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浮舟のフィオナ―若き女王と終末の方舟―  作者: 河野章


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第八章:狂気と均衡の晩餐

 王城の最上階、海原を一望できる空中庭園の回廊には、夜の重苦しい静寂と、場違いなほど豪奢な食卓が用意されていた。  主座にはプラチナブロンドの髪を月光に溶かし、深紅のドレスを纏った女王セリーヌ。その背後には、第一正妃として、あるいは死神の如き静寂を纏ったルークが控え、左右には水と油のごとき対極の二人が座していた。  一人は、翡翠の瞳に侮蔑を隠そうともしない第二正妃、ビクトル・シャルール。  もう一人は、粗末な礼装を窮屈そうに着崩し、野獣の如き鋭い眼光を放つ第三正妃、スズカである。

「……毒味は済んでいます。さあ、召し上がれ。我が『おとこ』たち」

 セリーヌが艶やかに微笑み、銀のナイフを柔らかい肉へと沈める。その音さえもが、沈黙の支配する広間に不気味に響いた。  ビクトルは優雅にワインを啜り、グラス越しにスズカを薄汚いものを見るような目で見下した。

「陛下、いくら我が国の多妻制が古からの伝統とはいえ、この……ドブネズミの残り香が漂う食卓で食を共にせねばならぬとは。シャルール侯爵家の名が汚される。私だけを愛でてくだされば、海下層の薄汚いスラムごと、余計な火種は焼き払って差し上げましたのに」

 その言葉に、スズカが手にしたフォークをテーブルに突き立てた。鋭い金属音が火花のように弾ける。

「はっ、御高説だな、お高い孔雀サマ。その磨き抜かれた綺麗な指で、一体何が守れるってんだ? あんたがワインの香りがどうのと能書きを垂れてる間に、俺の仲間は船底の亀裂を泥と血にまみれて塞いでんだよ。あんたの役目は、せいぜい女王様の豪華な飾り物になって、種付け役に選ばれるのを震えて祈ることだけだろ?」 「下賤な者が……。貴様ら海下層民は、我ら貴族が供給する資源を啜って生きる寄生虫に過ぎない。その立場を弁えぬ不遜な口、今ここで切り裂いてやろうか」

 ビクトルが立ち上がり、腰の細剣の柄に指をかけた。翡翠の瞳が殺意に燃える。対するスズカも、礼装の隠しポケットから重厚なボルト回しを抜き取り、不敵に笑った。

「やってみろよ。その細っちょろい針金で、海水の圧力に耐えてきた俺の皮が貫けるならな。あんたのその白い肌、油と煤で真っ黒に染め上げてやるぜ」

 一触即発の火花。だが、その熱線を一瞬で氷結させたのは、セリーヌの背後から伸びた、指の欠損した右手だった。  ルークが音もなくビクトルの肩に手を置き、わずかに力を込める。

「お二人とも。陛下の前です。……序列を乱す者は、私が直々に『再教育』いたしますよ。私の体は不自由ですが、人の命を効率よく断つすべだけは忘れておりませんので」

 ルークの氷のような、しかし逃げ場のない掠れた声に、広場は凍りついた。スズカは舌打ちをして椅子に座り直し、ビクトルも忌々しげに肩を揺らして剣から手を離した。  セリーヌはその緊張感を楽しむように、切り分けた肉をゆっくりと口に運ぶ。その咀嚼音すら、男たちの性的な、あるいは闘争的な本能を煽り立てた。

「……それでいいわ。争いなさい、嫉妬しなさい。そして私に示して。誰が最も価値ある『妻』であるかを。私の寵愛を、私の身体を、そしてこの国の未来を、誰がその腕で掴み取るのか」

 セリーヌはワイングラスを飲み干すと、音を立てて卓に置いた。それが、晩餐の終焉を告げる合図だった。  彼女はゆっくりと立ち上がり、三人の男たちを見渡した。

「今夜は……少し肌寒いわね。皆で温めてくださるかしら?」

 その言葉に、男たちの空気が一変した。殺気は歪な情欲へと姿を変え、彼らは女王を囲むように歩み寄る。  中央にセリーヌ。その右側をビクトルが勝ち誇ったような足取りで固め、左側からはスズカが獲物を狙う野獣の如き歩調で寄り添う。そして、背後からはルークが影のように、しかし確実に彼女の退路を断つように従った。

 三人の夫たちに引き連れられ、あるいは三人の夫たちを従えて、セリーヌは深い闇の奥に鎮座するねやへと、ゆっくりと消えていった。

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