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親近拘束  作者: 伊阪証


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永劫回帰

病院の自動ドアが閉まった瞬間、外の空気が肺に刺さった。刺さったせいで呼吸が浅くなり、浅くなった分だけ胸の内側が跳ねかける。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返してから歩幅を一つだけ落とした。男も同じように歩幅を落とす。揃うと安心が立つ。安心は危ない。女はわざと半歩だけ遅れ、遅れた位置で男の背中を見た。背中は真っ直ぐなのに、肩だけが少し硬い。

交差点の赤信号で止まる。止まった一拍が長いと、言葉が出る。言葉が出ると、今日の面談室が戻る。戻ると、あの一言が戻る。心臓を交換しよう。女はその言葉の形を喉の奥で噛み砕こうとして、噛み砕けないまま飲み込んだ。飲み込むと胸が熱くなる。熱は危ない。女は視線を地面の小石へ落とし、小石の形だけを追った。

男が信号を見たまま、低い声で言う。

「さっきの、取り消さない」

女はすぐに返さない。返すと、肯定か否定になる。肯定も否定も、どちらも最短距離に寄る。女は喉の手前で息を押し返し、短く置いた。

「置いたままにする。……行為にしない」

男が小さく息を吐く。少し長い。長い吐息は、生きたいが漏れる形に近い。女はその漏れに触れたくなる。触れたい衝動が立つ前に、女はカードの字を思い出す。

「今、ここ」

男もすぐ置く。

「今、ここ」

部屋に帰ると、冷蔵庫の封筒が真っ先に視界に入った。封筒の端が少し反っている。反りが気になる。気になると直したくなる。直したくなると、整えて勝ちに行きたくなる。女は動線をずらし、机に向かった。机の端に、女医が書いた条件の紙を模した白紙を一枚だけ置く。何も書かない。書けば、決めた気になる。決めた気になれば、走る。

男は上着を掛けてから、椅子に座らずに立ったまま息を押し返した。押し返しが一拍遅い。遅いと胸が詰まる。詰まると乱れが出る。男が低い声で言う。

「止める、いる?」

女は一拍だけ迷い、迷いが立ち上がる前に答えた。

「今は、距離だけ」

二人で一歩ずつ下がる。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。女は唇を閉じ、喉の手前で押し返しながら床の継ぎ目を数えた。男の吐く息が短くなりかけ、短くなりかけたところで、男が自分で肩を一段落とす。落とした直後、男が低い声で言った。

「……戻った」

女は頷かずに返す。

「じゃあ、触れない。今日は、触れたら安心になる」

男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。

「安心が怖いんだな」

女は短く返す。

「怖い。……安心で走るから」

走る、の言葉が机に落ちた瞬間、男の目が伏せられて、すぐ戻る。戻った目が女の喉へ落ちかけて止まる。止める動きが慎重で、女はそれを見て胸が跳ねかけ、跳ねかけたのを押し返した。

夕飯は温めるだけにした。男は箸を持つ手が一度だけ止まり、止まったまま言った。

「海外、って言ったとき、俺、嬉しかった。あれ、ずるいくらい嬉しかった」

女の胸が熱くなる。熱は危ない。危ないのに、その熱は嘘じゃない。女は箸先を皿の縁に当て、音で息を落とす。

「ずるい。……でも、ずるくてもいい。今まで、希望は言い訳だった」

男が一拍黙り、黙ったまま喉が動く。乾いた音が小さく出る。

「言い訳を失うのが怖い。失ったら、俺、どこで止まるか分からない」

女はその言葉に、手を伸ばしたくなる。伸ばしたら三呼吸で終わる。終わるのが怖くて、伸ばすのを止める。止めた代わりに、女は短く言った。

「止まる場所を、増やす」

男が「増やす」を繰り返し、吐く息が少し長くなる。長い吐息が出ると女の速さが一拍遅れ、遅れた瞬間に触れたい衝動が立つ。女はその衝動を、言葉で折る。

「白紙」

男も置く。

「白紙」

就寝前、男が手の甲を上に向けかけて止めた。止めたまま、低い声で言う。

「今日、三呼吸、いる?」

女は一拍だけ迷い、迷いを折って短く答えた。

「要る。……でも、三呼吸だけ。嬉しいの分まで触れない」

男の手の甲が上を向く。女の指先が触れる。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、指先が戻りそうになって、女は戻りそうになった指を握り込み、握り込んだ力を布団の縫い目へ逃がした。

男が低い声で言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

暗い天井を見たまま、男が小さく言った。

「俺、さっきの言葉、また言いたくなると思う。心臓のやつ」

女は息を押し返し、短く返す。

「言いたくなったら、白紙にする。……言いたい気持ちは、否定しない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。否定しないで、止める」

女はその声を聞きながら、胸の奥の熱を押し込めた。押し込めた熱は消えない。消えないまま、明日も病院へ行く。並べる。決めない。混乱したまま、生活だけは続ける。

第一章『出会いの脈』 (50)

端末の震えが、膝の上で小さく跳ねた。跳ねた瞬間に女の指先が熱くなり、熱がそのまま走りになりかける。走りを止めるために、女は息を押し返してから画面を見た。知らない番号じゃない。遠征の窓口だ。

女は出る前に一度だけカードを思い出す。今、ここ。白紙。声にしないまま、通話を取った。

「はい」

相手の声は事務的で、事務的な声なのに一拍だけ慎重だった。

『突然すみません。さっきの件、こちらでも確認しました。受け入れ“候補”はあります。ただ、条件が多い』

女は「分かった」を言わない。分かったは安心になる。安心は危ない。代わりに、要件を引き出す。

「条件、言って」

『競技を続ける前提なら、向こうの医療機関が“選手扱い”で引き受ける必要がある。一般のルートだと遅い。あと、滞在は短期じゃ無理。最低でも一年単位。スポンサーは支援できる可能性はあるけど、医療側の受け入れが確定してから。先に金だけ動かすのは無理です』

女の胸の奥が熱くなる。熱が「じゃあ勝つ」を呼ぶ。呼ぶ前に女は膝の上で親指を押し込み、痛みで戻した。

「候補は」

『遠征で使った施設の系列です。担当医の名前は後で送ります。ただし、今の検査所見と主治医の紹介状が必要。あと、本人の意思確認。これが先』

本人の意思確認、と言われて、女は隣の男を見ないまま視線を地面に落とした。見たら手が伸びる。伸びたら安心になる。安心は危ない。女は声を低くして返す。

「主治医の紹介状は、取る。本人の意思は……本人が決める」

『分かりました。こちらは候補をまとめます。今日中に資料を送ります』

通話が切れた瞬間、女の指先が空を掴みそうになる。掴めば走る。走れば最短距離が立つ。女は端末を膝へ押し付けた。膝に熱が移って、熱が少しだけ落ちる。

男が隣で、空を見たまま言った。

「今の、いけそう?」

女は即答しない。いけると言った瞬間に、世界が決まってしまう。決まった世界は、壊れたときに倍痛い。女は息を押し返し、短く置いた。

「候補が出た。……確定じゃない」

男が一拍置いて、その一拍で息を押し返した。

「候補で、十分だ」

十分、と言った声が少し掠れている。掠れた声は、強がりにも聞こえるし、漏れにも聞こえる。女はそのどちらにも決めない。決めないまま、言葉だけ落とす。

「今、ここ」

男も置く。

「今、ここ」

帰り道は、話しすぎないようにした。話せば期待が立つ。期待が立つと最短距離が立つ。二人は歩幅を揃えないまま歩いた。揃えないのに、信号のところだけは同じタイミングで止まる。止まった瞬間、男が低い声で言った。

「俺、さっき言っただろ。……生きたい」

女の胸が跳ね上がる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉を探して探し切れず、短く返した。

「聞いた」

男が小さく息を吐く。少し長い。

「聞いたって言われると、逃げ道が減る」

女はそこで、目線だけを男の靴先へ落とした。靴先が少しだけ内側を向いている。内側を向いた足元は、怖さの形だ。女はその形を壊さない。壊すと、男は強がりで塗り潰す。女は短く言う。

「逃げ道は、残す。……でも、言い訳は残さない」

男が一拍黙り、黙ったまま喉が動く。乾いた音が小さく出る。

「うん。……それが怖い」

部屋に戻ると、女はすぐに資料のメールを待たず、先に紙を出した。白紙。白紙のまま、見出しだけを書く。「候補」「条件」「本人の意思」。書いた瞬間、勝ち癖が少しだけ落ち着く。落ち着いた分だけ、胸の奥の熱が恋の形に寄ってくる。寄ってくると危ない。女は目線を紙から外し、コップを二つ置いた。距離は揃えない。

男は椅子に座りかけて止まった。止まったまま、胸の装置の位置を服の上から確かめる。確かめる指が少しだけ震え、震えを男は自分で止めようとして止め切れない。女は手を伸ばさない。伸ばせば安心になる。安心は危ない。代わりに、声だけ落とす。

「止める?」

男が息を押し返してから答える。

「距離でいい。……触ったら走る」

女は短く返す。

「うん。距離」

二人で一歩下がる。距離が空くと寒い。寒いと喉が刺される。女は喉の手前で息を押し返しながら床の継ぎ目を数えた。男の吐く息が少し長くなり、長くなったところで男が低い声で言う。

「さっき、俺が“交換”って言ったの、また言いたくなる」

女はすぐに答えない。答えると否定になる。否定になると、男は黙る。黙ると、別の言い訳が立つ。女は息を押し返し、短く置いた。

「言っていい。……でも、白紙にする」

男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。

「便利だな、白紙」

女は便利と言わない。便利は道具化だ。道具化すると心が逃げる。女は短く言い直す。

「便利じゃない。……必要」

男が「必要」を繰り返し、吐く息を少し長くした。

「必要、か」

そのタイミングで端末が震えた。資料が届いた通知。女はすぐ開かない。すぐ開けば走る。女は深く息を吸わず、短く押し返してから男を見る。男は見ていない。見ていないのに、こちらの動きを待っている気配だけがある。

女は画面を開き、候補の施設名と担当の連絡先と、必要書類の一覧を眺めた。眺めた瞬間、胸の奥が熱くなる。熱が「やれる」に変わりかける。変わる前に、女は言葉を落とした。

「白紙」

男も同じように置く。

「白紙」

白紙を置いたから、女は一覧のうち「主治医の紹介状」「本人の意思確認」の二行だけを指でなぞり、端末を伏せた。伏せたまま、声を低くして言う。

「次は、先生に紹介状を頼む。……本人の意思確認は、今日じゃない」

男が一拍置いて、その一拍で息を押し返してから言った。

「今日じゃない。……でも、逃げない」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は危ない。女は短く言う。

「うん。逃げない。……今は生活」

就寝前、三呼吸の枠が来る。男が手の甲を上に向ける。女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、指先が戻りそうになって、女は戻りそうになった指を握り込み、握り込んだ力を布団の縫い目へ逃がした。

男が低い声で言った。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく言う。

「候補が出たのに、俺、嬉しいって言うのが怖い」

女は息を押し返し、短く返した。

「嬉しい、は言っていい。……でも、嬉しいで走らない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。嬉しいのまま、止める」

候補は出た。確定はまだない。

確定がないまま、二人は足を増やす。足を増やしながら、恋の熱だけが消えない。消えない熱を、明日も運用で押さえるしかない。

病院へ向かう朝、女は靴紐を結び直した。結び直した指先が熱い。熱いと速くなる。速くなると勝ちに行く。女は結び目をきつくせず、指先の熱を紐に逃がして立ち上がった。男は玄関で待っていた。待っているのに、半歩前に出ない。出ないまま、息を押し返している。

「今、ここ」

女が置くと、男も置いた。

「今、ここ」

病院の廊下は人が多かった。人が多いと視線が増える。視線が増えると、男の呼吸が短くなる。短くなりかけたところで男が自分で言った。

「距離」

女は頷かず、同じ言葉を返す。

「距離」

二人で半歩だけ離れる。離れた分だけ、男の肩が僅かに落ちる。落ちた肩を見て、女の中の衝動が「触れろ」と囁く。囁きは甘い。甘いほど危ない。女は床の目地へ視線を落とし、声だけで折った。

「白紙」

男も一拍遅れて置く。

「白紙」

女医の診察室へ入ると、女医はもう書類の束を机に出していた。束が整いすぎていて、女は目が痛くなる。痛みは直したくなる入口だ。女は視線を外し、椅子に座る。男も座る。座った瞬間、男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。

女医が封筒を一つ机の上へ置いた。置き方が丁寧で、丁寧すぎる。

「紹介状を作る。候補の施設へ。あなたの所見、検査の数字、今の運用。全部まとめる」

女が「お願いします」と言いそうになって止めた。言うと、任せて安心してしまう。安心は危ない。代わりに、女は短く言った。

「条件、足りてる?」

女医は画面を一度だけ見てから答える。

「足りない部分がある。だから追加検査も続ける。紹介状は“今ここまでの事実”しか書かない。美談も期待も書かない」

男が低い声で言った。

「俺の意思は」

女医の視線が男へ向く。測る視線だった。

「書く。けれど、あなたの口から聞く。今ここで」

男の肩が僅かに硬くなる。硬くなった肩を落とそうとして落とし切れない。男は息を押し返してから言った。

「行きたい。……生きたい。競技も、続けたい」

言った瞬間、男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。出たのに、男は言い直さない。逃げない。逃げない姿が、女の胸の奥を熱くする。熱は危ない。女は机の端を指で押し、硬さで戻した。

