序章
昔は、陸地に数多の国があったという。
今やそのほとんどが海底に沈み、多くのテクノロジーも失われた。
取り残された人々は浮島と呼ばれる海へと浮かぶ巨大な島々へと移り住み、行く宛てもなく大洋を巡り始めた。
時は過ぎ、これはある浮島の若き女王、セリーヌの物語である。
「セリーヌ様、近々ご婚約という噂は本当ですの?」
「……ええ」
「お相手は名高きシャルールの若様、ビクトル様とか……」
「そこまで 噂は広がっておりますのね……そうですの。ご縁がありまして」
「まあ、やっぱり!」
周囲の貴族達から一斉に上がる祝辞の声、と女性達の嬌声。黒と紫紺のドレスに身を包んだセリーヌは扇の陰でそっと欠伸を噛み殺す。今日は自身が主催のダンスパーティーだった。
「それでは、セリーヌ様とビクトル様のご婚約を祝って! 乾杯!」
誰が音頭を取ったのか歓喜の声が響き渡り、楽隊が軽快なワルツを奏で始める。生欠伸で目尻に溜まった涙を隠そうとそっとセリーヌは人の輪から一歩下がった。
(退屈で、阿保らしい茶番だわ……)
そこへ、コツ、カツンと独特のリズムの靴音がゆっくり近づいてきた。周囲のざわめきとその足を引きずる独特の音でセリーヌは振り向かずとも誰の訪れかを知る。
「……セリーヌ様、もっと楽し気にしていただきませんと。ゲストの方々に失礼ですよ」
耳へと、掠れた落ち着いた囁き声。たしなめる風な物言いには慣れっこだ。
長く王家に仕えてきた執事長、ルーク。セリーヌの二十歳ほども年上のお目付け役だ。灰色の長い髪を背後で結わえ年齢よりは年若く見えるルークだが、その左肘から先は無い。左下肢も引きずる様子で、この社交の場ではどうしてもその長身も見劣りする。周囲のざわめきがルークを中心に小さく起こっていることを知りながら、首を傾げてセリーヌは初めて扇の陰で楽しそうに微笑んだ。
「だって、こんな趣旨が見え見えのパーティー。……ビクトル様との噂を流したのはあなたでしょう? ルーク」
「なんのことやら……。ですがこうやって大きく噂になれば、あのシャルール公とて無視はできないでしょうね」
セリーヌが横目で灰青色の瞳を見やれば、濃い黄金色の瞳を悪戯っぽく見つめ返してから目を伏せるのはルークの癖だ。
セリーヌ5歳。ルーク25歳の時に王立図書館の地下で出会った二人は、年の差や身分、男女を超えての親友だった。
クスクスと笑い合う二人を見ながら、貴族達は声を潜める。
「見て、あの執事長の慣れ慣れしい振る舞い」
「確かに。あのように一人で立つのもやっとという有様で。果たして女王陛下のお世話が務まるのか……」
「第一こんな晴れの席に同席できるような身分でもないだろう」
「しかし……あれで女王様の第一の……ですからな」
「そうですわ。滅多なことは……」
目線をちらちらとセリーヌ達へとやりながら、貴族達は次の噂話へと移っていく。
セリーヌは彼らを後目に、ルークの腕を取って会場の真ん中へとゆっくりと連れ出す。彼とならダンスも苦にならない。見世物と思われても良い。自分はこの国の女王。いつだって、誰かに見られているのだから。
浮島が海上へと乗り出してから幾世紀。
限られた資源の他は、たまに寄港できる土地に漂着しては物資をできる限り詰め込む。そこには自然と持つものと持たざる者、階級社会が生まれ、さらには島の上層部に住む海上民と海下層民とに民を分裂させた。
海上民はその多くが貴族たちとその生活を支える者たちで構成され、海下層民を見下している。海下層民は島を動かす動力部で仕事をすることを一生の生業とし、島の内部で黙々と働き、見たこともない海上民を妬み羨んでいる。
普段、二つの階層は分厚い鉄の扉と衛兵によって内部から分断されている。だがごく稀に、島上部から事故で落ちた海上民が海上で海下層民に救われたり、島上層部に忍び込もうとして捕まる階下層民がいることはいる。
今夜、その海下層民の手がセリーヌに迫っていた。




