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第三章 5「たすけて」 下

 ウラルは歩んだ。この先にあの風景がある。あの白と黒と紅だけの世界がある。

 フギンとエヴァンスが追ってきているのがわかる。フギンはまだ馬に乗れる状態ではない。でも無理をして駆けている。病床のアラーハも案じている。戻らなければ。戻ってみんなに笑顔を向けなければ。

 でも。ウラルは生者の側にいる人間ではない。死者の側に立つ人間だ。胸の奥にある墓所、その棺から聞こえる声を優先しなければいけない。

――風神。どうして。

 行きたくない。この先に待ち受ける光景が、待ち受ける出来事が。おそろしくてたまらない。風神も苦しむのは目に見えているのに。

 どうして風神はここまでウラルを導いてきたのだろう。何度も繰り返されたこの道を。

――わかるよ。

 それが悪い結果になるとしても、助ける力を持っているのに何もしないのはあまりに辛い。ウラルが同じ立場だったとしてもきっと同じ道を歩んだ。そうしてずっとずっと歩んできた。

――ごめんなさい。

 ただ降りかかるかなしみから守りたかっただけなのに。この非力な両腕でも抱きしめられるものがあると信じていた。驕りだった。ウラルはどこにでもいる小娘、足を引っ張ることしかできないのに。ウラルは死神の使者、一時的になにかをもたらせたとしても最後には奪うことしかできないのに。

 どうか誰も誰かの死に涙しませんように。誰かの怪我に打ちひしがれませんように。誰もが笑って過ごせますように。

 わかっている。人が人である限りそんな日は訪れない。

「ウラル!」

 いのちの世界の、声がした。


     *


「ウラル、やっと見つけた。探したぜ(――追いつけた。もう会えないかと思った。行かせたくない。ここで止める)」

 腹の傷がかなり痛んでいるはずなのに、そんな気配はみじんも見せずフギンがウラルに笑みを向けた。でも額には脂汗が、差し出された手には冷や汗が浮かび、肩の線は張り詰めている。

「どこへ行く気だ?(――この先に『わたしの手の届かないところ』があるのか? そうは思えない。ただ森が広がり、途中に小さな村がいくつかあるだけではないか)」

 硬く尖った声はエヴァンスのもの。だが冷静な声、表情のない顔とは裏腹に、その腹の中には不安がある。彼に似つかわしくない恐怖がある。

「戻ろう。アラーハも心配してる。このままお前が戻らないとなったら発狂しちまう勢いだったぜ」

 フギンはウラルの前に立ちふさがる形で栗毛馬を止め、その背から飛び降りた。

 ウラルは黙って道の先へ顔を向ける。

 風向きが変わった。追い風が向かい風に。

 血の、におい。

 フギンとエヴァンスが顔を見合わせた。煙のにおい、鼻の奥が痛くなるような髪と骨が焦げるにおいも混じっている。

「様子を見てくる」

 エヴァンスが青毛馬の腹を蹴った。

「ウラル、向こうで何が起きてる? お前はそこを目指してたのか?」

 ウラルはただ金の髪と黒い馬を見送るだけ。

 彼の向かう先に何があるのか。ウラルは知っている。オグランから帰ってきてから何度も何度も目にしてきた。何度も何度も何度も何度も何度も。

「(何をしている! やめろ!)」

 道の先からベンベル語の怒声が聞こえた。応えるように何人かの激しい悲鳴があがる。

「エヴァンス! 何があった!」

 フギンが叫ぶ。が、返ってくるのは意味をなさない悲鳴だけ。

 ウラルはそちらへ向かって歩み出した。フギンが慌ててウラルの腕をつかむ。が、つかんだはずの手はウラルの体をすりぬけた。

「行くな、ウラル!」

 もう一度ウラルの肩をつかもうとする。すりぬける。ウラルは歩き続けている。

 フギンが馬の手綱を持ったままウラルの前に立ちはだかり、大きく両手を広げた。ウラルはフギンの体をよけもせずに歩き続け――フギンと馬のからだを、通り抜けた。

「うそだろ……」

 ウラルは歩き続けている。開いた口がふさがらないフギンを残して。まっすぐに。この道の先へ。ウラルが歩き続けてきた道の終焉へ。

 そこは森の中の大きな教会だった。真っ黒に焦げぶすぶす煙をあげる少し前まで教会だったもの。その前にある畑の中に、家畜の放牧地の中に。小さな死体が横たわっている。いくつもいくつもいくつも。数えきれぬほどの血みどろの死体。顔をつぶされ横たわる紅。紅。紅。紅。紅。