女医が短く言う。

「分かった。あなたの言葉として書く。あなたの言葉は、あなたを縛る。縛るのは悪いことじゃない。勝手に縛られないために、自分で結ぶ」

女はそこを“正しい”と名付けそうになって止めた。名付けたら整う。整ったら走る。女は息を押し返し、ただ紙の角を見ない。

女医が次の紙を出す。小さな同意書の束だった。

「向こうと連絡が取れたら、追加の同意が要る。今日、署名はしない。読むだけ」

男が頷きかけて止める。止めて、声だけで返す。

「読む」

女が口を挟みたくなる。挟めば勝ちに行ける。勝ちに行けば、男は置いていかれる。女は挟まない。代わりに、男の呼吸だけを見る。男の吐く息は短いが、短いまま止まらない。

女医が封筒に紙を入れ、口を糊で閉じた。閉じた音が小さく鳴る。

「これを、あなた達が勝手に開けない。向こうの担当に渡す。途中で不安になっても開けない。開けたら安心になる。安心は走る」

女が「分かってる」と言いそうになって止めた。分かってるは油断に変わる。油断は危ない。女は短く言う。

「開けない」

男も同じ言葉を置く。

「開けない」

診察室を出て廊下に出た瞬間、人の流れが二人を押した。肩が触れそうになる距離で、男の息が一度だけ詰まる。詰まった瞬間、男が先に言った。

「止める」

女が返す。

「止める」

二人は壁際へ寄る。寄っただけで、男の肩が少し落ちる。女は触れない。触れたら安心になる。安心は危ない。女は声だけ落とした。

「白紙」

男も置く。

「白紙」

男の吐く息が少し長くなる。長くなって、男が封筒を握る指を緩めた。緩めた瞬間、女は封筒に触れたくなる。触れたら二人の計画が“同じもの”になる。 “同じ”は甘い。甘いほど危ない。女は触れずに、男の横で半歩だけ遅れた。

外へ出ると、冬の空気が頬を刺した。刺されて、女は息を押し返す。男は封筒を胸に抱えたまま、小さく言う。

「これ、重いな」

女は即答しない。重いと言えば、重さに意味がつく。意味がつくと、運命みたいになる。運命は走る。女は短く置いた。

「紙だよ。……でも、紙で足が増える」

男が小さく息を吐く。少し長い。

「足、増えたな」

帰宅しても封筒は机に置かない。置けば見たくなる。見たくなると開けたくなる。女は棚の奥へ入れ、見えない位置に押し込んだ。押し込む指先が熱い。熱い指先が、男の手の甲を探しそうになる。女は自分の膝へ押し付けて止めた。

男が低い声で言った。

「今日、俺、言えたな。生きたいって」

女は胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、短く返す。

「言えた。……言えたのに、走ってない」

男が「走ってない」を繰り返し、吐く息を少し長くした。

「走らないのが、こんなに苦しいんだな」

女はそこで、言葉を足さない。足せばまとめになる。まとめは要らない。女はただ、机の端にカードを置き直した。「今、ここ」。角度は揃えない。揃えないまま、声だけ落とす。

「今、ここ」

男も置く。

「今、ここ」

封筒は棚の奥にある。候補は机の上にある。決めないまま、足だけ増えていく。増えた足の数だけ、二人の恋は不便になる。不便なのに、男の吐く息が少し長いまま保たれている。その長さが、今日のいちばんの進みだった。

夕方、棚の奥の封筒は見えないままだったのに、女の指先だけが何度もそこへ行きたがった。行けば安心になる。安心は走る。女は封筒の代わりに端末を開き、送られてきた候補の資料を画面の明るさだけ落として眺めた。施設名、担当名、必要書類。どれも文字は短いのに、読み終えるたび胸の奥が熱くなる。熱が強くなると勝ちに行く。女は親指の腹を机の角に押し当て、痛みで戻してから男を見た。男はソファに腰掛けている。腰掛けているのに、背中が壁を探していない。逃げる姿勢じゃない。ただ、手の中で何もないはずの封筒の重さを握り直すみたいに指が動いている。

端末が震えた。窓口からの追加連絡だった。女はすぐ出ない。すぐ出ると走る。息を押し返してから通話を取る。

「はい」

相手の声は事務的で、事務的な声のまま慎重だった。受け入れ候補の系列病院が、書類だけではなく本人の意思確認を求めていること。競技継続の前提なら、本人が説明に同席しないと先へ進めないこと。さらに、向こうの担当医が短時間の映像通話を希望していること。女は「分かった」を言わず、日時と必要物だけを聞き取り、最後にだけ短く答えた。

「本人と一緒に出ます。条件は守る」

通話が切れたあと、女は端末を伏せて、息を一つ落とした。落とした瞬間に熱がまた上がり、上がった熱が言葉を急がせる。急がせる前に女はカードを見た。今、ここ。白紙。声は小さく、男にだけ届く程度に落とす。

「今、ここ」

男もすぐ返した。

「今、ここ」

女はやっと要点だけ言う。映像通話。本人同席。意思確認。男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出て、男は目線を落とさないまま言った。

「俺が、話すのか」

「うん。条件で先に言われた。置いていかれる形は駄目だって」

女がそう言った瞬間、男の吐く息が少し長くなった。長い吐息が出たことに女の胸が跳ねかける。跳ねは恋の熱と同じ形をしている。女は跳ねを押し返し、続けてしまいそうな言葉を切った。

「嫌なら、やめる。候補は候補で終わる」

男はすぐ「嫌」と言わない。その代わり、息を押し返してから、低い声で言った。

「嫌じゃない。怖いだけだ。俺が、俺の口で“生きたい”って言ったら、もう戻れない気がする」

女はそこで否定しない。否定すると男は強がりで塗る。女は短く置く。

「戻らなくていい、とは言わない。戻りたいなら戻れる足も残す。でも、言い訳の足は増やさない」

男の喉がもう一度動いて、乾いた音が小さく出た。男はそのまま、女を見ないで言う。

「俺が話す。置いていかれるのは嫌だ。怖いのに、俺だけ置いていかれるのはもっと嫌だ」

女の胸の奥が熱くなって、熱が一瞬だけ涙の形になりかける。女は唇を閉じて押し返し、机の端を指で押した。硬さで戻す。戻して、短く言った。

「分かった。一緒に出る」

その夜、女医からも連絡が来た。紹介状は明日発送されること。向こうの担当が求める追加情報があること。薬の調整で一時的にだるさが増える可能性があること。女医は言葉を増やさず、最後にだけ低く言った。

「映像通話は良い。本人が話す形を守って。あなたが代わりに話しすぎると案が死ぬ。あなたは動ける側だから速くなる。速くなるのを、あなた自身が止めて」

女は返事を短くした。

「止める。白紙にする」

通話を切って、女は端末を伏せた。伏せた瞬間に、男の指先がわずかに震えているのが見えた。女は触れない。触れたら安心になる。安心は走る。女は一歩だけ距離を取り、声だけ落とす。

「止める?」

男が息を押し返してから答える。

「距離でいい。今日は、触れたら走る」

女は頷かずに返した。

「距離」

二人で半歩離れる。離れた分だけ、男の肩が僅かに落ちる。落ちた肩が戻り切らないまま、男が小さく言った。

「俺、また言いたくなると思う。心臓のこと」

女は答えを急がない。急げば否定になる。否定になれば男は黙る。黙れば別の言い訳が立つ。女は息を押し返してから短く言った。

「言っていい。言ったら白紙にする。行為にしない」

男が小さく息を吐く。少し長い。その長い吐息が、今日の男の限界の手前で止まっている証拠みたいで、女はその長さにだけ救われた。就寝前、三呼吸の枠が来る。男が手の甲を上に向け、女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、指先が戻りそうになって女は握り込み、握り込んだ力を布団の縫い目へ逃がした。

「今、ここ」

男が言う。女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく続けた。

「映像通話で、俺、言う。生きたいって。競技も続けたいって。君の案を受け取ったって」

女は息を押し返し、短く返す。

「うん。言う。言ったら、足が増える」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「足が増えても、走らない」

走らない、と言った声が掠れている。掠れの奥に怖さがいるのが分かる。分かるのに、女は確定しない。確定しないまま、ただ同じ部屋にいる。明日、封筒は送られていく。送られた紙が、二人の未来を決めるわけじゃない。決めないまま、また一歩ずつ増えるだけだ。

翌朝、郵便受けの音が鳴ったわけでもないのに、男は玄関の方を見た。見て、すぐ視線を落とす。落とした目が、床の一点で止まる。女はその一点を追わない。追うと意味が付く。意味が付くと走る。

女は棚の奥から封筒を出し、封を指で確かめないまま、鞄の内ポケットへ入れた。入れた瞬間、指先が熱くなる。熱は勝ちに行く入口だ。女は鞄の口を閉め、指先の熱を革の硬さへ押し付けて戻した。

「今、ここ」

男が先に言う。女も置く。

「今、ここ」

病院の小さな会議室は、診察室より静かだった。机と椅子と、壁の時計と、端末を繋ぐケーブル。余計なものがない。余計なものがないと、頭が勝手に埋めようとする。埋めようとする動きが怖い。女は机の角を見ないまま椅子に座り、鞄を膝に乗せた。男は向かいに座る。向かいに座ったのに、距離を詰めない。詰めれば安心が立つ。安心は走る。

女医が入ってきた。白衣の袖口が整っている。机の上に書類を置き、置いた手をすぐ引く。触れない動きが速い。

「映像通話。あなたが話す。あなたの言葉で」

男が喉を鳴らし、乾いた音が小さく出る。

「うん」

女医は端末を繋ぎ、画面の角度だけ調整した。調整が丁寧すぎる。丁寧すぎるのが刺さる。刺さると、女の中の癖が動く。もっとこう、もっと早く。女は膝の上で親指を押し込み、痛みで戻した。

呼び出し音が一回、二回。画面が切り替わり、向こうの部屋が映る。白い壁、明るい窓、机に置かれた名札。向こうの担当医が画面に入って、短く頷いた。

『こんにちは。聞こえますか』

女医が短く答える。

「聞こえます。こちらは主治医。本人と同席。話は本人から」

男が息を押し返し、画面を見る。見るだけで肩が少し硬い。硬くなった肩を自分で落とそうとして落とし切れない。男は低い声で言った。

「聞こえます」

担当医は早口ではない。早口じゃない分、質問が逃げ場を塞ぐ。男の喉がゆっくり動く。

『あなたの状態は資料で見ています。まず、あなたの言葉で教えてください。今、何が一番困っていますか』

男は一拍黙る。黙った一拍の間、女の指先が勝手に動きそうになる。代わりに言ってしまうほうが早い。早いのは走りだ。女は机の端を指で押し、硬さで止める。男が息を押し返してから、言う。

「怖さです。心臓が…乱れる。乱れると、頭が速くなる。速くなるのが怖い」

担当医は頷き、短く続ける。

『競技は続けたいですか』

男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。出たのに、男は目を逸らさない。

「続けたい」

『生きたいですか』

その質問は短い。短いのに、机の上に落ちたみたいに重い。男の吐く息が一度だけ止まりかける。止まりかけた瞬間、男が低い声で言う。

「止める」

女が返す。

「止める」

女は触れない。触れたら安心になる。安心は走る。女は一歩だけ椅子を引き、距離を空ける。空けた分だけ男の肩が僅かに落ちる。落ちた肩で、男は息を押し返してから言った。

「生きたい」

声が掠れる。掠れた声が部屋に残り、画面の向こうにも残る。担当医はそこを拾って、すぐ次へ進めない。進めない沈黙が、男の喉を乾かす。乾いた喉で、男は続けた。

「生きたいけど、怖い。生きるって言ったら、言い訳が減る」

担当医は短く言う。

『言い訳が減るのは、怖いです。正しい。あなたは今、怖さを言語化できています。次。あなたは誰に置いていかれたくないですか』

男の目が一瞬だけ女の方へ寄りかけて止まる。止まった目が画面へ戻る。男は低い声で言った。

「俺が置いていかれるのが嫌です。勝手に決められるのが嫌です」

女医が横で短く補う。

「本人同席、本人決定。こちらも同意」

担当医が頷く。

『良い。あなたの希望は、こちらで“計画”に落とせる部分と、落とせない部分に分けます。あなたは、生活のために国を移す覚悟がありますか』

男の喉が動く。乾いた音が小さく出る。男は一拍黙り、黙ったまま息を押し返し、低い声で言った。

「覚悟って言葉は…まだ怖い。でも、行く。行って、運用する」

女の胸の奥が熱くなる。熱は危ない。女は机の端を押し、硬さで戻す。戻した硬さの上に、男が続ける。

「俺が話す。俺が決める。…それを守れるなら、行く」

担当医は画面の外へ一度だけ目を落とし、すぐ戻した。

『分かりました。次は現実です。受け入れには条件があります。あなたが競技を継続するなら、医療側の監視が増えます。自由は減ります。緊急時の対応のために、生活の制約が増えます。耐えられますか』

男の吐く息が短くなる。短くなりかけた瞬間、男が自分で言う。

「白紙」

女が返す。

「白紙」

白紙のあと、男は短く息を押し返してから言った。

「耐える。…耐えるって言い方が嫌なら、運用する」

担当医は小さく頷く。

『その言い方で良い。次。あなたは“近道”を提案されることがあります。あなたの話を聞いていると、近道はあなたを壊す。近道を言われたら、断れますか』

男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。男は一拍だけ唇を噛み、すぐ離す。

「断る。…言いたくなる言葉はある。でも、言葉は白紙にする。行為にしない」

女医が目を伏せずに言う。

「確認します。こちらも同意。衝動は否定しないが、実行にはしない」

担当医はそこで、初めて少しだけ柔らかく言った。

『よろしい。では手順です。紹介状と検査データを受け取ったら、こちらで面談を組みます。本人が来て、本人が再度話します。その前に、今日のこの通話の記録をこちらのチームに共有します。あなたは同意しますか』

男は女を見る。女は頷かない。頷けば安心になる。安心は危ない。女は机の端を押し、硬さで戻しながら、声だけ落とす。

「本人が決める」

男が息を押し返し、画面に向けて言う。

「同意します」

その言葉が机の上に落ちた瞬間、男の肩が一段だけ落ちた。落ちたのに、笑わない。笑ったら安心になる。安心は走る。男は低い声で言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

通話が終わると、会議室の静けさが戻ってきた。戻ってきた静けさは、余計な音を増やす。時計の針、端末の冷却音、椅子の軋み。男は椅子の背に寄りかけず、呼吸を押し返している。女は触れない。触れたら安心になる。安心は走る。

