 さらに時同じくしてベンベル人の神官たちに突然信託が下った。全てのベンベル人よ、〈大いなる壁〉の南へ向かえと。リーグ王都でコーリラからのベンベル援軍からと睨み合っていた火神軍はそれを合図にあっさりと籠城を決めこんだ。

――この国は突然「なにもないはずの海域」に現れたのだろう。同じように次は消えてしまうのだ。祖国に戻りたいならば今すぐ〈壁〉の南へ向かえ。これはお前たちの神の温情、かの土地がお前たちを祖国へ連れ帰る船となる――

 ダイオの言葉をエヴァンスがベンベル語で記した手紙がベンベル軍に届けられた。

――この国に残ったベンベル人はこのダイオ・エタオクが皆殺しにする。リーグ人とコーリラ人はもはやベンベル人には屈しない――

 静まれ、これは超常の力を使うリーグ人の罠だ。最初は必死に統制しようとしていたベンベル軍だが、火神軍にそれ以上まったく動きがない、ベンベルの神官たちも同じことを言っているとなると次第に揺れ始めた。そしてベンベル軍による〈壁〉南部の土地奪還の一報が伝わると、増援の名目でほぼ全軍が南へ移動し始めた。

「エヴァンス、お前はどうする」

 エヴァンスの望みは己の神に裁かれ罰を賜ること。ベンベルに戻るなら戻れと、ダイオはそう言っている。

「ウラルはどうなる」

 戦場に何度か現れた後、〈死病の悪魔〉はぱったり姿を見せなくなってしまった。コーリラ国へでも行ったのか、それともどこかに身を隠しているのか。

「戦はじきに終わり、俺の役目も〈死病の悪魔〉の役目も終わる。できるだけ早く〈悪魔〉の居場所をつきとめ、その身体をウラルに返そう。……〈悪魔〉を祓ったところで元のウラルに戻る保証はないが」

 ウラルはこれほど多くの人の命を奪ってなお正気を保っていられる人間ではない。あの娘の心は既に砕けているはずだ。ダイオはウラルにしたのと同じ説明をエヴァンスにもした。戻ったところで生きた人形と化しているか、あるいは狂気のうちに周りの全てを壊そうとするか、自死を選ぶか。笑顔をもう一度見ることはおろか、まともに語らうことさえできないだろう。

「ウラルはどれほどの人間を死に至らしめた?」

「数えたわけではないが、ざっと見積もってベンベル兵千人弱といったところか。それに加えて〈火神の墓守〉の治療が間に合わず死んだリーグの一般市民も少なからずいるはずだ」

「ウラルが聖女として救った者より多いのか」

「〈死病の悪魔〉が暴れまわってくれたおかげで生き残った者の方がはるかに多いだろうがな。それにしたところで命の足し引きなど無用のもの。あの娘にとっては目の前で失われた命が全てだ」

 何も起きずともウラルの心は既にあちらへ行きかけていた。ウラルは予告していたしエヴァンスも覚悟していた。だが。

「エヴァンス、お前が選べる道はふたつにひとつ。ベンベルに戻り裏切りの魔将軍としてあちらの神に八つ裂きにされるか、こちらに残り敵国の人間として白い目を浴びながら抜け殻になったウラルを支えて生きてゆくか。どちらか選べ」

 エヴァンスはポケットに入った三人分の遺品を握り締めた。〈黒竜〉グライス、〈鋼の髑髏〉ケルヴィン、〈荒天の碇〉ユリウスのペンダントと遺髪。

 黙ってうつむくエヴァンスを残し、ダイオはきびすを返して歩み去っていった。

「エヴァンス、お前リーグに残れよ」

 城壁から地上を見下ろしてみればフギンがいる。どうやら話を聞いていたらしい。

「ベンベルに戻ったら殺されちまうんだろ? お前と殺し合ってきた俺が言うのもなんだけどさ、死ぬなよ」

「……わたしは罰せられなければならない。ウラルの分まで罪を負って、わたしは業火に焼かれよう」

「てめぇ、この馬鹿野郎が!」

 階段をのぼって欄干にいるエヴァンスのもとまで上がってくるなり、フギンはエヴァンスの襟ぐりをひねりあげた。

「ウラルがそんなこと望むとでも思ってんのか! ウラルがここにいたら泣いてお前を止めるぞ! ウラルは行っちまう前にお前に生きろって言ったんだろ! お前自分を殺してもらうために昔の戦友殺したのか!」

「フギン」

 フギンの顔が真っ赤だ。今にも頭のどこかの血管が切れてしまいそうだ。

「許さねぇぞ、お前は頭目を、ジンを殺したんだろ! 頭目が生きてればウラルはもうちょっとましな生き方できたかもしれねぇ。少なくともずっと頭目の亡霊に囚われて今まで生きてはいなかった! 責任を果たしてくれ! 生きてウラルの傍にいてやってくれ!」

「……やめろ」

 ひとりでに顔が歪む。苦しくはない。フギンは隻腕だ、振り払おうと思えば簡単に振り払える。だが。

「やめろって言える立場じゃねぇだろお前!」

「やめてくれ。頼む」

 フギンがエヴァンスを突き飛ばした。乱れた襟元を整えながら、エヴァンスは息苦しさを覚えてレンガ造りの壁に手をついた。

(お前自分を殺してもらうために昔の戦友殺したのか!)

