第一話 最初の手紙
山奥の道は、夕方になると急に静かになる。
鳥の声も、風の音も、どこか遠くへ消えてしまうような静けさだった。
神崎悠斗は、砂利道をゆっくり歩いていた。
肩には古びた郵便カバン。
この山奥に郵便局があると聞いたとき、正直なところ半信半疑だった。
だが地図に示された場所を進んでいくと、本当に建物はあった。
木造の小さな郵便局。
屋根には苔が生え、窓は少し歪んでいる。
看板にはかすれた文字でこう書かれていた。
黄泉ヶ丘郵便局
悠斗はしばらくそれを見つめていた。
自分がここで働くことになるなんて、まだ実感がない。
三年前。
事故で家族を失った。
父、母、妹。
帰り道の交差点で、トラックに突っ込まれた。
あのときから、悠斗の中で何かが壊れた。
悲しいはずなのに、涙が出ない。
寂しいはずなのに、何も感じない。
ただ胸の奥が空っぽのまま、時間だけが過ぎていく。
大学にも行かず、仕事も続かず、
気がつけば、どこへ行けばいいのかわからなくなっていた。
そんなとき見つけたのが、この郵便局の求人だった。
「配達員募集」
それだけ書かれていた。
悠斗は扉を押した。
カラン、と小さなベルが鳴る。
中は驚くほど静かだった。
木の机。
古い棚。
封筒の山。
そして一人の老人。
白髪の長い髪を束ねた男が、湯のみを持って座っていた。
「いらっしゃい」
老人はゆっくり笑った。
「神崎悠斗くんだね」
悠斗は軽く頭を下げた。
「今日から働くことになりました」
「うん、待っていたよ」
老人は立ち上がる。
「私は藤崎。この郵便局の局長だ」
悠斗は周りを見回した。
郵便局にしては妙に静かだ。
客の気配がまったくない。
「ここって……」
言いかけると、藤崎が先に言った。
「普通の郵便局じゃない」
悠斗は眉をひそめる。
藤崎は棚から一通の封筒を取り出した。
白い封筒。
宛名は丁寧な文字。
佐々木美咲へ
悠斗は聞いた。
「差出人は?」
藤崎は静かに言った。
「亡くなった人だ」
悠斗はしばらく黙った。
冗談だと思った。
しかし藤崎の表情は変わらない。
「この郵便局ではね」
藤崎は机に手紙を置く。
「亡くなった人が、生きている誰かへ一度だけ手紙を送れる」
悠斗は笑うこともできなかった。
「……それ、本気で言ってますか」
藤崎は湯のみを置いた。
「今日の配達だ」
悠斗は封筒を見た。
住所は書かれていない。
「どこへ届けるんですか」
「行けばわかる」
「わからないですよ」
藤崎は小さく笑った。
「手紙が、道を教えてくれる」
悠斗は深く息を吐いた。
意味がわからない。
だが不思議なことに、帰ろうとは思わなかった。
藤崎は封筒を差し出す。
「読んでみるといい」
「配達員が?」
「この手紙は、読まないと届けられない」
悠斗は封を開けた。
中には一枚の便箋。
文字は少し歪んでいた。
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美咲へ
突然こんな手紙が届いたら驚くよな。
でも少しだけ聞いてほしい。
泣いてるんだろう。
美咲はすぐ泣くから。
俺がいなくなったのは事故だったけど、
美咲はきっと自分のせいだと思ってる。
違うから。
あの日、遅刻しそうだったのは俺のせいだ。
美咲は悪くない。
だからお願いだ。
泣かないで。
笑ってくれ。
俺は美咲の笑ってる顔が好きだった。
短い付き合いだったけど、
人生で一番楽しかった。
ありがとう。
大好きだ。
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読み終えたとき、
悠斗の胸の奥が少しだけ重くなった。
「……恋人ですか」
藤崎は頷く。
「高校生だった」
悠斗は手紙を折りたたむ。
「亡くなったのは?」
「二ヶ月前」
静かな空気が流れる。
藤崎は言った。
「届けてきなさい」
悠斗は郵便カバンに封筒を入れた。
外に出ると、空は夕暮れだった。
山道を歩く。
不思議なことに、足が勝手に進んでいく。
やがて住宅街の端に出た。
小さな公園。
ベンチに一人の少女が座っていた。
制服姿。
俯いている。
悠斗は立ち止まった。
胸が妙にざわつく。
少女は手の中のスマホを見つめていた。
画面には、写真。
男の子と並んで笑っている写真。
少女はつぶやいた。
「なんで……」
声が震えている。
「なんで私だったの……」
悠斗はゆっくり近づいた。
「郵便です」
少女は顔を上げる。
涙で目が赤い。
「え?」
悠斗は封筒を差し出した。
少女は戸惑いながら受け取る。
宛名を見る。
目が見開かれた。
「……嘘」
震える手で封を開ける。
文字を読む。
途中で涙が落ちた。
声を押し殺して泣いている。
便箋を胸に抱く。
「ばか……」
少女は笑いながら泣いた。
「そんなこと……」
「言うの遅いよ」
風が吹いた。
公園の木が揺れる。
少女は空を見上げた。
「聞こえたよ」
小さく言う。
「ちゃんと届いた」
悠斗は黙って立っていた。
胸の奥が痛む。
なぜだろう。
自分は悲しいはずなのに、
三年間、何も感じなかったのに。
今は少しだけ苦しい。
少女は悠斗に頭を下げた。
「ありがとう」
悠斗は答えなかった。
ただ軽く頷いた。
夜になった頃、郵便局に戻る。
藤崎は机に座っていた。
「どうだった?」
悠斗は言う。
「……泣いてました」
藤崎は頷いた。
「それでいい」
悠斗は聞いた。
「どうして……こんな手紙があるんですか」
藤崎は少し考える。
そして言った。
「言葉には重さがある」
「言えなかった言葉は、この世に残る」
「その重さが、ここへ届くんだ」
悠斗は黙った。
机の上を見る。
また一通の封筒が置かれていた。
母へ
悠斗はそれを見つめる。
胸の奥が、かすかに揺れる。
三年前の事故。
救急車のサイレン。
血の匂い。
そして。
言えなかった言葉。
藤崎が静かに言った。
「この仕事をしているとね」
「いつか気づく」
悠斗は顔を上げる。
藤崎は微笑んだ。
「自分にも、届けたい手紙があることに」
外では風鈴が鳴っていた。
夜の山は静かだった。
悠斗はまだ知らない。
この郵便局で配達を続けるうちに、
彼の心の奥に閉じ込められていた言葉が、
少しずつ動き始めることを。
そしていつか。
彼自身もまた――
誰かからの手紙を受け取る日が来ることを。




