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第二章 3「朱の棺、青の棺」 下

     *****


 ダイオはエヴァンスの肩を揺さぶった。目覚める気配はない。脈をとり、息を確かめる。異常はない。

 眠っているだけだ。だが、なぜ?

 最初は増援に、エヴァンスがただ倒れただけと知ってからは野次馬に来ていた兵士らの合間をぬってフギンが姿を見せた。さっとエヴァンスの生死を確かめる。

「心配はいらん。この男はろくに眠っていなかったのだろう、疲れが出ただけだ」

「フギン様」

 フギンはわかっていると言いたげにうなずき、近くの兵にエヴァンスを運ぶよう命じた。

 ダイオはしばらく黙っていた。野次馬がいなくなってからやっと口を開いた。

「申し訳ありません。エヴァンスに〈風神の墓守〉の話をしました」

「軽率なことを。エヴァンスは一時的に風神の支配下に入ったようだ。あの女神がこんな強引な手を使うとは珍しい。倒れる前に何か言っていなかったか」

「ウラルの声が聞こえると」

「ならばウラルの〈墓所〉に呼ばれたのだろう」

 フギンがちらりと窓際を見る。ダイオもつられてそちらを見た。

 フギンは窓際のナタ草を見ていた。その花の色は、白。

 ダイオはぎょっとアラーハと顔を見合わせた。ナタ草の花は時間に応じて赤、橙、黄、黄緑、緑、水色、青、紫と変わる。何時であろうが白にはならないはずなのだ。

「ナタ草は風神の花だ。風神が力を行使するときナタ草は白に変わる。覚えておくがいい」

 呆然としているダイオとアラーハの目の前でナタ草はゆっくりと元の水色に戻っていった。

「ダイオ。ウラルが再び息を吹き返すとき、俺が予告していてもお前の心は激しく揺さぶられるだろう。その激情を利用して、フギンを解放しお前の体を借り受けようと思う」

「自分は覚悟できていますが。他の者への説明はどうします」

「俺は火神だと名乗るほかなかろう。多くの将軍の体を借り戦った挙句、敗北した軍神ではあるが。そして名乗るだけでは足りぬだろうから、〈墓守〉を増やす」

 ダイオは〈墓守〉だったからフギンの体に火神が宿っていることを察し、その場にひざをついて忠誠を誓った。〈墓守〉ならば迷いなく信じられる。

「増やすといっても限度がありましょう。〈ジュルコンラ〉すべてを信用させるのには足りぬかと愚考いたしますが」

「〈ジュルコンラ〉の者、条件に合う者すべてを〈墓守〉にする」

 ダイオは目をむいた。〈ジュルコンラ〉も三年前の戦いで大打撃を受けたとはいえ、〈アスコウラ〉とリーグ軍の生き残りを吸収し、非戦闘員まで含めれば千人近い大所帯になっている。

「〈墓守〉を増やさないようにしてきたのは、俺が〈反転〉したときの対策だ。だが今はむしろ……」

 フギンは何かを言いかけ、けれど「これは言わぬほうがよかろう」と言いたげに首を振った。

「今なら〈反転〉したところで寄代になるのはフギンかお前、ウラルがすぐに止めてくれよう。十年後、二十年後までそう言えるかわからぬ危険はあるが、それより今は一兵でも多くが欲しい」

「それが可能ならば、自分に異存はありません」

「ほかの〈墓守〉には俺から話す」

 行ってよいぞと手を振ったフギンにダイオは深々と頭を下げ、部屋を出た。

 フギンは先が失われた右の肩口を見つめた。それから横たわるウラルに目を落とす。

「風神。何度同じことを繰り返す気なのだ? お前がもたらすものは俺の比ではないのだ……」

 フギンは低く呟き、それから窓の外のアラーハのことを今気づいたかのように見つめた。

「ゆらめきうつろうのが我らの本質。〈地神の守護者〉アラーハよ、恨むな」

 恨めるはずがございません。

 あなたも地神のように地に根をおろした神であれば。

 お前も行けと手を振られ、アラーハもシャルトルに手紙を届けるべくその場を離れた。――言葉を話せぬことに、ほっとしながら。


     ******


 ジンとエヴァンスは似ている、とウラルは思う。はじめは二人に共通する騎士の風格がそうさせるのだと思った。でも、違う。ジンはいつも明るく優しかったが、ときおり人をすくませる覇気を見せた。エヴァンスはいつも冷たく鋭く近づきがたい雰囲気だが、ときどき不器用な優しさが透けて見える。似ている部分が多いのはもちろんなのだが、違う部分はものの見事に正反対なものだから、逆に引きつけあって見えるのだ。

