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第三章 2「首斬り斧」 下

     *****


 斧が宙にとまったその刹那。

――ケーン!

 突然、鋭いさえずりと共に急降下してきた巨鳥がウラルのかたわらを翔け抜けた。体を投げ槍でつらぬかれた処刑人が斧を放り出し断末魔の叫びをあげる。

「マルク……」

 騎手の名を呼ばわった瞬間、二羽目の巨鳥が急降下してきた。鞍上には燃え盛る槍をたずさえたシガルの姿がある。

 シガルはウラルらの方へは来なかった。シガルは倉庫のような建物を目指していた。彼の意図を悟ってかベンベル人たちがにわかに騒ぎ始める。その建物には窓がなかった。その建物は堅牢なレンガで造られていた。大きな扉が正面にあり、その表面は金属の輝きを放っていた。その建物の屋根裏に空けられた小さな小さな換気孔にシガルは狙いすました一撃を放った。

「(火薬庫が!)」

 誰かが叫ぶと同時に爆音が轟いた。

 それを合図とするかのように四方八方で爆音があがる。黒煙のあがるのはベンベル人居住区だ。

「(ばかな……)」

 武器庫、兵舎、将軍の自宅、その他もろもろの主要な建物が窓から炎を吹いている。空には無数の巨鳥の姿、そして遠くから、地鳴りが。

 再び急降下したマルクが門番を打ち倒し、ロクを巻き上げ機のロープにつかまらせた。ロクの翼が宙を叩く。ぎちぎちと閉ざされた門が開く。

 門の向こうに見える空は朱い。劫火に燃える空を背に立つ騎馬の影がある。明るい鹿毛の馬にまたがり深紅のマントを翻す男、おそろしいほどの覇気をたたえたその姿は。

「貴様が大将か」

 かれはリーグの火神だ。

 かれはリーグの軍神だ。

 かれはリーグの怒りの神だ。

「とんだ愚将を俺にさしむけてくれたものだ。油断に呑まれ私怨にかられ、守備をおこたり同士討ちなどという卑怯な手を使うとは。虫唾が走るわ」

 彼の背後にぬぅっと〈フェスオ・ソルド〉が姿を見せた。顔や体をススと油で黒く汚した紅い軍隊。

「(くそっ、魔女は囮か……!)」

 そうだ、ダイオはウラルを囮に使った。彼らがウラルに気を取られている間に〈壁〉のこちら側にある町々にもぐりこみ、アウレヌス率いる本隊にばれぬよう見張りを殺しながら盗んだ火薬をしかけて回っていたのだ。まさかアウレヌスもフランメ町が全滅しているはずのこの日に総攻撃をかけてくるとは思わなかったに違いない。ウラルとエヴァンスを劇的に殺せる絶好の機会に浮き足立ち、守備を怠った。その結果が。

「全軍進撃! 兵は捨て置いて構わん、将を討ち漏らすな!」

 狼煙があがった。リーグ全土を震撼させる火神の狼煙が。ベンベル軍が揺れる。剣を振り上げ〈炎のフェスオ・ソルド〉が襲いくる。

「(この世の終わりだ!)」

 誰かの悲鳴を合図にベンベル軍は大混乱に陥った。

(死んじゃう……みんなみんな……)

 か細い声が耳を打った。風神が見ていたのはウラルらだけではない。この全軍衝突と殺戮の気配を予知して。風神はこれを止めてほしかったのだ。けれどウラルのエヴァンスを助けようとする意思の強さに、火神のベンベルの侵攻をなんとしてでも止めるという意思の強さに言い出せなかった――。

