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第二章 3「朱の棺、青の棺」 中

     ***


「エヴァンス、夕方の祈りの水を持ってきたぞ。まだ少し時間はありそうだが」

 ダイオの声にエヴァンスは聖典を閉じた。

「いつも思っていたんだが、ベンベル人は一日に五度も何を思って祈っているのだ?」

「自分を生かしてくださっている我らが神に」

「ウラルのことは祈ってやらないのか」

 エヴァンスは黙りこんだ。

 ダイオはため息をつく。

「話は変わるが、麻薬の禁断症状とやらが現れ始めたようだ。大暴れして手がつけられん。対処法を知っているなら教えてもらいたい。情報の対価が欲しいなら言ってくれ」

「部下に手紙を書かせろ。案じているはずだ」

「シャルトルか、わかった。どうやって届ければいい?」

「アラーハ、頼めるか」

 アラーハは不満げな目でエヴァンスを見ている。ウラルのそばを離れたくないが、自分以外にはシャルトルを探せない。しぶしぶといった様子でうなずいた。

「特効薬はない。あえていえば時間だけが薬だ。神経を鎮める薬を使ってしばらく大人しくさせておくがいい。暴れ始めてから一クル(三時間)ほどで症状は治まる。あとは一クルごとに何度か症状が出るだろうが、だんだん弱くなっていく。四日もすればほぼ完全にまともになる」

 エヴァンスは話しながらダイオの差し入れた紙に三行ほどを書き綴ると、アラーハのツノに皮紐でくくりつけた。

 アラーハは不機嫌そうにエヴァンスをにらむとウラルの部屋の方へと歩いていった。娘の様子を見てから手紙を届けに向かうつもりらしい。

「ウラルの様子は変わりないか」

「不気味なくらい変わらないな。様子が見たいなら連れていく。今はちょうど誰もいないようだ」

 ダイオは大きくドアを開け放った。

「手枷もつけず、か。構わないのか」

「必要あるまい」

 エヴァンスが牢に閉じ込められているのは脱走を防ぐためでなく、ベンベル人が〈ジュルコンラ〉内部にいるという不安から兵を守るためにすぎない。

「ダイオ、お前はウラルが生き返ると思うか」

「正直、我輩にも信じられぬよ。だがウラルの状態を見ると信じざるをえない」

 二人は並んで廊下を歩いた。

 燦々と降り注ぐ午後の光の中、黒衣のウラルは真っ白なベッドに身を横たえていた。顔は覆われておらず、ぱっと見には眠っているようにしか見えない。窓は開け放たれ、そこからアラーハが顔をのぞかせていた。白髪まじりの大きな鼻面の横にはナタ草の小さな鉢がある。花は水色だ。

 ダイオはウラルの手を取り、こぶしを作らせた。それを指一本ずつ開いてみせる。

「ウラルが息を引き取ったとき、ナタ草は何色だったのだ?」

「紫だ」

「となると、心臓が止まってから六クル(十八時間)も経っている」

 普通なら硬直は全身におよび、板のようにがちがちになっているはずだ。ダイオがまぶたをこじ開ける。瞳孔は開きっぱなしだが、角膜はきれいに澄んだままだ。

「ここへ来た直後ならば、おぬしが馬上で揺すぶっていたから硬直が遅れたのだと言っただろう。昨日ウラルが刺される瞬間を見ていなければ、死後数日たって自然に硬直が解けたのだと言ったろう。だが……」

 エヴァンスはウラルの首筋に手を当て、脈を探そうとした。硬直がおこらないのはウラルがかろうじて生きているからではないかと思ったのだ。が、やめた。

 瞳孔が開ききって光をあてても反応しないのは、脳の命を司る部分が壊れてしまったことを意味する。呼吸が失せ、唾液を飲みこむこともできない。心臓だけはかろうじて動いているが、脳の制御を失った状態になる。そんな状態で長くもつわけがない。ウラルは正真正銘、死の瞬間のまま時を止めているのだ。