女医が封筒を鞄から受け取り、宛名を確認するだけで開けずに言った。

「今日、発送する。ここからは向こうの手順が動く」

男が封筒を見て、小さく息を吐く。少し長い。

「動いたな」

女は即答しない。動いた、と言うと決まった感じがする。決まると走る。女は短く置いた。

「足が増えた」

男が一拍遅れて、同じ言葉を繰り返す。

「足が増えた。…走らない」

女の胸の奥が熱い。熱いまま、膝の上で手を握り込む。握り込んだ手が、男の手の甲を探しそうになる。探しそうになって止める。止めたまま、女は声だけ落とした。

「三呼吸は、帰ってから」

男が低い声で返す。

「うん。帰ってから。…今は生活」

病院を出て、駅までの道は人が多かった。人の肩がすれそうになるたび、男の呼吸が短くなる。短くなった呼吸が胸の奥で跳ねかけるのが見えて、女の指先が勝手に手の甲へ行きたがった。行けば安心になる。安心は走る。女は指先を握り込み、代わりに歩く位置をずらした。

「距離」

男が先に言う。女は頷かずに返す。

「距離」

半歩離れるだけで、男の肩がほんの少し落ちる。落ちた肩を見て、女の胸の奥が熱くなる。熱は嬉しさと同じ形をしていて、同じ形のまま危ない。女は喉の手前で息を押し返し、言葉だけを床に置いた。

「今、ここ」

男も同じように置く。

「今、ここ」

電車の揺れは、小さいのに不規則だった。男はつり革を握らず、座席の端に浅く座って、膝の上で手を重ねた。手の重ね方が丁寧すぎる。丁寧すぎると、壊れそうに見える。女は視線を窓の外へ逃がし、反射のように口を開きそうになるのを止めた。止めた代わりに、男の吐く息だけ数えないように見た。見ているのに数えない。数えたら勝ち負けになる。

男が低い声で言った。

「さっき、俺、言ったな」

女はすぐ返さない。返すと“正しい”になる。“正しい”は安心になる。安心は走る。女は短く置いた。

「言った」

男が一拍置いて、息を押し返した。

「生きたいって言った。……言ったら、戻れない気がしたけど、戻れないのが怖いだけじゃなかった」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉を足しそうになって止めた。止めて、必要な分だけ返す。

「怖いまま言った。それが残る」

男は窓の外を見ない。女を見ない。見ないまま、喉を鳴らした。乾いた音が小さく出る。

「残るのが、嬉しい」

嬉しい、という言葉が出た瞬間に、女の指先が熱を持つ。熱は触れたいの入口だった。女は触れない。触れたいまま触れない。代わりに、足の裏で床を押し、身体の熱を下へ逃がした。

部屋に戻ると、二人とも上着を脱いだのに、空気はまだ硬かった。硬い空気は、言葉を余計に増やす。増えた言葉は走る。女は台所に立ち、湯を沸かさずにコップを二つ出した。距離は揃えない。揃えると安心が立つ。

男が寝室の手前で立ち止まり、息を押し返してから言った。

「三呼吸、帰ってからって言った」

女は短く答えた。

「うん。今」

男が手の甲を上に向ける。女の指先が触れる。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、指先が戻りそうになって女は握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ押し付けた。

男が低い声で言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

触れないまま、女は男の前に座らない。真正面に座ると、言葉が甘くなる。甘くなると走る。女は斜めに腰掛け、机の上に白紙を一枚置いた。見出しだけを書く。「次」「必要」「本人」。それだけで勝ち癖が少しだけ静かになる。

男がその白紙を見て、低い声で言った。

「俺が決める、って言ったな」

女はペンを置き、答えを急がない。急ぐとまとめになる。まとめは要らない。女は短く返す。

「言った」

男が喉を鳴らす。乾いた音が小さく出る。

「決めるって、怖いな。決めたら、俺が俺の人生を引き受けるみたいで」

女の胸の奥が痛くなる。痛みは救いたいの入口だ。救えば早い。早いのは最短距離だ。女は救わない。救いたいまま、言葉だけ落とす。

「引き受けたくないなら、引き受けない足も残す。……でも、置いていかれる足は残さない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。置いていかれるのは嫌だ」

その言葉が部屋に残ったまま、端末が震えた。海外の担当からではない。窓口からの短い通知で、次の手順の候補日が三つ並んでいた。映像通話の記録共有が済み次第、面談日を確定する、とだけある。確定、という言葉が刺さる。刺さると熱が上がる。熱は走る。女は画面を閉じる前に、声だけ落とした。

「白紙」

男も置く。

「白紙」

白紙を置いたから、女はその候補日を男に見せない。見せたら予定を決めたくなる。予定を決めたら飛行機を取りたくなる。取ったら逃げ道が減る。減りすぎると男が折れる。女は端末を伏せ、言葉だけで要点を置いた。

「候補日が来た。まだ確定じゃない。……次は、こっちが“行ける日”を返す」

男が一拍置いて、息を押し返した。

「返すってことは、進むってことだな」

女は即答しない。進むと言った瞬間に世界が決まる。決まった世界は壊れたときに倍痛い。女は短く置く。

「足が増える」

男が小さく笑いかけて、笑いが出ないまま終わる。

「足、増えすぎだな」

女は笑わない。笑えば軽くなる。軽くなると走る。代わりに、男の言葉を拾う。

「増えすぎたら減らす。……減らすのは、決断じゃなくて整理」

男がその「整理」に、少しだけ肩の力を抜く。抜けた分だけ、吐く息が長くなる。長い吐息が出た瞬間、女の胸の奥が熱を持ち、熱が恋の形になる。女は恋を否定しない。否定しないまま、触れない。

男が低い声で言った。

「俺さ、今日の通話、怖かったのに……嬉しかった。嬉しいって言うのが怖いのに、嬉しい」

女は喉の手前で息を押し返し、短く返す。

「嬉しいは言っていい。……嬉しいで走らない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くする。

「うん。走らない」

沈黙が落ちる。沈黙は、余計な言葉を生む。余計な言葉の入口に、あの言葉がいる。心臓を交換しよう。男はそれを言いたい顔をして、言いたくない顔もしていた。女はそれを確定しない。確定したら、どちらかが壊れる。

男が、唇を動かしかけて止めた。止めたまま、低い声で言う。

「俺、また言いたくなる。……心臓のやつ」

女は否定しない。否定すると男は黙る。黙ると別の言い訳が立つ。女は息を押し返して、短く置いた。

「言っていい。言ったら白紙にする。行為にしない」

男が一拍だけ目を伏せ、すぐ戻す。戻した目が震える。震えが出た瞬間、男は先に言った。

「白紙」

女も返す。

「白紙」

白紙を置いたから、男は言わないまま息を押し返せた。押し返した息が、少しだけ長くなる。長い吐息が出たことが、今日の“進み”だった。女はその長さを見て、胸の奥の熱を握り込んだまま、白紙に見出しを足した。

「向こうの面談日候補」「主治医へ返す」「本人が話す」

ペンを置いた瞬間、女は男の方へ身体を寄せそうになって止めた。寄せたら安心になる。安心は走る。女は寄せないまま、声だけ落とす。

「今、ここ」

男も置く。

「今、ここ」

二人の間には、増えた足と、言いかけて白紙にした言葉と、触れないまま残る熱があった。どれも確定じゃない。確定じゃないまま、明日の生活へ回していくしかない。

夜のうちに降った雨の匂いが、窓を閉めた部屋にも残っていた。残り方が薄くて、薄い分だけ気になる。女は気になる匂いを追わず、端末の通知だけを見た。候補日が三つ。そこに並ぶ数字が、指先を速くする。速くなると勝ちに行く。勝ちに行けば、男が置いていかれる。女は息を押し返してから、端末を机に伏せた。

男はキッチンの入口で止まっていた。止まったまま、吐く息を短くして、短くした息を押し返している。女が先に言う。

「今、ここ」

男も返す。

「今、ここ」

女は候補日を口で言う。見せない。見せたら決めたくなる。決めたくなった速度が、男の喉を乾かす。

「向こうの面談、候補が三つ。こっちが行ける日を返す必要がある」

男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。

「返すのは……俺がやる?」

女はすぐ頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は短く返す。

「一緒に見る。でも、送る文は本人。私は確認だけ」

男の肩が一段だけ落ちる。落ちたのに、男は笑わない。笑えば軽くなる。軽くなると走る。男は椅子に座り、机の白紙を指でなぞった。向こうの面談日候補、主治医へ返す、本人が話す。指先が止まってから、男が低い声で言う。

「俺、決めたくないって思ってる。……決めたら逃げ道が減る」

女は否定しない。否定したら男は強がりになる。女は息を押し返し、短く置く。

「逃げ道は残す。逃げ道の数じゃなくて、形を守る。置いていかれる形を消す」

男が一拍置いて、その一拍で息を押し返した。

「置いていかれる形が嫌だ。だから決める。……怖いけど」

女の胸の奥が熱くなる。熱は危ない。女は机の端を指で押し、硬さで戻した。戻して、端末を起こす。候補日を読み上げ、男にだけ渡す。男は目で追わず、耳で聞き、喉の奥で何かを噛み砕いてから言った。

「真ん中。俺、真ん中がいい」

「理由は」

女が聞きそうになって止めた。理由を聞けば整う。整えば走る。女は質問を飲み込み、代わりに言葉を短く置いた。

「分かった。真ん中を返す」

男がすぐ続ける。

「文、書く。短く。俺が話すって、入れる」

女は「入れるべき」と言わない。べきは命令になる。命令は置いていく形になる。女は短く返す。

「うん。本人が話す、を入れる」

男が端末を持ち、画面の文字入力を開いた。指が止まる。止まった指が震えかける。震えは出ていい。出た震えを消そうとすると走る。男は震えたまま、息を押し返して打つ。女は覗き込まない。覗き込めば代弁したくなる。代弁は置いていく形だ。女は机の端に視線を落とし、男の息だけが止まらないのを確認する。

男が一文打ち、止まった。

「これでいい?」

女は画面を見ずに言う。

「声に出して」

男が低い声で読む。候補日の真ん中を希望すること。本人が同席し、本人の言葉で説明すること。記録共有に同意していること。必要書類は主治医から送ること。読んだ声が掠れている。掠れているのに、文は短い。短い文が、余計な熱を入れずに残る。

女はそこで初めて頷かずに返す。

「いい。送って」

男が送信ボタンに指を置いて止めた。止めた瞬間、男の喉が乾く音が小さく鳴る。

「送ったら、足がまた増える」

女は即答しない。足が増えるは嬉しいにも怖いにも繋がる。繋がると走る。女は息を押し返し、短く置いた。

「増える。走らない」

男が一拍遅れて、送信した。送信音は小さいのに、机の上に落ちたみたいに重い。男は端末を伏せ、吐く息を少し長くした。長い吐息が出た瞬間、女の指先が熱を持つ。熱は触れたい入口だ。女は触れない。触れない代わりに、声を落とした。

「今、ここ」

男も返す。

「今、ここ」

そのまま女は主治医へ連絡を入れた。要件だけ。面談日候補の希望を返したこと。向こうが本人同席を条件にしていること。追加情報の要請が来る可能性。女医の返事は短い。

「了解。こちらから追加データを送る。本人の負担は増える。増える分、あなたは速度を落として」

女は短く返した。

「落とす。白紙にする」

通話を切ったあと、男が低い声で言った。

「俺さ、送るとき……“心臓を交換しよう”って言えば早いのにって思った」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、否定を出さない。否定したら男は黙る。黙れば別の言い訳が立つ。女は短く置く。

「思っていい。言葉は白紙にする。行為にしない」

男が目を伏せ、すぐ戻す。戻した目が少し揺れる。

「白紙」

女も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は息を押し返して、もう一つ言った。

「でも、今日送ったのは、俺が俺の口で話すってやつだ。……あれの方が、ちゃんと怖い」

女はそこに言葉を足さない。足せばまとめになる。まとめは要らない。女はただ、机の白紙に見出しを一つだけ足した。「向こうの面談で本人が話す」。それだけで、勝ち癖が少し静かになる。

就寝前、三呼吸の枠が来た。男が手の甲を上に向け、女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、指先が戻りそうになって女は握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ押し付けた。

男が低い声で言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく言った。

「俺、今日、足を増やした。……増やしたのに、まだ走ってない」

女は喉の手前で息を押し返し、短く返す。

「うん。走ってない。混乱したまま、手順だけ進んだ」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「手順が、恋みたいだな」

女の胸の奥が熱くなる。熱は危ない。危ないのに、嘘じゃない。女は熱を押し込めず、ただ触れないまま、声だけ落とした。

「恋は、走らせない。……でも、消さない」

端末の通知音は小さかったのに、二人の身体だけが先に反応した。女は机の上の画面を見ないまま息を押し返し、男も同じように肩を固くしてから吐いた。女は指先が熱くなるのを膝へ押し付けて止め、声だけ落とす。

「今、ここ」

男も返す。

「今、ここ」

それから女は画面を起こし、来た文面を短く読み上げた。向こうの担当は、希望した日程で面談を組めること、ただし事前に追加の検査結果と、現在の薬の内容と、直近の不整脈の記録が必要だと書いている。必要書類の一覧の最後に「本人同席は必須」とあるのを読んだ瞬間、男の喉がゆっくり動いて乾いた音が小さく出た。女は「決まった」と言わない。決まったは走る。代わりに言葉を削る。

「足が増えた。……でも、条件が増えた」

男は一拍置き、息を押し返してから言った。

「条件がある方が、まだ怖くない」

朝食の皿を流しに置いたとき、男の動きが一瞬止まった。止まったまま、胸のあたりを服の上から軽く押さえる。押さえた指が小さく震え、震えを止めようとして止め切れない。女は近づかない。近づいたら安心になる。安心は走る。女は距離を保ったまま、声だけ落とした。

「止める?」

男は息を押し返して答える。

「止める。……今、速い」

女はすぐに続ける。

「白紙」

男も返す。

「白紙」

白紙を置いても、胸の内側の跳ねはすぐ消えない。男は椅子に腰を落とし、吐く息を短くしそうになって押し返し、押し返した息が少し長くなるのを待っていた。女は水を出さない。水の音で落ち着くと安心になる。女はコップを机に置くだけにして、端末を握り直した。連絡先の中で主治医の名前を選び、発信の前に一度だけ息を押し返す。

