転生思想
次の音が、乾いた。鈍い音が床に落ちて、続いて小さく何かが擦れる。女は走らない。走ったら勝負になる。勝負は近道を呼ぶ。女は歩幅を変えずに洗面の前まで行き、ドアに手を伸ばす前に声だけ落とした。
「今、ここ」
返事がない。水の滴る音だけが残っている。女の指先が熱を持つ。熱は触れたい入口だ。触れたら軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。女は触れないまま、ドアノブの硬さだけ握った。
「距離」
ドアの向こうで、かすれた息が返る。
「……距離」
息の返りが遅い。遅いのは薄い。薄いのは危ない。女はノブを回し、内側の簡易ロックを外すための溝を指で探った。探った指が滑り、滑った瞬間に心臓が跳ねる。跳ねると喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、もう一度だけ指を置き直した。
ロックが外れた。ドアが開く。
男は床に座り込んでいた。背中が壁に寄り、首の角度だけが不自然に硬い。目は開いているが、焦点が定まっていない。呼吸はある。あるのに、吐く息が短い。短い息の端に、言葉が乗っていない。女は一歩で近づかない。近づけば安心になる。安心は走る。女は半歩だけ寄り、しゃがまずに膝を曲げる。距離を残したまま、声だけ置く。
「白紙」
男の喉が動く。乾いた音が小さく出る。出た音のあとに、男の唇が動く。
「……言いたい」
女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は短く置く。
「言っていい。言ったら白紙」
男の目が揺れ、揺れた瞬間に息がさらに短くなりかける。女はその短さを止めるために、慰めではなく動作だけを足す必要があった。女は男の肩ではなく、壁と男の間に手を差し入れ、背中が滑って頭を打たない角度だけ作った。触れたのは衣服の端と、壁の冷たさだけ。体温には触れない。触れないまま、声を落とす。
「止める。水」
男は視線を窓の代わりに洗面台の角へ逃がし、吐く息を長くしようとして途中で途切れた。途切れたところに近道が立つ。女は端末を出し、画面を見ないまま病院の番号へかけた。呼び出し音が二回鳴り、調整役の声が落ちる。
「どうしました」
女は説明を増やさない。増やすと整う。整うと走る。女は事実だけ置く。
「失神しかけ。床に座り込み。呼吸が短い。応答はある。今、宿」
調整役が一拍置く。電話越しに紙をめくる音がして、淡々とした声が返る。
「頭部打撲は」
女は男の頭の位置だけ確認する。角には当たっていない。女は短く答える。
「ない。今はない」
「立てますか」
女は男に聞かない。聞けば男が返したくなる。女は事実を見る。男の指先は震えている。震えが残っているうちは立たせない。
「今は立てない」
調整役の声が揺れない。
「救急へ。こちらで受けます。同行者は一緒に来てください。移動中、本人が別の解決を口にしたら白紙のあと動作に逃がす。呼吸が止まる、意識が落ちる、頭を打つ、胸痛が出るなら現地の救急要請。いけますね」
女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は短く置く。
「行く」
通話を切ってから、女は男へ戻る。男はまだ洗面台の角を見ている。吐く息が少し長くなりかけて、途中で短くなる。短くなるところに言いたいが乗る。女は先に折る。
「白紙」
男の喉が動く。乾いた音が小さく出る。
「白紙」
女は男の腕を抱えない。抱えたら安心になる。安心は走る。女は床に落ちていたタオルを拾い、丸めて男の背中の下に滑らせる。滑らせる動作で身体が少しだけ起きる。起きた分だけ呼吸が通る。女は声を増やさずに言った。
「立たない。座ったまま、吐く」
男は吐く。吐く息が長くなる。長くなった瞬間、男の目に水気が混じる。混じった水気が熱を呼ぶ。熱は触れたい入口だ。女は触れずに、床の角を見る。
数分後、男は自分で膝に手を置き、ゆっくり立ち上がった。立ち上がる途中でふらつき、女の手が反射で伸びかけて止まる。止めた手の指先が震える。震えが触れたいを呼ぶ。女は触れずに、壁の硬さを男の背中へ渡す形を作った。支えは壁。女は声だけ。
「距離」
男が息を押し返して返す。
「距離」
病院までの移動は短いはずなのに、短いほど数字が刺さる。女は時刻を見ない。男も見ない。車内で男が一度だけ言った。
「俺、返したい」
女は否定しない。短く置く。
「返さない。今は運用」
男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。
「心臓のやつ、出てる」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。
「白紙」
男も返す。
「白紙」
救急の入口は明るすぎた。明るさが刺さる。刺さると頭が速くなる。男は床の線を見ない。窓の代わりにガラス扉の角を見る。女は受付の机の角を見る。名前を呼ばれ、問診の短い質問が続く。息の乱れ、失神の有無、痛み、吐き気。女は答えない。答えると背負う。背負うと男が返したくなる。男が自分で答える。答えながら喉が鳴り、乾いた音が出るたびに、男は小さく「白紙」を挟む。
奥のベッドに移され、心電図の電極が貼られる。冷たいジェルが肌に触れ、男の肩が上がりかける。上がりかけた肩を落とし切れず、男は膝の縫い目へ指先を押し込む。
そこへ女医が来た。歩く音が速くない。速くないのが助かる。女医は男の顔を見て、胸元のモニターを見て、女を見ないまま言う。
「今は、止める練習の場じゃない。吐けるだけ吐け」
男の唇が動きかけて止まり、喉の乾いた音が小さく出る。女医が短く問う。
「言いたい?」
男が一拍置いて答える。
「言いたい」
女医は頷かずに言う。
「言ったら白紙。白紙の次は」
男は視線を角へ固定し、吐く息を長くする。
「水。立つ。窓」
女医が一行だけ紙に書き、読み上げない。血圧の数値を見て、手を止めずに次の指示を出す。点滴はしない。酸素もつけない。つけたら特別扱いになる。特別扱いは勝負を呼ぶ。女医は必要な最低限だけで終わらせる。
しばらくして、男の吐く息が少し長くなった。肩がわずかに落ち、指先の震えが減る。減った瞬間に、男の目が女の方へ揺れそうになって、男は自分で角へ戻した。戻した先で、男が低い声で言う。
「さっき、触れた」
女の指先が熱くなる。熱は触れたい入口だ。触れたいの入口で、女は止める。慰めない。整えない。女は事実だけ置いた。
「壁に渡した。私じゃない」
男の喉が動き、乾いた音が小さく出る。
「でも、温度、分かった。……それが怖い」
女医がそこで初めて女の方を見た。視線が短い。短いのが助かる。
「怖いでいい。怖いから、近道が増える。増えるなら、折る回数を増やす。勝手に拡張しない」
女は頷かず、短く返す。
「確認だけにする」
帰り道、風が頬を刺しても二人は走らない。宿の前で男が足を止め、低い声で言った。
「言いたい」
女は否定しない。短く置く。
「言っていい。言ったら白紙」
男が目を伏せ、戻して、小さく吐いた。
「心臓のやつ。触れた分、返したくなる」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。
「白紙」
男も返す。
「白紙」
扉が閉まり、夜の三呼吸は声だけだった。ひとつ、吸って吐く。ふたつ、吐く息が少し長くなる。みっつ、吐ききって止めない。止めたら勝負になる。勝負は走る。二人は止めずに、同じ言葉だけを口の中へ置いた。
「今、ここ」
夜、灯りを落としても、男の呼吸だけが部屋に残った。吐く息を長くしようとして、途中で細くなる。細くなった瞬間に喉が鳴り、乾いた音が小さく出る。男はベッドの端に座ったまま、膝の縫い目へ指先を押し込んだ。押し込んだ指が痛むほど力が入って、力が入るほど胸が跳ねる。
女は起き上がらない。起き上がれば、音が増える。音が増えると整えたくなる。整えれば安心が立つ。安心は走る。女は横向きのまま、枕の角へ視線を置いて息を押し返した。
男が低い声で言う。
「言いたい」
女は返事を急がない。急げば軽くなる。軽くなると、男が返したくなる。女は一拍置いて、声だけ落とした。
「言っていい。言ったら白紙」
男は唇を開いて、閉じて、もう一度開いた。開いた唇の端が震え、震えたまま言葉が落ちる。
「俺、ここにいるだけで、君の名前が増える」
女の指先が熱くなる。熱は触れたい入口だ。触れたら軽くなる。軽くなった反動が怖い。女は触れずに、布団の端を指でつまんで硬さに逃がした。
「増えたのは書類。あなたは今、ここ」
男の喉が動き、乾いた音が小さく出る。
「書類が増えるほど、俺は返したくなる。返せるのは一つしかない」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。
「白紙」
男もすぐ返した。
「白紙」
白紙を置いたあと、男は立った。立った瞬間、床の冷たさが足裏へ刺さり、刺さった冷たさが胸を跳ねさせる。男は窓の代わりにカーテンの端を見る。見るだけで吐く息を長くする。長く吐けたのに、肩が落ち切らないまま、男は部屋の出口へ向かった。
女は起き上がらない。起き上がって近づけば、止めた形が崩れる。女は声だけで先に置く。
「距離」
男はドアノブに手を伸ばしかけて止めた。止めた指先が震え、震えの先に言葉が立つ。
「距離」
男が返す。返したのに、足は動く。動く足がドアの前で止まり、止まった足の先で男が低い声を落とした。
「俺が出ていけば、君は軽い」
女は否定しない。否定したら男は勝負にする。勝負は走る。女は事実だけ置く。
「外に出ても、書類は消えない。軽くならない」
男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。
「消えないなら……消す方法は」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は折る。
「白紙」
男も返す。
「白紙」
男はドアノブから手を離し、離した手を膝の縫い目へ戻した。戻した指が硬い線をなぞり、なぞった先で止まる。止まったまま、男は床に座り込んだ。座り込む動作で息が一拍だけ通り、通った息の途中で男が言う。
「俺、怖い。触れた温度が残ってる。残ってるのに、足が外に向かう」
女は慰めない。慰めれば軽くなる。軽さは走る。女は布団の中から、声だけ置く。
「怖いは言っていい。行為にしない」
男が短く笑いそうになって、笑いの手前で喉が鳴る。
「行為にしないって、恋の方も?」
女の指先が熱くなる。熱いまま触れない。女は一拍置いてから、形だけ置いた。
「恋は残す。走らない形」
男は床に座ったまま、吐く息を少し長くした。長い吐息が出た瞬間、また喉の乾いた音が小さく混じる。
「じゃあ、明日も袖?」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は短く置く。
「明日は、病院の指示を先」
その言葉のあと、部屋の音が少しだけ減った。減った音の隙間に、二人の呼吸が残る。残った呼吸は浅いまま、朝まで続いた。
朝、端末が震えた。女は画面を見ないまま通話だけ取る。女医の声が落ちる。低く、短い。
「今日、来て」
女は説明を求めない。求めれば整える。整えると走る。女は短く返す。
「行く」
女医が続ける。
「昨日の件。外で折るのは早い。今夜は病院で見たい」
男の肩が上がりかける。上がりかけた肩を落とし切れずに、男は膝の縫い目へ指先を押し込んだ。喉が鳴って、乾いた音が小さく出る。
女は通話を切り、机の角を見たまま言った。
「今夜、病院」
男は窓枠の角を見て、吐く息を長くする。長い吐息が出たのに、目の周りの力が抜けない。
「俺がまた倒れたら、君はまた書く」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は折る。
「白紙」
男も返す。
「白紙」
病院へ向かう道で、風が頬を刺した。刺さった風が息を短くする。短くなるたび、男は「今、ここ」を口の中に置き、女は鞄の取っ手の硬さへ熱を逃がす。二人は歩幅だけ合わせ、手は伸ばさない。
外来の個室で女医は紙を出さなかった。端末も出さない。椅子の背もたれに片手を置いて、男の顔色だけ見る。
「昨夜、出ようとした?」
男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は窓の角を見たまま答える。
「出ようとした。止めた」
女医の声は揺れない。
「止めたのは誰」
男の喉が動く。乾いた音が小さく出る。男は答えを整えない。整えると勝負になる。
「距離って言われた。……でも、止めたのは俺」
女医が一拍置く。
「今夜は病院。君が止められるかを見る。同行者は同室じゃない。廊下の向こう。勝手に拡張しない」
女の胸の奥が熱くなる。熱は反論を呼ぶ。反論は整える。整えると走る。女は言葉を増やさず、短く置いた。
「確認だけにする」
男が低い声で言う。
「俺、ここで言えば早いって、また出る」
女医は遮らずに聞く。
「何を」
男の唇が動きかけて止まる。止まった瞬間、喉が鳴る。
「白紙」
女医は淡々と続ける。
「白紙の次」
男は吐く息を長くして答える。
「水。立つ。窓」
女医は男の方を見たまま、言葉を短く落とした。
「今夜、それができないなら、次の話に移る」
次の話、という言い方が刺さる。刺さると決まる。決まると早いが立つ。早いが立つと、あの言葉が出る。男の喉が鳴り、乾いた音が小さく出た。
女は机の角を見たまま、息を押し返した。男は窓の角を見る。二人の間に触れない距離が残ったまま、女医の声だけが続く。
「今日の昼までに、袖の形は一旦やめる。触れ方を決めたのはいい。決めたなら、守る。守れないなら、触れない」
男の指先が膝の縫い目をなぞり、なぞった先で止まった。止まったまま、男が低い声で言う。
「触れないと、乾く。乾くと、近道が増える」
女医が一拍置く。
「増えるなら、折る回数を増やす。恋を増やすな。折る回数を増やせ」
個室を出た廊下で、男が立ち止まった。立ち止まった足の先に、言いたいが立つ。男は隠さずに言う。
「言いたい」
女は否定しない。短く置く。
「言っていい。言ったら白紙」
男は目を伏せ、戻して、小さく吐いた。
「心臓のやつ。次の話って言われた瞬間、出た」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。
「白紙」
男も返す。
「白紙」
白紙を置いたあと、男は一歩だけ歩いて、歩いた先で立ち止まらずに吐く息を長くした。女はその背中を見ない。見れば熱が増える。増えた熱は触れたいになる。触れたら、今夜が壊れる。
病院の窓の外は明るいまま、午後へ向かう。今夜の観察は、二人の距離を固定する。固定は逃げ道を削る。逃げ道が削れるほど、近道は鋭くなる。男は角を見ながら、女は取っ手の硬さを握りながら、その鋭さを口に出さずに運んでいった。
病院の玄関をくぐった瞬間、空気の匂いが変わった。消毒の薄い甘さと、床のワックスの乾きが混ざって喉を狭くする。男は床の線を追わず、ガラスの端だけを見る。端に視線を固定すると、吐く息が一拍だけ長くなる。その一拍の間に、足を止めないで進める。
受付で手続きが増えた。女は紙を揃えずに受け取り、揃えないまま記入する。男が見ないように、机の角を押さえて、ペン先の音を小さくする。署名が終わると、看護師が淡々と案内した。観察室は狭く、窓は小さい。小さい窓は逃げ道になりにくい。男は窓の代わりにベッド柵の角を見て息を押し返した。
電極を貼られる冷たさで肩が上がりかける。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、押し込みながら吐く息を長くする。長さが出る前に喉が乾いて鳴り、乾いた音の直後に言葉が立ちかけた。
「言いたい」
看護師は反応しない。反応されると特別扱いになる。特別扱いは勝負になる。男は自分で止める。
「白紙」
声が落ちたあと、男は立ち上がらない。立つと動作が増えて、動作の勢いで外へ向かう。男は背中をベッド柵に預け、柵の角を見る。女は廊下の向こうで待つよう指示され、視線だけ一度振り返ってから、返事をしないまま角へ戻した。返事があると安心が立つ。安心は走る。女は走らない形を残したまま、扉の外へ出た。
観察室の扉が閉まる音は軽かった。軽い音ほど、部屋の中が広く感じる。広いと選べる。選べると近道が増える。男は息を押し返し、柵の角を見て言った。
「今、ここ」
誰も返さない。返されない声が胸の奥を刺し、刺さった反動で足がベッドから降りそうになる。男は足先を動かしかけて止め、止めた足の裏の冷たさを数えずに吐く息へ逃がした。吐く息が短くなりかけたところで、男はもう一度だけ言う。
「白紙」
看護師が水を置いた。カップは並べない。置き方が雑で助かる。男はカップを持ち上げて一口だけ飲み、飲んだあとに喉の乾いた音を小さく鳴らした。鳴った音の直後に、頭の中で一つの文が立つ。ここで言えば早い。ここで言えば軽くなる。軽くなるなら、返せる。男は唇を開きかけ、開いたまま止めた。
扉が開き、女医が入った。手には紙も端末もない。視線だけが短く動く。男の顔色、モニター、柵の角、そして男の足元。女医は声を落とす。
「出ようとした?」
男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は角を見たまま答えた。
「出ようとした。止めた」
女医が一拍置く。
「誰が止めた?」
男の喉が動き、乾いた音が小さく出る。女医の質問は女を呼ぶ形になる。呼べば安心が立つ。安心は走る。男は呼ばない。
「俺」
女医はそれ以上掘らない。掘ると勝負になる。勝負は近道を呼ぶ。女医は短く言った。
「今夜はそれを見る。触れない。合図は声だけ。白紙の次は?」
男は吐く息を長くして答える。
「水。立つ。角」
女医は「角」を直さない。窓が無いなら角でいい。女医は扉の方へ顎を動かした。
「同行者は廊下。呼ばない。呼びたくなったら白紙」
女医が出て、扉が閉まる。廊下の向こうで女が椅子に座る気配がする。椅子が鳴る。布が擦れる。音があるのに触れない距離がある。男の胸の奥が熱くなり、熱が喉へ上がる。言いたいが立つ。立った言いたいの形は決まっている。返せるのは一つしかない。
男は膝の縫い目へ指先を押し込み、押し込んだ痛みで言葉を折った。
「白紙」
廊下側で女の靴先が少し動く音がした。近づく音じゃない。位置を変える音だ。女は来ない。来ない形が、今夜の枠だ。男は息を押し返し、カップの水をもう一口飲んだ。飲んだあと、吐く息が一拍だけ長くなり、長くなった一拍の途中で男は小さく言った。
「恋、残る」
返事はない。返事がないまま、男は角を見る。角は動かない。動かないものを見ていると、胸の跳ねが少しだけ遅くなる。遅くなった分だけ、近道の刃が鈍る。鈍った刃の隙間に、女の署名の線が浮かぶ。浮かんだ瞬間、男はまた口を開きかけて止めた。
「白紙」
廊下の向こうで、女が息を一つだけ長く吐く音がした。声ではない。触れないまま届く長さだけが、今夜の合図だった。
深夜、観察室の時計は音を立てないのに、秒だけが肌に触れるみたいに進んだ。男は柵の角を見続け、目を逸らしたくなるたびに水を一口だけ飲んだ。飲む動作が終わると、喉の奥の乾いた音が勝手に鳴って、その直後に言葉が立ち上がる。立ち上がる言葉の形はいつも同じで、早く片付く方向に向かっている。
男は膝の縫い目へ指先を押し込み、押し込んだ痛みで言葉を折った。
「白紙」
折ったのに、胸の奥の跳ねは残る。残る跳ねが足裏へ降りて、ベッドから降りたい衝動になる。衝動が動作になる直前、男は柵を握りかけて止めた。握ると勝負になる。勝負になると外へ向かう。男は握らず、柵の角だけ見て吐く息を長くした。吐き切る前に細くなる。細くなったところで、廊下の向こうの椅子が小さく鳴った。来ない音だ。位置を変える音だけが、薄い壁を通って届く。
男の胸の奥が一段熱くなり、熱が喉へ上がる。呼びたい。名前を呼べば、今すぐ軽くなる気がする。軽くなった反動で、また返したくなるのが分かっているのに、口が開きかける。男は自分で止めた。
「白紙」
白紙のあと、男は立った。立ち上がった瞬間に視界が少し狭くなる。狭くなると、床へ倒れたくなる。倒れたらまた書類が増える。増える書類の線が脳裏に刺さって、刺さった反動で吐く息が短くなる。男は足を一歩出さずに、その場で膝を少し曲げ、ベッドへ戻らず、床の冷たさを数えないまま息へ逃がした。
「水」
声に出してからカップを持ち上げる。飲む。飲んだあとに喉が鳴る。鳴った瞬間、また言葉が立つ。ここで言えば早い。ここで言えば終わる。終わるなら、彼女の名前が増えない。
男はカップを戻し、柵の角を見たまま言った。
「今、ここ」
返事はない。返事がないまま、心電図の波形だけが規則に近づいたり遠ざかったりする。男は立ったままふらつき、ふらついた勢いで柵に手が伸びかけ、伸びきる前に止めた。止めた指先が震えて、震えが熱に変わる。熱は、返したいに変わる。
扉が静かに開き、夜勤の看護師が入った。歩く音が揃っていない。揃っていないのが助かる。看護師はモニターの数字を読まずに、男の顔だけ見て言った。
「座る」
男は反発しない。反発は勝負になる。男は吐く息を長くしながら、ベッドの端へ座った。座った瞬間、足裏の冷たさが消え、消えた分だけ胸が跳ねる。跳ねが増える前に、男は小さく言った。
「白紙」
看護師は頷かず、カップを指で押して近づける。
「飲む」
男は飲む。飲んだあと、喉の乾いた音が小さく鳴り、男の唇が動く。
「言いたい」
看護師は遮らない。遮ると特別扱いになる。特別扱いは勝負になる。看護師は淡々と返した。
「言う。言ったら白紙。白紙の次」
男は角を見る。吐く息を長くする。
「水。立つ。角」
看護師はそれ以上踏み込まず、扉の外へ出た。廊下の向こうで椅子がもう一度鳴る。来ない音だ。来ないのに、来ているみたいに胸が熱くなる。
