第七章:鉄の底、泥の誓い
海下層、スーラ族の居住区を包む空気は、常に重油の焦げた匂いと、巨大な浮力機関が吐き出す熱気に満ちていた。頭上を走る太い鉄管からは、島の心臓が吐き出す不規則な蒸気が絶えず噴き出し、錆色の霧が人々の顔を濡らしている。
スズカが帰還したという知らせは、錆びついた鉄管を叩く音のように瞬く間に広がり、薄暗い広場には血気盛んな若者たちが集結した。コンテナの上に立ち上がったスズカの姿に、期待と不安の入り混じった熱狂が渦巻く。
「……女王と交渉してきた」
その一言に、広場が静まり返った。あまりの静寂に、背後で唸る巨大なクランクの軋み音だけが不気味に響く。スズカは仲間たちの視線を一身に受けながら、無造作に黒髪を掻き上げた。
「要求は飲ませた。食料も、そして新たな血(女)もだ。だが、その対価として俺たちは女王の直轄部隊になる。そして……俺は、女王の『妻』として城に上がる」
静寂。そして、爆発的な動揺が地鳴りのように響き渡った。
「妻だと!? 馬鹿な、人質の間違いじゃねえのか!」
「スズカ、あんたは俺たちの頭だ。海上民の女の玩具にされるなんて、プライドが許さねえ!」
叫ぶ若者たちの中で、特に鋭い声を上げたのはアユだった。彼はスズカの幼馴染でありながら、海上民への憎悪を誰よりも募らせていた。アユはコンテナの下から、憎悪に燃える瞳でスズカを睨み上げた。
「寝首を掻きに行くならまだしも、膝を折って寝所に侍るだと? そんなのは、俺たちが望んだ『決行』じゃねえ! スズカ、あんたはあの白っ茶けた肌の女に毒を盛られたんだ!」
アユの叫びに同調する声が、広場の至る所から沸き起こる。スズカはコンテナを一段降り、アユの肩を砕かんばかりの強い力で掴んだ。その眼差しには、女王の寝所で見せたわずかな迷いなど微塵もなかった。
「プライドで腹が膨れるか? 誇りでこの腐った機関が直せるかよ。いいか、このままじゃ俺たちは全員、船底の泥と一緒に腐って消えるだけだ」
スズカの声が、重く広場を圧した。
「俺は、女王の腕の中からこの島の喉元に指をかける。海上民の知恵と資源を奪い、俺たちがこの船を、この世界を掌握するための『潜入』だ。奴らの血を混ぜ、奴らの技術を盗み、内側から食い荒らす……罠なら食い破って帰ってきてやる。俺を信じろ、アユ」
アユは、スズカの指を荒々しく振り払った。その瞳に宿ったのは、信頼ではなく決別という名の絶望だった。
「信じろだと? あんたがその腕に抱くのは、俺たちの未来じゃない。女王の温かい身体だ。……勝手にしろよ。だが俺は、そんな惨めな生き方は選ばねえ」
アユは数人の若者を引き連れ、暗い通路の奥へと消えていった。
その数時間後、アユたちは島の境界部にある「禁忌の連絡通路」にいた。そこは厚い鉄扉で閉ざされ、通常は衛兵の監視下にある場所だ。だが、その影には、スズカたちの動きを予見していた「招かれざる先客」が潜んでいた。
王城の保守派層に連なる重臣、シャルール侯爵の手先である密偵が、冷ややかな微笑を浮かべてアユの前に現れる。
「スズカという若者は、随分と野心的で……そして不実な男のようだ」
アユは短刀を抜き、密偵の喉元へ突きつけた。だが、密偵は動じることなく、懐から贅沢な小麦の香りがする白いパンを取り出した。
「スズカは女王と共にある。だが、我ら保守派は女王のやり方に異を唱える者だ。我らに協力し、スズカと女王の計画を内側から壊せ。そうすれば、お前の部族だけは『真の自由』を約束しよう」
アユの瞳が揺れる。海藻と死の匂いに満ちた海下層で、初めて嗅ぐ本物の小麦の香り。それが、友情を売り、裏切りに手を染める対価だった。
広場では、残された男たちの沈黙が、やがて地を這うような低い咆哮へと変わっていた。それは真の英雄をたたえる歓喜の咆哮だった。スズカは一人、仲間たちを背に、見上げるほどに遠い「空」へと続く昇降機を見据えた。唇に残る琥珀の残り香と、親友を失った苦い喪失感。それらをすべて決意へと変え、スズカは鉄の檻のような昇降機へと足を踏み出した