「エヴァンス、お前はウラルが蘇れば嬉しいか?」

「人は一度死ねば生き返ることはできない」

「ウラルがこうして目の前にいるのに、か」

 エヴァンスは答えない。

「我輩は、正直わからぬ」

「わからない、か」

「ウラルにあわせる顔がない。それ以上のことまで頭が及ばぬのだ」

 覇気のない彼らしからぬ声音に、エヴァンスはしみじみとダイオを眺めた。

「ウラルは、何者だ?」

 今なら押せば答える。そう判断してのエヴァンスの問いに、ダイオは畏れをふくんだ目でウラルを見つめた。

「ウラルは神々しかった。ウセリメ教徒のわたしから見てもな。人ならざるものに見えた」

「そうだ。我輩が畏れに身動きひとつできぬほどに」

 ダイオは苦笑した。

「おぬしは異国民、少々話したところでさほど影響は出ぬだろう。だが他言はしないでくれ。これ以上の答えを求めようと質問しないでくれ」

 不意に窓の外のアラーハが低い声を出し、歯をむきだした。話すな!

「ウラルは〈風神の墓守〉だ。風の女神の使者であり、ときに女神をその身に宿す」

 開け放たれた窓から突風が吹き込み、ダイオの紅い衣装をぶわりとあおった。

――エヴァンス。

 ぱっとエヴァンスが顔をあげる。

「いま、ウラルの声がしなかったか」

 ダイオはぎょっと目を見開き、開け放たれた窓の外を見つめた。アラーハが表情に乏しい獣の顔で、けれど怒りと畏怖のないまぜになった形相を浮かべている。なぜ語った!

「するはずがないのはわかっているが、たしかに」

――エヴァンス!

 ぐらりとエヴァンスの体が傾いた。

 エヴァンスは歯を食いしばり足を踏ん張って抗うが、まぶたがどんどん落ちていく。

「何が起きている、ダイオ……?」

 とうとうその場に膝をついたエヴァンスをダイオは声もなく見つめた。

 アラーハが高々といななき、急を伝える。近くの部屋に待機していた兵士たちの足音が聞こえ始めるころには、エヴァンスはウラルのベッドに突っ伏す形で意識を失っていた。


     ****


「ウラル」

 フギンの棺に背を向け、ジンの棺に腰かけてうつむくウラルの頭に大きな手のひらが載せられた。

「半クル(一時間半)経ったの?」

「少しばかり早いがな」

 ジンはいつものようにウラルの隣に腰かけず、そのまま立っている。ジンを見あげて首をかしげたウラルに彼は手をさしのべ、立ちあがらせた。

「フギンと話をしたようだな」

「見ていたの?」

「気を悪くしたなら謝る」

 ウラルは黙ってかぶりを振った。現世でも風の眼をもつ風神には隠し事などできない。ましてやここは死後の世界、風神の世界だ。

「ウラル。ほかの人とも話してみないか」

「ほかの人?」

 ジンはいつもの悲しげな笑みを浮かべてみせた。

「そろそろ決着をつける頃合だ。折いいことにダイオがへまをやらかしてくれた」

「ダイオが何をしたって?」

「見ていてくれ」

 ジンは一歩前に進み出た。

「エヴァンス」

 かがんで目の前のサファイヤの棺に触れ、ジンは呼ばわった。

「エヴァンス!」

 ウラルは驚き目を見張った。ジンはさっきウラルがフギンと話したように、エヴァンスとも話ができるようにしてくれるつもりらしい。

 が、ジンがやったのはそれ以上のことだった。空っぽの棺の中にぼんやりと人影が現れる。ウラルが呆然とジンと棺を交互に見つめるうち、人影はエヴァンスその人に変わっていった。燦然と輝く金の髪、ウラルが贈った青い服。実際のエヴァンスはまだ髪を染めており、この服もウラルの血でとても着れる状態ではなくなったはずだが。

 エヴァンスのまぶたが震え、棺と同じ色の瞳が現れた。

 ジンがかがんだままそっとウラルの手を引く。ウラルはぺたんとエヴァンスのかたわらに座りこんだ。その動きでエヴァンスははっきりと目を覚ましたのだろう。半身を起こしてかたわらのウラルを、その隣のジンを見つめた。

「お前がジンだったのか」

 ジンは武人らしいおおらかな笑みを浮かべ、エヴァンスに手を差し出した。

「覚えていてくれて嬉しいぞ、エヴァンス」


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