第二章 1「散る同士」 下
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「ちょっとそれ、どういうことよ!」
故郷の村が襲われて以来、ウラルは寝つきが悪くなっていた。どこからともなく聞こえてくる赤ん坊の泣き声に半ば耳をふさぎながらやっと眠りについたのだが、突然の大声に叩き起こされてしまった。ウラルは寝返りをうち、頭から毛布をかぶった。
「決まったことなんだ、マーム」
どうやら、サイフォス夫妻の夫婦喧嘩のようだ。
「ここを出ていけって。私たちの家じゃない」
「本来、ここの土地はこの森とこの森の守護者のものだよ。人が持ってはならないものだ」
「そんなことを言ってるんじゃないの!」
「わかっているさ。でも、決まったことだ」
様子がおかしい。出て行け、とはどういうことなのだろう。
「そんな。どうして。わけがわからない」
「お前の故郷、アラス地区だったよな。そこへ行け。逃げるんだ」
「何から逃げるっていうのよ」
サイフォスのため息が聞こえた。苦悩に満ちた、長い息。衣ずれの音が聞こえて、サイフォスがマームを抱きしめたのがわかった。
「俺は、たぶん死ぬ。今回の戦で」
ウラルは耳を疑った。半ば飛び起きるようにして体をおこす。聞き耳などたてなくても一字一句聞き取ることができる。マームが嗚咽を漏らしているのも、ときどき洟をすすりあげているのもわかるのだ。
サイフォスの声は低く沈んでいる。冗談のたぐいではなさそうだ。
「なんでよ。なんでそんなことがわかるのよ!」
「二百人、リーグ兵が死んだそうだ」
「えっ?」
二人の姿が見えないとわかっていながら、ウラルは声のする方を見た。半月に照らされた壁がある。
「見たこともない武器で、国境を警備していた兵士が死んでいったそうだ。コーリラ国は、おそらくその武器でもう滅びている。それが、〈ゴウランラ〉の推測だ。海をこえた大陸にある国、ベンベルの、『炎の薬』で。小さな火をつけるだけで、簡単に大爆発を起こせる兵器だそうだ」
サイフォスの声がわずかに震えた。
コーリラ国はこの国、リーグ国が唯一国境を接する国だ。海の果てにまた国があるなど、ウラルは聞いたことがない。しかし、どうやら海の果てにはベンベルという国があって、その国がコーリラ国を滅ぼし、このリーグ国までのみこもうとしているらしい。それも、「炎の薬」という恐ろしい武器を使って。
ウラルはきつく毛布を体に巻きつけた。何が起きているのかわからない。体がひどく頼りなくなったような気がした。
「そこへ今回、俺たちは、」
「なんでよ! なんでそんな場所へあなたが行くの? リーグの軍が出てるんでしょう? あなたが行く必要なんてないじゃない!」
サイフォスが言いおわってないにもかかわらず、マームが叫んだ。壁の薄い向かいの部屋でウラルが寝ていることなど、すっかり忘れてしまっているのだろう。
サイフォスはしばらく、黙っていた。何度かマームが洟をすすりあげる音がする。
「この組織が何をしているか、覚えてるか?」
「覚えてるわよ。私だって、組織の一員なんだから」
「言ってみてくれ」
「国家の横暴を決して許さず、農民や奴隷の理由ない死をくいとめること」
「戦が始まれば、一番苦しむのは誰だ?」
マームが黙る。サイフォスはなだめるような口調で続けた。
「農民だけじゃない。全ての人間が苦しむ。平和あっての幸福だ。指をくわえて見ているわけにはいかない」
「じゃあ、戦わなければいいじゃない。最初から。鎖国でもすれば、いいじゃないの」
「リーグの軍が出てる。もう始まってるんだ。止めるなら、戦うしかない」
マームの嗚咽がはげしくなった。
「どうしても行くの? 私が泣いて頼んでも?」
サイフォスの苦しげなため息が聞こえた。
「行く。君はもっと南へ行くんだ。もし侵攻がはじまるなら、北からだから」
「知らせずに行ってくれたらよかったのに。ジンは私とウラルに席をはずすよう言ったんだから」
「大将は俺から君に一対一で言えるように、気を使ってくれたんだよ」
サイフォスが低い声でごめんな、と謝るのが聞こえる。マームが泣きくずれるのがわかった。サイフォスが謝りながらその背中をなでてやるのが、ウラルにはわかった。
サイフォス夫妻の話し声が聞こえなくなってもウラルは眠れず、自分の体を抱き、膝に顔をうずめて、朝を待った。
