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第三章 3「血濡れの記憶」 上

 オグラン町の戦場からどうやって帰ってきたのかウラルは覚えていない。ダガーの骸を抱きしめたあのときから長い間、ウラルは夕暮れの丘にいた。戦死者に青いナタ草をたむけ、死後の安らぎを祈り、自分の行いを詫びた。セラのオパールの棺をなでさすり、ダガーの蛍石の棺に詫び、アラーハの姿が依然うっすら浮かんだままのアレキサンドライトの棺に祈り、アウレヌスのブラッドストーンの棺に「私はどうすればよかったんですか」と問いかけ――そうしている間に丸一日が過ぎていた。

「ウラル、食事です。わかりますか?」

 そんな何気ない一言でウラルは我に返った。前を向いてみればメイルが湯気のたつ椀を持っている。

「ああ、メイル……。ありがとう」

 メイルの目が大きくなった。

「私がわかりますか? 今までずっとぼんやりしたまま反応がなかったので」

「ごめんなさい、目を開けたまま夢を見てたみたい……」

 メイルは呆れたと言いたげに、けれどウラルの身に起きたことをどこかから聞いたのだろうか。椀と匙をウラルにそっと手渡した。オートミールだ。かき混ぜてみればハーブソルトが優しく香る。

「戻ってきてくださってよかった。みんな心配していましたよ」

「みんなは?」

「ベンベル人ふたりなら忌々しいほど元気です。フギンは熱を出して寝込んでいますが命に別状ありません。アラーハという大男はまだなんとも。意識も戻っていません」

 「忌々しいほど」のところにやたら力が入っている。でもどうやらちゃんと世話してくれていたようだ。

「マルクは? ザンクとトランは」

「マルクは無傷ですが、部屋にこもったまま出てきません。あとの二人は峠を越しました。じき元気になります」

 ウラルはあの場に言って生き残った人の名前を一人残らず挙げて容態を聞いた。全部で十二人。驚いたことにメイルは全員の容態を詳しく把握していて、打てば響くように答えを返してくれた。普段の激しい性格とは裏腹に医師としてのメイルはかなり細やかで丁寧な仕事をしてくれる人らしい。

「これだけでいいんですか。セラさんや他の人のことは」

 残りの五十六人は。答えないウラルにメイルは顔をこわばらせた。

「あなたには誰が生き残って誰が死んだのか、わかっているんですね。運び込まれてから死んだ人のことまで」

 そうだ、ウラルは戦場で死んだ人の姿は見ていたが、瀕死だった者がそのまま死んだのか生き残ったのかは知らない。あの後のウラルは目を開けてはいるが何も見ていなかったのだから。でもウラルは知っている。〈丘〉で棺が閉まるのを見届けてきた。

「私が全能みたいに言わないでください……」

 メイルが不思議そうに顔をあげた。

「こんなことになるとわかっていれば私は誰も連れていかなかった。自分が大きな力を持っていると思い込んで、驕り高ぶって、それでたくさんの人を殺した。私なら大丈夫だと、そう信じ込んで」

「ウラル」

「私は愚かな小娘でしかないのに。私を守ってみんな死んでいった」

 メイルは申し訳なさそうに睫毛を伏せた。

「あなたがそんな風に思っているとは思いませんでした」

 話しながら横においていた椀を手に取り、もう一度ウラルに手渡す。受け取って、けれどもう食べる気が起きなくて、ウラルはそれを膝の上に置いた。

「なんというか、少しほっとしました。あなたも人間なんだと」

 水だけでも飲んでください、とメイルがコップを差し出した。ウラルはほんのわずか口をつけ、それも膝の上に置く。

「あなたに何ができて何ができないのか私にはわかりません。でもあなたにもできないことがあって、悔いることもあるんですね」

「神も、聖女も、魔女も、化け物も――みんな感情はあるし、未来はわからないし、できることには限りがある。それは人間の特権じゃない」

「あなたは人間じゃないんですか」

 ウラルはかすかに笑った。

「さぁ……。もう自分でもわからないの」

 自分がさんざんウラルを化け物よばわりしたことを思い出したのだろうか、気まずそうに目をそらす。それからふと何かに気づいたように顔をあげた。

 見てみればメイルの視線の先、ドアの向こうに少年が立っている。

「ナウト」

 ちゃんと目の焦点をあわせているウラルにナウトは驚いた様子で少し後ろへさがった。

「ウラルねえちゃん」

 ナウトの声は低くかすれている。ナウトはもうすぐ十四歳。背も一気に伸びて、最後に会ったときとはまるで別人に見えた。今はムール騎手になるべくシガルの指導のもと空を翔け回っているらしい。