「追加の記録と検査が必要。向こうが面談日を仮で押さえた」

女医の声は低く、短い。

『今日来られる? ホルター心電図を付ける。血液も取る。興奮で波形が崩れるタイプなら、今の段階で掴んでおきたい』

女は「すぐ行く」と言いかけて止める。すぐは走る。女は男を見る。男は頷かない。頷けば安心になる。男が低い声で言った。

「行く。俺が行くって言う」

女は短く返す。

「うん。行く」

病院の処置室は消毒の匂いが薄いのに刺さった。刺さる匂いは喉を狭くする。男は腕に巻かれる機器を見て、目線だけを落として息を押し返す。女医は手順を早めない。早めない代わりに無駄な言葉も増やさない。胸に電極を貼るときだけ、女医の指が一瞬止まった。止まった指が、男の肌に触れない距離でためらう。ためらいの後、女医は低い声で言う。

「怖いなら、怖いって言っていい。今の波形に、言葉が乗る」

男は喉を鳴らし、乾いた音を小さく出してから答えた。

「怖い。……でも、逃げない」

女医が頷かずに返す。

「逃げないなら十分。あと、確認。面談日が仮で押さえられたって聞いて、気持ちが跳ねた?」

男の吐く息が一瞬だけ止まりかける。止まりかけたところで、男が自分で言う。

「今、ここ」

女もすぐ置く。

「今、ここ」

男は押し返してから、低い声で言った。

「跳ねた。嬉しいのが怖い」

女医はペン先を止めずに言う。

「嬉しいは否定しない。だけど、嬉しいで予定を前倒ししない。あなたの身体は、予定表に合わせてくれない。……それと」

女医の視線が女へ一瞬だけ向く。測る視線だ。

「あなたが代わりに答えない。あなたは動ける側だから速くなる。速い方が口を出すと、本人の意思が薄まる。薄まった瞬間、向こうは受け入れを止める」

女は反射で「分かってる」と言いそうになって止めた。分かってるは油断になる。女は短く言う。

「止める。確認だけにする」

女医はそこで初めて、ほんの少しだけ筆圧を落とした。落としたのに表情は変えない。変えないまま、紙に「本人同席」「本人決定」とだけ書き足す。その二語が、机の上でやけに重かった。

帰宅すると、男の胸の下から細い線が伸びていた。線を見た瞬間、女は手を伸ばしたくなる。伸ばしたら安心になる。安心は走る。女は線に触れず、男の目だけを見る。男は笑いかけて笑いが出ないまま終わり、低い声で言った。

「俺、今、機械に繋がってる。……繋がってるのに、生きたいって言ったのがまだ残ってる」

女の胸の奥が熱くなる。熱いまま、女は台所で湯を沸かさず、皿を並べた。並べ方は揃えない。揃えると安心になる。男は椅子に座り、胸の線を避けるようにして肩を落とす。落とした肩が戻り切らないまま、男が言った。

「向こうに行ったら、たぶん、もっと制約が増える」

女は即答しない。即答すると励ましになる。励ましは安心になる。女は息を押し返し、短く置く。

「増える。……でも、置いていかれる形は減る」

男が一拍置き、吐く息を少し長くする。

「それが、いい」

沈黙が落ちて、落ちた沈黙の端に「心臓を交換しよう」が立ちかける。男の唇が動きかけて止まり、止めたまま低い声で言う。

「また言いたくなる」

女は否定しない。否定すると男は黙る。女は短く返す。

「言っていい。言ったら白紙」

男が一拍だけ目を伏せて、すぐ戻し、先に言った。

「白紙」

女も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、二人の呼吸が少しだけ揃いかけて、揃いかけたのを女が半歩ずらしてほどいた。

就寝前、三呼吸の枠が来る。男が手の甲を上に向け、女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、戻りそうになる指先を握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ逃がした。

「今、ここ」

男が言い、女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく続けた。

「面談日、仮で押さえたって言われて……嬉しかった。嬉しいって言えるのが、まだ怖いけど」

女は息を押し返し、短く返す。

「嬉しいは言っていい。……嬉しいで走らない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。走らない。……明日、波形が出るんだろ。俺、ちゃんと見る」

女は頷かずに言う。

「見る。決めない。並べる」

胸の線はまだ付いたまま、足はまた増えたまま、恋の熱も消えないまま。消えないものを抱えたまま、二人は明日の結果を待つ。

翌朝、男は胸の下に伸びた細い線を避けるように上体を起こした。起き上がる動きが遅い。遅いのに、途中で止まらない。止まらないまま息を押し返し、喉の奥で乾いた音を小さく鳴らす。女はその音を聞いた瞬間に手を伸ばしたくなって、伸ばす代わりに自分の膝を指先で押した。痛みで戻す。戻して、声だけ落とす。

「今、ここ」

男も同じように置く。

「今、ここ」

朝の支度は必要最低限にした。音を増やすと落ち着く。落ち着くと安心になる。安心は走る。女は湯を沸かさず、コップを二つ出した。距離は揃えない。男はコップに触れずに、胸の機器を服の上からもう一度確かめる。確かめる指が少しだけ震え、震えを止めようとして止め切れない。

「止める?」

女が言うと、男は息を押し返して答えた。

「距離でいい。……今日は、結果が怖い」

女は頷かずに返す。

「距離」

病院へ向かう道で、男は人の気配に敏感だった。すれ違う足音、車の音、看板の反射。どれも普通のはずなのに、普通の中に身体が勝手に反応する。男はそれを隠さない。隠さないまま、息を押し返し続ける。女はその押し返しの回数を数えない。数えたら勝ち負けになる。勝ち負けはこの話を壊す。

処置室で機器を外すとき、女医は手順をひとつも急がなかった。電極を剥がす指が、肌に触れる直前で一瞬だけ止まる。その止まり方が、触れない救いの形に見えて、女はそこに名前を付けそうになって止めた。名付ければ整う。整えば走る。

「記録を落としてから、診察室で見せる」

女医はそう言って、端末に繋いだ。画面に読み込みの線が出る。線が進むと、男の吐く息が短くなる。短くなりかけたところで男が自分で言った。

「白紙」

女もすぐ置く。

「白紙」

診察室へ移ると、机の上に印刷された紙が二枚だけ置かれていた。細い線が波を打ち、ところどころで跳ねている。跳ねている箇所に小さな丸が付けられていて、それがやけに目立つ。目立つ丸は、見た瞬間に意味を持ってしまう。意味が持てば、身体が先に走る。

男は紙を見ないまま、女医の指先だけを見た。女医は丸を指ささずに言う。

「夜に多い。起床前後にもある。強いのは、胸が速くなった後じゃなくて、その前。息が短くなってから跳ねている」

男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。女は反射で男の手の甲へ行きたくなる。行けば安心になる。安心は走る。女は机の端を指で押し、硬さで止めた。

女医は淡々と続ける。

「昨日の映像通話の直後にもある。ここ」

「ここ」と言った指が、紙の端を叩かない。叩けば合図になる。合図になれば、男の頭が“原因”を探し始める。原因探しは走る。女医は叩かず、紙の上をなぞりもしない。

男が息を押し返し、低い声で言った。

「嬉しいのが……出たところ?」

女医は頷かない。頷けば確定になる。確定は逃げ道を消す。女医は短く返す。

「嬉しいも、怖いも、身体は同じ反応を出す。あなたの身体は、差をつけるのが下手だ。だから運用する」

運用、という言葉だけが机の上に残る。男の吐く息が一度だけ止まりかけ、止まりかけたところで男が自分で言った。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

女医は紙を裏返し、もう一枚を表にした。そこには時間帯の一覧だけが並んでいる。数字が揃っていて、揃っているのに安心できない。安心できない数字は、妙に生々しい。

「薬の調整を少し変える。極端には変えない。あなたは“変わった”と感じた瞬間に怖さで跳ねる。変えるなら小さく。小さく変えて、生活の手順は変えない」

男が低い声で聞く。

「向こうに送る?」

女医は短く言う。

「送る。あなたの言葉も添える。映像通話の内容と一致している。本人の意思確認が“運用できている”証拠になる」

女はその言葉で胸の奥が熱くなる。熱は「ほら進んだ」を呼ぶ。呼ぶ前に女は息を押し返した。進んだ、と言ったら世界が決まる。決まった世界は壊れたときに倍痛い。

男が視線を紙へ落とし、丸のある場所を一つだけ見た。見た瞬間、男の肩が僅かに上がり、上がりかけた肩を自分で落とそうとして落とし切れない。男は低い声で言った。

「これ、俺が“生きたい”って言ったところにも出てる」

女はそこで言葉を足さない。足せば慰めになる。慰めは安心になる。安心は走る。女はただ、机の端を押したまま、男の呼吸が止まらないのを見た。

女医が言う。

「あなたは、言った。言って、壊れていない。波形が跳ねても、壊れていない。跳ねるのは現象。あなたは現象じゃない」

男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出て、男は一拍だけ目を伏せた。伏せた目が戻る前に、男が言う。

「俺、じゃあ……嬉しいって言うたびに、壊れる?」

女医はすぐ否定しない。否定は軽くなる。軽くなると男は自分を雑に扱う。女医は低く言う。

「壊れない。壊れないために、枠を使う。三呼吸、距離、白紙。あなた達はもう枠を使えている。それが結果に出ている」

女の中に熱が広がる。広がった熱が、女医の言い方に小さな筆圧の変化を見つけてしまう。女医は淡々としているのに、ほんの少しだけ“重み”が増えている。女はそれに名前を付けない。付けたら物語が綺麗になる。綺麗になったら嘘になる。

診察室を出ると、廊下の冷気が頬を刺した。刺されると喉が狭くなる。男の吐く息が短くなりかけ、男が先に言った。

「止める」

女が返す。

「止める」

壁際へ寄る。寄っただけで男の肩が少し落ちる。女は触れない。触れたら安心になる。安心は走る。女は声だけ落とす。

「白紙」

男も置く。

「白紙」

帰宅してから、女は向こうへ送るためのデータ整理を始めた。始めるのに、すぐ送らない。すぐ送れば走る。女は主治医から送る、という形を守るために、必要な項目だけを紙に書き出し、端末は伏せた。男はソファに座り、胸の線がなくなった皮膚を服の上から確かめた。確かめた指が止まり、止まったまま男が低い声で言う。

「俺、結果を見て……怖いのに、嬉しいって思った。嬉しいのが怖いのに」

女の胸が跳ね上がる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、短く返した。

「嬉しいは言っていい。……嬉しいで予定を前倒ししない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くする。

「うん。前倒ししない。……でも、俺、今日の波形で分かった。俺、希望で跳ねる」

希望で跳ねる、という言葉は危ない。言葉が確定になる。確定になれば希望が毒になる。女はその入口を折るように言う。

「希望で跳ねてもいい。跳ねるのを見て、手順を増やすだけ」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出た。

「手順、増やすと……恋が薄くならない?」

女はそこで答えを整えない。整えたら結論になる。結論は要らない。女は息を押し返して、短く置いた。

「薄くならない。……手順がないと、恋が走って壊れる」

男が一拍置き、吐く息を少し長くした。

「壊れるのは嫌だ」

沈黙が落ちる。沈黙の端に、あの言葉が立ちかける。心臓を交換しよう。男の唇が動きかけて止まり、止めたまま低い声で言う。

「また言いたくなる」

女は否定しない。否定したら男は黙る。女は短く返す。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せて、すぐ戻し、先に言った。

「白紙」

女も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、二人の呼吸が少しだけ揃いかける。揃いかけたのを、女が半歩ずらしてほどいた。ほどいた瞬間に、男が低い声で言う。

「三呼吸、今日も要る」

女は短く答える。

「うん。今日も」

就寝前、男が手の甲を上に向ける。女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、戻りそうになる指先を握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ逃がした。

「今、ここ」

男が言い、女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく続けた。

「俺、今日、怖いのに……前よりは逃げてない気がする」

女は息を押し返し、短く返す。

「逃げてない。……波形が跳ねても、逃げてない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くする。

「じゃあ、明日も行ける。向こうの面談も……行ける」

女は「行ける」と確定させない。確定は走る。女は短く置いた。

「行く足はある。……走らない足も残す」

結果は出た。跳ねは消えない。消えない跳ねを、二人は手順で抱え直す。抱え直したまま、面談の日へ歩く。歩くたびに恋の熱も消えないまま、ただ触れないで残る。

病院のプリンターの音は、紙を吐き出すたびに短く鳴った。短い音なのに、そのたび男の肩が僅かに上がり、上がりかけた肩を自分で落とそうとして落とし切れない。女はその動きを見て、手を伸ばしたくなる。伸ばせば安心になる。安心は走る。女は伸ばす代わりに、机の端を指で押して硬さに熱を逃がした。

女医は印刷された波形の束を揃えない。揃えたら綺麗になる。綺麗になると、うまくいっている気がして走る。女医は紙を二枚だけ抜き、封筒に入れ、封を閉じずに言った。

「向こうに送るのは、主治医の手順でやる。あなた達は勝手に追加しない。勝手に整えると、本人の言葉が薄くなる」

男が低い声で言った。

「俺の言葉……薄くなると、向こうに止められる」

女医は頷かずに返す。

「止められる。止められないために、あなたが話した事実だけで進める。あなたが“生きたい”って言った事実と、波形が跳ねた事実は矛盾しない」

女の胸の奥が熱くなる。熱が「進んだ」を呼ぶ。呼ぶ前に女は息を押し返し、言葉を削った。

「次は、面談」

女医は淡々と頷く代わりに、端末を一度だけ見て言う。

「面談の前に、生活の確認が来る。あなたがどこで寝て、何を食べて、どう動くか。競技を続けるなら、練習の時間帯まで聞かれる。あなたの身体は、気合で運用できない」

男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。男は目線を落とさないまま、言った。

「運用する」

言った瞬間に女の指先が熱くなる。熱は抱きしめたい入口だ。抱きしめたら、男は一瞬だけ軽くなる。軽くなった反動で、次の夜に壊れる。女は抱きしめない。代わりに声だけ落とす。

「今、ここ」

男も置く。

「今、ここ」

その足で役所へ向かった。海外へ行くための書類は、向こうの病院の前に、こちらの生活が許可を出す。駅前の窓口は混んでいて、番号札の表示が淡々と進む。淡々と進む数字の列が、男の呼吸を短くする。短くなりかけたところで男が先に言った。