しばらくして、扉がまた開いた。女医だった。白衣の袖が少し捲られていて、手は空だ。女医は男の目を見ずに、まず足元を見る。靴がない。床に出る衝動があったかどうかを見に来ている。
「出た?」
男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は角を見たまま答えた。
「出てない。出たいが出た」
女医は短く言う。
「出たいが出たら、何する」
男は吐く息を長くして答える。
「白紙。水。角」
女医は一拍置いて、今度は男の喉の動きだけを見る。
「呼びたくなった?」
男の喉が乾いて鳴る。鳴った直後、廊下の向こうの椅子の音が刺さる。男は口を開きかけて止め、折った。
「白紙」
女医は淡々と、逃げない声で言った。
「白紙の次」
「水。立つ。角」
女医はそれ以上追い込まないまま、男の横の壁へ視線を移した。そこは廊下と隔てる薄い壁で、向こう側に女がいる。女医は男に背を向けずに言った。
「窓口の話、増えた。増えた分、君は返したくなる。返すな。返す形は生活の運用にする」
男の胸の奥が跳ねる。運用で返す。運用で返すという言葉が、逆に勝負に変わりかける。勝てば返せる。勝てば軽くなる。軽くなれば、あの言葉を言わなくて済む。男の唇が動きかける。女医が先に切った。
「聞く」
女医の声が低く落ちる。
「今夜、一番出た言葉は何」
男は角を見る。吐く息を長くする。吐き切る前に細くなり、細くなったところで言った。
「俺がいない方が軽い」
女医は頷かない。頷けば、軽くなる。軽くなると男が勝負にする。女医はただ短く言った。
「軽くならない」
男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。
「軽くならないなら、消す方法は」
女医が間髪を入れずに言った。
「白紙」
男は息を押し返し、続けた。
「白紙」
女医は一歩だけ近づき、でも触れない距離で言った。
「今夜はこれでいい。君が言葉を出して、折れた。折れたなら、次に進める」
次、という言葉が刺さる。刺さると、早く片付く方向が立つ。男は喉を鳴らし、乾いた音の直後に折った。
「白紙」
女医は扉へ向かいながら、振り返らずに言った。
「廊下の人と話す。君は呼ばない。呼びたくなったら白紙」
扉が閉まる。女医の足音が廊下へ流れていく。男は壁の向こうの気配を追いそうになり、追った瞬間に胸が跳ねた。跳ねを止めるために水を飲む。飲んだあと、喉が鳴る。鳴った直後、声が出かける。
「……」
男は息を押し返し、唇を閉じ、膝の縫い目へ指先を押し込んだ。
「白紙」
廊下の向こうで、女医の声が低く落ちるのが聞こえた。壁越しで言葉ははっきりしないのに、女の返事だけが短く届く。
「確認だけにする」
その声が胸の奥を熱くして、熱が喉へ上がり、呼びたい衝動になる。男は立ち上がらないまま、角を見る。角は動かない。動かないものを見て、吐く息を長くする。長い吐息の途中で、男は声にならない程度に唇を動かした。名前は出さない。出せば、今夜が壊れる。
廊下の音が少し遠ざかる。女医が戻ってくる気配がして、扉が開いた。女医は男の顔を一度だけ見て、短く言った。
「本人は廊下。今夜は同室にしない。あなたが呼びたくなるから」
男は反発しない。反発は勝負になる。ただ、喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。
「呼びたい」
女医は淡々と返した。
「呼べ。呼んだら白紙」
男は角を見る。吐く息を長くする。吐き切る前に細くなる。その細さの中で、男は小さく言った。
「……呼びたい」
女医は一拍置き、言った。
「それでいい。呼びたいを言えた。名前を言わないまま言えた」
男の胸の奥が一段だけ落ちる。落ちた分だけ、息が通る。通った息の途中で、男が低い声で言った。
「恋は、残る」
女医は答えない。答えたら安心になる。安心は走る。女医は扉を閉め、外へ出る前に一言だけ置いた。
「朝まで観察。水は飲め。立つな。立つなら呼べ。呼んだら白紙」
扉が閉まる。廊下の向こうの気配は遠いまま残る。男は角を見て、飲んで、折って、また角を見る。眠りは来ない。来ないのに、朝は近づく。近づくほど、女の声が一度だけ欲しくなる。欲しくなるたびに、男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで言葉を折った。
「白紙」
明け方、薄い光が窓の隅に溜まっていくのに、男の目だけは乾いたまま開いていた。眠りは来ない。来ないまま、喉が鳴る。鳴るたびに言葉が立つ。立った言葉を折るために、男は膝の縫い目へ指先を押し込む。押し込んだ痛みが残っているうちは、口が勝手に開かない。水を一口飲む。飲む動作が終わると、また喉が鳴る。男は角を見る。角は動かない。動かないものを見て、吐く息を長くする。吐き切る前に細くなっても、細くなったところで折るだけだと思い直して、もう一度だけ息を押し返した。
扉が開き、看護師が食事のトレーを置いた。置き方は揃っていない。揃っていないのに、音だけが規則的で、規則的な音が胸の跳ねを刺激する。男は手を伸ばしかけて止め、止めた指先の震えを見ないように視線を角へ戻した。「白紙」声が落ちる。看護師は頷かずに「座る」とだけ言い、背もたれに手を添えて距離を保ったまま、男がベッドの端へ腰を下ろすのを待った。腰が落ちると足裏の冷たさが消え、消えた分だけ胸が跳ねる。跳ねを増やさないために、男は食事に手を付けず、水だけ飲んだ。
しばらくして女医が入ってきた。紙も端末も持たず、モニターの数字を読まず、男の喉の動きと肩の高さだけを見る。女医の視線が足元へ一度落ち、床に出ていないのを確認したところで、短く言った。「夜は越えた。越えたのは終わりじゃない。越えた分、返したくなる」男の喉が鳴り、乾いた音が小さく出る。女医はその音に反応しないまま続けた。「呼びたいは言えた。名前を言わないで言えた。そこは保てている。問題は、ここから先の選び方だ」男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は角を見たまま吐く息を長くして、短く答えた。「選ぶと、勝負になる」女医はそこで一拍置き、男の視線の先の角ではなく、壁の向こうを顎で示した。「廊下の人を入れる。ただし触れない。声だけ。呼びたくなるなら白紙」
扉が開き、女が入ってきた。椅子に座らず、机の角を押さえたまま立つ。男は見た瞬間に胸が跳ね、跳ねた反動で口が開きかけるのを押し返した。名前は出さない。女医が先に言った。「昨夜、出ようとした。止めた。止めたのは本人。ここまではいい。今日からは、二人とも『軽くする』をやめる」女は反論を飲み込むみたいに喉を動かし、短く返した。「確認だけにする」男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。女医は男の目を見ず、男の指先の位置だけ見て問う。「君が一番言いたかった言葉は」男は角を見る。吐く息を長くする。吐き切る前に細くなったところで、喉の奥が痛むほど言葉を削って言った。「俺がいない方が軽い」女の指先が机の角を強く押さえ、爪の白さが一瞬だけ増えた。女医は淡々と返した。「軽くならない。書類は消えない。消す言葉は近道だ」男の口が開きかけ、女医が先に切る。「白紙」男は息を押し返し、同じ言葉で折った。「白紙」
女医は二人の間の距離を崩さないまま、声を落として続けた。「窓口の書類は増える。増えた分、君は返したくなる。返すなら生活で返せ。寝る。飲む。勝手に出ない。言いたいを言って、折る。そこまでを守れ。守れないなら、今日は『触れない』を徹底する」女が机の角を押さえたまま、息を一つ長く吐いた。「袖はやめる。守る」男は喉を鳴らし、乾いた音が小さく出る。「触れないと乾く。乾くと近道が増える」女医はそこを否定しない。「増えるなら折る回数を増やす。恋を増やすな。折る回数を増やせ」男の肩がわずかに上がりかけ、上がりかけた肩が落ち切らない。女は男を見ないまま言った。「怖いは言っていい。行為にしない」男は笑いの手前で喉が鳴り、乾いた音が混じる。「恋も?」女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は一拍置いて、事実の形に落とした。「恋は残す。走らない形。今日は声だけ」
女医はそこで話を終わらせず、二人に同じ距離を保ったまま短く言った。「今日、外へは出さない。ここで休ませる。夜にまた崩れるなら、こちらで見ながら止める。止め方は同じだ。白紙の次は」男は角を見て吐く息を長くし、女の声を待たずに答えた。「水。立つ。角」女も同じ言葉を重ねる。「水。立つ。角」二人の声が重なった瞬間、男の胸が跳ね、跳ねた分だけ言いたいが立ち上がった。男は口を開きかけて止め、膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで言葉を折った。「白紙」女は机の角を押さえたまま、同じ言葉を置いた。「白紙」女医はそれを聞いて、初めて小さく息を吐いた。長い吐息ではない。短い吐息だけを残して、扉の方へ顎を動かした。「今日はそれでいい。崩れたら呼べ。呼んだら白紙」
確実な角度を作ったまま、縦の先端は降りない。
降りないのに、胸骨の裏の圧だけが増える。増えた圧が喉を塞ぎ、塞がれた喉の穴が細くなる。細くなった穴を測るみたいに床の列が一拍だけ脈を打ち、脈のあと、胸の中心の薄い点が広がらないまま濃く見えた。濃く見えたのに痛みはない。ないのに、胸の内側がひとつ空く。空いた分だけ呼吸が入らない。
圧力扉のレバーの真下の沈みが、もう一段深くなる。深くなるのに盛り上がらない。奥行きだけが増え、増えた奥行きの縁で粉が沈む。沈んだ粒の列がレバーの軸へ寄り、寄ったところで金属の反射が一段沈んだ。沈んだ反射の中で、レバーの先端の位置だけがわずかに変わる。
変わる音はない。
ないのに、レバーが「動いた」ことだけが分かる。分かった瞬間、誰かの呼吸が漏れそうになって止まる。止めた穴に合わせて縦の先端が一拍だけ揺れを消し、揺れが消えたぶんだけ角度が確かになる。確かになった角度の先は胸の中心だ。だが同時に、レバーの高さにも揃っている。揃っている二つの高さの間に、薄い線が一本だけ引かれた気がした。引かれた線は床を這わない。空気を切らない。切らないまま、床の模様だけを一列ずつ消していく。
レバーに伸ばしかけた指が、白いまま戻らない。戻らない白さの端が赤い非常灯の中で浮き、浮いた白さを見た瞬間、レバーの沈みが一拍だけ速くなった。速くなったのに重さは増えない。増えないまま、レバーの影が床へ落ち、落ちた影の縁で粉が沈む。沈んだ輪郭が列になり、その列が胸の中心の真下の溝へ揃う。
揃った瞬間、横たえられた者の胸が途中まで上下し、途中で止まった。止まった穴に合わせて縦の先端が下へ降りる手前の角度を作り、角度が作られたまま止まる。止まった先端の下で空気が痺れ、痺れが皮膚へ触れる前に産毛が逆立つ。逆立った根元が熱くなるのに汗は出ない。汗が出ないまま、胸の内側の空洞が軽くなり、軽くなった途端に喉がさらに狭くなる。
狭くなった喉の奥で、音にならない咳が一つ震えた。震えは小さい。小さいのに粉が落ちる。落ちた粒が沈む。沈んだ中心から黒が覗き、覗いた黒が床の列へ繋がる。繋がったところから列が太り、太った列がレバーの真下をなぞって回り込む。回り込む曲がり方が迷わない。迷わない曲がり方の先が、扉の輪郭ではなく、レバーの軸の中心を選ぶ。
レバーが、もう一度だけ動いた。
動きはほんの僅かだ。だが僅かな動きに合わせて、軸の周りの粉がいきなり沈んだ。沈んだ中心から黒が覗き、覗いた黒が軸の穴へ入り込む角度を作る。角度が出来た瞬間、扉の輪郭の反射が一列だけ死んだ。死んだ帯が扉を一枚薄くし、薄くなった面の向こうに「奥」が出来る。奥が出来たせいで、扉の向こうに空間があることだけが分かる。分かった瞬間、胸骨の裏の圧が一段増え、息が吐けなくなる。
吐けないまま、誰かが横たえられた体をさらに滑らせる。足を上げない。滑らせる。滑らせた靴底が粉を潰し、潰れた粉が沈む。沈んだ跡が点になる。点が列へ寄る。寄ったぶんだけ列が太り、太った列が胸の真下を追いかけるように曲がる。曲がりながらも速度は変わらない。速くないのに確実だ。
確実さに押されて、白い指がレバーへ触れそうになって止まる。止まった指先の感覚が薄い。薄い感覚のまま引くと、引いた指だけが白いまま残る。白いのに粉が付いていない。白さが増えた瞬間、レバーの沈みが一拍だけ止まった。止まった代わりに、扉の輪郭の死んだ帯が一列増える。増えた帯が扉の面を薄くし、薄くなった面の奥が少しだけ近づいたように見える。
近づいた奥の縁で、粉の粒が沈む。
沈んだ粒が扉の輪郭に沿って並び、並んだ中心が奥行きを持つ。奥行きの先に肩の位置だけが濃く浮く。浮いた肩は扉の向こうではなく、こちら側の胸の高さへ揃う。揃った瞬間、縦の先端の角度が胸の中心へ確かに合い直し、合い直した角度のまま降りる手前で止まる。止まった空気の痺れが増え、増えた痺れが喉の奥を尖らせる。
外で、遠い泡の爆ぜが一つ鳴った。衝撃は小さい。小さいのに、扉の輪郭の死んだ帯が一拍だけ脈を打ち、脈のあと、レバーの軸の黒がほんの僅かに深く覗いた。覗いた深さのぶんだけ、レバーの位置だけが一拍遅れて沈む。沈むのに重さが増えない。増えないまま、レバーの影が床へ落ち、落ちた影の縁で粉が沈む。沈んだ列が胸の中心の真下へ揃い、揃った瞬間、胸の中心の薄い点がまた濃くなる。
濃くなった点が、広がらないまま、ほんの僅かに動いた。
動いたのは位置じゃない。奥の向きだった。奥の向きが胸の中心からレバーの軸へ向き直り、向き直った瞬間、縦の先端の角度が胸から外れた。外れた角度がレバーの高さへ揃う。揃ったまま、先端が袋へ落ちたときと同じ沈むふりをして沈まない。沈まないのに、レバーの金属の位置だけが一拍遅れて沈んだ。
沈んだところで、圧力扉の輪郭の奥が、もう一枚だけ薄くなった。薄くなった面の向こうに、赤い非常灯の反射が届かない暗さがある。暗さの中で、白い粒が舞っているのが見えた。舞っているのに風はない。粒は光を返さない。返さない粒の下で、透明な液面が揺れずに溜まっている。
扉の向こうの「奥」が、ネモ室と同じ死に方をしている。
見えた瞬間、誰も息を吐けない。
吐けない沈黙の中で、レバーの真下の黒が、今度は確かに軸の穴へ入り込む角度を作った。角度が作られたまま止まり、止まった角度の先端が、ゆっくりと回転する手前の位置へ揃い始めた。
夕方、照明が少し落ちた。落ちた光は刺さらない代わりに、影を増やす。影が増えると想像が増える。想像が増えると近道が増える。男はベッド柵の角を見て吐く息を長くし、女は机の角を押さえたまま立っていた。立ったままの足裏が痺れそうになっても、座らない。座ると安心が立つ。安心が立つと、返したいが立つ。
看護師がカーテンを半分だけ引き、点滴ではなく水を追加した。紙コップが二つ置かれ、置き方は揃っていない。男は一口飲んでから喉の乾いた音を小さく鳴らし、音の直後に口が開きかけるのを膝の縫い目で止めた。「白紙」女は返事を声にしない。返すと軽くなる。軽くなると、男が呼びたくなる。女は机の角に爪を沈め、吐く息だけを少し長くした。
少しして扉が開き、女医が入った。手には紙が一枚だけで、端末は持っていない。紙の端が折れていて、折り目は歪んでいる。歪んでいるのが助かる。女医は男の顔色と、女の指先の力だけ見て言った。
「血液の結果。二人とも一致が多い」
男の胸が跳ね、跳ねた反動で喉が狭くなる。狭くなった喉の奥で乾いた音が鳴り、鳴った瞬間に言葉が立つ。男は角を見たまま折った。
「白紙」
女も机の角を押さえたまま、同じ言葉を置いた。
「白紙」
女医はそこで止めず、言葉を増やさずに続けた。
「一致が多いのは事実。決める話じゃない。決めると勝負になる。勝負になると君は差し出したくなる」
男の唇が動きかけて止まり、指先が縫い目をなぞって止まる。止まった指先の先に、返したいが立つ。女医は男に視線を向けないまま言った。
「今夜は確認を一つだけ増やす。君の衝動が上がった時、白紙で折れるかを見る。折れたら、次の手順に進む。折れないなら、外の計画を現実に落とす」
次、という言葉が刺さる。刺さった瞬間、男の喉が鳴る。乾いた音の直後に口が開きかけ、男は痛みで止めた。
「白紙」
女は息を一つだけ長く吐いてから、声を落とした。
「一致が多い、って聞こえた。聞こえただけで、熱が増える。だから今日は声だけでいい」
男は女を見ない。見たら名前が出る。名前が出たら軽くなる。軽くなった反動で、また返したくなる。男は角へ視線を固定し、吐く息を長くしてから答えた。
「声だけ。……俺は今、ここにいるだけで、返す形を探してる。探すのが怖い」
女医が一拍置き、短く言った。
「怖いでいい。怖いは言っていい。行為にしない」
男の喉が乾いて鳴り、鳴った直後に言葉が立つ。立った言葉は心臓へ向かう。男は折る。
「白紙」
女医は紙をポケットに入れ、扉の方へ顎を動かした。
「同行者は廊下に戻る。呼びたくなったら白紙。呼んだら白紙。名前を出しそうになったら白紙」
女は反論しない。反論は整える。整えると走る。女は机の角から手を離し、扉の外へ出る前に一度だけ、声だけを残した。
「今、ここ。水は飲む。白紙は言える」
男は返さない。返したら軽くなる。男は吐く息を長くして、柵の角だけ見た。扉が閉まる音が軽く、軽い音ほど部屋が広く感じて、広いほど選べる気がして、選べる気がするほど近道が増える。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで言葉を折った。
「白紙」
廊下の向こうで椅子が小さく鳴った。来ない音だ。来ないのに、温度だけが近い。男は水を一口飲み、飲み終えた喉の乾いた音の直後に、声になりかけたものをもう一度折った。
「白紙」
夜はまだ始まったばかりで、結果の紙は胸の奥に残ったまま、角と水と白紙だけ次の波を待っていた。夜、観察室の灯りがさらに落ちて、モニターの明滅だけが角の輪郭を強くした。男はベッド柵の角を見て吐く息を長くし、水を一口飲んでから喉の乾いた音を飲み込む。飲み込めなかった音が小さく鳴り、鳴った直後に紙の文言が胸の奥で立ち上がる。一致が多い。事実。決める話じゃない。決めると勝負になる。勝負になると差し出したくなる。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで言葉を折った。「白紙」折ったのに、足裏が床の冷たさを欲しがる。冷たさに触れたら、動作が増えて、増えた動作の勢いで扉の方へ向きたくなる。男は足を出さず、柵の角だけ見て、吐く息をもう一段長くした。
看護師が入ってきて、紙コップをもう一つ置いた。置き方は揃っていない。男が手を伸ばす前に、看護師が先に言う。「いま立つと、また息が短くなる。水はここで飲んで、肩を落としてから」男は反発せず、肩を落とそうとして、落ち切らない肩を息で押し返す。水を飲む。飲み終えた喉が鳴り、言葉が立つ。「呼びたい」男は声に出してしまいそうになり、看護師の視線を避けて角へ戻し、口を閉じたまま言い直した。「白紙」看護師は頷かずに、ボタンの位置を指で軽く示す。「彼女じゃなくて、こっちを呼んでいい。呼ぶのは悪くない。呼んだら折って、折ったら飲んで、座って」
看護師が出たあと、男はそのボタンを見ない。見たら押してしまう。押したら、廊下の向こうが動く。動いた廊下の気配が胸を熱くして、熱が喉へ上がって名前が出そうになる。男は視線を角へ戻し、息を押し返してから小さく言った。「呼びたい」声に出した瞬間、喉が乾いて鳴る。鳴った音がきっかけになって、また近道が立ち上がる。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、言葉を折った。「白紙」
扉が開き、女医が入ってきた。手には紙が一枚だけで、折り目は歪んでいる。女医は男の顔色を一度見て、モニターではなく男の足元へ視線を落とし、床に出ていないのを確認してから紙をベッド柵の外側へ置いた。男の手が届く距離ではあるが、触れば動作が増える距離でもある。女医が低い声で言う。「これを彼女に渡さない。今日は君が持つ。『計画』の紙だ。逃げ道じゃない。外へ向ける手順の紙」男は角を見たまま吐く息を長くし、短く返す。「読んだら勝負になる」女医は紙の端を指で押さえ、揃えずに言った。「勝負にしない読み方がある。声に出さず、段落ごとに息を吐く。『これをやる』じゃなくて『ここに書いてある』で止める」
男は一拍置いて、指先を縫い目から離し、紙に触れる前に水を飲んだ。水を飲んで、吐く息を長くして、ようやく紙を引いた。紙には短い項目が並んでいた。診療情報の取り寄せ、紹介状、渡航先の施設への照会、人工心臓の適応判定、生活の制限、費用。男は「費用」の行で目が止まり、喉が狭くなる。狭くなった喉の奥で乾いた音が鳴り、鳴った瞬間に言葉が立つ。ここで終わらせれば早い。差し出せば軽い。男は紙を握りそうになって止めた。「白紙」女医が淡々と返す。「白紙の次」男は吐く息を長くして言う。「水。立たない。角」
女医は紙を奪わない。奪うと特別扱いになる。特別扱いは勝負になる。女医はただ、男の指先が紙を握らないように、紙の端を机の角へ滑らせた。「この紙は君が持つ。持つって言っても握るんじゃない。置いておけ。置いておけるなら、彼女の名前を増やさずに進められる」男の喉が鳴り、乾いた音が小さく出る。「増やさない、って言われると、逆に返したくなる」女医は短く言った。「返すな。返したいは言え。言ったら白紙」
女医が出ていくと、廊下の椅子が小さく鳴った。女が位置を変えただけの音が、壁越しに届く。男の胸が跳ね、跳ねた反動で口が開きかける。紙の「費用」の行が脳裏に刺さる。刺さったまま、女の署名の線が浮かぶ。浮かんだ瞬間、男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで言葉を折った。「白紙」折ったあと、男は紙を見ないまま、紙をベッドの端の外側へそっと置いた。握らない。引き寄せない。置いて、角を見る。