 生前にたった一度だけ出会い、殺し合った二人が、この丘でこうして肩を並べている。

「ここはどこだ」

「お前にとっては夢の中、ウラルにとっては死後の世界だ」

「死後の世界? ここは楽園にも煉獄にも見えないが」

「リーグ人の死後の世界はひとりひとり違う。その持ち主の『心の世界』だ。その人にとって思い出深い場所や、憧れの場所、記憶に焼きついた風景やなんかが入り混ざって、心の中にひとつの世界ができあがる。そこに人は死後還っていくんだ」

 ジンは棺の群れを振り返り、かすかに笑ってみせた。

「今すぐ信じろと言う気はない。だがウラルは煉獄ではなく『ここ』にいると思うと、少しは気が楽にならないか」

 エヴァンスも棺の群れを振り返る。それから「信じる気はないがとりあえず話を聞こう」と言いたげにジンに向き直った。

「お前も死んでからは『ここ』にいるのか」

「いや、俺の世界は別にある。ただ今は難しい立場にいるウラルの案内役として遣わされているだけだ」

 エヴァンスに対しては、彼は「風神」ではなく「ジン」として振舞うつもりらしい。

 視線に気づいたのか、ジンがウラルを振り返った。

「今の俺は、ただの案内人だ。ウラルと話してやってくれ」

 ぽんと背中を押される。無意識のうちにジンの後ろに隠れるようにしていたウラルは思わず肩をこわばらせた。

 自分はこのひとに看取られたのだ。このひとに看取られて息絶えた。

「なぜあんな無茶をした」

 ぴしゃりと先手をきられた。

「……あなたこそ。どうして私にとどめを刺さなかったの? 神様の意思に背くのをあんなに嫌っていたのに」

「質問したのはわたしだ。答えろ、ウラル。なぜあんな途方もない無茶をした。死にたかったのか?」

「私が無意識に死にたがっていた、って言いたいんでしょう」

 なぜ知っている、と言いたげな視線。ウラルはそっぽを向いた。

「私はただ、自分がもう助からないってわかってただけ。あの傷だもの。それなら、と思ったの。それ以上のことを考える余裕はなかったし」

 ウラルはエヴァンスの目を見据えた。青い瞳と真っ向から視線が合う。

「次は私の番。答えて。どうして私にとどめを刺さなかったの?」

 青い瞳がそれた。

「エヴァンス」

 不意にエヴァンスがすらりとシャムシールを抜き放った。

 首をかしげたウラルに銀の刃が向けられる。ゆるゆると、しかしまっすぐに。

「おそろしくはないのか」

 ぬらりと光る切っ先があるのはウラルの心臓の前、指一本分の距離。ウラルは黙って首を振った。既に死んでいるからか、エヴァンスに殺気がなくただただ悲しげな顔をしているせいか。恐怖は感じない。

「止めないのか、ジン」

 ジンは答えない。ただ黙ってそこにいる。

「ウラル。わたしはお前がおそろしい」

 ざ、とエヴァンスが大きく一歩を踏み出した。たくましい腕がウラルの首に伸びる。

 が、また指一本分の距離をおいて止まった。

「これ以上、どうしても近づけん」

 エヴァンスの唇にじわりと自嘲らしきものが浮かんだ。

 不意に、ぱっと横から手が伸びた。エヴァンスの手をウラルの首に押し付けるジンの腕。

「ジン?」

「こうすれば絞められるか」

 反射的にであろう、エヴァンスが振り払おうとした。ジンは動かない。二人の体格は互角、しかもジンは腕一本で押さえているだけなのに、エヴァンスがどれだけ力をこめて腕を引こうがジンはまったく動じない。