(お前は頭目を、ジンを殺したんだろ!)

(責任を果たしてくれ!)

 胸が、苦しい。

「また死ぬとかベンベルに帰るとかぬかしたら容赦しねぇからな。覚悟しとけよ」

 捨て台詞を吐いてフギンが背を向ける。エヴァンスはその背中をしばらく見送ってから、がつん、とレンガの壁に頭をぶつけた。

「……なんだこの音。エヴァンス、何やってんだ?」

 がつん、がつん、がつん。

「おい、やめろよ。どうしたんだ」

 がつんがつんがつんがつんがつん。

「おい、エヴァンス! エヴァンス! 聞こえないのか!」

(責任を果たせ)

(己に課せられた責任を果たせ、エヴァンス・カクテュス! ウセリメの神に仕える者よ!)

(お前は咎人だ。罪を犯せば必ず償わねばならぬ、それが我らが神の法)

「悪かった、俺が言い過ぎた! だからやめてくれ! 額が割れちまうぞ!」

 エヴァンスの額がレンガを覆うように差し出されたフギンの腕に当たって止まった。

「……ひとりにしてくれ」

「できるわけねぇだろ!」

 レンガで額が切れたらしい。あふれた血が鼻梁の脇を流れていく。

「頭と胸の中でなにかがぞろぞろ這い回っているかのようだ。この身体に剣を突き立てて全部えぐり出してしまいたい」

「お前やっぱり相当精神的にきちまってるな」

 気味悪そうに言いつつフギンはがっしりとエヴァンスの肩をつかんだ。戻ってこい、向こうへ行くな。

「とりあえず部屋に戻ろうぜ。消毒して止血するぞ。それからしばらく横になってろ。愚痴聞いてやるからもう今みたいなことしないでくれ」

 フギンがポケットをかきまわしたが、どうやら止血に使えるような道具は入っていなかったようだ。傷口を手できつく押さえろと指示して、エヴァンスを引きずるように歩きはじめた。

「フギン」

「ん?」

「わたしはこんなに弱い人間だったろうか」

「今までが完璧超人鉄面皮野郎だったんだよ。今が普通だ。さすがに驚いちまったけどな」

 途中の井戸で傷を洗い、部屋に戻って薬を塗った。フギンも含めほとんどの兵は相部屋だが、ベンベル人でしかも一応将軍ということになっているエヴァンスには一人部屋が与えられている。傷の手当をしても出ていく様子のないフギンにエヴァンスはかすかな苦笑を漏らした。

「お前は怒るだろうが、わたしはフランメ町へ戻ろうと思う」

 歩いている間にいくらか冷静になったようだ。ここにいるよりはあの町へ行った方がいい。〈壁〉の真正面にあるあの町、ウラルが奇跡を起こした町フランメへ。

「俺も行く」

 即答だった。

「お前もウラルとおんなじだ……俺にお前は止められねぇ。力ずくで行かれたら俺よりお前の方がずっと強い。俺は黙って見送ることしかできない」

 ぼそりと落とされた言葉は恐怖の色をはらんでいた。気づけばフギンの顔から怒りの色は綺麗に消えて、どうにもならない憤りを宿した顔をしている。あの焼けた教会までウラルを追った時に浮かべていたのと同じ。

「くそっ、俺はお前を憎んでるはずなんだけどな。一生憎み続けてやるって誓ったのに。お前、ウラルよりはタフだろうし、ウラルみたいに突然体が透けたりしないだろ。思いっきりお節介焼いてやるよ。最後まで引き止めてやる」

 フギンは喪ってきた。ウラルを、ジンを、〈スヴェル〉の仲間を。生と死の狭間で、あるいは正気と狂気の狭間で。

「生きろ。結局はそれしか言えねぇけどよ」

 ベンベルか、リーグか。信仰への忠誠か、ウラルへの想いと責任か。罪を裁かれた上での死か、裏切り者としての生か。――この国で生きることが選択肢に加わっていることに今更ながら気づいてエヴァンスは唇を歪めた。神の裁きを受け咎人として死のう。ウラルにとどめを刺せなかったあの時にそう決めていたのではなかったか。


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