「オグランの惨状に絶望した神官が子どもを殺したようだ……」

 さしものエヴァンスも声を震わせている。祈りの祭壇を血で穢しただけで彼のような罰を受けるのだ、ましてこの惨状は。

 子どもを教会に差し出せば減税する。教会に行けば子どもは飢えずに済む。ベンベル国が他国を洗脳するための常套手段。それをウラルとダイオ、風神と火神が打ち砕いた。その混乱がこの惨事を招いた。

 どうか殺してください。罰してください。血みどろの神官たちが泣き叫ぶ。エヴァンスは天を仰いで雷を、怒れる神の槍を乞い願った。

「ウラル、聞こえるか? 帰ろう。ここにいちゃいけない。な?」

 フギンの呼びかけを無視してウラルは血の海の中へ足を踏み入れる。フギンとエヴァンスが追ってくる。けれど二人ともウラルには触れられない。どういうことだとエヴァンスが問う。わからないとフギンが青ざめ首を振る。

 ウラルは風だ。ウラルからは触れられる、けれどもう誰もウラルには触れられない。

 焼け残った教会の前でウラルは足を止めた。そこに転がっていたのは乳飲み子の死体だった。さすがにこれほど小さな赤ん坊の顔を潰すのはためらったのか、首に絞められた跡があるだけだ。

 ウラルは赤ん坊の遺体を抱き上げた。やさしくやさしく胸に抱き、あやすように揺すり始める。やっと首がすわったばかりの赤ん坊。青白い頬に顔をすりよせ、弔いの歌を口にする。子守唄を口ずさむように。

「ウラル……」

 ――どうして今まで忘れていられたのだろう。ずっと意識の下に押し込めていた。もう鍵穴には鍵が刺さっている。穴が開きもろくなった心からなにかが轟音とともに溢れ出す。心の一番奥にうずめた記憶が膨れ上がって牙をむく。

 ウラルは赤ん坊を絞め殺した。

 サウという名の赤ん坊、幼馴染の小さなぼうや。母親は血泡を吹いて死んでいた。泣き叫ぶ赤ん坊を抱いてリンゴ園を駆け抜けた。声が漏れるのが怖かった。胸の中に包みこんで、固く固く抱きしめた。そうして小さないのちは泣くのをやめた。

 ウラルは赤ん坊を絞め殺した。

 誰も死んでほしくない。誰にも傷ついてほしくない。どのつら下げてそんなことが言えるだろう。無抵抗の小さな命をこの手で握りつぶしておきながら。どのつら下げてそんなことを言い続けて、たくさんの人を殺してきただろう。これからどれだけの人を殺すことになるのだろう。

 ウラルは赤ん坊を絞め殺した。

 すぅ、と涙が頬をつたう。左目から。右目からも。赤ん坊の体に染み込んでいく。ウラルの涙が落ちたところがぽつり、ぽつりと黒くなる。渇いた大地に雨が染み込むように。赤ん坊の顔がだんだん黒くなっていく。

 ウラルは赤ん坊を絞め殺した。

 ウラルは顔を歪めていない。顔の上半分を覆う仮面をかぶったかのように口元以外は動かないまま、声も上げずに泣いている。涙は眼球を流し去るかのような激しさで溢れ出し、赤ん坊の小さなからだをぐずぐずに濡らした。

 ウラルは赤ん坊を絞め殺した。

 墨染めの赤ん坊を抱いてウラルは歌い続ける。弔いの歌を。どこからともなく竪琴の音が聞こえ始め、ウラルの歌声に重なった。

「ウラル?」

 不意にウラルの手の中で赤ん坊の体が弾け飛んだ。

 赤ん坊の体に詰まっていたのは血と臓物ではなく真っ黒な風だった。黒い巨きな風は竜巻となってフギンを、エヴァンスを、辺り一帯を襲った。

 風を浴びたエヴァンスの顔がすぅっと色を失った。激しく咳込む。大きな体をふたつに折ったかと思うと、血の混じった胃液を吐いた。

「おい、エヴァンス! どうした!」

「フギン……何が起きている……?」

 エヴァンスの後ろで神官たちも馬たちも、のたうちまわって苦しんでいる。黒い風に取り巻かれて。フギンがウラルを見つめた。

 言ったでしょう、私は魔女だって。

 私は聖女じゃない。私は風神の使者、死神の代理人。

 どさり、とエヴァンスが倒れた。神官が、馬が次々に倒れていく。無事なのはただひとり、フギンだけ。

「こういうことか……〈火神の墓守〉の俺にわかるってのは……」

 風の女神が〈墓所の悪魔〉に姿を変えた。

 黒い風の中、ウラルの姿が消え失せた。


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