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第二章 2「はざま」 上

 やがて「ウラルの体を綺麗にしてやりたい」と湯や着替えを手にマームと老婆が戻ってきた。エヴァンスは黙って席を外し、窓の外にアラーハと並んで座りこんだ。

 マームと老婆は血みどろになったウラルの服を脱がせ、体をアルコールで清めて、喪服に着替えさせた。葬送される者もする者も共に風の女神と同じ服をまとう。それがこの国のならわしだ。

 死化粧をほどこし、マームが涙をこぼしながらウラルの腕を風神の加護を願う形、竪琴を抱くような格好に整えた。ウラルの体が硬直しないことに、その胸がぬくもりを残していることに――この時点では誰も気がついていない。


     *


「俺は席をはずしたほうがいいか? それともいたほうがいいか?」

 ウラルは答えようとして、口をつぐんだ。

 ひとりになるのは不安だった。ジンの袖をつかんで「ここにいて」と言いたかった。けれど。

(ウラルにとって、死なないことは義務だったのではないかと思う)

 ジンの顔を見られない。このひとはジン本人でないことはわかっている。けれど、「生きろ」と言い遺して戦場に散った人の目を、今はとても見られない。

(ウラルは最期に死を願った)

 エヴァンスに殺されかけたときは全力で生きたいと願っていたのに。

 ウラルの気持ちを知ってか知らずか――いや、相手は「流れ移ろう形のないもの」、風や命や心を司る女神だ。当然ウラルの心くらい読めているのだろう。ウラルと背中合わせになるよう水晶の棺に腰かけた。

「ジン。もし私が死ぬと言ったらどう思う?」

「哀しいな、もちろん。だがお前はそれを選んでいい」

「うそつき」

 ジンは黙り込んだ。

「あなたは選択肢を与えてくれているつもりかもしれない、でも私には最初から選択肢なんてないの」

「それなら一日という時間は用意しなかった。お前の同意がいるにしても、最初から生きろと言っている。今この時点で選択を迫っているさ」

 でも、とウラルが反論しかけると、ジンが哀しげに笑うのが背中越しにわかった。

「そうだな。お前が生きることと死ぬことと、両方選べる立場にいると知ったら、エヴァンス、フギン、アラーハ、マーム……誰もがお前が生きることを望むだろう。俺もお前に生きてほしい。それを全部振り切って死を選ぶほどお前は無情じゃない」

 マームの泣き声が耳の奥に蘇り、ウラルはぐっとうつむいた。

「でも、私は」

 ジンは黙っている。ウラルはそこからの言葉が浮かばないのに、ジンが待っているのが伝わってくる。

「ジン。どうして私を選んだの?」

 ジンは答えない。ウラルは構わず続けた。

「私は一度だってちゃんと迷わなかった。生きていた本物のあなたもそういう風に私に選択を迫ったことがあった。北で何かあったと言われて、私はジンと一緒に行くか、どこか暮らせる村を探すか、選択を迫られた。でも、私は迷わず一緒に行くと答えた」

「ああ、そうだな」

「そんなこと、沢山あった。もう一度同じ選択を迫られても、私はやっぱり迷わずに同じ答えを出す。でも」

 ジンは黙ったきりだ。

「どうして私はここにいるの? 私、ごく普通の選択しかしてない。なのにどうして私は〈風神の墓守〉になったの? 私はやっぱり生きる選択をすると思う。普通の選択しかしてないのに、どうして私は『人ならざるもの』にならなきゃならないの?」

 無言。

「私がずれはじめたのはいつ? 村が襲われたあの日から? ジンと一緒に行く決断をしたあの日から? この墓所に初めて来た〈ゴウランラの戦い〉のときから? もう、わからない。私、普通に生きたい。普通の人生を送りたい」