廊下の向こうで女の声が一度だけ落ちた。壁越しで短い息の長さだけが届く。「今、ここ」男は返事を声にせず、吐く息だけを少し長くした。紙はそこにある。触れない距離で、逃げないまま、今日の夜を越えるための形だけが残っていた。
紙はそこに置いたまま、男は角だけを見続けた。置いた紙の「費用」の行が目に入るたび、胸が跳ねる。跳ねるたび、早く片付く方向が立つ。立った方向の先には、いつもの一文がある。
男は膝の縫い目へ指先を押し込んだ。
「白紙」
声に出すと喉の奥が少しだけ開く。開いた分だけ息が通る。通った息の途中で、廊下の椅子が小さく鳴った。来ない音だ。来ないのに、温度だけが近い。男は視線を角から動かさず、水を一口飲んだ。
飲み終えた喉が乾いて鳴る。鳴った直後、口が開きかける。
呼びたい。
男は唇を閉じ、指先で縫い目を押し直す。痛みが戻ったところで、声だけを落とした。
「呼びたい」
言った瞬間、胸が跳ねる。跳ねた胸が、次の言葉を押し出そうとする。男は押し出させないまま折った。
「白紙」
それでも足が床を欲しがる。床の冷たさに触れたら、外へ向かう勢いが付く。勢いが付いたら、止め方が壊れる。男は足を出さないまま、ナースコールのボタンへ視線を一瞬だけ落とし、すぐ角へ戻した。
押すなら、廊下ではなく看護師。押しても、彼女の名前は増えない。
男は息を押し返し、ボタンを押した。
数分後、夜勤の看護師が入った。足音が揃っていない。揃っていない音のまま、看護師は男の顔と、紙の位置だけを見た。
「呼んだ」
男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は角を見たまま答えた。
「呼んだ。……廊下を呼びたくなった」
看護師は淡々と言う。
「呼びたくなった、で止める。次を言いたくなるなら白紙」
男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。
「白紙」
看護師は紙に触れない。触れると男が返したくなる。看護師は紙の端を指で押さえず、声だけで確認した。
「それ、計画。握らない。読むなら一行だけ。読んで息を吐く。それ以上は増やさない」
男は水を一口飲み、吐く息を長くしてから、紙の最初の項目だけ見た。
診療情報の取り寄せ。
その一行で、胸の跳ねが少しだけ遅くなる。遅い跳ねは、刃が鈍い。鈍い刃の隙間に、現実の手順が入る。男は紙をすぐ伏せ、角を見る。
「ここに書いてある」
看護師は短く言った。
「それでいい。今夜は眠れないなら、目を閉じて息を吐くだけ。眠れなくても、朝は来る」
看護師が出ていくと、廊下の椅子がまた鳴った。女の位置が変わっただけの音が、壁越しに届く。男の胸が跳ねる。跳ねた反動で名前が上がりかける。男は口を閉じたまま、吐く息を長くして折る。
「白紙」
明け方、女医が一度だけ入ってきた。手は空で、視線はモニターではなく男の足元へ落ちる。床に出ていないことを確認してから、紙の位置を見る。紙が伏せられたままなのを見て、女医は短く言った。
「押した?」
男は角を見たまま答える。
「ナースコール。廊下じゃない」
女医は頷かない。頷けば男が勝負にする。女医はただ、一言だけ置く。
「それが返し方」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音が小さく出る。
「返したくなるのが消えない」
女医は整えない。整えたら決まる。決まったら走る。
「消さない。運用で薄くする。薄くするのは恋じゃない。近道を薄くする」
女医は扉の外へ出る前に、背を向けたまま言った。
「朝、廊下の人にだけ伝える。君は聞くだけ。答えるなら白紙」
扉が閉まる。壁越しに女医の声が低く届く。女の返事は短い。
「確認だけにする」
その声が胸を熱くする。熱は喉へ上がって、呼びたい衝動になる。男は呼ばない。呼ばない代わりに、息を長くして言葉だけを落とす。
「呼びたい」
折る。
「白紙」
朝、女医が女を連れて入ってきた。女は椅子に座らず、机の角を押さえたまま立つ。男は見た瞬間に胸が跳ね、跳ねた反動で口が開きかけるのを押し返した。名前は出さない。男は角を見る。
女医が短く言う。
「昨夜、廊下を呼びたくなった。呼ばなかった。代わりにナースコールを押した。これは一歩」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ抜く。抜いた瞬間、熱が戻る。戻る熱は触れたいになる。女は触れないまま、声だけ落とした。
「……それでいい」
短い言葉なのに、男の胸が跳ねる。跳ねた分だけ言いたいが立つ。男は折る。
「白紙」
女医は紙を出さない。紙を出すと、費用の行で崩れる。女医は代わりに、空の手で机の上を二回叩いた。叩く音が乾いていて、乾いた音が手順になる。
「今日やるのは一つ。計画を“未来”じゃなく“今日”に落とす。まず診療情報の取り寄せ。ここまでは心臓と関係ない。関係ない段階で勝負にしない練習」
女は反論しない。反論は整える。整えると走る。女は短く言った。
「確認だけにする。やれることだけやる」
男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。
「やれること、って言うと、返したくなる」
女が即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は一拍置いて、事実の形に落とした。
「返すのはやめる。運用だけ増やす。書類は私が増やさない」
その言葉で、男の胸の跳ねが一段だけ遅くなる。遅い跳ねの隙間に、紙の一行が戻ってくる。診療情報の取り寄せ。そこまでなら、彼女の名前は増えない。
男は角を見たまま、吐く息を長くして言った。
「ここに書いてある、で止める」
女は机の角を押さえたまま、同じ形で返す。
「ここに書いてある、で止める」
女医はそこで話を切った。切り方が短い。短い切り方は決断を作らない。
「今日はそれでいい。崩れたら呼べ。廊下じゃない。ナースコール」
男の喉が乾いて鳴り、乾いた音の直後に言いたいが立つ。立った言いたいの先には、心臓がある。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
女も同じ言葉を重ねる。
「白紙」
触れない距離は残ったまま、計画は一行だけ今日に降りた。降りた分だけ、二人の恋は軽くならないまま、走らない形だけを維持していた。
午前の診察室を出ると、廊下の空気が少しだけ冷たく感じた。冷たいと足が速くなる。速くなると勝負になる。男は床の線を追わず、掲示板の角と、窓枠の角だけを拾って歩いた。女は書類を抱えない。抱えると背負う。背負うと男が返したくなる。女はクリアファイルを脇に挟まず、手のひらの面で持ち、角を潰さないまま歩いた。
受付の横の小さな窓口に案内される。事務の机は低く、声が届きやすい距離だ。距離が近いほど、言葉が増える。増えた言葉は整い、整うと走る。女医は一歩後ろに立ったまま、窓口の人にだけ短く言った。「診療情報の取り寄せ。本人同意。必要書類だけ」それで終わらせる。理由は付けない。理由は近道の入口になる。
窓口の人が紙を二枚出した。同意書と依頼書。紙が揃って置かれると、整った感じがして胸が跳ねる。男は紙を見ないで、ペンの先だけを見る。女が先に言った。「記入は私がします。本人は署名だけ」窓口の人が男へ視線を向ける。視線が来ると、答えたくなる。答えると軽くなる。軽くなると返したくなる。男は角を見る。吐く息を長くする。口が開きかけて、喉が鳴る。乾いた音の直後に折った。
「白紙」
女医がすぐ続ける。「白紙の次」男は息を押し返す。「水。立たない。角」女はそのやり取りを窓口に見せないように、視線を紙へ落としてペンを走らせた。住所、氏名、連絡先、受診歴。書けるところだけ書く。書けないところは空白にする。空白は逃げ道じゃない。後で確認するための空白だ。
窓口の人が何気ない声で聞いた。「取り寄せは、転院のご予定ですか」その一文が刺さる。転院という単語は未来を作る。未来が作られると勝負が立つ。勝負が立つと、早い方向が立つ。男の胸が跳ね、喉が狭くなる。狭い喉の奥で乾いた音が鳴り、言葉が立ち上がる。ここで言えば早い。終わる。終わるなら彼女の名前が増えない。男は唇を開きかけて止め、膝の縫い目へ指先を押し込めない状況を思い出して、代わりに舌を上顎へ押し付けた。
女が先に答えた。整えない答えだけを置く。
「決めてません。確認です。必要書類だけ」
窓口の人はそれ以上掘らない。掘るとややこしくなるのが分かっている顔で、淡々と次の欄を指した。「本人署名、こちら」男にペンが渡る。ペンの重さが手に来る。重さは責任の形になる。責任は返したいを呼ぶ。男の指先が震え、震えが熱に変わる。熱が喉へ上がって、女の名前が出そうになる。出したら軽くなる。軽くなった反動で、また返したくなる。男は角を見る。吐く息を長くする。女医が小さく言う。「答えるなら白紙」男は返事を声にしない。声にしたら走る。男は息だけ長くして、署名の線を引いた。線が引かれた瞬間、胸が跳ね、喉が鳴った。男は折った。
「白紙」
女医はすぐ繋ぐ。「白紙の次」男は吐く息を長くして言う。「水。立たない。角」窓口の人は何も言わず、紙を受け取って封筒に入れた。「取り寄せには日数がかかります。到着したら連絡します」女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は短く返す。「確認しました」
窓口を離れて廊下へ出た瞬間、男の肩が少しだけ落ちた。落ちた分だけ、息が通る。通った息の途中で男が小さく言う。「名前、増えた?」女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は書類の封筒の角を押さえ、硬さに指先の熱を逃がしてから、事実だけ置いた。「増えたのは窓口の処理。私は増やしてない」男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に言葉が立つ。返したい。差し出せば軽い。男は折った。
「白紙」
女は息を一つだけ長く吐いて、声を落とす。「白紙」同じ言葉を重ねると、軽くなる気がして危ないのに、今は形として必要だった。女医が二人の間の距離を崩さないまま短く言った。「一行、終わった。今日はこれ以上増やさない。戻る」戻ると言われると、安心が立ちかける。安心は走る。男は角を見る。吐く息を長くする。
観察室へ戻る途中、女は封筒を鞄に入れない。入れると背負う。背負うと男が返したくなる。女は封筒を見える位置に持ったまま、でも抱えずに歩く。男はその封筒を見ない。見たら費用の行を思い出す。思い出したら近道が鋭くなる。男は角だけを見る。角が続く間は、足が勝手に外へ向かない。
観察室の扉の前で、男が足を止めた。止めた足の先に、言いたいが立つ。男は隠さずに言う。
「言いたい」
女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は短く置いた。「言っていい。言ったら白紙」男は目を伏せ、戻して、小さく吐く。「さっき署名した瞬間、心臓のやつが出た。これで早く終わるって」女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。
「白紙」
男も返す。
「白紙」
白紙を置いたあと、男は扉の角を見る。吐く息を長くする。女は封筒の角を押さえ、硬さへ熱を逃がした。女医が扉を開け、短く言った。「入る。水。座る。今日はそこまで」決断は作らない。作らないまま、二人はまた同じ形に戻る。触れない距離も、恋も、増えた紙も、全部そのままにして。
観察室に戻ってから、男はベッド柵の角だけを見ていた。戻った安心が立ちかけると、すぐ近道が立つ。近道は、さっきの署名の線と同じ手つきで胸の奥を撫でてくる。撫でられた場所が熱くなり、熱が喉へ上がって言葉を押し出そうとする。
女は封筒を鞄に入れなかった。入れると背負う。背負うと男が返したくなる。封筒は机の端に置き、角を潰さないように指先で押さえたまま立った。座ると安心が立つ。安心が立つと、男が軽くしようとする。軽くしようとすると、心臓の言葉が出る。
看護師が水を置き、モニターの電極を一つだけ撫でるように直した。撫でる手つきが整っていて、整ったものは呼吸を乱す。男は吐く息を長くしてから水を一口飲み、喉の乾いた音が鳴る前に舌を上顎へ押し付けた。押し付けたまま息を吐く。吐き切る前に細くなる。細くなったところで男は言葉を折った。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は封筒の角に爪を沈め、痛みで熱を遅らせた。遅れた熱が落ち着いたところで、声だけ落とす。
「今は、ここ」
男は返事を声にしない。声にすると、名前が混じる。名前が混じると、軽くなる。軽くなると、返したくなる。男は息だけを少し長くした。
夕方に近づくほど、窓の外の色が変わっていく。色の変化は時間を意識させる。時間を意識すると未来が立つ。未来が立つと勝負が立つ。勝負は早く片付く方向を呼ぶ。男の指先が膝の縫い目を探し、探した指が縫い目を押し込み、押し込んだ痛みで言葉を折る。
「白紙」
女医が入ってきたのは、男が三回目の白紙を言った直後だった。紙は出さない。端末も出さない。女医は男の足元を見て、床に出ていないのを確認し、次に女の手元を見る。封筒が机にある。机の角が押さえられている。女医はそれだけで状況を掴んだ顔をして、声を落とす。
「今日は増やさないと言った。増やしたのは署名だけ。ここまでは許容。ここから先は、夜を越える運用だけにする」
男の喉が乾いて鳴り、鳴った直後に言葉が立つ。夜。越える。越えたら次。次に進む。進めば勝負。勝負になれば差し出したくなる。男は折る。
「白紙」
女医は間髪を入れずに続けない。続けると、男が勝負にする。一拍置いてから、必要だけ落とす。
「白紙の次」
男は吐く息を長くして答える。
「水。立たない。角」
女医は頷かず、女へ視線を短く向ける。
「声だけ。触れない。袖は禁止。今夜は、言葉の方が先に崩れる」
女は反論を飲み込み、机の角を押さえたまま短く言った。
「確認だけにする。守る」
その返事が男の胸を熱くした。守る、という音が希望に聞こえる。希望は嬉しい。嬉しいは怖い。怖いは近道を呼ぶ。男は口を開きかけて止め、舌を上顎へ押し付けたまま吐く息を長くした。吐き切る前に細くなる。細くなったところで折る。
「白紙」
女医が出ていき、扉が閉まる音が軽い。軽い音ほど部屋が広く感じる。広いほど、選べる気がする。選べる気がすると、間違った選択肢が増える。男は角を見る。角は動かない。動かないものに視線を固定しながら、喉の乾きの奥で言葉を探す。
女が声だけで落とす。
「さっきの質問、転院かって聞かれた。あなたは答えなかった。私が答えた」
男は答えを短くしない。短いと軽くなる。軽くなると、返したくなる。吐く息を長くしてから言う。
「ありがとう、って言うと、返したくなる。だから言えない」
女の指先が封筒の角を押さえる力を一段増す。増した硬さで熱が遅れる。遅れた熱を落ち着かせてから、女は言葉を増やさずに置く。
「言わなくていい。言ったら白紙になる。私はそれが嫌だ」
男の喉が鳴り、乾いた音が小さく出た。嫌だ、という言葉が刺さる。刺さると胸が跳ねる。跳ねた反動で、男の口が勝手に開く前に折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は封筒を少しだけずらし、角が机の角から落ちない位置へ直した。その動作が、逃げではなく固定に見えて、男の胸の奥が熱くなる。熱が喉へ上がって、名前が出そうになる。男は息を押し返し、声にならない形で唇だけ動かして止めた。
看護師が夕食のトレーを置いた。置き方は揃っていない。揃っていないのに、湯気だけが整って見える。整いは勝負を呼ぶ。男は箸を持つ前に水を一口飲み、吐く息を長くしてから、ひと口だけ口に入れた。飲み込むと喉が鳴る。鳴った直後に言いたいが立つ。男は折る。
「白紙」
女はその一言に反応しない。反応すると軽くなる。軽くなると、男が返したくなる。女は代わりに、机の角を押さえたまま言う。
「ひと口でいい。今日はそれ以上増やさない」
男はその言葉で胸が跳ねる。増やさない、という音が、未来の綱に聞こえる。綱があると手を伸ばしたくなる。手を伸ばすと触れたくなる。触れたら、今夜が壊れる。男は角を見る。吐く息を長くする。
しばらく沈黙が続いた。沈黙が続くほど、男の中で紙の一行が膨らむ。診療情報の取り寄せ。紹介状。適応判定。費用。海外。人工心臓。そこへ行けば、彼女の夢が叶うかもしれない。叶うかもしれない、が立つと、逆に今を捨てたくなる。今を捨てれば早い。早いの先には心臓がある。
男が低い声で言う。
「言いたい」
女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は短く置いた。
「言っていい。言ったら白紙」
男は目を伏せ、戻して、吐く息を長くする。吐き切る前に細くなる。細い息の中で、男が言った。
「俺、ここから先の紙を見たら、君の名前が増える気がする。増える気がするから、早く片付ける方向が立つ。立つのが怖い。怖いのに、立つ」
女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉を増やさずに折る。
「白紙」
男も続ける。
「白紙」
白紙を置いたあと、男は水を飲んだ。飲んだあと、声が少しだけ低くなる。
「でも、諦めない。俺が諦めたら、君から譲ってもらったものが、嘘になる」
その言葉が女の指先の熱を一段上げる。譲った、という言い方が重い。重い言葉は背負いになる。背負いになると、男が返したくなる。女は背負わないために、事実に落とす。
「嘘にはしない。譲ったものは、返さないで持ってていい。持つだけでいい。今日は持つ日」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に、また名前が上がりかける。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は封筒の角を押さえたまま、息を一つだけ長く吐いてから言う。
「私も諦めない。諦めないって決めたのは、今日じゃない。最初からだ」
その一言が、男の胸の奥を一段落とす。落ちた分だけ息が通る。通った息の途中で、男は角を見るのをやめないまま、低い声で置いた。
「今、ここ」
女は返事を声にせず、机の角を押さえる力を少しだけ抜いた。抜いた瞬間に熱が戻る。戻った熱が触れたいを呼ぶ前に、女は硬さを別の場所へ移す。封筒の角を押さえ直し、声だけ落とす。
「今、ここ。夜は越える」
夜は長くなる。長くなるほど、近道は鋭くなる。鋭さが増えるのに、二人は諦めない形を最初から決めている。だからこそ、崩れる前の呼吸が、少しずつ痛くなる。痛くなるほど、白紙が増える。白紙が増えるほど、転落は近づくのに、足はまだ床へ出ないままだった。
消灯の時間が来ても、男の目は乾いたまま開いていた。モニターの明滅が柵の角を白くして、白い角ほど視線が吸い付く。吸い付いたまま吐く息を長くする。長くしようとして、途中で細くなる。細くなったところに、紙の一行が刺さる。
費用。
刺さった瞬間、胸が跳ねて、跳ねた反動で喉が狭くなる。狭い喉の奥で乾いた音が鳴る。鳴った直後に言葉が立つ。早く片付く方向。終われば、彼女の名前が増えない。終わるなら、返せる。
男は膝の縫い目へ指先を押し込む。押し込んだ痛みで折る。
「白紙」
折ったのに、足裏が床の冷たさを欲しがる。冷たさに触れたら、起き上がる勢いが付く。勢いが付いたら扉へ向かう。扉へ向かったら、廊下の向こうの気配に引かれる。引かれたら、名前が出る。
男は水を一口飲んだ。飲み終えた喉が鳴る。鳴った直後に、口が勝手に開きかける。
「呼びたい」
声に出した瞬間、胸が跳ねた。跳ねが増える。増えた跳ねが息を短くする。短くなった息の端に、名前の最初の一音が乗りかける。男は押し返すために、もう一口水を飲もうとして、手が震えた。カップの縁が歯に当たり、乾いた音が小さく出る。
その音で、モニターが反応した。小さな警報が鳴り、数字が跳ねる。跳ねた数字を見た瞬間、男の視界が狭くなる。狭くなると、立ってしまう。
男は立った。
立った瞬間、床が遠くなった。遠くなった床へ落ちそうになり、手が反射で柵へ伸びる。握りかけて止める。握ったら勝負になる。勝負になったら走る。走ったら終わらせたくなる。
男はその場で膝を曲げた。座ろうとして、座れない。息が短い。短い息のまま、喉が鳴る。
「白紙」
声が震えた。震えた声の直後に、また言葉が立つ。立った言葉は、もう白紙で折れる形じゃない。折る前に、口の方が先に動く。
扉が開いた。夜勤の看護師が入ってきた。足音が揃っていない。揃っていないのに、手つきだけが速い。速い手つきは勝負を呼ぶ。看護師は勝負にしない声で言った。
「座る。いま、座る」
男は反発しない。反発は勝負になる。男は膝を折って床へ落ちそうになり、看護師の手が空中で止まる。触れない距離で止まる。止まったまま、看護師は背もたれの位置だけ示した。
「ここ。背中」
男はベッドの端へ腰を落とした。腰が落ちた瞬間、足裏の冷たさが消える。消えた分だけ胸が跳ねる。跳ねが増える前に、男は息を押し返した。
「白紙」
看護師は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。看護師は水を押し出し、声だけ落とす。
「飲む。ひと口。白紙の次」
男は吐く息を長くして答える。
「水。立たない。角」
看護師はモニターの警報を止め、端末には触れず、女医を呼んだ。呼び出し音の間、男は角を見る。角は動かない。動かないものを見ていると胸の跳ねが少し遅くなる。遅くなった隙間に、廊下の椅子が鳴る音が入る。位置を変えただけの音なのに、温度だけが近い。