「……ダイオ将軍から伝言。まともに話せるようになったら言いたいことがあるから連絡しろって。じゃ、伝えたからね」

 硬みを帯びた声で一気に告げ、そのまま駆け去ってしまった。

「あの子、何度かあなたの様子を見に来ていましたよ。今はそうでもなかったですが、ドアのところから怖い目でじっとあなたを見ていました」

 ナウトはセラたちとは別行動だった。ムール厩舎で下働きをしていたのだ。見習いなので出動命令はおりなかった。出動内容もろくに知らされなかった。ただシガルとマルクを見送り――セラらが変わり果てて帰ってきたとき、はじめて状況を知ったのだ。ナウトも〈エルディタラ〉のあの十八人とは長年一緒に暮らしてきた仲、衝撃は相当のものだったに違いない。ウラルは恨まれて当然だ。憎まれて当然だ。

 誰に詫びても詫び足りない。誰に許しを請えばいいのかわからない。

「ダイオ様には私から。あなたは休んでいてください。夢を見ていたにしても、体はずっと目覚めていましたから。ほとんど飲まず食わずでしたし」

「大丈夫。それよりフギンとアラーハに会いたいの。ほかのみんなにも。連れていって」

 謝りたい。見舞いたい。生きている姿が見たい。

 メイルは少し迷うそぶりを見せたが、このままひとりにしていくよりは安心だと思ったのだろうか。うなずいて、「こちらです」とドアを開けてくれた。


     *


 フギンとアラーハの病室には先客がいた。

「ベンベル人! なんであなたがここにいるんですか!」

 エヴァンスが冷たく凍った視線をメイルに送る。そのかたわらのフギンが「怪我人のそばで大声出さないでくれよ」と不満を訴え――それからふたり同時にウラルに気づいたようだ。

「エヴァンス、フギン」

 名を呼んで微笑んでみせると二人は顔を見合わせた。

「ウラル」

 エヴァンスの椅子が鳴り、腰を浮かせかけたフギンが傷の痛みにうめく。ふたりは無事だ。つかつかと歩み寄ってくるエヴァンス、嫌悪感むきだしの顔で脇によけるメイル。近づいてきたはいいが何を言っていいかわからない様子のエヴァンスの手をとり、両手でぎゅうっとにぎりしめた。