「距離」

女は頷かずに返す。

「距離」

半歩離れる。離れた分だけ男の肩が落ち、落ちた肩のまま男は番号札を握り直した。握り直す指先が白くなる。女は番号札に触れない。触れたら「一緒に抱える」が甘くなる。甘さは走る。女は床のタイルの境目に視線を落とし、息を押し返した。

窓口で求められるのは、顔写真と、住所と、署名と、行き先の予定。予定、と言われた瞬間に男の喉が乾く音がした。男は一拍だけ止まり、止まったまま、低い声で言った。

「白紙」

女が返す。

「白紙」

白紙を置いたから、男は「仮の面談日がある」とだけ言った。「決まった」とは言わない。窓口の職員は淡々と受け取り、次の書類を差し出す。淡々としたやり取りが続くほど、男の身体は勝手に跳ねる。跳ねるのを、男は言葉で抱える。

「今、ここ」

言って、息を押し返す。女はその横で、同じ言葉を置く。

役所を出ると、冬の風が頬を刺した。刺さると喉が狭くなる。男は息を短くしそうになって押し返し、吐く息を少し長くする。長い吐息が出た瞬間に、女の胸の奥が熱くなる。熱は「よくやった」を呼ぶ。呼べば安心になる。安心は走る。女は褒めない。褒める代わりに、男の足元に合わせて歩く速度だけ落とした。

公園のベンチに座ると、男は上着の胸元を軽く押さえた。押さえた指が微かに震え、震えを止めようとして止め切れない。女は近づかない。近づいたら安心になる。女は視線を外しながら言った。

「止める?」

男は息を押し返して答える。

「止める。……俺、今、嬉しいのが怖い。書類出しただけで、進んだ気がして、胸が速くなる」

女は否定しない。否定したら男は強がりで塗る。女は短く置く。

「進んだ気、は出る。出たら手順。三呼吸は今じゃない。今は距離」

男が一拍置いて、吐く息を少し長くする。

「うん。距離」

沈黙が落ちる。沈黙の端に、あの言葉が立ちかける。心臓を交換しよう。男の唇が動きかけて止まり、止めたまま低い声で言った。

「俺、近道を思う。思った瞬間に、自分が嫌になる」

女はそこで「嫌になるな」と言わない。言えば慰めになる。慰めは安心になる。女は息を押し返して、短く返す。

「思っていい。嫌になるのは、止める力がある証拠。……言葉は白紙にする」

男が目を伏せ、すぐ戻す。戻した目が揺れる。

「白紙」

女も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は喉の奥で乾いた音を小さく鳴らし、少しだけ声を増やした。

「俺さ、怖いのに、嬉しい。怖いのに、君とここに座ってるのが……嬉しい。嬉しいって言うと、跳ねるのに」

女の胸が跳ね上がる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉を整えないまま必要だけ置いた。

「嬉しいは言っていい。……跳ねても、壊れてない。跳ねたら、戻す。今、ここ」

男が一拍遅れて、同じ言葉を置く。

「今、ここ」

その帰り道、女は練習の予定を一つだけ削った。削ることが負けみたいに感じて胸が痛む。痛むと勝ちに行きたくなる。勝ちに行けば、男は置いていかれる。女は削った予定を端末で確定し、画面を伏せて、息を押し返した。練習は強さの証明じゃなく、生活の一部に戻す。戻さないと、全部が勝負になって、最後に心臓が勝負になる。

部屋に戻ると、男は上着を脱ぎながら小さく言った。

「俺、今日、俺が決めた。窓口で、俺が俺の予定を言った」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は短く返す。

「言った。置いていかれる形じゃなかった」

男が吐く息を少し長くする。長い吐息が出た瞬間、女の指先が熱を持つ。熱は触れたい入口だ。女は触れない。触れない代わりに、就寝前の枠を守るために、机の上の白紙に見出しだけ足した。「面談までの生活」「書類」「本人が話す」。揃えない字で、揃えない位置に書く。

夜、三呼吸の枠が来る。男が手の甲を上に向け、女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、戻りそうになる指先を握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ逃がした。

「今、ここ」

男が言い、女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく続けた。

「面談の日が近づいたら、俺、また言いたくなると思う。近道の言葉」

女は否定しない。否定したら男は黙る。女は息を押し返して短く返す。

「言っていい。言ったら白紙。行為にしない。……その代わり、言葉の外で逃げない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。逃げない。怖いまま行く」

行く、という言葉が確定にならないように、女は何も足さない。足すと約束になる。約束は走る。走らないまま、ただ生活の中に面談の日を混ぜていく。混ぜた分だけ恋は不便になって、でも不便なまま残っている。

玄関の床に、開いたままの鞄が置かれていた。衣類の端が少しはみ出し、はみ出した布の皺が気になる。女は皺を伸ばしたくなって、伸ばす代わりに指先を握り込んだ。整えると安心が立つ。安心が立つと走る。女は鞄の口を半分だけ閉じ、留め具は留めないままにした。

男は窓際に立っていた。立っているのに、外を見ていない。肩が上がりかけて、上がりかけた肩を自分で落とそうとして落とし切れない。胸元の布を軽く押さえ、押さえた指が止まる。

「今、ここ」

女が置くと、男も置いた。

「今、ここ」

端末が震え、窓口からの短い通知が届く。面談の確定時刻。集合場所。担当者名。女は画面を男に見せない。見せると数字が決まる。決まった数字は逃げ道を削る。女は要点だけを声に落とした。

「朝一。集合は病院の受付。本人同席。持ち物は、これまでと同じ」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「朝一……」

女は返事を急がない。急げば励ましになる。励ましは安心になる。女は短く置いた。

「距離」

男が一拍遅れて、同じ言葉を置いた。

「距離」

半歩離れるだけで、男の肩が僅かに落ちる。落ちた肩を見て、女の胸の奥が熱くなる。熱は手を伸ばさせる。伸ばしたら安心になる。安心は走る。女は手を伸ばさず、鞄の取っ手を一度だけ持ち直して、硬さに熱を逃がした。

机の上には白紙が一枚置かれていた。見出しだけが書いてある。「本人が話す」「生活」「白紙」。女はそこへ新しい線を足さない。足せば整う。整えば走る。代わりに、男が口を開くのを待った。

男は唇を動かしかけて止め、止めたまま低い声で言った。

「明日、俺、また言いたくなると思う。……近道の言葉」

女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば、身体だけが勝手に跳ねる。女は息を押し返し、短く置いた。

「言っていい。言ったら白紙。行為にしない」

男が目を伏せて、すぐ戻す。戻した目が少し揺れる。

「白紙」

女も返す。

「白紙」

その日の練習は短かった。女はトラックの端でストップウォッチを持ちながら、持っている指先が熱いのを感じていた。熱いと、秒が速くなる。速くなると、男の呼吸が短くなる。女は数字を追わず、男の肩だけを見る。肩が上がりかけた瞬間に、女は口を開きそうになって止めた。止めた代わりに、短い合図だけを落とす。

「止める」

男が走るのをやめ、膝に手を置く。息を押し返し、喉の奥で乾いた音が小さく鳴る。

「止める」

二人の間に距離が空く。空いた距離が寒くて、女は上着の袖を引き下ろした。引き下ろした布の摩擦で、胸の奥の熱が少しだけ落ちる。

帰り道、コンビニの明るさが目に刺さった。男は店の前で一瞬だけ足を止め、止めたまま胸元を押さえる。押さえた指が僅かに震える。女は近づかない。近づいたら安心になる。安心は走る。女は声だけ落とした。

「止める?」

男が息を押し返して答える。

「止める。……今、速い」

女は短く置く。

「白紙」

男も置く。

「白紙」

部屋に戻ると、夜の空気が静かすぎた。静かすぎると余計な言葉が立つ。立った言葉は、甘くなる。甘いと走る。女は照明を少しだけ落とし、湯は沸かさず、皿だけ並べた。並べ方は揃えない。揃えると安心が立つ。

男は椅子に座り、指先で膝の縫い目をなぞった。なぞった指が止まり、止まったまま低い声で言った。

「明日、俺が話すとき……君は、どこを見る?」

女の胸の奥が痛くなる。痛みは救いたい入口だ。救えば早い。早いのは最短距離だ。女は救わない。息を押し返して、短く返す。

「机の端。……あなたの声だけ聞く」

男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。

「助かる。見られると、言い訳が出る」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は短く置いた。

「言い訳は増やさない。逃げ道は残す」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くする。

「うん……」

沈黙が落ちる。沈黙の端に、あの言葉が立ちかける。男の唇が動きかけて止まり、止めたまま低い声で言う。

「……俺、明日、怖いのに、嬉しいって言いそうになる」

女は否定しない。否定したら男は自分を雑に扱う。女は息を押し返し、短く置いた。

「言っていい。跳ねても、壊れてない。跳ねたら戻す。今、ここ」

男が一拍遅れて置く。

「今、ここ」

就寝前、三呼吸の枠が来た。男が手の甲を上に向け、女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、戻りそうになる指先を握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ逃がした。

「今、ここ」

男が言う。女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく続けた。

「俺、面談で……生きたいって、もう一回言う。言ったら、怖い。……でも、置いていかれるのはもっと嫌だ」

女は息を押し返し、短く返す。

「うん。置いていかない。……置いていかない、を形で守る」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「形で……守る」

女の胸の奥の熱は消えない。消えないまま、明日の朝の時間だけが近づいてくる。近づいてくるのに、女は鞄の留め具を留めない。留めたら決まる。決めないまま、ただ眠る。

朝の空気は冷たくて、冷たい分だけ胸の中が速くなる。男は玄関で靴を履きながら、靴紐を結ぶ指が途中で止まった。止まった指が震え、震えを止めようとして止め切れない。女は声を掛けずに、鞄の取っ手を握って硬さに指先の熱を逃がした。声を掛けたら安心になる。安心は走る。

病院の受付は朝一なのに人がいて、機械の案内音が淡々と鳴っていた。番号の表示が切り替わるたび、男の吐く息が短くなりかける。男が自分で言う。

「距離」

女は頷かずに返す。

「距離」

半歩離れる。離れた分だけ男の肩が少し落ちる。落ちた肩のまま、男は受付で名前を言った。声が掠れているのに、言い直さない。女は横で机の端だけ見た。視線を合わせたら、代わりに言ってしまう。

案内された小さな会議室には、女医が先にいた。机の上には白い紙が一枚だけ置かれている。白紙。女医はそれを指で揃えず、視線だけで確認して言った。

「今日は本人が話す。私は事実だけ補う。あなたは見守る。速くならない」

女は短く返す。

「確認だけにする」

画面がつき、向こうの部屋が映った。担当医だけじゃなく、横にもう一人いた。書類の束を抱えた人間で、視線が早い。早い視線は予定表を作る。予定表は逃げ道を削る。男の喉が乾く音が小さく鳴った。

『こんにちは。今日はこちらの担当と、調整役も同席します。まず本人から。前回と同じことでもいい。いま何を望んでいますか』

男は一拍黙った。黙った一拍で女の指先が熱くなる。熱が「言え」と背中を押す。女は机の端を押して硬さに熱を逃がし、白紙を指で触らないまま男の視界に置く。男は白紙を一瞬だけ見て、息を押し返した。

「生きたい。競技も続けたい。……でも、近道を思う癖がある。だから、手順で止める」

言い終えた直後、男の吐く息が短くなりかけた。男が先に言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

調整役が画面の外へ一度目を落とし、戻して淡々と言った。

『受け入れの条件を言います。面談の次に、こちらで数日間の観察が必要です。その間、自由な外出はできません。練習も制限が入ります。あなたが競技を続けるなら、まず生活が優先です。これに同意できますか』

男の指が膝の縫い目を探して止まった。止まった指に力が入る。女が息を押し返す。返事を急がせない。急がせたら、また置いていく形になる。男が低い声で言った。

「同意できる。……制限がある方が、運用できる」

担当医が短く頷く。

『次。あなたが不安になったとき、誰が止めますか』

男の目が女に寄りかけて止まる。止まった目が画面へ戻り、男が言う。

「俺が止める。白紙って言う。距離って言う。三呼吸の枠を使う。……彼女は速いから、確認だけにしてもらう」

女の胸の奥が熱くなる。熱は危ない。危ないのに、男の言葉は嘘じゃない。女は言い返さず、机の端だけを押し続けた。女医が低い声で補う。

「本人の合意形成ができている。波形にも、跳ねはあるが破綻はない。生活の手順は維持できている」

調整役が書類をめくる音が画面越しに聞こえた。

『では面談日に来てください。来たうえで、こちらでもう一度、本人の言葉を確認します。念のため言います。あなたが途中で“別の解決”を口にした場合、ここで止まります。こちらは受け入れません。言葉は自由ですが、行為が混ざった瞬間に終わる』

男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出て、男が先に言った。

「白紙」

女も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は息を押し返して、画面に向けて言った。

「口にする癖はある。だから白紙にする。行為にしない。……俺はここに来る。俺の足で」

担当医が短く言った。

『その言い方でいい。では次の手順を送ります。今日はここまで』

画面が暗くなり、部屋の静けさが戻ってきた。時計の針の音がやけに大きい。男は椅子の背に寄りかからず、吐く息を少し長くしていた。女はそこで「よくやった」を言いそうになって止めた。言えば安心になる。安心は走る。代わりに、必要な言葉だけ落とす。

「足が増えた」

男が一拍遅れて返す。

「増えた。……でも、走ってない」

女医が机の白紙をそのままにして立ち上がり、ドアの前で振り返った。

「今の内容は私からまとめて送る。あなた達は勝手に付け足さない。今日の仕事は、生活に戻ること」

廊下に出ると、男の肩が一段落ちた。落ちた反動で、今度は女の胸の奥が熱くなる。熱は触れたい入口だ。女は触れない。触れたいまま触れない。男が自分から言う。

「俺、さっき……言いそうになった」

女は否定しない。否定すると男は黙る。女は短く返す。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せて、すぐ戻し、小さく言った。

「……心臓のやつ。早いから」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、短く置いた。

「白紙」

男もすぐ返す。

「白紙」

自販機の前で二人は立ち止まった。甘い缶の匂いが少しだけ漂う。男は買わずに、ただ指先を握り込んで息を押し返した。女は真正面に立たず、斜めに立って机の端の代わりに自販機の角を見る。