男の喉が鳴った。乾いた音の直後に、口が勝手に動く。
「来て」
看護師がすぐ切った。
「白紙」
男は息を押し返して折る。
「白紙」
それでも、言いたいが残る。残った言いたいは、別の形で上がってくる。男は低い声で言ってしまった。
「心臓……」
喉が詰まった。詰まったところで数字がまた跳ねる。看護師は今度も触れない。触れないまま、声だけで押さえる。
「言うなら最後まで言う。言ったら白紙。白紙の次」
男は吐く息を長くする。吐き切る前に細くなる。その細さの中で、男は言った。
「……交換、したら、早い」
言った瞬間、胸が跳ねる。跳ねた反動で視界がさらに狭くなり、耳の奥が白くなる。耳が白いと、音が遠い。遠い音の中で、廊下の方から女の靴先が動く気配がした。近づく気配。近づいたら名前が出る。名前が出たら軽くなる。軽くなった反動で、もっと返したくなる。
男は折った。
「白紙」
看護師が続ける。
「白紙の次」
男は水を飲み、吐く息を長くして言う。
「水。立たない。角」
そこへ女医が入った。紙も端末も持たず、まず男の足元を見る。床に立っていない。座れている。女医は看護師へ短く言った。
「酸素はいらない。水。刺激を減らす」
女医は男へ目を合わせずに言った。
「今、口から出たのは何」
男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。言えば勝負になる。言わなければ胸が跳ねる。男は角を見る。吐く息を長くする。
「交換、したら、早いって」
女医は頷かない。頷けば男が勝負にする。女医は短く切る。
「早くしない。早くは近道。近道は君を殺す方向に寄る。寄るなら止める」
その言い方で、廊下の向こうが一瞬だけ静かになった。女が息を止めた気配がする。止めた息が、次の瞬間に長く吐かれる音だけが壁越しに届く。声じゃない。触れないまま届く長さだけ。
男の胸の奥が熱くなった。熱が喉へ上がって、名前が出そうになる。男は口を閉じ、舌を上顎へ押し付けた。押し付けたまま息を吐く。吐き切る前に細くなる。細くなったところで折る。
「白紙」
女医は廊下へ向けて声を出さない。出すと、女が入ってくる。入ってきたら触れたいが増える。触れたいが増えたらまた跳ねる。女医は看護師へだけ短く言った。
「廊下の人はそのまま。今夜は入れない」
男が低い声で言う。
「入れないと、乾く」
女医は否定しない。否定したら勝負になる。女医は事実だけ置く。
「乾く。乾くから折る回数を増やす。恋は増やさない。運用だけ増やす」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後、また言いたいが立つ。立った言いたいは、さっきの言葉の続きだ。交換、したら早い。その続きを言えば、確定に近づく。確定は勝負。勝負は走る。
男は先に言った。
「言いたい」
女医は短く返す。
「言っていい。言ったら白紙」
男は吐く息を長くして言う。
「俺、返したくなる。返したくなるのが消えない。……でも諦めない。譲ってもらったものだから、諦めたら嘘になる」
その言葉が廊下の向こうへ漏れた。女の声が、壁越しに短く届く。短いのに、硬い。
「嘘にしない」
男の胸が跳ねる。跳ねた分だけ、涙が出そうになる。出そうになった涙が喉を狭くする。男は折る。
「白紙」
女医がすぐ繋ぐ。
「白紙の次」
男は水を飲み、吐く息を長くして言う。
「水。立たない。角」
女医はそれ以上追い込まず、看護師に指示だけ出した。刺激を減らすためにカーテンを少し閉める。モニターの音量を下げる。水の位置を近くする。どれも特別扱いに見えない程度にやる。特別扱いは勝負になるからだ。
女医は扉へ向かいながら、振り返らずに言った。
「今夜は転落の入口まで来た。入口で止まった。止まったのは運用が残っているから。残っているなら、まだ進める。諦めるな。早くするな」
扉が閉まり、また軽い音が部屋を広くした。広いほど選びたくなる。選びたくなるほど近道が立つ。男は角を見る。水を飲む。白紙を言う。その繰り返しで、胸の跳ねを薄くする。
廊下の向こうで、女が椅子を鳴らした。位置を変えただけの音。来ない音。それでも、男の喉の奥が熱くなって、名前が上がりかける。
男は声に出さず、唇の内側だけで押し返した。押し返したまま、吐く息を長くして、最後に小さく言った。
「今、ここ」
返事は壁越しの息だった。長く吐く音だけが届く。触れない距離のまま、二人は転落の入口に指をかけたまま、手を離さずに夜をつないでいった。
朝、観察室のカーテンの隙間から薄い光が差し込んだ。男は眠っていない。眠っていないこと自体が痛みになって、痛みが胸を跳ねさせる。跳ねた胸が喉を狭くして、狭い喉の奥で乾いた音が鳴る。鳴った直後に「早く」の方向が立つ。立った瞬間、男は膝の縫い目を探す。昨夜の緊張で指先が痺れていて、縫い目の硬さに辿り着くまでの数秒が長い。
男は縫い目に指を押し込み、息を吐いた。
「白紙」
言った瞬間に少しだけ息が通る。通るのに、頭の中の紙の一行は消えない。費用。海外。適応判定。最後に、交換。そこまで行けば全部が早い。早いほど、彼女の名前が増えない気がする。増えない気がするだけで、指先が冷える。
看護師が入ってきて、食事のトレーを置いた。置き方は揃っていない。揃っていないのが助かるのに、湯気だけが整って見える。男は箸に手を伸ばしかけて止めた。止めた瞬間、喉が鳴る。乾いた音が鳴ると、言葉が勝手に立つ。男は先に折った。
「白紙」
看護師は頷かず、淡々と指示だけ落とす。
「ひと口だけ。飲み込んだら、水。噛むのは後」
男は反発しない。反発すると勝負になる。勝負になると足が動く。男は吐く息を長くしてから、ひと口だけ口に入れた。飲み込む。飲み込んだ直後、喉が乾いて鳴る。鳴った瞬間に「返したい」が立つ。立った分だけ胸が跳ねる。男は水を一口飲み、舌を上顎へ押し付けたまま息を吐いた。
廊下の向こうで椅子が鳴った。女が位置を変えただけの音。来ない音。来ないのに、温度だけが近い。男の胸が跳ね、跳ねた反動で名前が上がりかける。名前が出たら軽くなる。軽くなった反動で、また返したくなる。男は唇を閉じて折った。
「白紙」
扉が開き、女医が入ってきた。紙も端末も持たない。まず男の足元を見る。床に立っていない。次に男の目を見る。乾いて開いている。女医はそこだけで夜の続きを掴んだ顔をして、声を落とした。
「寝てない」
男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は角を見る。吐く息を長くする。
「寝ると、戻る気がする。戻ると、外で崩れる」
女医は整えない。整えたら未来になる。未来になると勝負になる。女医は事実だけ落とす。
「戻るのは今日じゃない。今日もここ。ここで崩れる練習をする」
男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。練習、という言葉が刺さる。刺さると勝負になる。男は折った。
「白紙」
女医はすぐに次を言わせる。
「白紙の次」
男は水を飲み、吐く息を長くして答える。
「水。立たない。角」
女医は廊下へは声を出さない。出したら女が入ってくる。入ってくると触れたくなる。触れたくなると今夜の反動が増える。女医は看護師に目配せして、扉の外へ短く言った。
「入れていい。座らせない。声だけ」
女が入ってきた。椅子に座らない。机の角を押さえる。封筒は持っていない。封筒が見えると男が背負う。女は手ぶらで、指先の熱だけを角へ逃がして立った。男は女を見た瞬間に胸が跳ね、跳ねた反動で喉が狭くなる。狭い喉の奥で乾いた音が鳴る。鳴った直後に名前が出そうになり、男は先に折った。
「白紙」
女は返さない。返したら軽くなる。女は息を一つ長く吐いて、声だけ落とす。
「今、ここ。昨夜、口が出た?」
男は答えを短くしない。短いと軽くなる。軽くなると返したくなる。男は角を見たまま吐く息を長くして言った。
「出た。交換したら早いって」
女の指先が机の角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪の白さが増える。増えた白さが戻るまで、女は言葉を増やさない。増やしたら整理になる。整理は勝負になる。女は短く、でも切らない声で言う。
「早くしない。私は、早い終わりのためにここにいない」
男の胸が跳ねる。跳ねた反動で、謝りたくなる。謝れば軽くなる。軽くなれば、返したくなる。男は折る。
「白紙」
女医が静かに割り込む。二人の間の距離を固定したまま、声を落とす。
「今のは良い。本人が言った。同行者が受け止めた。次は、言葉を行為にしないための手順」
女医は机の上を二回、乾いた音で叩いた。叩く音は規則になる。規則は呼吸の枠になる。
「ここで取り決める。今後、心臓の言葉が出たら、二人とも同じ手順を踏む。否定もしない。肯定もしない。折るだけ。折ったら水。水のあとに、今日の一行だけを言う」
女が短く聞く。
「今日の一行」
女医は目を合わせず答える。
「診療情報の取り寄せ。心臓と関係ない段階。関係ない段階を繰り返して、近道を鈍らせる」
男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。関係ない、という言葉が刺さる。刺さると腹の底が焦げる。焦げたところから、返したいが立つ。男は吐く息を長くして、言いたいをそのまま落とした。
「関係ないって言われると、俺は返せない気がする。返せないのが怖い」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は机の角を押さえたまま、一拍置いてから言う。
「返さなくていい。譲ったものを返すって発想が、もう近道なんだよ」
男の胸が跳ねる。跳ねた反動で、言い返したくなる。言い返せば勝負になる。勝負は走る。男は折った。
「白紙」
女医が続ける。
「白紙の次」
男は水を飲み、吐く息を長くして言う。
「水。立たない。角」
女医はそのまま男へ問う。責める調子じゃない。事実の確認だけ。
「昨夜、廊下を呼びたくなった。押したのはナースコール。これも手順。今日は、その手順を増やす。廊下の人を呼びたくなったら、先に私たちを呼ぶ。言葉は外へ投げない」
女が喉を動かし、熱を飲み込む。飲み込んでから短く言った。
「呼ばれたら、私は来ないでいい。来たくなるから」
男の胸が跳ねる。来ない、という言葉が乾きになる。乾きは近道を呼ぶ。男は言いたいを抱えたまま、吐く息を長くして言った。
「来ないのは、分かる。分かるのに、乾く。乾くと、交換が早く見える」
女が机の角を押さえたまま、声を落とす。
「早く見えても、私はそこに飛ばない。飛んだら譲ったものが壊れる。私は壊したくないから譲った」
その言葉が男の胸の奥を熱くした。熱が喉へ上がって、名前が出そうになる。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は代わりに、息を一つ長く吐いてから言った。
「諦めない。最初からそう決めてる。あなたが落ちても、私が拾うんじゃない。隣で一緒に落ちるだけ。落ちたら、また水。角。白紙」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音が小さく出る。隣で落ちる、という言葉が刺さって、刺さった反動で涙が出そうになる。出そうになった涙が喉を狭くする。男は舌を上顎へ押し付けたまま息を吐き、細くなったところで折った。
「白紙」
女医はそこで話を畳まない。畳むと安心になる。安心は走る。女医は必要だけ落とす。
「転落はまだ続く。続くのが普通。普通だから、手順で耐える。今日は一つだけ増やす。眠れないなら、目を閉じて息を吐く。眠る努力はしない。努力は勝負になる。吐く回数だけ増やす」
男は角を見る。吐く息を長くする。吐き切る前に細くなる。その細さの中で、男が低い声で言った。
「努力しないって言われると、俺は楽になる。楽になると、返したくなる。返したくなるのが怖い」
女は机の角を押さえたまま、事実に落とす。
「楽になったら、それはあなたのもの。返さないでいい。譲ったものは、あなたが持っていい」
その言葉で男の胸の跳ねが一段だけ遅くなった。遅い跳ねの隙間に、今日の一行が入る。診療情報の取り寄せ。たった一行。たった一行なのに、今ここから逃げないための杭になる。男は角を見たまま吐く息を長くし、小さく言った。
「ここに書いてある、で止める」
女も同じ形で重ねる。
「ここに書いてある、で止める」
昼に向かう時間の中で、転落は止まらない。止まらないのに、飛ばない取り決めは最初からある。だから男は落ちながら、折る回数だけを増やしていく。女は触れずに、角を押さえる硬さだけで温度を遅らせる。女医は紙を出さず、言葉を畳まず、三人の手順だけを残したまま、静かに扉を閉めた。
昼の光が強くなるほど、男の呼吸は浅くなった。浅い呼吸のまま、目だけが角に貼り付く。角は動かない。動かないものを見続けると胸の跳ねが少し遅くなるのに、遅くなった隙間へ紙の一行が滑り込んでくる。封筒は見ない。見たら費用の行が浮く。浮いた瞬間に「早く」が立つ。
男は水を一口飲み、喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付けた。押し付けたまま息を吐く。吐き切る前に細くなる。細くなったところで折る。
「白紙」
女は机の角を押さえたまま、視線を男に向けない。向けたら熱が増える。増えた熱は触れたいになる。触れたいは今の枠を壊す。女は声だけで、ゆっくり置いた。
「いまは、ここ。きょうは増やさない」
男は返事を短くしない。短いと軽くなる。軽くなると、返したくなる。吐く息を長くしてから言った。
「増やさないって言葉が、縄に聞こえる。縄があると、首を預けたくなる」
女の指先が机の角を押さえる力を一段だけ増す。爪の白さが増えて、増えた白さが戻るまで女は言葉を増やさない。増やしたら整理になる。整理は勝負になる。女は一拍置いて、事実だけ落とした。
「縄じゃない。杭。抜けないようにするためじゃなくて、飛ばないための杭。首じゃなくて足を止める」
男の喉が乾いて鳴った。乾いた音の直後、笑いの手前が喉に引っ掛かる。引っ掛かったまま、男は言った。
「足を止めるほど、近道が頭に出る。頭に出るほど、口が勝手に動く」
女が答えを急がない間に、廊下が少し騒がしくなった。カートの音、靴の音、紙の擦れる音。整った音が続くと胸が跳ねる。男の肩が上がり、上がった肩が落ち切らないまま、呼吸が短くなる。短い呼吸の端に、昨夜の言葉が乗りかける。
「交換……」
男は言い切る前に舌を上顎へ押し付け、押し付けたまま息を吐いた。吐けない。吐けない息のまま喉が鳴り、乾いた音が小さく出る。男は膝の縫い目を探すが、指先が震えて縫い目に辿り着かない。辿り着かない数秒が長く、長い数秒の間に足が動く。
男は立った。
立った瞬間、視界が狭くなって床が遠くなる。遠くなった床へ落ちそうになり、手が反射で柵へ伸びる。握ったら勝負になる。勝負になったら走る。走ったら終わらせたくなる。男は握らず、空中で指を曲げたまま止め、吐けない息を押し返そうとして首を震わせた。
女が机の角を押さえたまま、声だけで強く置く。
「立たない。水。角」
その言葉が命令に聞こえた瞬間、男の胸が跳ねる。跳ねが増えると反発が出る。反発は勝負になる。男は勝負にしないために、声を絞った。
「言いたい。言いたいのに、言うと早くなる」
女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが暴れる。女は短く、でも切らずに返す。
「言っていい。言ったら白紙。白紙の次は水」
男は立ったまま、水の方へ手を伸ばしかけて止めた。伸ばした手でカップを倒したら音が増える。音が増えたら廊下が動く。廊下が動いたら女が来る。来たら触れたいが増える。男はカップに触れず、喉の奥から言葉だけ落とした。
「俺がいない方が軽い、ってまた出た」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ抜く。抜いた瞬間に熱が戻る。戻った熱が触れたいになる前に、女は硬さを別の場所へ移し、角を押さえ直して言った。
「軽くならない。あなたがいなくなったら、私が重くなるだけ。私はそれが嫌」
男の胸が跳ね、跳ねた反動で涙が出そうになった。涙の手前で喉が狭くなる。狭い喉の奥で乾いた音が鳴る。鳴った直後に、男の口が勝手に開きかける。男は折るために、声を落とした。
「白紙」
女がすぐ続ける。
「水。角。座る」
男は膝を折ってベッドの端へ腰を落とした。落とした瞬間、足裏の冷たさが消えて胸が跳ねる。跳ねが増える前に、水を一口飲む。飲み終えた喉が鳴る。鳴った直後、また言葉が立つ。男は折る。
「白紙」
扉が開き、女医が入った。紙も端末も持たない。まず男の足元を見る。座れている。次に女の手元を見る。角を押さえている。女医はそれだけ確認して、声を低くした。
「いまのは、昨夜より深い。深いのに、戻せた。戻せたのは運用が残ってるから」
男は角を見る。吐く息を長くする。吐き切る前に細くなる。その細さの中で、男が言う。
「残ってるのが、怖い。残ってるほど、返したくなる」
女医は頷かない。頷けば男が勝負にする。女医は事実だけ置く。
「返したいは消えない。消さない。口に出す。出したら白紙。白紙の次は水。そこまでは同じ。今日から一つだけ増やす」
女が声だけで問う。
「何を増やす」
女医は目を合わせず、机の上を二回、乾いた音で叩いた。
「言葉を区切る。『早い』が出たら、『今日は一行』で止める。診療情報の取り寄せ。これ以上は言わない。言わないのが諦めじゃない。飛ばない取り決め」
男の喉が鳴る。乾いた音の直後、男は反発したくなる。反発は勝負になる。男は勝負にしないために、言い方を落とした。
「飛ばない。分かる。分かるのに、飛びたくなる」
女が机の角を押さえたまま、ゆっくり言う。
「飛びたくなっても、飛ばない。最初からそう。譲ったのは、飛ぶためじゃない。ここにいるため」
男の胸の奥が熱くなる。熱が喉へ上がって、名前が出そうになる。出したら軽くなる。軽くなった反動で返したくなる。男は名前を出さず、吐く息を長くして言った。
「ここにいるのが、苦しい。苦しいのに、ここにいるって言われると、嬉しい」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は一拍置いて、硬さへ熱を逃がしてから言った。
「苦しいままでいい。嬉しいのも、苦しいのも、私が譲ったものの中に入ってる。返さないで持ってていい」
男の目の奥が痛くなり、涙が少しだけにじんだ。にじんだ涙が視界をぼかす。ぼけた視界は角を探しにくくする。探しにくいと呼吸が短くなる。短くなった呼吸の端に、また「早い」が乗る。男は先に区切った。
「今日は一行」
女が同じ形で返す。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言った瞬間、胸の跳ねが一段だけ遅くなった。遅い跳ねの隙間に、床へ立つ衝動が入らない。入らないまま、水を飲む。喉が鳴る。鳴っても、今日は一行で止める。
女医はそれ以上言葉を増やさず、扉の方へ顎を動かした。
「今日はこれを繰り返す。落ちるのは止まらない。止めない。飛ばない。諦めない。その代わり、増やさない」
女は机の角を押さえたまま、息を一つ長く吐いた。男は角を見る。水を飲む。白紙を言う。今日は一行を言う。胸の中の刃はまだ鋭いのに、手順だけは崩れずに残っていた。
昼のうちに、男は三回「今日は一行」を言った。言った回数だけ、胸の跳ねが遅くなる。遅くなった隙間に、床へ立つ衝動が入り込まない。それでも、衝動が消えるわけじゃない。消えない衝動は形を変えて、言葉の端にぶら下がる。
女は机の角を押さえたまま、同じ形を繰り返す。「今日は一行」その言い方が淡々としているほど、男の喉の奥が熱くなる。熱は嬉しいに似ていて、嬉しいは怖いにすぐ変わる。怖いが立つと、返したいが立つ。返したいは、言い訳の姿をして近づいてくる。
「代わりに、って言いそうになる」
男がそう言った瞬間、喉が乾いて鳴った。乾いた音の直後に、口が勝手に続きを探す。代わりに何をする。代わりに何を差し出す。差し出せば軽い。軽ければ終わる。終われば名前が増えない。男は縫い目へ指先を押し込み、折った。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は机の角に指先の熱を逃がしながら、短く置いた。
「代わりに、は言わない。譲ったものは取引じゃない」
男は角を見る。吐く息を長くする。吐き切る前に細くなる。その細い息の中で言う。
「取引じゃないのに、取引にしたくなる。取引にしたら、勝てる気がする」
女の指先が角を押さえる力を一段だけ増す。爪の白さが増え、戻るまで女は言葉を増やさない。増やすと整理になる。整理は勝負になる。女は白さが戻ったところで、事実に落とす。
「勝たなくていい。勝つと飛ぶ。飛ぶのは最初からしない」
男の胸が跳ねた。飛ぶ、という言葉が刺さる。刺さった反動で、昨夜の言葉が立つ。交換したら早い。早いほど飛べる。男は先に区切る。
「今日は一行」
女が同じ形で返す。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言った直後、喉が乾いて鳴る。鳴っても、続きを言わない。言わないことが我慢に見えると勝負になる。男は勝負にしないために、水を一口飲んだ。
午後、廊下の音が一段増えた。カートの車輪が床を擦り、消毒の匂いが濃くなる。匂いが濃くなると身体が勝手に現実へ引き戻される。現実に引き戻されると、紙の行が増える。増えた行は胸を跳ねさせる。男の肩が上がり、上がった肩が落ち切らない。
看護師が入ってきた。手には小さなメモが一枚だけ。整った用紙じゃない。ちぎった跡がある。ちぎった跡は助かる。看護師は男の目を長く見ないまま言った。