 視線。

「普通に生きられるなら生き返りたい。でも今までよりも『普通じゃない』ことになるなら、私……」

「生き返れば、どうあっても『普通』には戻れない」

 断言された瞬間、涙がこぼれた。わかっている。けれど。

「選択肢はあるのに、私は絶対にひとつしか選べないの。迷うことさえできないの。今も生き返る前提で、でも怖くてたまらない……」

 ジンがまた肩越しにこちらを見たが、そのまま動かないでくれていた。ウラルはゆっくり涙をぬぐう。

「ジンが生きていて今の私を見ていたら、生きろって言うと思う?」

「ああ」

 涙に濡れた指でそっと水晶の棺をさする。ガラスのような透明な棺を。その中に含まれた白い靄を。

「自分が先に死んでしまったのに」

 本来なら棺におさめられた遺体の顔のある場所を、何度も何度も指でなぞる。


     **


「くそっ。ウラル、エヴァンス! どこにいるんだ!」

 どこからともなく聞こえた呼び声にアラーハが高くいななき返答する。あの直後からウラルを探し回っていたのだろう。蹄音とともに汗だくのマルクが姿を現した。

「アラーハ、ここにいたか! エヴァンス、ウラルは……」

「いま、屍衣に替えているところだ」

 エヴァンスの低く押し殺した声に、高潮していたマルクの顔がさあっと青ざめた。

「そんな。嘘だよな、ウラル」

 窓枠をつかんだ手をエヴァンスがつかんで引き戻す。振り払ってさらに手を伸ばそうとしたマルクをエヴァンスがもう一度引き戻した。

「着替えの最中だ。死者をはずかしめるな」

 マルクの全身から力が抜けた。

「火神の使者よ、こちらは済みましたゆえどうぞ入られよ。異国の方も」

 カーテンの向こうから声がした。何の紹介もしていないのに「火神の使者」と呼ばれているのにも気づかぬまま、マルクはエヴァンスと共に部屋へ入った。

 薄化粧をほどこし、黒衣をまとって、ベッドに横たわるウラルの姿。部屋の隅には血を溶かした湯やタオルの小山がある。

「ウラル……」

 そっとウラルの首筋に手を当てる。

「本当にいっちまったのか? 俺があのときお前をひとりで置いていったから?」

 ウラルは何も答えない。マルクがぎりりと奥歯をかみ締める。

「おい風神、聞こえるか! あんたの大切な〈墓守〉が死んじまったぞ! なんで死なせたんだよあんた死の神なんだろ! 助ける力くらい持ってるんだろぉっ!」

 急に言ってはならないことを叫びだしたマルクに、けれど老婆、マーム、エヴァンスは反応しなかった。

「火神は俺たちを救ってくださるぞ! なのになんであんたは、あんたはっ……!」

「火神の使者よ。お気持ちはわかるが、ここは孤児院です。子供たちはもう寝支度に入っておりますゆえ、気持ちを静めてくださらんか」

 静かな声に、マルクがびくっと身を引いた。

「孤児院だったのか、ここ。そりゃあ悪いことをした」

 ぐしぐし頬を手でぬぐう。

「『あの方』から伝言を預かってきたんだ。ウラルが生きていれば無理はせず報告のみでいいと。だがもし息がなければ、〈ジュルコンラ〉へ連れ帰れと。間違っても焼いたり埋めたり、ウラルの体を損なうようなことはするなと。縁起でもないとは思ったんだが、わかっていらしたんだな……」

「『あの方』とは誰だ。フギンのことか」

「ああ、そうだよ。フギンじゃないフギンだ」

 エヴァンスは何か言いたげに口を開き――マルクが言った「お前をひとりで置いていったから」の意味、火神や風神のこと。聞きたいことはあるのだろうが、結局何も言わずにウラルを振り返った。