「止める?」

男が低い声で答える。

「止める。……三呼吸、帰ってから」

女は短く返す。

「うん。帰ってから。今は生活」

そのまま病院を出た。風が頬を刺して、刺さるたび男の呼吸が短くなりかける。男は「今、ここ」を小さく置き続けた。女も同じ言葉を置き続ける。足は増えた。増えたまま、まだ走っていない。走らないまま、二人は帰り道の信号を一つずつ渡っていった。

病院を出たところで、男は一度だけ立ち止まった。足を止めたまま、吐く息を短くしそうになって押し返す。胸の奥が速くなっているのが、服の上からでも分かるくらいで、女は自分の指先が熱くなるのを感じた。熱い指で触れたら、そこだけが軽くなる。軽くなった反動が怖い。女は触れずに、歩道の端へ半歩ずれて声だけ落とした。

「距離。」

男が頷かずに返す。

「距離。」

二人の間にできた隙間へ、冷たい風が入り込む。風が入ると喉が狭くなる。男はそれを隠さず、喉の奥で乾いた音を小さく鳴らしてから言った。

「さっき、止まるって言われたとき……俺、言いそうになった。」

女は否定しない。否定した瞬間、男は黙ってしまう。黙ったまま身体だけが跳ねるのも怖い。女は息を押し返し、短く置く。

「言っていい。言ったら白紙。」

男が一拍だけ目を伏せ、戻して、声を小さくした。

「……心臓のやつ。早いからって。」

胸の奥が跳ねる。跳ねた反動で喉が詰まり、女は唇を閉じて押し返す。言葉は短く、折る。

「白紙。」

男もすぐ返す。

「白紙。」

白紙を置いたのに、身体の速さはすぐ消えない。駅までの道で、男は信号の赤に合わせて息を整えようとして、整えきれずに吐く息を長くした。女はその長さを見て、歩幅だけ落とした。励ましは言わない。言えば安心になる。安心は走る。

駅の売店の前を通ったとき、甘い匂いが一瞬だけ漂った。男の視線が自販機に吸われて、すぐ逸れた。逸れた視線の戻り方が遅い。

「飲む?」

女が聞きかけて止めた。欲しいかどうかを聞けば、男は答えで自分を縛る。縛るのは悪くないが、今は余計な縛りを増やさない。女は代わりに、缶を二本選んで買った。片方は温かいお茶、もう片方は水。水は逃げ道だ。女は温かい缶だけを男の前に置き、手渡さない。手渡した瞬間に触れたくなるからだ。

男は缶を見て、喉を鳴らした。乾いた音が小さく出る。

「触らないでいい?」

女は短く返す。

「うん。机の上。」

男は缶を机の上に置くみたいに、ベンチの端へそっと置いた。それから両手を近づけ、缶に触れずに温める。触れないのに、指先が微かに震える。

「変だな。」

男が言う。

「温めたいのに、触ると走る。」

女は頷かずに返す。

「走るなら、触らない。触らないで温める方法を増やす。」

男の吐く息が少し長くなり、肩が僅かに落ちた。

電車の中で、端末がまた震えた。女医からの短い連絡だった。面談日の確認、送付データの一覧、観察期間の説明。女は画面を開いて、読んだ内容を頭の中で並べ、男には一度に全部渡さない。全部渡したら、男の頭が速くなる。

家に着いてから、女は机の上に白紙を一枚置いた。見出しだけを書き足す。「観察」「制限」「生活」。字は揃えない。揃えると整って、整うと走る。

男は上着を脱ぎながら、その白紙を見た。

「観察、って……数日?」

女が短く答える。

「数日。外出は制限。練習も制限。」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。出たのに、男は目を逸らさない。

「俺、耐えられる。制限がある方が……運用できる。」

その言葉が、女の胸の奥を熱くした。熱は褒め言葉を呼ぶ。褒め言葉は安心になる。安心は走る。女は褒めない代わりに、事実だけ置いた。

「向こうは、そこを条件にしてる。条件を守れるって言ったのは、あなた。」

男が一拍置いて、吐く息を少し長くする。

「俺が言った。……置いていかれない形で。」

女はそこに何も足さない。足すと約束になる。約束は走る。代わりに、端末を伏せて、次の手順だけを紙に書いた。主治医へ送付の確認。観察期間の同意書は読むだけ。渡航書類の不足確認。順番だけ。

書き終わったところで、女の端末が別の通知を出した。大会運営からのリマインド。期限、提出、参加確認。女の指が一瞬だけ速く動きそうになって止まった。速く動けば、いつもの自分が戻る。戻った自分は勝ちに行く。勝ちに行けば、男が置いていかれる。

女は画面を閉じる前に、指先で「辞退」の文字をなぞりかけて止めた。止めたまま、息を押し返す。押し返した息が胸に残って、喉が痛い。

男がその様子を見て、低い声で言った。

「それ……。」

女は言葉を整えない。整えたら説明になる。説明は慰めを呼ぶ。慰めは安心になる。女は短く返す。

「今は、生活を優先する。」

男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出て、男は一拍だけ黙った。黙ったあと、言葉を選ぶのをやめたみたいに、短く言う。

「ごめん。」

女はすぐ否定しない。否定したら、男は強がりで塗る。女は息を押し返し、必要だけ置く。

「謝らないで。あなたが決めた。私も決める。」

男が吐く息を少し長くした。長い吐息が出た瞬間、女の指先がまた熱を持つ。熱は触れたい入口だ。女は触れない。触れずに、机の端を押して硬さに熱を逃がした。

夜、三呼吸の枠の前に、男が言った。

「俺、明日も言いたくなると思う。近道の言葉。」

女は短く返す。

「言っていい。言ったら白紙。行為にしない。」

男が一拍遅れて置く。

「白紙。」

女も置く。

「白紙。」

就寝前、男が手の甲を上に向ける。女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間に戻りそうになる指先を握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ逃がした。

「今、ここ。」

男が言い、女も置く。

「今、ここ。」

暗い天井の下で、男が小さく続けた。

「制限があるって聞いて、怖いのに……少し安心した。安心って言うと跳ねるのに。」

女は息を押し返し、短く返す。

「安心は言っていい。安心で走らない。走りそうになったら、戻す。」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。戻す。……面談の日、俺が俺の足で行く。」

女は「行く」を確定にしない。確定は走る。女はただ、白紙の上に次の見出しだけを足した。「辞退の連絡」「観察の同意書」「持ち物」。揃えない字で、揃えない位置に。生活の中へ、また一つ足が増えた。

朝、女は机の白紙を見ないまま端末を開いた。大会運営の通知が画面の上に残っている。期限、提出、参加確認。指が速く動きそうになって止まり、止まった指先が熱くなる。熱いまま、女は文面を短く打った。事情により欠席。返金不要。次回の案内は不要。理由は書かない。理由を書けば整う。整えば走る。送信ボタンの上で一拍止め、息を押し返してから押した。

送信音は小さいのに、胸の中で何かが落ちた。落ちた瞬間、視界が一度だけ細くなる。女は目を瞬かせず、机の端を押して硬さに戻した。

男が背後で息を押し返す気配を出した。振り返らなくても、見られているのが分かる。見られていると、言い訳が立つ。女は言い訳を作らないために、声だけ落とす。

「今、ここ」

男も置く。

「今、ここ」

男は一歩近づかない距離のまま、低い声で言った。

「今の、辞退のやつだよな。……見えた」

女は否定しない。否定したら、男が自分を雑に扱う。女は息を押し返して短く返す。

「うん。私が決めた」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「俺のせい?」

女は「違う」と即答しない。違うと言えば慰めになる。慰めは安心になる。安心は走る。女は机の端を押したまま、言葉を削る。

「せい、じゃない。私が今、生活を優先するって決めた。競技を捨てたんじゃない。順番を変えただけ」

男は一拍黙って、黙ったまま息を押し返す。押し返した息が短くなりかけ、男が自分で言う。

「止める」

女も置く。

「止める」

男の肩が僅かに上がり、上がりかけた肩が落ち切らない。男は床を見ないまま、声を小さくした。

「ごめん、って言いたくなる。言うと、俺が楽になるから」

女の胸の奥が熱くなる。熱は抱きしめたい入口だ。抱きしめたら、男は一瞬だけ軽くなる。軽くなった反動が怖い。女は抱きしめず、短く返す。

「言わないで。あなたが楽になる言葉を、ここで使わない」

男が吐く息を少し長くする。長い吐息が出て、男はやっと言い直した。

「じゃあ……ありがとう、も違うか」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は必要だけ置く。

「ありがとうは言っていい。言ったら、白紙にしない。行為にしない、って約束してる言葉じゃない」

男の喉が鳴り、乾いた音が小さく出た。

「……ありがとう。置いていかれない形で、俺をここに置いてくれてる」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、言葉を足さずに机の端へ視線を落とした。

そのタイミングで端末が震えた。女医からの送信通知。観察期間の説明と、同意書の電子データ。女は画面を男に見せず、印刷を選んだ。紙は重い。重い方が走らない。プリンターが吐き出す音が二回鳴り、白い紙が机の上に置かれる。女は揃えない。揃えると安心が立つ。

男が紙を見て、喉を鳴らした。乾いた音が小さく出る。

「読む?」

女は短く返す。

「読むだけ。署名はまだ」

男は頷かずに、紙の最初の段落だけを声に出した。観察期間、外出制限、練習制限、緊急時の対応、連絡先の共有。読み進めるほど、男の吐く息が短くなる。短くなりかけたところで男が自分で言う。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

男は紙から目を離さず、息を押し返して続けた。途中に小さな一文がある。受け入れは本人の意思の継続を条件とする。本人が別の解決策を提案した場合、受け入れは中止される。そこに来た瞬間、男の指が紙の端を掴みかけて止まる。

「止める」

男が言う。女も置く。

「止める」

男は紙を掴まないまま、低い声で言った。

「俺、こういうの見ると、余計に言いたくなる。近道の言葉を。言ったら終わるって分かってるのに、終わりそうな時ほど言葉が出る」

女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は息を押し返して短く返す。

「言っていい。言ったら白紙。行為にしない。……終わらせないために、終わらせる言葉を白紙にする」

男が一拍遅れて置く。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

紙を読み終えたあと、机の上に残ったのは「制限」という字面だけじゃなかった。女が辞退の通知を送った事実も同じ机の上にあるみたいだった。男が低い声で言う。

「観察の数日、俺だけじゃないよな。君も……動けなくなる」

女は即答しない。即答すると励ましになる。励ましは安心になる。女は机の端を押して硬さに戻し、短く置いた。

「一緒に行く。同行は私が選ぶ。あなたのため、だけじゃない。私が、あなたの声を聞きたい」

男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出て、男は目を逸らさずに言った。

「それ、恋みたいだ」

女の胸の奥が熱くなる。熱いまま、女は触れない。触れないまま、言葉だけを落とす。

「恋でも、走らない。走ったら壊れる。壊さない形で、残す」

男が吐く息を少し長くする。長い吐息が出て、男は小さく笑いかけて笑いが出ないまま終わった。

「残すの、難しいな」

女は頷かずに返す。

「難しいから、手順を増やす。増やしても、熱は消さない」

その夜、三呼吸の枠が来る前に、男が低い声で言った。

「俺、明日も言いたくなる。近道の言葉。君が辞退したのを見ると、余計に」

女は息を押し返して短く返す。

「言っていい。言ったら白紙。行為にしない。……代わりに、辞退を盾にしない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。盾にしない。俺が俺の足で行く」

就寝前、男が手の甲を上に向ける。女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、戻りそうになる指先を握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ逃がした。

「今、ここ」

男が言い、女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく続けた。

「怖いのに……今日、君が辞退したのを見て、俺、嬉しいって思った。嬉しいって思った自分が怖い」

女は息を押し返し、短く返す。

「怖いは言っていい。嬉しいも言っていい。……その代わり、嬉しいで走らない。怖いで逃げない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。逃げない。走らない。……明日も、生活をする」

翌朝、男は目覚ましが鳴る前に目を開けていた。開けたまま天井を見て、息を押し返す。押し返した息が短くなりかけたところで、男が先に言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

寝返りの途中で胸のあたりを軽く押さえる癖が出て、押さえた指が止まる。止まった指に力が入る前に、男は手を離して膝の縫い目へ逃がした。逃がした指先が震える。震えは消えないまま、止まらない呼吸だけが続く。

台所で女は、湯を沸かすか迷って沸かさなかった。湯の匂いで落ち着くと安心になる。安心は走る。女は水とお茶を机に置き、置き方は揃えない。揃えると整って、整うと「うまくいってる」が立ってしまう。男はコップに触れず、声だけ落とした。

「今日は、何をする」

女は端末を伏せたまま答える。

「持ち物。生活の記録。向こうの観察で必要なやつ。あと、主治医に提出の確認」

男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。

「俺が、やる」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は短く返す。

「うん。あなたがやる。私は確認だけ」

机に白紙を出し、女は見出しだけを書いた。「下着」「薬」「充電」「連絡先」「食事」「睡眠」。字は揃えない。線も引かない。男はその白紙を覗き込まず、椅子の端に浅く座って、息を押し返しながら言った。

「向こうで数日、外出できないって……頭では分かるのに、身体が嫌がる」

女は慰めない。慰めたら軽くなる。軽さは走る。女は事実だけ落とす。

「嫌がるなら、嫌がるまま運用する。観察中は、逃げ道を作るのが仕事じゃなくなる。枠を使うのが仕事になる」

男が一拍置く。吐く息を少し長くして、長さが出たのを確認するみたいに言う。

「仕事、か」

女は短く返す。

「うん。仕事」

昼前に女医から短い連絡が入った。観察前の最終確認として、薬の受け取りと、緊急時の連絡ルールの説明を今日中に済ませたいという。女は男に画面を見せないまま、要点だけ言った。

「病院、寄る。薬とルール確認。短い」

男は「短い」に反応して喉が鳴った。乾いた音が小さく出て、男が先に言う。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

短いという言葉が「すぐ終わる」に繋がって、すぐ終わるが「早い」に繋がってしまう。早いは危ない。女は言い直さない。言い直したら整う。整うと走る。白紙を置いたまま、二人は上着を着た。