「明日、循環器の先生が来る。話すのは短く。聞くだけでいい」
聞くだけ、という言葉が男の胸を跳ねさせる。聞くだけだと、余白が増える。余白が増えると近道が入りやすい。男は角を見る。吐く息を長くしてから言った。
「聞くだけで、勝負になる」
看護師は頷かず、声だけ落とす。
「勝負にしない。聞いたら白紙。白紙の次は水。今日は一行」
看護師が去ると、部屋の空気が戻る。その戻りが、逆に不安を呼ぶ。不安は確認を呼ぶ。確認は言葉を増やす。増えた言葉は整う。整うと走る。男は走らないために、先に口を開いた。
「明日、って言われると、俺は早く終わらせたくなる。終わらせたら、あなたの名前が増えない気がする」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は机の角を押さえたまま、一拍置いてから言った。
「増えるのは私の名前じゃない。増えるのは手順。手順は増えていい。あなたが飛ぶ理由にはしない」
男の喉が鳴る。乾いた音の直後、男は言いたいを抱えたまま言う。
「飛ぶ理由にしたくないのに、飛ぶ理由が欲しくなる」
女の指先が角を押さえる力をほんの少し抜く。抜いた瞬間、熱が戻る。戻った熱が触れたいになる前に、女は硬さを封筒のない机の表面へ移して、声だけ落とした。
「欲しくなっても、飛ばない。あなたが落ちるのは止めない。止めないけど、飛ばない。落ちたら白紙。白紙の次は水。今日は一行」
男の目の奥が痛くなった。痛みが涙に近い形を作り、涙が喉を狭くする。狭い喉の奥で乾いた音が鳴り、鳴った直後に「返す」が立つ。男は縫い目へ指先を押し込み、折った。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は代わりに、短く言った。
「水」
男は水を飲む。飲んだあと、喉が鳴る。鳴っても、続きを言わない。言わないまま、男は小さく息を吐いた。
夕方が近づくと、光が斜めになって影が長くなる。影が長いほど、頭の中の距離も長くなる。距離が長いと、遠い未来まで見えてしまう。未来が見えると、今を捨てたくなる。男は角を見る。角は動かない。動かないものに視線を固定しながら、低い声で言った。
「諦めない、って決めてるのに、諦めた方が楽だって声が出る」
女は否定しない。否定は勝負になる。女は事実だけ置く。
「楽は譲ったものの中に入ってる。返す形にしない。あなたが持っていい」
その言葉で、男の胸の跳ねが一段だけ遅くなる。遅くなった隙間に、また「代わりに」が入りかける。男は先に区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言った瞬間、男は自分の手がベッド柵を握っていないことに気づいた。握らないまま、座れている。座れているのに、落ちている感覚だけは残る。転落は止まらない。止まらないのに、飛ばない取り決めだけは最初からある。だから男は落ち続けながら、白紙と水と一行で、落ち方の形だけを崩さない。
廊下の向こうで椅子が鳴った。女が位置を変えた音。来ない音。来ないのに、温度だけが近い。男の喉の奥が熱くなり、名前の最初の一音が上がりかける。男は口を閉じ、舌を上顎へ押し付けたまま息を吐く。細くなったところで折る。
「白紙」
女は机の角を押さえたまま、息を一つ長く吐いてから、声だけ落とした。
「今、ここ。落ちても、嘘にしない」
男は返事を声にしない。声にしたら、軽くなる。軽くなった反動で返したくなる。男は角を見たまま、水を一口飲み、喉が鳴る前に小さく言った。
「今、ここ」
夕方の「今、ここ」を言ったあと、部屋の中は少しだけ静かになった。静かになるほど、男の頭の中の音が大きくなる。大きくなった音は紙の行の形を取り、形を取った瞬間に「早い」が立つ。男は角を見る。水を飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付け、押し付けたまま吐く息を長くする。
「白紙」
声が落ちたあと、女は机の角を押さえ直した。押さえ直す動作が小さいほど、男の胸が跳ねる。跳ねた反動で謝りたくなる。謝れば軽くなる。軽くなると返したくなる。男は謝らず、吐く息を長くして言った。
「明日が来るのが怖い」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は角の硬さへ熱を逃がしてから、短く置いた。
「来る。来るから杭が要る。今日は一行」
男は反射で区切る。
「今日は一行」
女が同じ形で重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えた瞬間だけ、胸の跳ねが遅くなる。遅い跳ねの隙間に、床へ立つ衝動が入らない。入らないまま夜が進み、消灯の時間が来ても、男のまぶたは落ちない。落ちないまぶたの裏に、循環器の医師という言葉が貼り付く。貼り付いた言葉の端に、交換がぶら下がる。
男は小さく言った。
「言いたい」
女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は短く返す。
「言っていい。言ったら白紙」
男は角を見たまま、吐く息を長くして言った。
「明日、先生が来たら、俺は勝負にしたくなる。勝負にしたら早く終わる気がする。早く終わる気がするのが怖い」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪が白くなる。白さが戻るまで女は言葉を増やさない。増やしたら整理になる。整理は勝負になる。白さが戻ったところで、女は事実だけ落とした。
「勝負にしない。聞く日。決める日じゃない。最初からそう」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後、返したいが立つ。立った返したいの先に、謝罪と差し出しが並ぶ。男は縫い目へ指先を押し込み、折った。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は代わりに、短く言う。
「水」
男は水を飲む。飲み終えた喉が鳴る。鳴っても、続きを言わない。言わないことが我慢に見えると勝負になる。男は勝負にしないために、もう一度「今日は一行」を口の中でだけ繰り返した。
夜中、廊下の椅子が鳴った。女が位置を変えただけの音。来ない音。来ないのに温度だけが近い。男の胸が跳ね、跳ねた反動でナースコールへ視線が落ちる。押したら誰かが来る。来たら安心が立つ。安心が立つと走る。男は押さない。押さない代わりに、声だけ落とした。
「呼びたい」
折る。
「白紙」
女の返事は壁越しの長い吐息だった。声じゃないのに、息の長さだけで「嘘にしない」が伝わってくる。男の目の奥が痛くなり、涙がにじみかけた。にじみは視界をぼかす。ぼけると角を見失う。見失うと息が短くなる。男は先に区切る。
「今日は一行」
次の朝、循環器の医師が来た。白衣の袖口が整っていて、整っているほど男の胸が跳ねる。医師はモニターを一度見て、次に男の顔を見る。女医は一歩後ろに立ち、女は椅子に座らず、机の角を押さえたまま立っていた。三人の位置が固定されているだけで、男の息が少しだけ通る。
医師は短く名乗り、質問を始めた。質問の内容は平凡で、いつから、どんな時に、何が苦しいか。平凡な質問ほど余白が大きい。余白が大きいほど近道が入る。男は角を見る。吐く息を長くする。女医が先に言った。
「本人は短く答えます。途中で白紙が出ます」
医師は頷き、男へ視線を戻す。
「動悸はいつ強くなる」
男は短く答えない。短いと軽くなる。軽くなると返したくなる。吐く息を長くしてから言った。
「人の音。紙の音。明日って言葉」
医師の眉が一瞬だけ動く。医師はそこを追わず、次の確認へ移る。
「失神は」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に昨夜の立った感覚が戻る。戻った感覚の先に、早く終わるが立つ。男は折る。
「白紙」
女医がすぐ繋ぐ。
「白紙の次」
男は水を飲み、吐く息を長くして言う。
「水。立たない。角」
医師は淡々と、話を先へ進めた。検査の予定、取り寄せの書類、必要な紹介状。言葉が増えるほど紙の行が増える。増えた行は男の胸を跳ねさせる。医師が「移植」という単語を一度だけ口にした瞬間、男の視界が狭くなった。狭い視界の中で「早い」が立つ。立った瞬間に口が動きかける。
女が机の角を押さえたまま、先に区切る声を落とした。
「今日は一行」
その声が命令に聞こえた瞬間、男の胸が跳ねる。跳ねが反発を呼ぶ前に、男は同じ形で区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えたあと、男の喉が乾いて鳴った。鳴った直後に言いたいが残る。残った言いたいは「早い」の続きを探す。男は折る。
「白紙」
医師はそれを異常として扱わない顔をした。異常として扱われると勝負になる。医師は淡々と、現実の枠だけ置く。
「現時点で決める話ではない。資料が揃わないと判断ができない。揃えるのに時間が要る」
時間が要る、という言葉が男の胸を重くする。重いほど早いが魅力になる。男は息を押し返し、言いたいをそのまま出した。
「時間が要るって言われると、俺は飛びたくなる」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は一拍置いて、角の硬さへ熱を逃がしてから言った。
「飛ばない。最初から」
女医が医師へだけ短く言う。
「本人は転落中です。手順で耐えます。言葉を増やす質問は控えてください」
医師は頷き、質問を切り替えた。必要な事務手続きだけに寄せ、今日やることを一つに絞る。医師が紙に丸を付け、女医へ渡す。
「資料が届いたら、次の外来枠を取る。今日はここまで」
ここまで、という言葉が締めに見える。締めは安心を呼ぶ。安心は走る。男は締めにしないために、先に言った。
「終わってない。終わってないのに終わった感じが怖い」
女は机の角を押さえたまま、事実に落とす。
「終わってない。今日の一行が終わっただけ。譲ったものは、まだ嘘にしてない」
男の胸の奥が熱くなり、熱が喉へ上がって名前が出そうになる。男は名前を出さず、吐く息を長くして折った。
「白紙」
医師が出ていき、扉が閉まる。部屋が少し広く感じる。広いほど選べる気がする。選べる気がするほど近道が立つ。男は角を見る。水を飲む。区切る。折る。その繰り返しで、転落を止めずに、飛ばない形だけを守る。
女は机の角を押さえたまま、声だけ落とした。
「聞けた。聞けたのに飛ばなかった。だから嘘にしない」
男は返事を声にしない。声にしたら軽くなる。軽くなった反動で返したくなる。男は角を見たまま、小さく言った。
「今、ここ」
医師が出ていったあと、部屋の空気は一度だけ軽くなった。軽さは安心に似ていて、安心はすぐ走りになる。男は角を見たまま、水を一口飲んで喉の鳴る前に舌を上顎へ押し付けた。押し付けたまま吐く息を長くする。吐き切る前に細くなり、細くなったところで言葉を折る。
「白紙」
女は机の角を押さえたまま、視線を男に向けない。向けたら熱が増える。熱が増えたら触れたいになる。触れたいは今日の枠を壊す。女は声だけ落とした。
「聞けた。聞けたのに飛ばなかった」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に「返す」が立ち上がる。返せば軽い。軽くなれば終わる。終われば彼女の名前が増えない気がする。男は縫い目を探し、縫い目に指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
女が短く続ける。
「水」
男は水を飲む。飲んだ直後に喉が鳴りそうになり、鳴る前に小さく息を吐いた。息が細くなる瞬間、医師の言葉の断片が頭の中で並び直される。資料が揃うまで時間が要る。次の外来枠。時間。待つ。待つという単語が、逃げ道の形を作る。
男が低い声で言った。
「待つのが、勝負に見える」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は角へ熱を逃がしたまま、一拍置いて事実に落とす。
「待つのは勝負じゃない。飛ばないための時間。飛ばないのは最初から」
男の胸が跳ねる。跳ねた反動で反論が喉まで上がる。反論は勝負になる。勝負は走る。男は勝負にしないために、言い方を落とした。
「飛ばないための時間って言われると、俺は余白を埋めたくなる。埋めたら楽になる気がする」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強め、爪が白くなる。白さが戻るまで女は言葉を増やさない。増やすと整理になる。整理は勝負になる。白さが戻ってから、女は短く置いた。
「埋めない。余白は余白のまま置く。置けるなら、嘘にしない」
扉が少し開き、看護師が顔を出した。食事の時間の声かけだけのつもりだったのに、室内の空気を読んだのか、声が低い。
「少し歩く? 今日は外へ出ない。廊下の端まで」
歩く、という言葉が男の胸を跳ねさせる。動くと勢いが付く。勢いは走りになる。走りは近道になる。男の口が動きかけ、女医が先に短く言った。
「歩くなら手順。声だけで止める。触れない。座らない」
女医はいつの間にか部屋の外側に立っていた。入ってこない距離で、男の足元を一度見て、床に立っていないことを確認してから続ける。
「行ける。行けないなら白紙。白紙の次は水。今日は一行」
男は角を見る。吐く息を長くする。吐き切る前に細くなり、細い息の中で言った。
「行ける、って言うと、行けなかった時に終わる気がする」
女がすぐ区切る。
「今日は一行」
男が反射で重ねる。
「今日は一行」
女が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えた瞬間だけ、胸の跳ねが遅くなる。遅くなった隙間に、床へ立つ衝動が入らない。男は水を一口飲み、ゆっくり立った。立った瞬間に視界が狭くなりかけたが、狭くなる前に角を探す。壁の掲示板の角。消火器ケースの角。窓枠の角。角を拾いながら歩くと、足が勝手に速くならない。
女は二歩だけ後ろを歩いた。近づけば触れたいが増える。離れれば乾く。二歩の距離は、乾きが増えるぎりぎりの場所だった。女はその距離のまま、声だけ落とす。
「今、ここ。足は止める」
廊下の端まで行って戻るだけの短い往復なのに、男の喉は何度も鳴った。鳴るたびに「早い」が立つ。立つたびに「白紙」が必要になる。男は歩きながら、声を出さないまま唇の内側だけで白紙を作り、戻ってベッドの端に腰を落とした瞬間、ようやく声にした。
「白紙」
女が短く続ける。
「水」
水を飲む。飲み終えた喉が鳴る。鳴った直後に、廊下で見かけた家族連れの声が頭に残って、勝手に未来を作る。未来が作られると、今が捨てたくなる。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで折る。
「白紙」
部屋に戻ると、机の上に何もないことが妙に怖かった。封筒も、紙も、医師の丸が付いたメモも見えない。見えないと、全部が夢に見える。夢に見えると、急に現実にしたくなる。現実にしたい衝動は、近道の形で現れる。
男が低い声で言った。
「見えないと、飛びたくなる」
女は机の角を押さえ直し、硬さへ熱を逃がしながら事実に落とす。
「見えないのは、背負わないため。背負ったらあなたが返したくなる。返したら嘘になる」
男の胸が跳ねる。嘘という言葉が刺さる。刺さった反動で、謝罪が喉まで上がる。謝れば軽くなる。軽くなると返したくなる。男は謝らず、吐く息を長くして言った。
「返したくなるのを止められないのが、怖い」
女は否定しない。否定は勝負になる。女は短く置く。
「止めなくていい。飛ばないだけ。落ちるのは止めない」
その言葉が、男の胸の奥に熱を残した。熱は嬉しさに似ていて、嬉しさはすぐ怖さに変わる。怖さは、確認を呼ぶ。確認は、言葉を増やす。増えた言葉は整う。整うと走る。男は走りにしないために、先に区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えた瞬間、涙が少しだけにじんだ。にじんだ涙が視界をぼかし、角が薄くなる。角が薄くなると息が短くなる。短い息の端に、また「早い」が乗る。男は慌てて水を飲もうとして、手が震えた。カップの縁が歯に当たり、乾いた音が小さく鳴る。
その音で胸が跳ね、跳ねた反動で口が勝手に動きかけた。
「交換――」
女が即座に区切る。命令にしない声で、ただ手順を置く。
「白紙」
男は息を押し返し、言葉を折る。
「白紙」
女が続ける。
「水。今日は一行」
男は水を飲む。吐く息を長くする。細くなったところで、区切りの言葉を落とす。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えたあとも、胸の奥の刃は鋭いままだった。鋭いままなのに、飛ばない取り決めは最初からある。だから男は落ちながら、手順だけで刃の向きを少しずつ逸らしていく。女は触れず、角の硬さだけで熱を遅らせる。遅らせた熱の分だけ、二人の間の距離は保たれたまま、転落は静かに深くなっていった。
夕食のトレーが運ばれてきても、男は箸に手を伸ばさなかった。伸ばした瞬間に勝負が始まる気がした。勝負が始まれば、早いが魅力になる。男は角を見る。水を一口飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付け、押し付けたまま吐く息を長くした。
「白紙」
女は机の角を押さえたまま、トレーを見ない。見たら「食べさせる」「食べさせられる」の形が立つ。形が立てば触れたいが増える。触れたいが増えれば枠が壊れる。女は声だけ落とした。
「ひと口。飲み込んだら水。今日は増やさない」
男は反発しない。反発は勝負になる。ひと口だけ口に入れて、噛まずに飲み込んだ。飲み込んだ直後に喉が乾いて鳴り、鳴った瞬間に「返す」が立つ。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
その夜、看護師が短い用件だけ置きに来た。整った紙じゃなく、メモの端が丸い。丸い端が助かる。看護師は男の目を長く見ないまま言った。
「診療情報の取り寄せ、受付が通ったって。到着は早くて数日。遅いと一週間くらい」
数日、という言葉が男の胸を跳ねさせた。時間が見えるほど、早いが立つ。早いが立つと、口が勝手に近道を探す。男は角を見る。吐く息を長くする。吐き切る前に細くなり、細い息の中で区切った。
「今日は一行」
女がすぐ重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えた瞬間だけ、胸の跳ねが遅くなる。遅い跳ねの隙間に、足が動く衝動が入らない。看護師はそれ以上言葉を増やさず、淡々とトレーの位置だけ直して出ていった。
扉が閉まったあと、部屋が少し広く感じた。広いほど選べる気がする。選べる気がするほど近道が立つ。男の喉が乾いて鳴り、鳴った直後に、さっき言いかけた単語が戻ってきた。
「交換」
男は声に出していないのに、口の形だけが勝手に作ろうとした。作った形のまま息が詰まり、胸が跳ね、跳ねた反動で立ちかける。男は先に言った。
「言いたい」
女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は机の角を押さえたまま、短く置いた。
「言っていい。言ったら白紙。白紙の次は水。今日は一行」
男は吐く息を長くして言った。
「数日って聞いた瞬間、俺の中で早いが勝った。勝ったまま、口が動いた。動いたのが怖い」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強め、爪が白くなる。白さが戻るまで女は言葉を増やさない。戻ってから、女は事実に落とした。
「勝ってない。口が動いたのは転落。転落は止めないって決めてる。止めないけど、飛ばないのも決めてる」
男の喉が鳴った。乾いた音の直後に、謝りたいが立つ。謝れば軽くなる。軽くなれば返したくなる。男は謝らず、折った。
「白紙」
女が短く続ける。
「水」
男は水を飲む。飲み終えた喉が鳴る。鳴っても続けない。続けないまま、男は息を吐いて、吐き切る前に細くなるところで、もう一度区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えたあと、男の視界が少しだけぼけた。ぼけた視界は角を薄くする。角が薄くなると息が短くなる。短い息の端に、また「早い」が乗る。男は縫い目を探し、指先が縫い目に触れた瞬間に押し込んで折った。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は代わりに、机の角を押さえる力を少しだけ抜いた。抜くと熱が戻る。戻った熱が触れたいになる前に、女は声だけを落とした。
「息、合わせる。言葉はいらない」
男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は角を見る。女は机の角を押さえたまま、吐く息だけを長くした。長い吐息が一回、二回。男の呼吸がそれに遅れて付いていく。付いていく間だけ、胸の跳ねが少し遅くなる。遅い跳ねの隙間に、名前が入り込まない。
それでも、男の口は勝手に形を探す。声にならないまま「ごめん」が出かけた。出かけた瞬間、男は自分で止めた。
「言うと軽くなる。軽くなると返したくなる」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は一拍置いて、事実だけ置いた。
「軽くなっていい。返さないで持ってていい。譲ったのは、あなたの中で軽くなるためでもある」
男の胸が跳ねた。跳ねた反動で涙が出そうになり、喉が狭くなる。狭い喉の奥で乾いた音が鳴り、鳴った直後に「早い」がまた立つ。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言った。