「ウラルは、フギンに会いたいだろうか」

「会いたいだろ、ずっとそばにいたんだ。すまないけど連れていかせてもらうぞ」

「わたしも行こう。フギンにももう一度会っておかなければ」

 マルクが目を見開く。それからゆっくりと気まずそうに顔をゆがめた。

「エヴァンス、悪いんだがお前は〈ジュルコンラ〉の中に入れられない」

「わたしも狙われるのはご免こうむる。門の前までしか行かぬ」

 なおも顔をしかめるマルクに、エヴァンスは薄く笑ってみせる。

「安心するがいい。ウラルを失った今、わたしがフギンとダイオを狙う理由はなくなった。ウラルを送り届けたら部下と共にヒュガルト町へ戻り、神の裁きを待つ」

「神の裁きって。何があるんだよ」

 エヴァンスは答えなかった。ただ黙ってウラルの顔を見つめるだけ。

「私も行くわ」

「なんでおばさんまで」

「誰がおばさんよ、私はマーム! あんたも〈ジュルコンラ〉の人間なら名前くらい聞いたことあるでしょ、〈スヴェル〉の一員よ!」

 えええ、とマルクがすっとんきょんな声をあげた。マームが腰に手を当てふんぞりかえる。

「〈スヴェル〉だって? うそだろ」

「何を根拠に嘘だっていうのよ。ウラルが私を知っていた、証拠はそれで十分でしょ。フギンにも会わせてくれたらはっきりするわ」

「でもフギンは今」

「二重人格だって言うんでしょ? でもフギンは私のこと胃袋で覚えてるはず。心はふたつあっても腹はさすがにひとつでしょ。それにウラルの葬儀くらい参列させなさい」

「めちゃくちゃ言わないでくれよ」

「いいわね?」

 マルクが力なく降参のポーズをする。マームが「そうこなくっちゃ」と鼻を鳴らした。

「おばあちゃん、勝手に決めてごめんなさい。エリスにも。そこにいるのはわかってるのよ。私が帰ってくるまで子供たちをお願い」

 遠慮がちなノックの音とともにエリスが顔をのぞかせた。

「別に立ち聞きするつもりはなかったのよ。さっきの大声でジェシが起きちゃって」

「言い訳なんかしなくていいわ」

「戻ってこなくていいわよ、ベンベル人とつるんで。マーム、あんたがそんな風になるとは思わなかった」

「じゃああんたの憎まれ口を聞くのもこれで最後ってわけね。笑って見逃してあげる」

 エリスが目をつりあげ何か言い返そうとして、けれど毒気をそがれた様子でそっぽを向いた。そっぽを向いた先にはエヴァンスがいる。もろに目が合い、エリスは小さく悲鳴をあげると部屋の外に飛び出した。

 ばだん、とドアが閉まる。けれどそこから先の足音は聞こえなかった。まだ聞き耳をたてているのだろう。

「エリスったら」

「怯えているんだよ。マーム、忘れ物はないかね。もう帰ってこれないかもしれないよ」

「財布を忘れたわ」

 老婆は「とっておいで」とうなずいた。ウラルの横たわるここがマームの部屋、財布もこの部屋のどこかにあることを知りながら。

「おまたせ。行きましょ」

 さっきまで元気のよかったマームの顔が再び憂いを帯びていた。子供たちの部屋をそっと覗いてきたに違いない。あるいはまだ閉じられたドアの横に突っ立っているエリスともうすこしましな別れをしてきたのかもしれない。けれど本当に財布を取りに行くだけの間だけで帰ってきたマームは、何気ない仕草で上着をひっかけ部屋の隅のバッグをつかんだ。

 エヴァンスは自身のマントでウラルを包み、そっと抱き上げた。腕の中でウラルの体が頼りなく揺れている。

「迷惑をかけた」

 エヴァンスは老婆と廊下に立っていたエリスにひとこと詫び、外へ出た。

「アラーハ。乗れというのか」

 玄関の前でアラーハはじっと伏せ、エヴァンスとウラルを見つめていた。エヴァンスはウラルを抱きなおし、アラーハの背をまたいだ。アラーハはふたりを振り落とさぬようそっと立ち上がると、〈ジュルコンラ〉へ向け歩みだす。

 少し前に全力疾走してきた道を、ゆっくり、ゆっくりと。マルクとマームがその後を追った。


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