病院の薬局は人が少なくて、少ない分だけ静かだった。静かすぎると、男の頭が余計な音を作る。男はそれを知っていて、待合の椅子に座る前に言う。

「距離」

女は頷かずに返す。

「距離」

半歩離れて座る。離れた分だけ男の肩が少し落ちる。落ちた肩が戻り切らないまま、女医が出てきた。

女医は紙を一枚だけ持っていた。説明書でも同意書でもなく、箇条書きの短い手順。女医はそれを机に置かず、手に持ったまま言った。

「観察中、あなたが不安になったら誰に何を言うか。言う順番だけ決める。内容は決めない」

男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出て、男が答える。

「俺が、言う。白紙。距離。今、ここ。三呼吸は夜」

女医が短く言う。

「それでいい。次。あなたが“別の解決”を口にしたくなったら」

男の指が膝の縫い目を探して止まる。止まった指に力が入る前に、男が先に言った。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

女医は頷かない。頷けば確定になる。女医は淡々と続ける。

「白紙を言ったら、その場で一つだけ動作を決める。水を飲む、椅子から立つ、窓を見る。どれでもいい。言葉を動作に逃がす」

男が一拍置いて、息を押し返す。

「窓を見る」

女医が短く言う。

「よし。あなたは窓。彼女は机の端。私は波形。役割が混ざると崩れる」

女は反射で「分かってる」と言いかけて止めた。分かってるは油断になる。女は短く返す。

「混ぜない。確認だけ」

帰り道、男は急に足を止めた。止めたまま胸元を押さえ、押さえた指が震える。震えを止めようとして止め切れない。女は近づかない。近づいたら安心になる。安心は走る。女は半歩ずれて声だけ落とす。

「止める?」

男は息を押し返して答えた。

「止める。……今、言いたい」

女は否定しない。否定したら男は黙る。女は短く置く。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せ、戻して、小さく言った。

「心臓を交換しようって、言えば早いって……出た」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男もすぐ返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は女医の言葉を思い出すみたいに、視線を窓へ逃がした。窓ガラスに映った自分の顔を見て、吐く息を少し長くする。長い吐息が出た瞬間、女の指先が熱を持つ。熱は触れたい入口だ。女は触れない。触れずに、歩幅だけ合わせた。

部屋に戻ると、鞄がまた開いたまま床にあった。女は留め具を留めない。留めたら決まる。男は鞄の前にしゃがみ、下着を一枚入れて、手を止めた。止めた手が震え、震えたまま低い声で言う。

「俺、こういう準備をすると、実感が来る。実感が来ると、怖いのに嬉しい」

女は慰めない。慰めたら安心になる。安心は走る。女は息を押し返して短く返す。

「嬉しいは言っていい。怖いも言っていい。……実感で走らない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。走らない。……でも、俺、嬉しいって言うと波形が跳ねるの、分かったから怖い」

女は机の端を押し、硬さに戻して言う。

「跳ねるのは現象。言葉は現象じゃない。現象を見て、枠を使う」

男が白紙の上に指を置きかけて止めた。止めたまま、低い声で言った。

「枠って……恋を薄くしない?」

女は結論を作らない。結論を作ると安心になる。安心は走る。女は短く置いた。

「薄くしない。枠がないと、恋が近道になる」

夜、鞄の中身は半分だけ埋まった。半分のまま、女は止めた。詰めきると決まる。決まると逃げ道が減る。男はソファに座り、指先を握り込んで息を押し返し、低い声で言った。

「俺、明日も言いたくなると思う。近道の言葉」

女は短く返す。

「言っていい。言ったら白紙。行為にしない」

男が一拍遅れて置く。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

就寝前、三呼吸の枠が来る。男が手の甲を上に向け、女が指先を置く。ひとつ、男の吐く息が少し長くなる。ふたつ、女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ、女は離す。離した瞬間、戻りそうになる指先を握り込み、握り込んだ力を自分の膝へ逃がした。

「今、ここ」

男が言い、女も置く。

「今、ここ」

暗い天井の下で、男が小さく続けた。

「観察で閉じ込められるの、怖い。……でも、君が辞退してまで一緒に行くって言ったの、嬉しい。嬉しいって言うのが怖い」

女は息を押し返し、短く返す。

「怖いは言っていい。嬉しいも言っていい。……その代わり、嬉しいで走らない。怖いで逃げない」

男が一拍遅れて、吐く息を少し長くした。

「うん。逃げない。走らない。……明日、鞄を閉めてもいい?」

女は「いい」と即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は短く置いた。

「閉めるのは、明日の朝。留め具は留めない」

朝、女が目を開けたとき、部屋の空気はまだ夜のまま残っていた。男は先に起きていて、ベッドの端に腰掛け、靴下を片方だけ履いた状態で止まっていた。止まった指先が靴下の縁をつまんで、そのまま動かない。呼吸は止まっていないが、吐く息が短くなりかけるたびに押し返している。

「今、ここ」

女が声を落とすと、男も同じ言葉を置く。

「今、ここ」

女は鞄を床から持ち上げ、口を閉じた。閉じるだけで、留め具は留めない。留め具を留めた瞬間に「決まる」が立つ。立ったら走る。走れば、男の呼吸が短くなる。女は決めない形のまま、鞄を玄関へ運び、靴を揃えずに置いた。揃えると安心になる。安心は走る。

男が靴下のもう片方を履き終え、立ち上がる。立ち上がった瞬間に胸元へ手が行きそうになって、男は手を膝へ逃がした。膝の縫い目を指先でなぞって、なぞりながら息を押し返す。

「閉めた?」

男が聞く。

「閉めた。留めてない」

女が答えると、男の肩がわずかに落ちた。落ちた肩のまま、男は玄関で上着を着る。上着の前を閉じる指が一度止まり、止まったまま喉が鳴って乾いた音が小さく出る。

「白紙」

男が先に言う。女も置く。

「白紙」

何を白紙にしたのかは言わない。言えば言葉が形になって走る。女は鍵を取って玄関を出た。男は半歩遅れて出る。半歩遅れが、置いていかれる形に見えない距離に収まっている。

駅までの道は、朝の匂いが薄かった。薄い匂いの分だけ、車の音や靴底の摩擦が目立つ。男はそれを拾って、拾うたびに吐く息が短くなりかける。女は歩幅を合わせるだけで、手は伸ばさない。伸ばしたら安心になる。安心は走る。

改札の前で、男が一度足を止めた。止めた足が床に張り付いたみたいに重い。男は目線を上げずに言う。

「距離」

女が頷かずに返す。

「距離」

半歩離れて立つだけで、男の喉がもう一度動いて、乾いた音が小さく出た。男は切符を取り出す動作を急がない。急げば速さが出て、速さが勝ち癖を呼ぶ。勝ち癖が来ると、男は置いていかれる。女は視線を改札機の角に落とし、男の声だけを待った。

「行く」

男が言う。女は「うん」と返さず、事実だけ置く。

「行く」

ホームの風が冷たく、冷たさが頬を刺す。刺されると喉が狭くなる。男はそれを隠さず、喉の奥で乾いた音を鳴らしてから吐く息を少し長くした。長さが出たのを確認するみたいに、男が小さく言う。

「走ってない」

女は褒めない。褒めれば安心になる。安心は走る。女は短く返す。

「走ってない」

空港は明るすぎた。光が床に反射して、反射が目に刺さる。男は刺さる光のせいで一瞬だけ瞬きを増やし、増えた瞬きが呼吸を短くしそうになる。男は自分で言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

手荷物検査の列で、前の人の鞄がトレイに落ちる音がした。乾いた音が大きく響き、男の肩が上がりかける。上がりかけた肩を落とし切れず、男は膝の縫い目を探して指先を押し込んだ。女は近づかない。近づいたら安心になる。安心は走る。女は男の横ではなく、斜め後ろに立って、壁の角を見る。机の端の代わりだ。

係員の指示は短く、言葉が速い。男は聞き取ろうとしない。聞き取ろうとすると、頭が速くなる。速い頭は近道を作る。男は女の肩越しに動作だけを真似て、靴を脱ぎ、ベルトを外し、トレイへ入れた。金属探知のゲートを通るとき、男の吐く息が短くなりかける。男が先に言う。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

ゲートを抜けたあと、男は戻ってくるトレイを待ちながら、視線を天井へ逃がした。逃がした視線がガラス窓に当たり、滑走路の遠い線を拾う。男の吐く息が、少しだけ長くなる。

「窓」

男が言う。女はその言葉の意味を拾って、短く返す。

「窓」

搭乗口で待つ時間が長いほど、決まった数字が迫ってくる感じがする。迫る感じは胸を速くする。男は椅子の背にもたれず、背中を自分の力で支えたまま息を押し返している。女は端末を開かない。開いたら、時刻を確かめたくなる。確かめたら、速くなる。

「三呼吸、帰ってからって言ってたけど」

男が小さく言う。

女は即答しない。即答は安心になる。安心は走る。女は短く置く。

「夜。今日の夜」

男の喉が鳴り、乾いた音が小さく出る。

「今日の夜、ある?」

女はここで「ある」と約束にしない。約束は走る。女は形で守る方へ戻す。

「枠は残す。環境が変わっても」

男が一拍置いて吐く息を少し長くした。

「うん」

機内は乾いた匂いがした。乾いた匂いは喉を渇かせる。男は席に座る前に一度だけ立ち止まり、座席の番号を見て、見た瞬間に目線を落とした。数字を見ると決まる。決まると逃げ道が減る。男は自分で言う。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

座ったあと、男は窓側を選んだ。女は通路側に座り、視線を机の端の代わりに肘掛けの角へ落とした。機体が滑走を始め、重力が背中に乗った瞬間、男の吐く息が短くなりかける。男が先に言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

上昇の圧で耳の奥が詰まる。男はそれを飲み込む動作で逃がしながら、膝の縫い目を押す。押した指先が震える。震えは消えないまま、男は窓の外を見ている。雲の白さが増えるほど、男の瞳が乾く。乾いた瞳のまま、男が小さく言う。

「俺、ここまで来た」

女は褒めない。褒めれば安心になる。安心は走る。女は事実だけ置く。

「来た。あなたの足で」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「怖い」

女は慰めない。慰めたら軽くなる。軽さは走る。女は短く返す。

「怖いは言っていい」

男が一拍置いて、吐く息を少し長くする。

「嬉しいも、ある」

その言葉で、女の胸の奥が熱くなる。熱は触れたい入口だ。女は触れない。触れないまま、言葉だけ折る。

「嬉しいで走らない」

男が小さく頷きかけて、頷ききらずに吐く息を押し返した。

到着した空港の案内板は、文字の形が見慣れなくて目に刺さった。刺さると頭が速くなる。男は案内板を見ない。女も見ない。二人は紙に印刷された集合場所だけを見て、余計な情報は拾わずに歩いた。荷物受け取りの回転台で、鞄が流れてくるまでの時間が長い。長い時間は焦りを呼ぶ。焦りは近道を呼ぶ。男が小さく言う。

「言いたい」

女は否定しない。否定すれば男は黙る。女は短く置く。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せて、戻して、小さく吐く。

「心臓のやつ。言えば早いって」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は窓を見る。窓の外の光に目を細め、吐く息を少し長くする。長い吐息が出た分だけ、肩がわずかに落ちた。

病院までの車内は、匂いが薄くて音が大きかった。タイヤが路面を噛む音、ウインカーの乾いた音、運転手の短い独り言。男はそれらを拾わない。拾わない代わりに、窓の景色だけを見ている。女は男の横顔を見ない。見れば、守りたい言葉が増える。増えた言葉は走る。

病院は白く、冷たかった。受付の机の角が鋭い。鋭い角は、視線の置き場になる。女はそこを見る。男は窓を見る。女医はもうここにいない。ここから先は、向こうの手順が動く。

受付で書類を出し、名前を言い、同意書の束を受け取る。受け取る紙の重さが、男の呼吸を短くする。男が先に言う。

「止める」

女も置く。

「止める」

調整役が現れ、淡々と説明を始める。観察中は外出できない。訪問は時間が決まっている。宿泊は別の場所。病棟の中へ同行者は基本入れない。入れても、短時間。短時間という言葉が「すぐ終わる」に繋がる。すぐ終わるが「早い」に繋がる。早いは危ない。男が喉を鳴らし、乾いた音が小さく出た。

女は一つだけ聞く。

「本人の意思確認は、どの場面で取る」

調整役は、予定表の形で答える。予定表は逃げ道を削る。女は答えを聞きながら、机の端だけを見て受け取る。男は窓だけを見る。役割が混ざらないように。

病棟の手前で、境界線みたいな扉があった。扉の向こうは入室制限の札。男はその札を見て、足が止まりかける。止まりかけた足を、男は自分で一歩出した。出した瞬間に、吐く息が短くなる。男が先に言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

男が女を見る。見るだけで、喉がもう一度動く。乾いた音が小さく出る。男は言う。

「ここから、別々?」

女は「別々」を悲劇にしない。悲劇にすると走る。女は形で守る方へ戻す。

「ここから、役割が変わる。私は外。あなたは中。枠は残す」

男が一拍置いて、吐く息を少し長くする。

「三呼吸は」

女は即答しない。即答は約束になる。約束は走る。女は短く置く。

「夜。面会の最後に、手の甲が無理なら、別の形を作る」

男の目が揺れる。揺れが出た瞬間、男は視線を窓へ逃がした。逃がした視線がガラスに当たり、吐く息が少し長くなる。長さが出たところで、男が小さく言う。

「行く」

女は「うん」と返さず、事実だけを置く。

「行く」

男が扉の向こうへ入る。入る直前、男の唇が動きかけて止まり、止めたまま低い声で言う。

「言いたい」

女は否定しない。否定したら男は黙る。女は短く置く。

「言っていい。言ったら白紙」

男が小さく吐く。

「……心臓のやつ。ここで言えば、早いって」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は窓を見る。窓の外の空は白く、白さが目に刺さるのに、男はその白さを見続ける。吐く息が少し長くなり、肩がわずかに落ちた。

扉が閉まった。女はその場で立ち止まらない。立ち止まれば、置いていかれた形になる。女は受付へ戻り、面会時間の札を確認し、確認したら端末を閉じる。時刻を見ない。見たら数字が決まる。決まった数字は走る。