 ウラルの視界の隅でフギンが立ち上がる。腹の傷から流れ出る血をそのままに処刑人が落とした首切り斧を握った。アウレヌスが剣を抜く。

 フギンは左手一本で斧を振りかぶり、エヴァンスの頭上に刃を落とした。エヴァンスが手枷で受ける。とたん、手枷がまっぷたつに折れた。

「ちぇ、脳天かち割ってやろうと思ったのに」

 続けて足枷も叩き割り、フギンは力尽きた様子で膝をついた。

「ウラルを頼んだぞ、エヴァンス。お前に頼むのも癪だけどな……」

 チャ、とウラルの首筋に冷たいものが当たった。見てみればウラルの背後にアウレヌスが回りこみ、首筋に剣をつきつけている。

「(カクテュス、これ以上罪を重ねるな。この女がどうなってもいいのか)」

 エヴァンスはただ青い瞳に怒りと諦めを共存させて、フギンに託された斧の切っ先を地面に押しつけている。

「(わたしの罪は既にあがなえる重さを超えた)」

 それは氷が内から砕けるような、鋭く、冷たく、はかない響き。

「(獣のようにおのれの欲望に従おうとは思わぬ。わたしはこれからも神の言葉を頼りに生き、正当なる裁きが下される日を待つだろう。だが今このときは)」

 おのれの首を叩き斬るはずだった斧を手に、エヴァンスはかつての仲間を睨み据えた。

「(ウラルを害せば貴様の指を一本ずつ砕き手足をねじり折り、目を潰し鼻を削ぎ舌を抜いた上でベンベルに恨みを抱く者どもの前に絶命するまで晒してくれるわ。魔女の使いと言われたところで構わん。ただ神の名を穢し、お前の意思でウラルが辱めを受け殺されるのには耐えられん)」

「(お前は自分の言っていることがわかっているのか……?)」

「(ウラルを放せ、アウレヌス)」

 ウラルの首筋から剣が離れる。エヴァンスが斧を構えて踏み込むと、アウレヌスはウラルをエヴァンスに向けて突き飛ばし、一目散に逃げ出した。

「大丈夫か、ウラル」

 ウラルは夕暮れの丘を見ていた。風神の泣き声を聞きながら棺の群れを見つめていた。

(みんな死なないで……どうか戦わないで……)

「ウラル」

 エヴァンスはウラルの目の前に手をかざして軽く振ってみせ、それからウラルの頬をてのひらで包み込んだ。

「わたしがわかるか」

 ウラルの瞳の奥に彼は棺の群れを見ただろうか。それともただただ虚無を見ただろうか。斧の柄を手放すと裸の胸にウラルを抱きこみ、なにも見るなと顔をうずめさせた。

 ブラッドストーンの棺が音高く閉まる。同時にウラルの後ろでダイオが烈しい雄たけびと共に敵将アウレヌスの首を高々と掲げた。

「セラ! 目を開けてくれ、セラあっ!」

 ロクの背をおりたマルクがセラを揺さぶっている。まだぬくもりを残したやわらかな体を。泣きながら必死に揺さぶっている。

「ベンベル人……よくも!」

 そっとそっとセラを横たえ、マルクは投げ槍の鞘を払った。殺気をおぼえたエヴァンスがウラルを背後にかばい斧を握る。寸前、ウラルは斧の柄を踏んでエヴァンスの前に躍り出た。

「ウラル!」

「やめて。セラは私を守って死んだの。このひとの咎じゃない」

 マルクが慌てて切っ先をそらし、勢いあまって地面に倒れこむ。ウラルは胸元のペンダントを握り、ぎゅうっと背を丸めた。

「今はどうか、悼んで……」

 地面に這いつくばったままぽかんとウラルを見上げていたマルクが後ろを、地面に静かに横たわっているセラを振り返った。救いを求める目でウラルを見上げる。ウラルが黙っているとマルクはこぶしを握りしめ、石畳に叩きつけた。何度も何度も。泣きながら。

「戻ってきたか」

 ゆっくりと紅い戦場が目の前に戻ってくる。からだの震えが、ウラルの肩をつかんだエヴァンスの手の感触が戻ってくる。

「ごめんなさい、〈丘〉を見ていたの……」

「丘」

「私の死後の世界、宝石の棺の並ぶ丘。今もあなたの足元にサファイヤの棺が見える」

 エヴァンスの手がこわばった。青い瞳がまじまじとウラルを見つめている。

「ばかよね、私がみんなを連れてきたのに。現実を見ていられないなんて……」

 戦場と夕暮れの丘が二重写しになって見える。既に死んだ者、かろうじて息はあるがもう望みのない者、ちゃんと手当てすれば助かる者。直感的にわかる。――ウラルは風神の、死神の代理人だ。