「水」
男は水を飲み、吐く息を長くした。吐き切る前に細くなる。その細さの中で、男が小さく言う。
「諦めない」
女は机の角を押さえたまま、同じ言葉を重ねない。重ねたら軽くなる。女は代わりに、息を一つ長く吐いてから、声だけ落とした。
「嘘にしない」
夜は続く。紙はまだ見えない場所にある。見えないままの数日は、男の中で刃を尖らせる。尖るほど、白紙と水と一行が必要になる。必要になっても、二人は最初から決めた枠を動かさない。転落は深くなるのに、飛ぶ方向だけは選ばないまま、角と呼吸だけが次の数日へ繋がっていった。
医師が出ていってから、女医も長居しなかった。扉の外に下がるだけで、部屋の空気を締める役目は残す。看護師が水だけ置いて出ていき、観察室は角と息だけになった。
男は角を見る。水を一口飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付ける。押し付けたまま吐く息を長くする。
「白紙」
女は机の角を押さえたまま、しばらく言葉を置かなかった。置かない時間が長いほど、男の中の余白が広がる。広がった余白に「早い」が入り込む前に、女は声だけを落とした。
「……言う」
男の胸が跳ねた。言う、という前置きがあると、そこに“決める”が混ざりやすい。決めるは勝負になる。勝負は走りになる。男は先に区切ろうとして、喉が乾いて鳴った。乾いた音の直後に、口が動きかける。
女は命令にしない声で手順を置いた。
「今日は一行」
男は反射で重ねる。
「今日は一行」
女が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えた瞬間だけ、男の胸の跳ねが遅くなる。遅い跳ねの隙間に、言葉の続きが入る余地ができる。できた余地に、女は言葉を落とした。落とすだけで、押し付けない。
「私、海外で生活できるようにする。恒常的に人工心臓が使えるところまで、やる」
男の喉が狭くなった。狭い喉の奥で乾いた音が鳴る。鳴った直後に、嬉しいが立つ。嬉しいが立つと怖いが立つ。怖いが立つと返したいが立つ。返したいが立つと、早いが立つ。
男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
女は返さない。返したら軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。女は机の角へ熱を逃がしながら、声だけ落とす。
「不安はある。あるけど、やる。あなたのために、って言うと取引になるから言わない。私がやる」
男の胸が跳ねた。取引じゃない、という言い方が刺さる。刺さるほど、受け取ってしまいそうになる。受け取ったら勝負になる。勝負になれば、早いが魅力になる。
男は角を見る。水を一口飲む。喉が鳴る前に息を吐く。
「……うん、って言えない」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪が白くなる。白さが戻るまで女は言葉を増やさない。増やしたら整理になる。整理は勝負になる。白さが戻ってから、女は短く置いた。
「分かってる。うんって言うと、あなたは飛ぶ」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後、男は言いたいを抱えたまま言った。
「俺、君が本心で言ってるか、分からない。分からないのに、受け取ったら……俺が勝手に救われる。勝手に救われたら、返したくなる」
女は否定しない。否定は勝負になる。女は事実に落とす。
「証明できない。私も証明できない。だから言葉で縛らない。縛らないまま、やる」
男の胸の奥が熱くなる。熱は希望に似ていて、希望はすぐに疑いを呼ぶ。疑いは持ち直しの形になる。持ち直しは正しさを取り戻す。正しさを取り戻すと、逆に今の温度が壊れる。
男が低い声で言った。
「傷の舐め合いかもしれない」
言った瞬間、喉が鳴る。乾いた音の直後、男の胸が跳ね、目の奥が痛くなる。痛みが涙の手前まで来て、涙の手前で息が短くなる。短い息は近道を呼ぶ。
女の指先が角を押さえたまま、声が少しだけ低くなる。
「かもしれない。だからこそ、行動にする。行動なら嘘になりにくい。嘘になったら、私が困る」
男は笑いの手前で喉が詰まった。困る、という言葉が生活の言葉で、生活の言葉が急に現実を連れてくる。現実は残酷で、残酷は過酷で、過酷は彼女の言葉を“夢”じゃなく“労働”に変える。
男は息を押し返して言った。
「……過酷すぎる。君の人生まで使う」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は一拍置いて、角の硬さへ熱を逃がし、事実だけ落とした。
「元から過酷だった。過酷じゃない夢は、私には似合わない。似合わないから、やる」
その言葉で、男の胸の跳ねが一段遅くなった。遅い跳ねの隙間に、別の形の希望が入る。優しい夢じゃない。逃げる夢でもない。過酷な人生に見合う、過酷な夢。だからこそ唯一になる。
男の喉が鳴る。乾いた音の直後、男は折らないまま言葉を出してしまいそうになる。出したら確定になる。確定は勝負になる。勝負は走る。男は先に区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えてから、男は角を見たまま低い声で言った。
「……それで生きろって言われたら、俺は生きる。生きるのが怖いのに、生きる理由になってしまう」
女は返事を重ねない。重ねると軽くなる。女は息を一つ長く吐いてから、声だけ落とした。
「生きる。嘘にしない。うんって言わせない。言わなくていい。私がやる」
男の目の奥が痛くなり、涙が少しだけにじんだ。にじんだ涙で角が薄くなる。角が薄くなると息が短くなる。短い息の端に、また「早い」が乗る。
男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言う。
「水」
男は水を飲んだ。喉が鳴る。鳴っても、続きを言わない。言わないまま、男は吐く息を長くして、細くなったところで小さく言った。
「今、ここ」
女は机の角を押さえたまま、同じ言葉を返さない。返すと軽くなる。代わりに、息を一つ長く吐く。長い息が、背中を押す言葉の重さを、押し付けずにそこに残した。
希望は受け取るほど怖くなる。怖いほど疑いが出る。疑いは持ち直しになりかけて、でも過酷な夢の形が、男の過酷な人生にだけ、妙に釣り合ってしまう。釣り合ってしまった瞬間から、転落はまだ続くのに、生きる方向だけが、逃げずに残り始めた。
女の長い吐息が途切れたあと、部屋の中の音は水の揺れだけになった。男は角を見る。水を一口飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付ける。押し付けたまま吐く息を長くする。
「白紙」
言ったのに、熱が残った。残った熱が胸の奥で跳ね続ける。跳ねるたびに、さっきの言葉が形を変えて戻ってくる。海外。恒常的。人工心臓。やる。やるという言葉が、取引じゃない顔で置かれているほど、男の中で重くなる。重いほど、返したくなる。返したいほど、早いが魅力になる。魅力になった瞬間、男は縫い目に指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
女は返さない。返したら軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。女は机の角を押さえたまま、声だけ落とす。
「今は増やさない。あなたが受け取るかどうかも決めない。私がやる、だけ」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後、言葉が勝手に立つ。受け取れない。受け取ったら、彼女の人生まで背負う。背負った瞬間に、もし彼女が折れたら、希望ごと落ちる。希望ごと落ちるのが怖いから、最初から希望を切り捨てたくなる。切り捨てたら早い。早いは近道だ。
男は角を見たまま吐く息を長くして言った。
「俺、君の覚悟を疑うことで、自分を戻そうとしてる。戻せたら楽になる。楽になったら、また返したくなる」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪が白くなる。白さが戻るまで女は言葉を増やさない。増やしたら整理になる。整理は勝負になる。白さが戻ってから、女は短く置いた。
「疑っていい。疑うのは、今のあなたの手順。私が止めたいのは飛ぶ方だけ」
男の胸が跳ねる。止めたいという言葉が優しく聞こえた瞬間、優しさが怖さに変わる。怖さが立つと、謝りたいが立つ。謝れば軽くなる。軽くなれば返したくなる。男は謝らず、折った。
「白紙」
女が短く続ける。
「水」
男は水を飲む。喉が鳴る。鳴っても、続きを言わない。言わないまま、男は息を吐いて、吐き切る前に細くなるところで小さく言った。
「……本心かどうか、知る手段がない」
女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は机の角を押さえたまま、低い声で返した。
「ない。だから言葉で証明しない。証明は行動でしか増えない。増えた分だけ、本心に近づく」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に、持ち直しが立ちかける。だったら待てる。資料が来るまで待てばいい。待てば、決めなくていい。決めなくていいなら飛ばない。しかし、待つ時間は余白を増やす。余白は近道を鋭くする。男は先に区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えた瞬間、男の胸の跳ねが一段だけ遅くなる。遅い跳ねの隙間に、さっきの覚悟がもう一度入ってくる。過酷すぎる夢。過酷な人生に釣り合う夢。釣り合うからこそ、逃げではなくなる。逃げじゃないものは、受け取るほど重い。
男は角を見たまま、声を落として言った。
「受け取ったら、俺は生きる。生きるなら、君が折れた時に俺も折れる。だから、受け取るのが怖い」
女は返事を重ねない。重ねたら軽くなる。女は息を一つ長く吐いてから、声だけ落とした。
「折れないって言わない。折れたらまた白紙。水。角。そこからやり直す。やり直すのも最初から」
その言葉で、男の目の奥が痛くなった。涙がにじむ手前で息が短くなる。短い息の端に「早い」が乗る。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言った。
「水。今日は増やさない」
男は水を飲み、吐く息を長くする。細くなったところで、もう一度だけ区切る。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えたあと、女は机の角から手を離さずに立った。立つ動作が遅いほど、男の胸が跳ねる。跳ねた反動で呼び止めたくなる。呼び止めたら名前が出る。名前が出たら軽くなる。軽くなった反動で返したくなる。男は呼び止めない。女は扉の前で一度だけ振り返らずに言った。
「言葉は置いた。置いたまま、やる」
扉が閉まる。廊下の椅子が鳴る。女が位置を変えた音。来ない音。来ないのに温度だけが近い。男は角を見る。水を飲む。白紙を言う。今日は一行を言う。転落は止まらないのに、飛ぶ方向だけは選ばないまま、重い希望だけが、胸の奥に残り続けた。
了解。終盤まで到達して「ここで一区切り」の地点に来たら、その時点でちゃんと報告する。じゃあ続き。
________________
夜が明けても、男のまぶたは重くならなかった。重くならないまぶたの裏で、女の言葉だけが残る。海外。恒常的。人工心臓。やる。やるという語尾が、取引でも慰めでもない顔で置かれているほど、男の胸の奥で熱が居座る。熱が居座ると、返したいが立つ。返したいが立つと、早いが立つ。男は角を見る。水を一口飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付ける。押し付けたまま吐く息を長くする。
「白紙」
朝の見回りの看護師が、音を立てないように扉を開けた。トレーじゃない。紙でもない。手ぶらで、声だけ落とす。「連絡。診療情報、発送されたって。病院側から」発送、という言葉が男の胸を跳ねさせる。進む、という事実は嬉しいに近い。嬉しいは怖いに変わる。怖いは近道を呼ぶ。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
看護師は頷かず、淡々と水を指で示す。「水。今日は一行」男は水を飲む。吐く息を長くする。細くなったところで区切る。
「今日は一行」
女の声が廊下の向こうから重なる。「今日は一行」
男が続ける。「診療情報の取り寄せ」
声が届いたことで胸が跳ね、跳ねた反動で扉を見たくなる。見たら呼び止めたくなる。呼び止めたら名前が出る。名前が出たら軽くなる。軽くなった反動で返したくなる。男は扉を見ない。角を見る。
昼前、女が入ってきた。椅子に座らない。机の角を押さえる。押さえた指先が少しだけ赤い。赤さは、やってきた証拠に見える。証拠は受け取りたくなる。受け取ったら背負う。背負ったら返したくなる。男は先に言う。
「言いたい」
女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は角を押さえたまま短く置く。
「言っていい。言ったら白紙。白紙の次は水。今日は一行」
男は吐く息を長くして言った。
「発送って聞いた瞬間、俺の中で進むが勝った。勝ったまま、早いが立った。立ったのが怖い」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪が白くなる。白さが戻るまで女は言葉を増やさない。増やしたら整理になる。整理は勝負になる。白さが戻ってから、女は事実に落とした。
「進むのは手順。早いにしない。早いにしたら、あなたが飛ぶ。飛ばないのは最初から」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に、疑いが持ち直しの形で顔を出す。どうせ口だけかもしれない。今の優しさが怖いのは、希望に見えるからだ。希望に見えるものは、失った時に倍痛い。男はその痛みを先取りして切り捨てたくなる。切り捨てたら早い。男は縫い目へ指先を押し込み、折った。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言う。
「水」
男は水を飲んだ。喉が鳴る。鳴っても続きを言わない。言わないまま、男は吐く息を長くして言う。
「……本心かどうか、分からない。分からないまま受け取ったら、俺は勝手に救われる。勝手に救われたら、返したくなる」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は角の硬さへ熱を逃がしてから、低い声で置いた。
「分からないままでいい。分からないのを理由に飛ばないなら、それも手順。私が本心かどうかは、今ここで証明できない。だから、言葉を増やさない」
男の胸が跳ねる。増やさない、という言い方が現実に聞こえる。現実は残酷で、残酷は過酷で、過酷は女の夢を夢のままにしてくれない。男はそれが怖い。怖いのに、釣り合ってしまうのも分かる。過酷な夢は、過酷な人生にだけ似合ってしまう。
女が声を落とす。押し付けず、置くだけ。
「私は行く。行くために、今から動く。あなたがうんって言わなくても、動く。うんって言わせたら取引になる。取引にしたら、あなたが返す」
男の喉が鳴る。乾いた音の直後に、ひとつだけ確かな恐怖が立つ。彼女が遠くへ行く。遠くへ行けば、触れない距離がさらに遠くなる。遠くなるほど、男は「軽くするために消える」を選びやすくなる。男はその恐怖を押し返そうとして、言葉を探し、探した末に言ってしまう。
「置いていかれるのが怖い」
言った瞬間、胸が跳ねる。跳ねが増えると謝りたくなる。謝れば軽くなる。軽くなれば返したくなる。男は先に折った。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は机の角を押さえたまま、息を一つ長く吐いてから言う。
「置いていかない。私は行くけど、逃げない。逃げないって言葉も証明できない。だから、行動だけする」
男の目の奥が痛くなる。痛みは涙の手前まで来て、涙の手前で息が短くなる。短い息の端に、また「早い」が乗る。男は区切る。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えた瞬間だけ、胸の跳ねが遅くなる。遅い跳ねの隙間に、男はひとつだけ言葉を置けた。肯定でも否定でもない、受け取らない形のままの言葉。
「……それで生きる、って形になるのが怖い。でも、それしかない気もする」
女は重ねない。重ねたら軽くなる。女は代わりに、机の角を押さえる指先の力を少しだけ抜く。抜いた瞬間に熱が戻る。戻った熱が触れたいになる前に、女は声だけ落とした。
「怖いままでいい。生きるのも、怖いのも、最初から混ざってる。混ざったまま、飛ばない」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に、また疑いが立つ。傷の舐め合いかもしれない。けれど、彼女の言葉は簡単じゃない。簡単じゃないからこそ、唯一の希望になってしまう。希望になってしまうからこそ、男は崩れる。崩れながらも、今日も飛ばない形だけを守る。
男は小さく言った。
「白紙」
女が短く続ける。
「水」
男は水を飲み、吐く息を長くする。細くなったところで、また「今、ここ」を落とした。今ここは、決断じゃない。受け取りでもない。落ち続けるための杭の音だけだった。
「今、ここ」
女の「水」が落ちたあと、男はカップの縁に唇を触れさせた。冷たさが舌に乗り、喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付ける。押し付けたまま吐く息を長くする。息が細くなるところで、言葉を折った。
「白紙」
女は机の角を押さえたまま、少しだけ体重の位置を変えた。立っているのに、揺れない。揺れないように見せているだけかもしれない。男はその区別がつかない。つかないことが怖くて、つかないことを理由に戻ろうとして、戻ろうとするほど胸が跳ねる。
女が言う。
「行く」
それだけだった。説明がないほど、行くという語尾が現実の重さを持つ。現実は逃げ道を潰す。逃げ道が潰れると、近道が鋭くなる。男は角を見る。吐く息を長くする。
「……行って」
口が勝手に動きかけた。動きかけただけで胸が跳ね、跳ねた反動で「言ったら取引になる」が立つ。男は言い切らないまま、縫い目へ指先を押し込み、痛みで止めた。
「白紙」
女は返さない。返せば軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。女は机の角を押さえたまま、扉の方へ体を向ける。扉に手をかける直前、振り返らずに声だけ落とした。
「うんって言わなくていい。言葉は増やさない。今日は一行」
男は反射で区切る。
「今日は一行」
女の声が廊下へ落ちる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
扉が閉まった。閉まる音が軽い。軽い音ほど部屋が広くなる。広いほど、選べる気がする。選べる気がするほど、早いが立つ。男の喉が乾いて鳴り、鳴った直後に「交換」が口の形を作ろうとする。男は角を見る。水を飲む。喉が鳴る前に折る。
「白紙」
廊下の向こうから、女の足音が遠ざかる。遠ざかる音が増えるほど、胸が跳ねる。跳ねが増えると息が短くなる。短い息の端に「いない方が軽い」が乗る。男はそれを言葉にしないまま、舌を上顎へ押し付けて息を吐く。吐き切る前に細くなる。細くなったところで折る。
「白紙」
看護師が入ってきて、何も言わずにカーテンの隙間を少し狭くした。狭くすると光が減る。光が減ると時間がぼける。時間がぼけると未来の刃が鈍る。看護師は水の位置だけ直し、短く言った。
「廊下、行ってる。戻るまでここ。ここでやる」
男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は角を見る。喉が鳴る。鳴る前に折る。
「白紙」
看護師は頷かずに続ける。
「白紙の次」
男は水を飲み、吐く息を長くする。
「水。立たない。角」
それを繰り返しているうちに、廊下の音の質が変わった。カートの車輪の音じゃない。紙が束になって擦れる音。ペン先が固い机を叩く乾いた音。男の胸が跳ねた。紙の音は、話を前へ進める。進むほど、早いが立つ。
男は縫い目に指先を押し込む。
「白紙」
扉が開き、女医が入らずに顔だけ出した。距離を保ったまま、男の足元を見る。床に立っていない。女医は声を落とす。
「いま、事務が動いてる。資料が届く前に、向こう側の準備を始める。今日の分は増やさない。聞くなら短く」
男の喉が乾いて鳴った。向こう側、という言葉が遠くて、遠いほど現実に見える。現実に見えるほど受け取ってしまいそうになる。受け取ったら背負う。背負えば返したくなる。男は先に区切った。
「今日は一行」
女医はそれ以上続けず、扉を閉めた。
しばらくして、病院の事務の人が来た。白衣じゃない。名札の角が光っている。角が光るほど視線が吸い付く。吸い付いた視線が胸を跳ねさせる。男は角を見る。吐く息を長くする。事務の人は女の姿を探すように一度だけ廊下を見て、男へは長く目を合わせずに言った。
「診療情報の請求は通ってます。こちらの控え、預かりだけ。見なくていい」
紙の角が見えた。見えただけで胸が跳ねる。男は言葉を折る。
「白紙」
事務の人は驚かない。驚かれると勝負になる。事務の人は淡々と水を示して、すぐ引いた。
「水。机に置きます」