 現実世界では戦いの中でジンはエヴァンスに負け、殺された。だがここでは。

 ウラルはエヴァンスの手首をそっと握った。抵抗する気はない、ただその右腕を両手で包みこんだだけ。エヴァンスの固い手のひらがすうっと冷たくなり、しっとりと湿り気を帯びた。男の太い血管がその手首で激しく脈打っているが、その指に力はない。ただ触れているだけ。ウラルの頚動脈に。脈のない、この首に。

「なぜこんな真似をする。お前はウラルの恋人だろう」

「残念ながら、そういう仲になる前にお前に殺された」

 意外だったのか、エヴァンスは怪訝そうに眉をひそめた。

「ウラルのことは大切だが、お前の心を知りたかった。実際に生きてウラルのそばにいるお前の」

 ジンが手を離すと、エヴァンスもウラルの首からゆっくりと手を離した。

「エヴァンス。突然突拍子もない話で悪いんだが、ひとつ伝えておきたいことがある」

 この人の「突拍子もない話」は並大抵の話ではない。また世界を揺るがす気だろうか。

「ウラルに代理で話してもらうのも酷だ、ここで話さなければもう機会がないだろう――お前の神の目はこの世界に届いていない」

「なに?」

「お前たちベンベル人は俺たちにとって単なる異国人ではない。別の神が管轄する、別の世界の人間なんだ。事故が起きて本来触れ合わないはずの世界が触れ合い繋がってしまった。心当たりはないか。リーグとコーリラはある日突然、なにもないはずの海域に現れたはずだ」

 なにもないはずの海域、とエヴァンスが低く呟いた。

「心当たりがあるの?」

「異世界がどうだかは知らないが、たしかに何もないはずの場所にこの国は突然、現れた」

 リーグ人にとってもベンベル国は突然現れている。だからといって異世界とは。どこで聞いたのだろう。前に火神と話したときは、ベンベルの神がどんな人物なのかわからないようなことを言っていた。使者としてベンベルに向かった水神が帰ってきたのだろうか。さっきウラルを一人にしたとき連絡をとっていたのだろうか。

「神は自分の世界を把握することはできても、異世界までは見ることができない。お前たちの祈りは届いていない。お前を断罪することもできない。お前の罪は、でっちあげられたものだ」

 エヴァンスの目が急に険しくなった。異世界云々はいいにしても、神様がからむのは許せないようだ。

「馬鹿げたことを」

「ウラルを殺さなくともお前は罰を受けない。それよりむしろお前の神は自らの教えが守られていないことに怒っているようだ。聖典を人の都合のいいように読むな、どこに異教徒なら殺してもいいと書いているのだ、と」

 エヴァンスの目が細くなった。

「元の世界へ帰してもらえるか。とても聞く耳を持てん」

「お前が望んだときに帰れる。夢から覚めようと思えばいい」

 ふうっとエヴァンスの姿が透けた。

「信じなくて構わない。だが最後にもうひとつ言わせてくれ――ウラルは生き返る。ウラルがまたこんな無茶をしないように、誰かにもう一度殺されぬように、そばで見守ってやってくれないか」

 やはり彼はウラルの心を知っていた。エヴァンスの心も知っているのだろうか。知っていてこんなことを言うのだろうか。なんの、つもりで。

「エヴァンス、いいよ」

 淡く透けながら、目覚めを願いながら、けれどこの世界にとどまっていたエヴァンスがウラルを見つめた。

「誓わなくていい。ジンが勝手に言っていることだから。あなたがここで返事しなくても、私はちゃんと生きていくから」

 青い瞳が、揺れた。

 唇がかすかに動く――待っている。

 え、と漏れた声に金の髪が揺れた。

「信じることはできないが、お前のことは待っている」

 ごくごくかすかな声で言い残して、彼の姿は消え失せた。

「目を覚ましたな、現実の世界で」

 ウラルは呆然とサファイヤの棺を見つめた。

 待っている? ウラルが生き返ったら喜んでくれるということだろうか。どういう意味で? もう一度殺せるから? いや、もう殺せないと言っていた。二度とこの首を握ることはできないと。なのに?