「エヴァンス、フギンの手当てをお願いします。マルクはザンクとトランを。あの二人はちゃんと手当てすれば助かる。急いで」

 死神の使いにもできることがあるならば。エヴァンスが案じる様子でウラルを見ながらフギンのそばに膝をつく。マルクが涙に濡れた顔をあげ、倒れ伏し動かない二人の仲間を視界にとらえた。

 救護兵をつかまえ、優先的に助けてほしい人の名前と背格好を告げる。その名前がごくわずかなのに気づいてウラルは顔を歪めた。死んだ人があまりに多い。生き残った人があまりに少ない。

「アラーハ……!」

 目の奥にアレキサンドライトの棺をとらえ、ウラルは駆け出した。ウラルのために戦い続けたイッペルス。ウラルの大切な義父。アラーハは死んでいない。けれど棺の中にはアラーハの影が浮かんでいる。意識を失い四肢を投げ出し、死の淵ぎりぎりで耐えている。

 ウラルはアラーハの体にすがり、傷を診た。見た目は相当酷いが、アラーハも必死に致命傷を逃れようとしたのだろう。傷は多いがほとんど骨にあたって跳ね返されているか槍が突き刺さったままで傷のわりに出血していないかだ。見た目より酷くない。でも。

「マルク、ロクでアラーハを運んで。このままじゃもたない」

「無理だ、そいつは重すぎる!」

 瞬時に怒鳴り返された言葉にウラルは唇を噛んだ。負傷者用の幌つき馬車にも乗るとは思えない。アラーハはあまりに大きすぎ、重すぎる。乗りきらずに体のどこかを引きずり続けるか、あるいは馬車の床が抜けるか。そもそも何人がかりだろうがアラーハを持ち上げられるほど体力の残っている者がこの戦場に何人残っているだろう。

「地神……私の身勝手をどうかお許しください。アラーハを死なせたくないんです。どうか今一度アラーハに人の姿をお与えください……」

 アラーハの姿がふぅっと薄くなり、血みどろの大男が姿をあらわした。容態が安定するまでだ。地面の下から告げる声に深々と頭を下げ、ウラルは止血点を固く縛り始めた。

 きちんと止血をし、傷口を消毒して包帯を巻いてもアラーハの姿は蓋の開いた棺の中に浮かんだままだ。あとはアラーハの体力次第、もう祈るほかがない。幌つき馬車に乗せられるアラーハを見送り、ウラルは生存者の姿を求めて再び戦場と夕暮れの丘を見回した。

「ウラル様……」

 自分を呼ぶ声にウラルは駆け寄り、そっとその頭を胸に抱いた。

「ダガー」

 ウラルを「刺し殺した」男。「ウラルの部下」の中でもっともウラルを慕っていた男。

 一目でもう助からないとわかった。彼の腹には大穴がある。傷口から命を流しながら彼は真っ白な顔でウラルを見上げていた。

「あなたを殺した僕は……赦されましたか……?」

「あなたがいなければ私はもう一度死んでた。赦すどころか恩があるわ。むしろこのまま見送ることしかできない私を、あなたを殺した私をどうか赦してください」

 ダガーがうっすらと笑った。

「フギン様が門の外で言われたこと……本当です……。どうか幸せになってください……」

 小柄な男の体から命が抜け落ちていくのがわかる。腕の中にいるこの体から、ウラルの心にある蛍石の棺の中へゆっくりと魂が移動していく。

「あなたに風神の祝福を。あなたの心が安らかな世界でありますように……」

 ウラルの丘にある彼の姿は影でしかない。本物の彼の魂は彼自身の中に落ちていくのだから。けれどウラルは黙ってダガーの体を抱き、棺の中で濃くなっていく彼の姿を、閉じてゆく蛍石の棺の蓋を見つめていた。

 がこん、と重い石の音がする。人を目の前で喪うのはいつ以来だったろう。大勝利に沸く〈フェスオ・ソルド〉の只中で命の抜け落ちたからだをいだき、ウラルはただただそこで身を震わせた。


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