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毎日のように暖炉のそばで干されていた洗濯物が少しずつ姿を消していった。マームが口をすっぱくして各自の部屋へ持っていくように言っていたほぼ全員のコートも、今となっては最後の一着がソファーにひっかかっているだけだ。
旅支度をしたフギン、イズン、サイフォス、マームの四人がジンの前に整列していた。四人が行ってしまったら、この家にはウラルとジンの二人だけしか残らない。ほかはそれぞれ、どこかへ旅立ってしまった。
「頼んだぞ、三人とも」
サイフォス、イズン、フギンが異口同音に「わかりました」と答える。ジンはうなずき、マームに向きなおった。
「マーム。本当にすまない。気をつけて」
「火神の加護を祈るわ。みんなに。生きて帰ってきてね。それで私を迎えにきて。私だって組織の一員なんだからね」
「約束する」
悲しげな笑みをつくるマームの右手をジンの手が包みこみ、強くにぎった。
「ウラル、あなたも元気で」
マームが片手を伸ばしてきた。ウラルはその手を取らず、マームの小柄な体をを抱きしめる。ウラルのほうが泣きそうだった。マームはここ数晩で涙を使いはたしてしまったのか、ただウラルの腰に回された腕の力を強めただけだった。
四人が出ていってしまうと急にリビングが広くなったように見えた。ウラルは窓から玄関の方をのぞきこみ、四人の後ろ姿を見送った。男三人はこれが別れではなさそうだが、マームはもう、会うことができないのだろう。
ジンは黒いコートがかかったソファーにどっかりと座り、痛みをこらえるような顔で目を閉じていた。
「みんな、どこへ行ったの?」
マームがきっちりと片付けていったキッチンにウラルは立ち、ポットに茶葉を入れた。暖炉のヤカンから沸騰している湯をそそぎ、マグカップをふたつ、机の上に出す。
「今まで何の説明もなしに、すまなかった」
ウラルはジンにカップを渡し、その隣に座る。
「コーリラが滅ぼされた。リーグ国の東の海をこえたところにある大陸のベンベルっていう国に。確かな情報だ。今日の明け方、使いの鳥がきた」
ウラルは、そう、とうなずいた。それ以外に言いようがなかった。
「思っていたより、驚かないな」
「マームさんとサイフォスさんの話、聞いちゃったの。ユルさんが来た日。マームさん、泣いてた」
ジンは小さな声でそうか、と答えた。
「どこまでサイフォスはマームに話した?」
「今度こそたぶん死ぬ、って言ってた」
「そこまで言っていたか」
「どうすればいいか、わからなかった」
もう一度、ジンが「そうか」と呟いた。前の呟きよりは聞き取りやすい声だったが、その分苦しいものがにじんでいるのがはっきりとわかった。
「なぁ、ウラル」
おもむろに、ジンは話しはじめた。
「十六、七のやつらが軍隊に加わって厳しい調練を受けるなんて、間違ってると思わないか? そりゃあ軍隊にあこがれているやつもいるだろうが、中には親を軍隊に殺されたやつもいる。ウラル、お前みたいなやつが、この国には山ほどいるんだ。当然、軍なんざに入りたくはない。軍の召集をこばんだやつらが追われて、同じように追われたやつらと連絡をとりあい、組織を作る」
ジンの声に熱がこもった。なぜか、覚悟を決めたような目つきをしている。
「団員が増え、組織の中で力関係が定まってくるにつれ、組織は軍隊のようになっていく。そうしてできていった組織の『次期頭目』がサイフォス、マライ、リゼ、ネザ、それからフギンだ。同じ敵と戦うなら二百人より千人の方がいいにきまっている。それで、この〈スヴェル〉という組織を介して五つの組織がつながっている。いわば、俺らが反国組織の司令塔なんだ。ここに来たユルは北の国境を見張ってる〈ゴウランラ〉って組織の伝令をやっている」
アラス村のときの〈アスコウラ〉のような軍隊が、ほかにいくつも集まるのだ。ジンの説明はあまりよくわからなかったが、大きな戦になるのだろうということはウラルにも理解できた。
「イズンは?」
「興奮しすぎたな」といった様子でジンは軽く頭をふり、落ちついた声で答えた。
「イズンは、実は貴族の出だ。この組織の資金はだいたいイズンが流してくれている。王都の親父さんに会いにいって、ついでに宮廷の様子も見てきてくれるそうだ」
「大きな戦なのね」
確かめるように聞くと、低い声でああ、と返事が返ってきた。
「どうしてあの時、席をはずしてほしいと言ったの?」