紙は机の上には置かれなかった。机に置けば背負う。背負えば返したくなる。事務の人は看護師へ渡して、看護師はそれを見えない場所へしまった。見えないと夢に見える。夢に見えると現実にしたくなる。現実にしたい衝動は近道になる。男は縫い目に指先を押し込み、痛みで折る。
「白紙」
夕方、女が戻ってきた。椅子に座らない。机の角を押さえる。指先が少し赤い。赤さが、口先じゃないことを示すようで、男の胸が跳ねた。跳ねた反動で、受け取ってしまいそうになる。受け取った瞬間に「うん」が出る。出たら取引になる。取引になれば返したくなる。男は先に言う。
「言いたい」
女は否定しない。角を押さえたまま、短く返す。
「言っていい。言ったら白紙。白紙の次は水。今日は一行」
男は吐く息を長くして言った。
「戻ってきたのを見るだけで、俺の中で本物だって決めそうになる。決めたら、背負う。背負ったら返したくなる。返したくなるのが怖い」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪が白くなる。白さが戻ってから、女は事実に落とした。
「背負わせない。やったことは増えた。増えたけど、あなたの仕事にしない。あなたの返す材料にしない」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後、疑いが立つ。立った疑いは、持ち直しの顔をしている。傷の舐め合いかもしれない。今の言葉は互いの痛みを撫でているだけかもしれない。撫でているだけなら、結局は落ちる。落ちるなら、早く落ちた方が楽だ。楽は近道だ。
男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言う。
「水」
男は水を飲む。喉が鳴る前に息を吐く。吐き切る前に細くなるところで、男は言った。
「君が本心かどうか、分からない。分からないのに、指が赤いと、信じそうになる。信じたら、壊れた時に俺が終わる」
女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は角を押さえたまま、低い声で置いた。
「終わるって決めない。終わりそうになったら白紙。水。角。そこからまたやる。やるって決めたのは、最初から」
男の胸が跳ねた。最初から、という言葉が取り決めに戻す。戻るほど、受け取りが現実になる。現実になるほど、逃げ道が細くなる。男は先に区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えたあと、女は言葉を増やさずに一枚の小さな紙片だけを、看護師へ渡した。紙片は男から見えない。見えない位置で受け渡しが起きるほど、行動の匂いが強くなる。男はそれが怖い。怖いのに、唯一に見える。唯一に見えるから、生きろと言われた気がする。
男が低い声で言った。
「それで生きる形になるのが怖い。でも、俺の過酷に釣り合うのは、それだけだ」
女は重ねない。重ねたら軽くなる。女は息を一つ長く吐いてから、声だけ落とした。
「釣り合うからやる。釣り合わない夢は、逃げになる。逃げにしたらあなたが飛ぶ。飛ばない」
男の喉が鳴る。乾いた音の直後、言いたいが残る。残った言いたいは「うん」に近づく。近づいたら取引になる。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言った。
「水」
男は水を飲み、吐く息を長くする。細くなったところで、今ここを落とす。
「今、ここ」
女は同じ言葉を返さない。返したら軽くなる。代わりに、机の角を押さえる力を少しだけ抜いて、息を一つ長く吐いた。その吐息は、背中を押す言葉の続きを言わないまま、行動だけが増えていく時間を、静かに確定させる音だった。
女の長い吐息が消えたあと、男はカップの縁を指でなぞった。なぞった指先が湿っているのに、喉の奥だけが乾く。乾きは音になる。音になる前に舌を上顎へ押し付けて、押し付けたまま吐く息を長くした。細くなったところで折る。
「白紙」
机の角を押さえていた女の指が、ほんの少しだけ緩む。緩んだ分だけ体温が戻りそうになって、男の胸が跳ねる。跳ねた反動で、確かめたいが立つ。確かめたら答えが欲しくなる。答えが出たら、取引になる。男は答えを求めない形のまま、声を落とした。
「……手が赤いの、見えた」
女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は角を押さえ直して、声だけ置いた。
「増えたのは手順。あなたの材料じゃない」
材料じゃないと言われるほど、男の中で材料が増える。彼女の赤い指先、紙の擦れる音、遠ざかる足音。全部が「生きろ」に似てしまう。似た瞬間、返したいが立つ。返したいは謝りたいに化ける。謝ったら軽くなる。軽くなった反動で消えたくなる。男は縫い目へ指先を押し込んで止めた。
「白紙」
女は返さない。返せば軽くなる。女は短く言う。
「水」
男は水を飲んだ。冷たさが喉を通る。通った直後に喉が鳴りそうになり、鳴る前に吐く息を長くした。息が細くなるところで、男は口の中だけで「今日は一行」を作る。声にしないと、外に出ない。外に出なければ勝負になりにくい。けれど、今日は声にしなければ戻れない。
「今日は一行」
女が同じ形で落とす。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
その一行を言い終えた瞬間だけ、胸の跳ねが遅くなる。遅い跳ねの隙間に、女が椅子に座らないまま上着の内側へ手を入れる動作が入った。小さな紙片。薄い封筒。見えない位置で、見えないものが増えていく。
男の喉が乾いて鳴った。乾いた音の直後、言葉が勝手に立つ。
「……それ、何」
言った瞬間に胸が跳ねる。問いは要求に近い。要求は取引に近い。取引は返すに近い。男は折り遅れたのを自覚して、声を落とした。
「白紙」
女は封筒を見せない。見せたら背負う。背負わせたら返そうとする。女は封筒を上着の内側へ戻し、机の角を押さえたまま、ただ事実だけ置いた。
「手続き。あなたが見なくていいやつ」
男は笑いの手前で喉が詰まった。見なくていい、は優しさに見える。優しさは怖いに変わる。怖いは近道を呼ぶ。男は角を見る。吐く息を長くして言った。
「見なくていいって言われると、余計に現実になる」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪が白くなる。白さが戻ってから、女は言葉を増やさないまま置いた。
「現実にするのは行動だけ。言葉で押さない」
押さない、と言われた瞬間、男の中で押される感覚だけが残る。背中を押される感覚が残るほど、足元が抜ける。抜けると飛びたくなる。飛びたい衝動は「交換」に化ける。男はその単語が口に乗る前に区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えても、熱は残る。残った熱が目の奥を痛くして、涙の手前で喉を狭くする。狭い喉の奥で乾いた音が鳴り、鳴った直後に男は言ってしまった。
「……本心かどうか、まだ分からない」
分からないと言った瞬間、言葉が刃になる。刃は相手へ向く。向いた瞬間に、男は引き戻したくなる。引き戻せば謝罪になる。謝罪は返すになる。男は慌てて折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は角を押さえたまま、息を一つ長く吐き、声だけ落とした。
「分からないままでいい。分からないのに飛ばないなら、それでいい」
男の胸が跳ねる。飛ばない、という語尾が取り決めに戻す。戻すほど、現実が濃くなる。濃くなるほど、逃げ道が細くなる。男は細くなった逃げ道を自分で壊したくなる。壊せば早い。早いは楽に見える。楽は近道だ。
男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで止めた。
「白紙」
女が短く続ける。
「水」
男は水を飲んだ。飲み終えた喉が鳴る。鳴った直後、男の口は勝手に「傷の舐め合い」を拾い直しそうになる。拾い直したら整理になる。整理は勝負になる。勝負は走りになる。男は走らないために、声の出し方を変えた。断定じゃなく、落とす。
「俺が疑うのって、戻りたいからだ。戻れたら、死ぬ方が楽だって顔が出る」
言った瞬間、胸が跳ねる。死ぬ、という語が現実を切り替える。女の指先の赤さが、急に痛みに見える。痛みに見えた瞬間、男は受け取りたくなる。受け取ったら返したくなる。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返さないまま、机の角を押さえる指先の位置だけを変えた。爪の白さが少し戻る。戻った白さのまま、女は低い声で置いた。
「戻る方向は楽じゃない。楽に見えるだけ。私はそこにあなたを置かない」
男は言い返したくなる。言い返せば勝負になる。勝負は走る。男は勝負にしないために、吐く息を長くして言った。
「置かないって言われると、俺は置いていかれないって勘違いしそうになる。勘違いしたら、終わった時に俺が終わる」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は一拍置いて、角の硬さへ熱を逃がし、事実だけ落とす。
「終わるって決めない。終わりそうなら白紙。水。角。そこからまたやる」
その言葉で男の胸の跳ねが一段遅くなった。遅い跳ねの隙間に、過酷な夢の形がまた入ってくる。簡単じゃないからこそ、逃げにならない。逃げにならないからこそ、唯一になる。唯一になってしまうから、怖い。怖いのに、釣り合ってしまう。
男は角を見たまま、小さく言った。
「……俺の人生に釣り合う希望って、こういう嫌な形なんだな」
言った瞬間、喉が鳴る。乾いた音の直後に、受け取った気になってしまいそうになる。受け取ったら「うん」が出る。出たら取引になる。男は慌てて区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
女はその一行に重ねない。重ねたら軽くなる。代わりに、机の角を押さえる力を少しだけ抜いて、息を一つ長く吐いた。吐息が終わる前に、女は上着の内側の封筒に触れないまま言う。
「行く。今日はここまで。増やさない」
男は呼び止めない。呼び止めたら名前が出る。名前が出たら軽くなる。軽くなった反動で返したくなる。男は角を見る。水を飲む。喉が鳴る前に折る。
「白紙」
扉が閉まって、足音が遠ざかる。遠ざかるほど胸が跳ねる。跳ねが増えるほど息が短くなる。短い息の端に「早い」が乗る。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
看護師が入ってきて、カーテンの隙間を少しだけ狭くした。光が減り、時間がぼける。ぼけた時間の中で、男はようやく一つだけ確かなことに気づく。女の本心は分からない。分からないのに、彼女は行動だけ増やしている。増えていく行動は、取引にならない形で男の前に積もる。積もるほど怖い。怖いほど、逃げたくなる。逃げたいほど、逆に「それで生きる」しかなくなる。
男はカップを握らず、机の角を見つめたまま、息を吐いた。吐き切る前に細くなったところで、小さく落とす。
「今、ここ」
翌朝、看護師がカーテンを少しだけ開けた。光が増えた分だけ、男の胸が跳ねる。跳ねが増えると息が短くなる。短い息の端に「早い」が乗る前に、男は角を見る。水を一口飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付け、押し付けたまま吐く息を長くする。
「白紙」
看護師は昨日より長く部屋に留まらなかった。ただ、机の上に何も置かないまま短く言う。「来た。事務から。控えは見せない。女医のところへ行く」来た、という語だけで胸が跳ねる。来たものが何であれ、進む。進むと早いが立つ。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
女医が入ってきた。紙も端末も持たない。持っていないのに、背後で看護師が封筒を受け渡ししている気配だけがある。気配は現実を濃くする。濃くなるほど、受け取りが怖くなる。女医は男の足元を見て、床に立っていないのを確認してから声を落とした。
「診療情報が届いた。今ここでは開かない。要点だけ私が読む。あなたは聞くだけ。途中で白紙が出てもいい。増やさない」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後、口が勝手に「交換」を探す。探す前に、男は区切った。
「今日は一行」
女医はそれを受け止めて、目を合わせずに続ける。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
女医は封筒の中身を男に見せない。見せたら背負う。背負ったら返したくなる。女医は封筒の口だけを開き、視線を落としたまま、必要な事実だけを短く置く。病名の断定はしない。数値は並べない。並べれば勝負になる。ただ、現実の枠だけが増えていく。人工心臓の恒常運用がこの国では難しいこと、海外でなら手段が増えること、移植はまだ判断の段階ではないこと。男の胸が跳ねる。跳ねるたびに言葉が立ち、立つたびに折る必要が出る。男は声を落とす。
「白紙」
女医は即座に手順へ戻す。
「白紙の次」
男は水を飲み、吐く息を長くする。
「水。立たない。角」
女医はそこで話を畳まない。畳めば安心になる。安心は走る。女医は扉の外へ声を落とす。「呼んで」呼ばれた女が入ってきた。椅子に座らない。机の角を押さえる。指先の赤さが昨日より薄い。薄いのに、その赤さが残っているだけで男の胸が跳ねる。跳ねた反動で「本物だ」と決めそうになり、決めたら背負う。背負ったら返したくなる。男は先に言う。
「言いたい」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は角の硬さへ熱を逃がしながら短く置いた。
「言っていい。言ったら白紙。白紙の次は水。今日は一行」
男は吐く息を長くして言った。
「届いたって聞いた瞬間、俺の中で進むが勝った。勝ったまま早いが立った。立ったのが怖い」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪が白くなる。白さが戻ってから、女は事実に落とす。
「進むのは手順。早いにしない。早いにしたら飛ぶ。飛ばないのは最初から」
女医が淡々と続ける。「あなたが海外で生活する案は、現実の枠に入る。ただし、条件が多い。時間も要る。今は、必要な順番を並べるだけ」並べるだけ、という語が男の胸を跳ねさせる。並べたら決まる気がする。決まったら取引になる。取引になれば返したくなる。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言う。
「水」
男は水を飲む。喉が鳴る前に息を吐く。吐き切る前に細くなるところで、男は小さく言った。
「……君が本当に行くなら、俺は受け取ってしまう。受け取ったら生きる。生きたら、君が折れた時に俺が終わる」
女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は角を押さえたまま、声だけ落とす。
「折れるって言わない。折れないっても言わない。折れたらまた白紙。水。角。やり直す。やり直すのも最初から」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に、疑いが持ち直しの顔をして出る。傷の舐め合いかもしれない。そう言えば戻れる。戻れたら楽になる。楽になったら消えたくなる。男はその方向へ足を出さないために、先に区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
女医が短く割り込む。「次の手順だけ決める。情報共有の同意。あなたが署名する必要がある。でも、今ここで書かない。書くのは後。今日は見るだけ」署名、という語が男の胸を跳ねさせる。自分の名前が紙に乗ると現実になる。現実になると飛びたくなる。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで折った。
「白紙」
女は机の角を押さえたまま、ほんの少しだけ声を低くする。
「書かなくていい。今日は見ない。あなたが飛びそうなら、私が隣で落ちる。落ちたら白紙。水。角」
男は「うん」と言いかけて止めた。言ったら取引になる。取引になれば返したくなる。返したくなった瞬間に早いが立つ。男は息を押し返し、喉の奥の乾いた音ごと折った。
「白紙」
女医はそれ以上何も増やさず、封筒を閉じた。閉じる音が小さい。小さい音ほど、終わったように見える。終わったように見えると安心が立つ。安心は走る。男は走らないために、水を飲む。角を見る。吐く息を長くする。細くなったところで、決断じゃない言葉だけ落とした。
「今、ここ」
女医は封筒を閉じたまま、机の端へ置かなかった。置けば男の視界に入る。視界に入れば喉が鳴る。喉が鳴れば口が勝手に短い道を探す。女医は封筒を腕に抱え、扉の外へ一度だけ視線を投げた。
「次。別室。紙はそこで」
男は角を見る。水を一口飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付け、押し付けたまま吐く息を長くする。細くなったところで折る。
「白紙」
看護師が車椅子を持ってきた。車椅子に座ると、足が床を探さない。床を探さないと、立つ衝動が減る。衝動が減ると、胸の跳ねが一段だけ遅くなる。遅い跳ねの隙間に「次」が入る。次は進む。進むと喉が鳴る。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで止めた。
別室の机は低い。角が目の高さに来る。角が近いと呼吸が細くなる。細くなったところで、女医が椅子に座らない女を部屋に入れた。女は机の角を押さえる。押さえる指先の赤さは薄い。薄い赤さが残っているだけで、男の胃が縮む。縮んだまま、男は角を見る。
女医は封筒を机の下から出した。机の上じゃない。上だと背負う。下だと見えない。見えないのに、紙が擦れる音だけがする。音だけで男の喉が乾く。乾きが音になる前に、男は吐く息を長くした。
女医が一枚だけ引き出す。白い紙。罫線。署名欄。欄の横にペンが置かれた。ペンが硬い机を叩く乾いた音が一度鳴る。鳴った瞬間、男の胸が跳ね、指先が勝手に膝を掴む。掴んだ手の爪が布へ食い込み、布が歪む。
女医が言う。
「読む。書かない。今日は見るだけ」
男は区切る。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
女医は紙面を声に出さずに指でなぞり、要点だけを短く置く。固有名詞は出さない。番号も並べない。男は角を見る。吐く息を長くする。息が細くなるところで、喉が鳴る前に折る。
「白紙」
女医は手順へ戻す。
「白紙の次」
男は水を飲む。喉が鳴る。鳴っても続けない。続けないまま、女医の指が署名欄の横で止まった。
「ここ。あなたの名前。まだ置かない」
女が机の角を押さえたまま、声だけ落とした。
「見ないでいい。角だけ見て」
男はペンを見ない。見たら手が動く。動いたら書ける気がする。書ける気がした瞬間に、喉が鳴る。男は吐く息を長くして、言葉を落とした。
「……名前が紙に乗ると、呼吸が短くなる」
女は頷かない。頷けば軽くなる。女は角を押さえたまま、短く置いた。
「短くなったら白紙」
男は折る。
「白紙」
女医が封筒へ紙を戻そうとした。その動きが「終わり」に見えた瞬間、男の胸が跳ねた。終わりに見えるほど、次が見える。次が見えるほど、短い道が立つ。男の手が勝手に机の縁へ伸びかけ、伸びかけた指が空を掴む。
女が机の角を押さえたまま、声だけ落とす。
「触らない」
男は息を押し返し、折る。
「白紙」
女医は手を止めた。止めたまま、ペンを紙から少し遠ざける。遠ざけるだけで空気が薄くなる。薄くなると喉が鳴る。男は水を飲む。吐く息を長くする。細くなったところで言った。
「今、ここ」
女は同じ言葉を返さない。返せば軽くなる。代わりに、机の角を押さえる指の位置だけを変えた。爪の白さが少し戻る。
女医が封筒を閉じ、立った。
「今日はここまで。次は読むだけじゃない日になる。今日は戻す」
封筒が紙を飲み込む音が小さく鳴った。小さい音が、男の胸の奥を叩く。叩かれた反動で「書けたら終わる」が立つ。終わるなら早い。早いなら軽い。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで止めた。
「白紙」
女は席を立たず、机の角を押さえたまま言う。
「行く。戻る。行く。戻る」
言葉が短いほど、反射の形に近い。男の喉が鳴る。鳴った直後、男はペンを見ずに言った。
「次、……見えるだけで手が動く」
女は返事を重ねない。重ねたら軽くなる。女医が扉を開け、看護師が車椅子の取っ手に手を置く。押される瞬間、男の胃が縮み、息が細くなる。細い息の中で、男はもう一度だけ区切った。
「今日は一行」
女の声が重なる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
廊下へ出ると、床の線が長く見えた。長い線は先へ伸びる。先へ伸びると喉が鳴る。男は角を探し、壁の掲示板の角で視線を止める。止めたまま、吐く息を長くする。細くなったところで落とす。
「今、ここ」
車椅子が病室へ戻ると、看護師は何も言わずに取っ手から手を離した。扉が閉まった音のあと、部屋の中は消毒の匂いと水の揺れだけになる。男は壁の掲示板の角を見たまま、唇の裏で息を押し返していた。喉が鳴りそうになるたび、舌を上顎へ押し付けて吐く息を長くする。細くなったところで折る。
「白紙」