「……どうしてあんなことを言うの。本物のジンなら絶対に言わない。死んだ自分の代わりに私を守れだなんて、そんなことを無理強いするような人じゃ、ない」

 信じる意味がないから背を向けろ。殺せないなら守れ。そんな簡単に変えられないのはわかっているのに。どれだけの気持ちで、なんのつもりで言ったかはわからないが、まるで彼らしくなかったのは確かだから。ただごとでなかったのは、確かだから。

「エヴァンスに言い損ねたことがある。シャルトルがアウレヌス卿に捕まった」

 〈壁〉の向こうから麻薬中毒者を送りこんだ、エヴァンスと犬猿の仲のベンベル騎士。

「いくらも経たずにアラーハが伝えるだろうが、人語の話せないアラーハではいろいろ不便があるだろう。伝えてくれるか」

 生き返ってもう一度エヴァンスに会えと、婉曲的にそう言った。

 ジンの褐色の瞳は優しげで、けれどどことなく厳しい色を帯びている。いつもの目。生前も死後も変わらないその目で、まっすぐにウラルを見つめている。

 その目がふっとそれたと思うと、ジンは身をかがめて足元のナタ草を手折った。夕暮れの中、時を止めたこの丘に咲く青いナタ草が、見る見る間に夜の紫色に染まっていく。

「時間だ」

 ウラルの心臓が止まって、ちょうど一日。

「俺の方から勝手に言ってしまったが、これでよかったか?」

 「ウラルは生き返る」。エヴァンスに彼は断言していた。ウラルより先に。

「私の気持ちなんてわかってるのに」

「お前の口から聞きたい」

「その前にフギンと話させて。すぐ済むから。ひとことふたこと言う時間も、もうない?」

 ジンはうなずき、ファイアオパールの棺を見つめた。

 フギンにはここの会話が聞こえているのだろうか。こことフギンの〈墓所〉は互いの棺と墓標を通してつながっているらしいから、聞こえていてもおかしくない。

「フギン」

 ぼうっと棺が炎の色に輝いた。

「ウラル。あの、その、さ」

 しろどもどろになっているフギンにウラルはほほえんだ。

 ほほえんだつもりが、泣き笑いになった。

「ごめんなさいを、いいたくて」

「え?」

「私は人でないものになるから。生きることと引き換えに、あなたが嫌っていた世界に行くことになったから。だから、だから……」

 黙っている炎の棺をそっと両手でなでさする。

 気持ちは固まっているのに。こんな言い方をしては誤解を招く。なのに直接口に出すのがまだ怖い。

「どれだけ考えても、死にたい理由なんてどこにも見つからなかった。生きるのが怖いって理由しか見つからなかった」

 ウラルは人でないものになる。風神の使者になる。火神と手をたずさえて、人々を。

「生きててくれれば、俺はいいよ」

 迷いのない言葉に胸がぎゅっと縮まった。

「生きるって言ってくれて、俺、嬉しいよ。お前がさっき逃げたとき、俺すっごい怖かった。ウラルが死んだらどうしようって、それしか考えられなくて」

 フギンはいつでもまっすぐだ。そのまっすぐさが嬉しくて、そのまっすぐさが時々怖くて。

「よかった、よかったよぉ……」

 フギンの声に嗚咽がまじった。ウラルの頬にも涙がつたう。ウラルは振り返り、ジンに向かってうなずいてみせた。

 心の準備が、できました。

 黒いマントがひるがえり、ウラルは広い胸にいだかれた。漆黒のマントは死の匂いがする。〈ゴウランラ〉の戦場跡で嗅いだ血と汗と金属の匂いがする。

「約束を果たそう」

 かすれた声が耳を打つ。彼の手が後頭部に回るのに、ウラルは黙って目を閉じた。

 創世記の一節が脳裏をよぎる。地神の土に、水神が塩辛い水を加えてこね、形を作った。そこに火神が心臓を与えると、水は血となってその体をめぐりはじめた。そして最後に風神がキスをすると、それらは命を持って動き始めた――。

「お前は幸せになる。生きることを選んだその理由、決して忘れるな」

 その唇が、ウラルの唇に重なった。

 ウラルの体の外側から、内側から、風が包み込んで吹き荒れる。

 風が。

 命の風が。


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