「この話をしてから、聞きたいことがあった」
「何?」
ジンはまだほとんど中身の残っているカップをひじかけに置き、ウラルとあらためて向かいあった。
「お前は、村に戻りたいか? 麦を作って、結婚して、そんな穏やかな暮らしに戻りたいと思っているか?」
「いまさら、そんなこと言われたって」
本当に「いまさら」だった。半年前、アラス村の一件があってからは、ウラルはこの組織と行動を共にすると決めていたのだ。
「今なら、まだ戻れる。マームと一緒に行けばいい。普通の村娘に戻りたいなら行ってくれ」
「ジン」
息が苦しくなる感じがした。
「ジンは、どう思っているの? 私にこれ以上、ついてきてほしくないと思ってる?」
「白状すると、足手まといだと思ったことが、何度かある」
ウラルは立ちあがった。組織の頭目であるジンが言うのなら、しかたがない。
「正直に言ってくれてありがとう。準備、してくるね」
「俺の意見で決めないでくれ」
声に背中を殴られたような気がして、ウラルはびくりと足を止めた。
ジンの口調自体は激しくない。むしろ静かだ。だが、このまま逃げることを許さない、鋭い響きをはらんでいる。
「だけど、ここまで言ったんだ。続きも言わせてもらう。今は、そう思っていない。できれば一緒に来てほしいと思っている」
ジンの目が、ウラルの目をもういちど見すえた。
「それから、もうひとつ。俺らは今回、リーグ軍に加勢して戦う。お前の村を焼きつくした連中と手を組んで戦うんだ。わかるな?」
赤ん坊の死に顔が脳裏をよぎった。徴兵され、今も帰ってこない父や兄や、いいなづけの姿が目にうかんだ。ウラルは軍をゆるしていない。今でも恨んでいるのだ。それを知っていて、ジンは、この戦についてきてほしいと言っている。
ジンは続けた。
「お前に、やってほしいことがあるんだ」
やってほしいこと? ウラルが尋ねると、ジンはうなずいた。
「たとえ俺たちが全員死んでも、生き残ってこのことを伝えるやつが必要なんだ。伝える人がいなければ、また同じことが繰り返される。俺は、それが怖い」
ウラルは耳を疑った。ジンの口から、まさか「怖い」などという言葉が出てくるとは思わなかったのだ。自分をあざわらうような笑みをうっすらと唇の端に浮かべて、ジンはうつむいてしまった。
「明日、ナタ草が黄色になるころ、俺はこの家を出る」
ジンは茶を飲みほして立ちあがる。
「準備しておいてくれ」
逃げるようにリビングを出ていってしまった。
***
翌朝、ウラルが準備をすませて外へ出ると、黒鹿毛の手綱を持ったジンが待っていた。フォルフェスは玄関横の杭につながれている。馬装は済んでいた。
ウラルも、ウラルなりに覚悟を決めた。ジンらがやっていくことを見たかった。足手まとい以外にウラルの役割があるのならば、ついていかせてほしかったのだ。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
ジンは笑い、寒いな、と続けた。息が白い。霜がうっすらと地面をおおっていた。
「行くのか、ジン」
木靴の足音とともにアラーハが森の木陰から姿を現した。冬であるにもかかわらず強い草のにおいをまとわせている。
明らかにジンが驚いた様子をみせた。
「アラーハ。なぜ、来た」
「俺は行くのか、と聞いた」
アラーハは怒っているようだった。無表情で声も平静のままだが、夜遊びに行く息子を叱りつける父親のような、頑とした様子だ。
「ああ、行く。ウラルも一緒に。アラーハはここに残らなければならないだろう?」
「俺も一緒に行こう」
アラーハの目が朝日に光った。よく見てみると、アラーハの目は瞳孔が横長だ。馬や羊の目に似ている。――人の目ではない。見てはならないものを見た気がしてウラルはアラーハから目をそらした。
「森は、どうする気だ」
ジンが歯の間からしぼりだすような奇妙な声をだす。ウラルに聞き取らせまいとするような感じだ。どういう意味かウラルは図りかねたが、こんな様子では尋ねるに尋ねることができない。
「甥に任せてきた」
「それで大丈夫なのか?」
「今までもそうしてきた。まだ死ぬことはできないが、一緒に行くことはできる」
アラーハは身をひるがえし、歩きはじめた。
「どういうこと?」
ウラルは尋ねたが、ジンは首を振り、悪いが言えない、と答えた。
アラーハは葉を落とし、いろどりの乏しくなった森に入ろうとしている。
「行こう」