女は椅子に座らない。机の角を押さえたまま、目を合わせない。合わせたら熱が増える。熱が増えたら声が軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。女は声だけを落とした。
「ペンが見えた時点で、手が動くのは分かってる。だから、次は私が先に言う。触らないで止める」
男は角を見たまま水を一口飲んだ。喉が鳴る前に息を吐き、細くなったところで短く返した。
「止められると、置いていかれないって勘違いする」
女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は角の硬さへ熱を逃がしたまま、事実だけ置いた。
「勘違いしてもいい。飛ばないために、勘違いは使っていい」
男の胸が跳ねた。跳ねが増えると息が短くなる。短い息の端に「早い」が乗る。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで止めた。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言う。
「水」
夜は長かった。消灯のあとも、男のまぶたは落ち切らない。落ち切らないまぶたの裏で、署名欄の白さだけが残る。白い四角を見るほど、そこに自分の名前を置きたくなる。置けたら、進む。進めたら、終わる気がする。終わる気がするほど、短い道が立つ。男は角を見る。水を飲む。喉が鳴る前に折る。それを繰り返しているうちに、胸の跳ねが一段だけ遅くなる瞬間が出る。遅い隙間に、女の赤い指先が戻ってきて、戻ってきた指先が「行動」を連れてくる。連れてきた行動が、男の中で重くなる。重いほど、返したくなる。返したいほど、また短い道が立つ。
朝、女が入ってきた時、指先の赤さは薄かった。薄いのに残っている。残っているだけで男の胸が跳ね、跳ねた反動で「本物だ」と決めそうになる。決めたら背負う。背負ったら返したくなる。男は先に言った。
「言いたい」
女は角を押さえたまま、短く返す。
「言っていい。言ったら白紙。白紙の次は水。今日は一行」
男は吐く息を長くして言った。
「今日、紙が来たら……俺は、勝手に終わらせたくなる」
女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は一拍置いて、角の硬さへ熱を逃がし、声だけ落とした。
「終わらせない。終わるのは手順じゃなくて、あなたが飛ぶ方。飛ばない。あなたが手を伸ばす前に、私が言う」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後、口が勝手に「うん」を探す。探した瞬間、取引が立つ。取引が立つと返したくなる。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言う。
「水」
午前、女医が来て、男の足元を確認してから封筒を抱えたまま言った。「同意の紙。今日、署名するかどうかだけ。内容は昨日と同じ。署名はいつでも撤回できる種類じゃない。だから、急がない。急がないけど、避け続けると身体が削れる。今日は机に置く。置いたら反応が出る。反応が出たら白紙でいい」女医の言葉が長いほど男の胸が跳ねる。跳ねるほど息が短くなる。短い息の端に短い道が乗る。男は角を見る。吐く息を長くする。細くなったところで言った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
別室の机に紙が置かれた。白い面、罫線、署名欄、ペン。見えた瞬間、男の手が膝から浮いた。浮いた指が机の縁へ向かいかける。向かいかけた時点で喉が鳴り、鳴った直後に「早い」が立つ。男は折り遅れたのを自覚して、声を落とした。
「白紙」
女が机の角を押さえたまま、声だけで止める。
「触らない」
止められた瞬間、男の胸が跳ねた。止められたことが優しさに見え、優しさが怖さに変わる。怖さは返したいに変わる。返したいは謝りたいに化ける。男は謝らず、水を飲もうとして手が震えた。カップの縁が歯に当たって乾いた音が鳴る。鳴った音でまた胸が跳ねる。
女の声が少しだけ低くなる。
「水。角。今、ここ」
男は水を飲み、吐く息を長くする。細くなったところで落とした。
「今、ここ」
女医が紙を指で押さえ、ペンを少し遠ざけた。「あなたは書かないでもいい。ただ、書かないなら代わりに一つ決める。海外の準備を始める同意だけは取る。情報共有の許可。これはあなたの身体のための手順。あなたの恋の証明じゃない」恋という語が出たわけじゃないのに、男の胸はその手前の熱で跳ねた。熱が上がると、女の指先が赤いかどうかを見たくなる。見たら決めそうになる。決めたら背負う。背負ったら返したくなる。男は角を見る。息を吐く。細くなったところで折る。
「白紙」
女は机の角を押さえたまま、初めてほんの少しだけ体を前に寄せた。寄せたと言っても、触れない距離のまま。けれど近づいた分だけ温度が増える。温度が増えると男の手がまた浮く。浮いた手がペンへ向かいかけ、向かいかけたところで女が言う。
「私は行く。やる。あなたは、書かなくていい。でも、生きる方を捨てないで」
捨てないで、という語が男の胸を裂いた。裂けたところから「うん」が出そうになる。出たら取引になる。男は息を押し返し、喉の奥の乾いた音ごと折った。
「白紙」
女医が紙を封筒へ戻す手を止め、封筒を閉じないまま言った。「今日は署名しない。情報共有の許可だけ、別の形で取る。あなたの手が落ち着いてから。今日の反応は悪くない。飛んでない」飛んでない、という語が男の胸をまた跳ねさせた。跳ねた反動で、悔しさみたいなものが立つ。悔しさは勝負になる。勝負は走りになる。男は走らないために、もう一度だけ区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
別室から出る時、男はペンを一度も見なかった。見なかったのに、手は二回浮いた。二回浮いたまま戻され、二回とも折った。折ったことが重く残り、重いまま病室へ戻る。戻って角を見た瞬間、男はやっと息を吐けた。吐き切る前に細くなる。その細さの中で、決めるでもなく、返すでもない言葉だけ落とした。
「……生きる方が、怖い」
女は返さない。返すと軽くなる。机の角を押さえたまま、息を一つ長く吐く。吐息が終わったあと、声だけ落とした。
「怖いまま、やる」
病室へ戻ってから、女は机の角を押さえたまま動かなかった。動かない指先の圧だけが残っていて、男の胸はその圧の分だけ跳ねる。跳ねるほど息が短くなり、短い息の端に「早い」が乗る。男は掲示板の角へ視線を固定し、水を一口飲んだ。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付け、押し付けたまま吐く息を長くする。細くなったところで折る。 「白紙」 女は返さない。返すと軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。女は声だけ落とした。「怖いまま、やる」 その一言が部屋の中に残って、残った分だけ男の胃が縮む。縮むと、逃げたいが立つ。逃げたいが立つほど、逆に「生きる方」が現実になる。男は縫い目へ指先を押し込み、痛みで止める。 「白紙」
昼前、女医が来た。封筒は抱えたまま、机に置かない。置けば男の目に入る。目に入った瞬間、手が浮く。女医は男の足元を確かめてから、淡々と短い選択肢だけを置いた。「紙に触れない形で、情報共有の許可を取る。拒否なら言葉を出す。拒否じゃなければ、こちらで手順を進める」 拒否じゃなければ、という語が男の胸を跳ねさせた。跳ねた反動で「勝手に決められる」が立つ。立った瞬間に、逆に自分の声で止めたくなる。止めたくなる声は、同時に生きる声でもある。男は角を見る。吐く息を長くする。細くなったところで言葉を落とした。 「……送るのは、いい」 口から出た自分の声が耳に刺さり、刺さった反動で喉が乾いて鳴る。鳴った直後に「今のは取引だ」が立ちかけ、男はすぐ折った。 「白紙」 女医は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女医は封筒を閉じたまま、ただ短く置く。「進める」 女は机の角を押さえたまま、息を一つ長く吐いた。返事はしない。返事をしたら軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。
女医が出ていくと、部屋の中に残ったのは、進んだという事実だけだった。事実は嬉しさに近くて、嬉しさは怖さに変わる。怖さは「今すぐ終わらせたい」に化ける。終わらせたいは短い道を探す。男の指が勝手に膝の縫い目を探し、縫い目へ爪が食い込む。 「白紙」 女は角を押さえたまま、声を落とした。「言ったのは、うんじゃない。取引じゃない。手順」 男は返せない。返したら軽くなる。軽くなった反動で謝りたくなる。男は水を飲み、喉が鳴る前に息を吐いた。 「今、ここ」
夕方、女は上着を着た。椅子に座らず、角も押さえず、立ったまま室内を見回す。見回す視線が「行く」に見えて、男の胸が跳ねる。跳ねた反動で「置いていかれる」が立つ。立った瞬間に「置いていかれないと勘違いする」を思い出し、男の喉が詰まる。女は振り返らずに言った。「少しだけ外へ出る。戻る」 それだけ。余計な言葉がないほど、戻るが現実になる。男は角を見る。吐く息を長くする。細くなったところで折る。 「白紙」 扉が閉まって足音が遠ざかる。遠ざかる音が増えるほど、胸の跳ねが増える。跳ねが増えるほど息が短くなる。短い息の端に「早い」が乗る。男は水を飲み、喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付けた。押し付けたまま、吐く息を長くする。細くなったところで、もう一度だけ言う。「白紙」
足音が遠ざかって、完全に消えたところで、男の胸の跳ねが一段上がった。跳ねの回数が増えるほど、息は短くなる。短い息の端に「早い」が乗り、乗った瞬間に身体が勝手に近道を探す。男は掲示板の角に視線を縫い付けたまま、水を一口飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付け、押し付けたまま吐く息を長くした。細くなったところで折る。
「白紙」
声に出したのに、部屋は軽くならない。軽くならないまま、署名欄の白さだけが戻ってくる。白い四角に名前を置けば「進む」気がして、進めば「終わる」気がして、終われば「返さなくていい」気がしてしまう。返さなくていい、は甘い。甘いほど危ない。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで止める。
「白紙」
看護師が静かに入ってきた。声を落としたまま、男の視線の先に角があるかだけ確認するみたいに掲示板を見て、それから水の位置だけ直した。
「いまは一人の時間。ここでやる。白紙の次」
男は水を飲んだ。飲み終えた喉が鳴りそうになり、鳴る前に吐く息を長くする。
「水。立たない。角」
看護師は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。看護師は淡々とカーテンの隙間を少し狭くして、光を減らして出ていった。光が減ると時間がぼける。ぼけると未来の刃が少しだけ鈍る。鈍った分だけ、男の胸の跳ねに隙間が生まれる。隙間が生まれた瞬間、逆に「いない」が目立つ。
男は角を見たまま、声を落とした。
「置いていかれる、って言ったら……取引になる」
言い終えた瞬間に喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に「謝る」が立つ。謝れば軽くなる。軽くなった反動で消えたくなる。男はすぐ折った。
「白紙」
扉の外で椅子が鳴った。誰かが座った音。すぐに立ち上がった音。その音の短さが、女医の動きに似ていて、似た瞬間に胸が跳ねる。跳ねが増えると息が短くなる。短い息の端に「早い」が乗る。男は舌を上顎へ押し付け、吐く息を長くして止めた。
しばらくして、扉が開いた。女が戻ってきた。上着のまま、椅子に座らない。机の角を押さえる前に、まず部屋の中を一度見て、男の足元を見る。床に立っていない。確認してから、机の角を押さえた。
「戻った」
それだけで胸が跳ねる。戻った、は安心に似ている。安心は走る。走りは近道になる。男は角を見る。水を一口飲む。喉が鳴る前に息を吐いて、細くなったところで折る。
「白紙」
女は返さない。返せば軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。女は机の角を押さえたまま、少しだけ声を低くした。
「白紙の次」
男は水を飲み、吐く息を長くする。
「水。立たない。角」
女の指先の赤さは薄い。薄いのに残っている。その残り方が「やった」の証拠に見える。証拠に見えた瞬間、男は勝手に受け取りそうになる。受け取ったら背負う。背負ったら返したくなる。返したくなったら、また早いが立つ。
男は言った。
「……外で、何してた」
問いになった瞬間、要求に近づく。要求は取引に近づく。男はすぐ折った。
「白紙」
女は答えを増やさない。増やしたら証明になる。証明は取引になる。女は角を押さえたまま、事実だけ落とす。
「電話。確認。順番」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後に、皮肉が立ちかける。順番、という言葉が自分の中の杭と同じ形をしているからだ。似ているほど、怖い。怖いほど、壊したくなる。壊せば楽に見える。男は壊さないために、先に区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
言い終えた瞬間だけ胸の跳ねが遅くなる。遅い隙間に、男は言葉を落とせた。肯定でも否定でもなく、ただ今の形のまま。
「戻ってきたの見ただけで、俺は……本物って決めそうになる」
言った瞬間に喉が鳴りそうになる。鳴ったら「うん」が出る。出たら取引になる。男は折る。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は机の角を押さえたまま、息を一つ長く吐いてから言った。
「決めなくていい。決めると、あなたが背負う。背負うと、返す。返すと飛ぶ」
男は笑えない。飛ぶ、という言葉が痛いほど当たっている。痛いほど、逃げたくなる。逃げたいほど、逆に生きる方が現実になる。男は水を飲み、喉が鳴る前に吐く息を長くした。
「俺、今日、紙を見た時に手が浮いた。二回。浮いた時点で、終わらせたくなった」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強める。爪が白くなる。白さが戻ってから、女は短く置いた。
「浮いたのは転落。転落は止めない。止めないけど、触らない。触らないのは最初から」
男の胸が跳ねる。最初から、という語が取り決めに戻す。戻すほど、二人が同じ方向を向いている感じがしてしまう。同じ方向は「うん」に近い。男はその近さが怖くて、声を落とした。
「……君が行くほど、俺の中で希望が固くなる。固くなるほど、折れた時に俺が終わるって思う」
女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は角を押さえたまま、言葉を増やさずに置く。
「終わるって決めない。終わりそうなら白紙。水。角。そこからまたやる」
男の目の奥が痛くなった。涙の手前で息が短くなる。短い息の端に「早い」が乗る。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで止める。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は短く言った。
「水」
男は水を飲み、吐く息を長くする。細くなったところで、小さく落とす。
「今、ここ」
女は同じ言葉を返さない。返したら軽くなる。代わりに、机の角を押さえる指の位置を少し変えた。ほんの少しだけ前に寄る。触れない距離のまま。距離が縮んだ分だけ、温度が増える。温度が増えた分だけ、男の手がまた浮きかける。
女が、声だけを落とした。
「手、浮いたら言う。触らないって言う。止める。置いていかないと勘違いしていい」
その「勘違いしていい」が、男の胸の奥を裂いた。裂けたところから「うん」が出そうになる。出たら取引になる。男は息を押し返し、喉の乾いた音ごと折った。
「白紙」
今日も、署名はしない。けれど「避ける」だけでもない。情報共有は進んだ。進んだという事実が重く残る。重いほど怖い。怖いほど、逃げたい。逃げたいほど、逆に「それで生きる」しかなくなる。男は角を見たまま、吐く息を長くした。細くなったところで、決めるでも返すでもない言葉だけ落とす。
「……怖いまま、やる」
女の指が角を押さえたまま、わずかに震えた。震えは止めるためじゃなく、止めないために出ている。男は震えを見たくなくて、掲示板の角へ視線を縫い付けた。水を一口飲む。喉が鳴る前に舌を上顎へ押し付け、押し付けたまま吐く息を長くする。細くなったところで折る。
「白紙」
女は返さない。返せば軽くなる。軽くなった反動で男が返したくなる。女は角を押さえたまま、声だけ落とした。
「今は増やさない。けど、止めもしない」
午前の回診の時間、女医が来た。封筒は持っていない。代わりに小さな端末だけを持っている。端末の角が光って、男の胸が跳ねた。紙じゃないのに、同じ形が見える。署名欄じゃないのに、同じ場所へ名前が吸われる気がする。
女医は男の足元を見て、床に立っていないのを確認してから言った。
「今日は書かない。声で取る。録音。情報共有の許可。質問は一つ。答えも一つ。終わったら閉じる」
男の喉が乾いて鳴った。声で取る、という言葉は短い道に似ている。短い道は「はい」を呼ぶ。「はい」は「うん」に近い。「うん」は取引になる。取引になった瞬間、返したくなる。
男は角を見る。吐く息を長くする。細くなったところで区切った。
「今日は一行」
女が重ねる。
「今日は一行」
男が続ける。
「診療情報の取り寄せ」
女医は端末を机の上に置かない。机の上だと男の手が浮く。女医は端末を自分の胸の高さで持ち、録音の丸い表示を一度だけ点けた。
「あなたの医療情報を、転院や海外の医療機関へ共有する手続きに同意しますか」
同意、という語で男の胃が縮む。縮んだ反動で、息が短くなる。短い息の端に「早い」が乗る前に、男は舌を上顎へ押し付けて息を吐いた。吐き切る前に細くなる。細い息の中で、男は返事を探す。肯定でも否定でもなく、取引でもなく、手順の言葉。
女が机の角を押さえたまま、声だけ落とした。
「言葉は一つ。うんじゃなくていい。手順の言葉」
男の喉が鳴る。乾いた音の直後、口が勝手に「はい」を作りかけた。作りかけた瞬間に胸が跳ね、跳ねた反動で折る。
「白紙」
女医は録音を止めない。止めれば安心になる。安心は走る。女医はただ声を落とす。
「白紙の次」
男は水を飲む。喉が鳴る。鳴っても続けない。続けないまま吐く息を長くする。
「水。立たない。角」
女の指先が角を押さえる力を一瞬だけ強め、爪が白くなる。白さが戻るまで女は言葉を増やさない。戻ってから、女は短く置いた。
「言い直しでいい」
男は角を見たまま、吐く息を細くして、言葉を落とした。
「……進める」
女医の目が一瞬だけ動いた。頷かない。頷けば軽くなる。女医は端末の画面を見たまま、録音を止めた。
「確認。本人の意思として受け取りました。今日はここまで」
端末の丸い表示が消えた瞬間、男の胸が跳ねた。進んだ、という事実は嬉しいに似て、嬉しいは怖いに変わる。怖さは「今すぐ終わらせたい」を連れてくる。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、痛みで止めた。
「白紙」
女は返さない。返すと軽くなる。女は角を押さえたまま、息を一つ長く吐き、声だけ落とした。
「進める、って言ったのは取引じゃない。今のは手順」
男は返事をしない。返事をしたら軽くなる。軽くなった反動で返したくなる。男は水を飲み、喉が鳴る前に吐く息を長くした。細くなったところで、ようやく小さく落とす。
「今、ここ」
女医が出ていくと、廊下の向こうで紙が擦れる音がした。音だけで女が動いているのが分かる。動いている気配が増えるほど、男の胸の奥の希望は固くなる。固くなるほど、折れた時の痛みが先に見える。先に見えた痛みを避けるために、男は疑いを拾いたくなる。
男が角を見たまま言った。
「……進めるって言った俺が、怖い」
女の指先が角を押さえる力を少しだけ抜く。抜いた分だけ熱が戻る。戻った熱が触れたいになる前に、女は声だけ落とした。
「怖いままでいい。怖いまま進めるのが、今の形」
男の喉が乾いて鳴る。乾いた音の直後、男はその言葉を受け取ってしまいそうになる。受け取ったら「うん」が出る。出たら取引になる。男は息を押し返して折った。
「白紙」
女は返さない。返さないまま、角を押さえる指の位置を変える。ほんの少し、男に近い位置へ。触れない距離のまま。距離が縮んだ分だけ温度が増え、男の手が浮きかけた。
女が言う。
「手、浮いたら言う。触らないって言う。止める」
男は水を飲み、喉が鳴る前に吐く息を長くした。細くなったところで、言葉を落とす。
「……置いていかれないって、勘違いしていい?」
女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は角を押さえたまま、息を一つ長く吐いてから、短く置いた。
「いい」
その一文字で、男の胸の奥が裂けた。裂けたところから「生きる」が漏れそうになる。漏れたら背負う。背負ったら返したくなる。男は喉の乾いた音ごと折った。
「白紙」
返事の代わりに、女の指先が角を押さえる圧だけが残る。圧の重さの分だけ、世界が一段だけ現実になった。現実になったまま、男は角を見続ける。水を飲む。息を吐く。細くなる。そこで止める。今日は、そこまでを繰り返した。