「生きててくれた……よかった」

「それはわたしの台詞だ」

 低くかすれた声。エヴァンスの腕がゆるりとウラルの背へ回る。エヴァンスの肩越しにぽかんとした顔のフギンが見えて、ウラルは抱きしめられたのに気がついた。

「エヴァンス」

「今度こそ戻ってこないのではないかと思った。フギンも心配していた」

 声の振動が直接伝わってくる。ウラルは真っ赤になって身を引き剥がそうとし――不意に鼻の奥に異臭を感じた。

 エヴァンスからは乾いた血のにおいがする。エヴァンスからは金属のにおいがする。エヴァンスからは冷たい土のにおいがする。

「ウラル?」

「大丈夫。なんでもない」

 剣戟の音が聞こえる。軍馬の蹄の音がする。断末魔の悲鳴が聞こえる。

 紅く染まった空が見える。たなびく黒い煙が見える。倒れていく人が見える。

「ウラル、本当に大丈夫か? 椅子へ」

「わからない……なんか、へん……」

 ウラルの背を支えたエヴァンスの手のひら。その手で首を絞められた。走り続けて熱かった体が、あのとき一気に冷たく痺れた。

「どきなさい、ベンベル人! ウラル!」

 エヴァンスが離れてかわりにメイルがウラルの顔をのぞきこむ。ウラルは歯をがちがち鳴らしながらメイルの目を見返した。

「大丈夫ですか。深呼吸してください、胸いっぱいに息を吸って」

 メイルに指示されるまま深く息を吸い、吐き出す。何度も繰り返していると、体の震えは少しずつ少しずつおさまってきた。

「あの男に抱きしめられるのがそんなに嫌だったんですか? 気持ちはわかりますが」

「そんなのじゃない。わからないの……」

 再びベッドから起き上がろうとしたらしいフギンが傷口を押さえ顔をしかめている。

「血のにおいがしたの……」

「血のにおい? それならお前、このあたり一帯全部だめじゃないか」

 フギンが目をしばたかせ、隅のベッドに横たわるアラーハを見た。

「アラーハ」

 ウラルは立ち上がりアラーハに駆け寄った。

「おい、ウラル! 血のにおいだめなら近づくな!」

 フギンが慌てて叫ぶ。ウラルもぎょっとアラーハの体を見つめ、けれど何も起こらないのに気づいて目をしばたかせた。

「大丈夫か?」

「大丈夫、みたい」

 発作がおこらないのを確認し、ウラルはアラーハの土気色の頬に触れた。

 信じられないほど熱い。息も苦しげだ。水もうまく飲ませられないのだろう、唇はかさかさにひび割れていた。でも生きている。血をたくさん失ったせいだろうか、鼓動は心臓が疲れ果ててしまわないかと思うほどに強い。

 アレキサンドライトの棺が見える。棺の中の淡く透けたアラーハの姿といま目の前にいるアラーハの姿が二重写しになっている。

「アラーハ……もどってきて」

 手を握ろうとして、アラーハの右肘から先が包帯でぐるぐる巻きになっているのに気がついた。あのとき折れた前足だ。

「アラーハ」

 誰に祈ればいいのかわからない。でも祈らずにいられない。

 ぽこんと空気の泡が目の前に浮かんでくるようにジンの死に顔が脳裏に浮かんだ。アラーハと一緒に見つめたあの顔。リゼ。サイフォス。二人の死に顔も続けて浮かんでくる。マライ、それに死んだばかりのセラとダガーも。故郷の村の人たちも……。

 誰も傷ついてほしくなかった。

 誰も失いたくなかった。

「ウラル、大丈夫か? またぼんやりしてるぞ」

 フギンの声で我に返った。

「お前、疲れてるんだろ? 休んだ方がいい。メイル、ウラルのこと頼むぞ。ぐっすり眠れるようにしてやってくれ」

 心配して様子を見に来たはずなのに逆に心配されてしまった。謝りに来たはずなのに余計に傷つけてしまった。

「エヴァンス、ごめんなさい。本当にあなたが嫌とかそういうわけじゃないの。ただ、オグラン町の戦場のこと急に思い出しちゃって、それで」

「ああ」

「本当に無事でよかった。あなたまで死んじゃったら、私」

 エヴァンスの目に昏い光が宿った。

 エヴァンスは祖国を裏切り、彼の神を裏切った。エヴァンスは今も断罪を望んでいる。おのれの罪を裁かれ、神の意思を受けて死を賜ることを望んでいるのだ。

「……本当に疲れてるだけ。ちゃんと休めば大丈夫になると思うから」

「しっかり休め。フギンとアラーハのことは任せろ」

「エヴァンスのことは任せろ。ちゃんと面倒みとくから」

 言い方がひっかかったのかフギンが親指を立ててみせる。いつの間にこの二人はこんな仲良くなっていたのだろう。ウラルが微笑むとフギンもにっと笑ってみせた。

 メイルにうながされ、ウラルは部屋を後にした。

「エヴァンス、お前いつの間にウラルとそんな仲になってたんだ? 俺が俺じゃなくなってた間にか? そう落ち込むなよ」

 閉じたドアの向こうからフギンの声がした。ドアが半開きになっていたのだろうか、声が筒抜けだ。メイルは知らぬ様子で歩いていく。

「落ち込んでいるように見えるか」

「見えるね。ウラルって抱きしめてやりたくなるよな。いっつも悲しげな顔してさ。あんな人生たどってきたんだからしょうがないんだけど」

「……ああ」

「でもだめなんだ」

 ぽつりと聞こえた声にウラルは足を止めた。メイルが不思議そうに振り返る。

「すり抜けちまうんだ。ウラルは風なんだよ。ウラルからは誰にでも触れられるのに、こっちからは誰であろうと触れられない。何年か前はそうでもなかったんだけどな」

「風か」

「そうだ、優しい風だ。いつか消えちまいそうで怖いんだ。誰か捕まえてられる人がいてくれりゃと思うんだけどさ……」

 メイルの視線を感じる。ウラルは首を振り、先に立って歩き始めた。


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