外の待合に座った女は、机の端の代わりに椅子の角を見る。指先が熱い。熱は触れたい入口だ。触れられないから、熱は行き場を失う。女はその熱を握り込み、膝へ押し付けて逃がした。

男は今、向こう側で窓を見ている。女は今、こちら側で角を見ている。枠は残る。形を変えて残る。走らないまま残るために、二人は同じ言葉を口の中へ置いた。

「今、ここ」

待合の椅子は硬かった。硬さのせいで身体が落ち着くはずなのに、落ち着くと安心が立つ。安心が立つと走る。女は落ち着かない位置に腰を置き、椅子の角を見て、指先の熱を膝へ押し付け続けた。

受付の奥から調整役が出てきて、淡々と紙を一枚差し出した。面会の時間枠と、持ち込みの制限と、連絡の取り方。紙の上の数字が並ぶだけで、胸の内側が速くなりそうになる。女は数字を追わない。追うと勝ち癖が出る。勝ち癖が出ると、男が置いていかれる。女は要点だけを拾って、声に出さずに頷かずに返す。

「面会は夜。十分。ここで待つ」

調整役は短く頷き、次の説明に移った。同行者は病棟に常時入れない。緊急時の連絡は病棟から来る。本人から連絡が来ない時間がある。それは正常。正常、という言葉が嫌だった。正常は安心になる。安心は走る。女は「正常」を飲み込み、椅子の角へ視線を戻した。

扉の向こうでは、男が窓を見ているはずだった。窓を見て、吐く息を長くして、喉の乾いた音を鳴らしながら、それでも歩く。その姿を想像した瞬間、女の指先が熱を増す。熱は触れたい入口だ。触れられないから、熱は痛みになる。女は痛みを膝へ押し付け、息を押し返して口の中にだけ言葉を置いた。

今、ここ。

その頃、病棟の中で男は廊下の白い床を踏んだ。床の線がまっすぐで、まっすぐなものほど目が吸われる。吸われると頭が速くなる。男は床を見ない。見ない代わりに窓を見る。窓は遠い線をくれる。遠い線は、近道を作りにくい。

個室に通されると、看護師が淡々と名乗り、淡々と器具を並べた。血圧計、酸素飽和度のクリップ、胸に貼る電極。貼るために服の前を開ける動作が、男の呼吸を短くする。短くなりかけたところで男が言う。

「今、ここ」

看護師は止めない。止めると“特別扱い”になる。特別扱いは、男の頭に勝ち負けを呼ぶ。看護師は淡々と手順だけを続けた。

「苦しい?」

男は首を振らない。首を振ると否定になって、否定は強がりになる。男は息を押し返して、事実だけ言う。

「速い。止めてる」

看護師が短く返す。

「止め方は?」

男は窓を見たまま答えた。

「白紙。距離。今、ここ。……窓」

看護師の指が一瞬だけ止まり、すぐ動いた。止まり方に、理解の形が混じる。混じった瞬間に、男の胸の奥が熱くなる。熱は嬉しいになる。嬉しいは怖い。男はそのまま言う。

「白紙」

看護師は淡々と「はい」と言って、次の電極を貼った。

検査の説明が続く。採血、心電図、負荷はしない、睡眠中の記録、食事の記録。記録、という言葉が嫌だった。記録は数字になる。数字は決まる。決まると逃げ道が減る。男の喉が鳴って乾いた音が出る。男はその音のあとに息を長く吐き、窓を見続けた。

夕方、担当医が来た。前回の画面の向こうにいた担当医ではなく、現場の医師だった。声は低く、言葉が短い。短い言葉は、余計な説明を呼ばないから助かる。

「ここで数日見る。君の言葉も見る」

男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出る。

「言葉……」

医師は頷かない。頷けば確定になる。

「言葉が速くなったとき、君は何をする」

男は息を押し返して答えた。

「白紙って言う。窓を見る」

医師は淡々と続けた。

「君が“別の解決”を言いたくなったら」

その問いは刃物みたいに刺さる。刺さると喉が狭くなる。狭くなりかけたところで男が先に言った。

「白紙」

医師が短く返す。

「白紙の次は」

男は一拍置く。置いた一拍で息を押し返し、窓を見てから言った。

「立つ。水。窓。……動作に逃がす」

医師はそこで初めて、紙に一行だけ書いた。書いたのに、読み上げない。読み上げたら、男がその通りにやろうとして走る。医師は書くだけで終えた。

「今夜、面会がある。短い。短いのが嫌なら、短いって言っていい」

短い、という言葉が危ない。短いは「すぐ終わる」に繋がる。すぐ終わるは「早い」に繋がる。早いは近道を呼ぶ。男は喉を鳴らし、乾いた音を小さく出して、先に言った。

「白紙」

医師は淡々と「いい」と言い、出ていった。

夜になって、面会の呼び出しが外へ届く。女は時計を見ない。見たら数字が決まる。決まった数字は走る。女は椅子から立ち、鞄の取っ手を握り、硬さに指先の熱を逃がして、案内の人の半歩後ろを歩いた。

病棟の手前で足が止まりかける。止まりかけた足に、置いていかれる形が立つ。女は立ち止まらず、椅子の角を見るのをやめず、口の中にだけ言葉を置いた。

今、ここ。

面会室は小さく、ガラスの仕切りがあった。ガラス越しに男が座っている。顔色は悪くない。悪くないのに、肩の位置が少し高い。高い肩は、呼吸の短さを隠していない。女の指先が一気に熱を持つ。熱は触れたい入口だ。触れられないから、熱は痛みになる。女は痛みを握り込み、ガラスの向こうの男を見ないように、机の端の代わりにガラスの角を見る。

男が先に言った。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「来た」

女は「うん」と返さない。返すと安心になる。安心は走る。女は事実だけ置く。

「来た」

男の目が揺れて、揺れを窓へ逃がすみたいに視線が少し横へずれる。女も目を逸らし、ガラスの角に視線を固定したまま言った。

「手の甲が無理なら、別の形」

男が一拍置いて息を押し返す。

「別の形……」

女はここで説明を増やさない。増やすと整う。整うと走る。女は短く置いた。

「三呼吸。声だけ。触れない」

男が吐く息を少し長くして、長さが出たところで言った。

「うん。……三呼吸」

ひとつ。男が息を吸って吐く。女も同じように吸って吐く。ふたつ。男の吐く息が少し長くなる。女の胸の内側の速さが一拍遅れる。みっつ。二人とも、息を吐ききって止めない。止めると勝負になる。勝負は走る。

男が小さく言った。

「走ってない」

女は褒めない。褒めれば安心になる。安心は走る。女は短く返す。

「走ってない」

沈黙が落ちる。沈黙の端に、あの言葉が立ちかける。男の唇が動きかけて止まり、止めたまま喉が鳴る。乾いた音が小さく出た。

「言いたい」

女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は息を押し返して短く置く。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せ、戻して、小さく言う。

「心臓のやつ。ここで言えば早いって……さっきも出た」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男もすぐ返した。

「白紙」

白紙を置いたあと、男はガラスの向こうの角を見る。窓の代わりに角を見る。角は遠い線をくれないけど、視線を固定できる。固定できると、息が戻る。男の吐く息が少し長くなって、肩がわずかに落ちた。

女はそこで初めて、声を増やさずに言った。

「あなたが言った。行為にしないって」

男が一拍置いて、吐く息を少し長くする。

「言った。……俺が俺の足で来た」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は事実だけ置く。

「来た。今日も」

面会の終わりを告げる合図が鳴る。男の肩が上がりかける。上がりかけた肩を落とし切れず、男が先に言った。

「止める」

女も置く。

「止める」

男が息を押し返して言う。

「夜、枠は……」

女は即答しない。即答は約束になる。約束は走る。女は形で守る方へ戻す。

「枠は残す。今日の枠は、今の三呼吸で使った。明日は、また形を作る」

男の喉がゆっくく動いて、乾いた音が小さく出る。

「うん。……恋は残る?」

女の胸の奥が熱くなる。熱は触れたい入口だ。触れられない。触れられないまま、女は短く置いた。

「残る。走らない形で」

合図がもう一度鳴り、二人は立ち上がらない。立ち上がると焦りになる。焦りは走る。男は椅子から立たず、最後に一度だけ言った。

「今、ここ」

女も置いた。

「今、ここ」

女が面会室を出る。扉が閉まる。閉まった瞬間に、指先の熱が行き場を失って痛みに変わる。女は痛みを膝へ押し付け、椅子の角を見る。男は向こう側で窓を見ている。窓の外は白い。白さが刺さっても、刺さるまま、吐く息を長くする。

足は増えた。距離も増えた。増えたまま、まだ走っていない。

廊下の角を曲がったところで、女はやっと息を吐いた。吐いた息が短くなりかけて、喉の奥で引っかかる。引っかかったまま、膝に指先を押し付ける。痛みで戻す。受付の前を通ると、案内板の光が床に反射して目に刺さった。刺さる光は、時刻を確かめたくなる入口だ。女は見ない。見ないまま、鞄の取っ手だけ握って硬さに指先の熱を逃がし、外へ出た。

宿は病院の近くで、薄い匂いの廊下と、乾いたシーツの部屋だった。鍵を回す音がやけに大きい。大きい音で落ち着くと安心が立つ。安心は走る。女は照明を点け切らず、机の端の代わりに窓枠の角へ視線を置いて、鞄を床に下ろした。床に下ろした瞬間、端末を開きたくなる。開けば、連絡が来てないか確かめたくなる。確かめれば、数字が決まる。女は端末を裏返し、紙だけ出した。白紙ではなく、罫線のあるメモでもなく、何も書いてないレシートの裏。指先が熱くて書けないから、書かないまま机に置く。置いたものがあるだけで、身体が少しだけ止まる。

その頃、病棟の個室で男はベッドの端に座っていた。照明が白く、壁も白い。白いものは境界が見えなくて、頭が速くなる。男は壁を見ない。窓を見て、窓の外の遠い線だけ拾う。拾いながら、胸に貼られた電極の違和感を無視しようとして、無視しきれずに喉が鳴る。乾いた音が小さく出て、呼吸が短くなりかける。男は自分で言う。「白紙」。言ったあと、言葉が空回りしないように動作へ逃がす。立つ。椅子を一歩ずらす。窓を見る。吐く息を少し長くする。長さが出ても、胸の奥の速さは残る。それでも残ったまま、落ちない。

看護師が入ってきて、淡々と血圧計を巻いた。巻く布の締め付けで、男の肩が上がりかける。上がりかけた肩を落とし切れずに、男は膝の縫い目へ指先を押し込む。看護師は見上げず、短く聞く。「今、速い?」男は首を振らない。首を振ると否定になって強がりになる。男は事実だけ言う。「速い。止めてる」。看護師が短く返す。「止め方は継続」。それだけで、男の胸の奥が熱くなる。熱は嬉しいになる。嬉しいは怖い。男はすぐ言う。「白紙」。看護師は淡々と「はい」と言い、記録の紙を挟んで出ていった。

夜は長かった。隣の部屋の足音、遠い機械音、廊下の靴底の摩擦。ひとつ拾うたびに胸が跳ねて、跳ねるたびに「早いなら終わらせろ」が頭の端で立つ。立った瞬間、男は口を開きかけて止める。止めたまま言う。「白紙」。そして窓を見る。窓の外は暗い。暗い中に点があって、その点を見続けて吐く息を長くする。長く吐けても、眠りは浅い。浅いまま朝が来る。

女は眠れないまま、部屋の椅子に座っていた。椅子の角を見て、呼吸を押し返して、喉の奥で乾いた音が出ないように舌の位置だけ変える。変えたところで、痛みは消えない。痛みは「触れたい」に直結してしまう。触れられないから、触れたいが自分の中で回って熱になる。女はその熱を膝へ押し付け、息を押し返し、口の中だけで言葉を置く。今、ここ。今、ここ。言葉が増えるほど、涙が出そうになる。出そうになった瞬間、女は目を閉じない。閉じると落ちる。落ちると、次に走る。女は目を開けたまま、窓枠の角だけを見る。

朝、病院から連絡が入ったのは決まった時間ではなかった。だからこそ、女は時計を見ないでいられた。調整役の短い声が端末から落ちてくる。「本日、追加検査。面会は同じ枠」。女は「同じ枠」を数字に変換しない。「分かった」とも言わない。言えば安心になる。安心は走る。女は短く返した。「待つ」。それだけで端末を伏せ、鞄の取っ手を握り、硬さに指先の熱を逃がした。

男の部屋には朝一で採血が来た。針が入る瞬間、男の吐く息が短くなりかける。男は先に言う。「今、ここ」。看護師は止めない。淡々と手順だけを終え、ガーゼを押さえる。押さえる指が離れたとき、男はすぐ「白紙」を言いたくなる。言う前に、窓を見る。視線を遠い線へ逃がし、吐く息を長くする。長い吐息の途中で、廊下から笑い声が聞こえた。明るい笑い声が刺さって、胸が跳ねる。跳ねた瞬間、頭の端にまた近道が立つ。立ったまま、男は小さく言う。「白紙」。それから立つ。水を飲む。窓を見る。動作に逃がす。逃がしても、胸の奥の熱が残る。残った熱が、怖いのに嬉しいの形を取る。嬉しいが怖いから、男はまた言う。「白紙」。

午前の検査が終わったころ、担当医が入ってきた。手に持っているのは紙ではなく、端末。端末は予定表を作る。予定表は逃げ道を削る。男は窓を見る。医師は短く言う。「今日はここまで。明日、観察のまとめに入る」。まとめ、という言葉が決まる入口だ。決まると、早いが立つ。早いが立つと、あの言葉が出る。男は喉を鳴らし、乾いた音が小さく出て、すぐ言った。「白紙」。医師は頷かずに言う。「白紙でいい。言葉が出たら動作」。男は息を押し返し、窓を見て、短く返す。「窓」。医師はそれ以上言わずに出ていった。

夕方、面会室。ガラスの向こうで男の肩は少しだけ低かった。低いのに、目の周りの力が抜け切れていない。女はガラスの角を見る。男が先に言う。「今、ここ」。女も置く。「今、ここ」。二人の声だけが少し重なって、重なった瞬間に熱が立つ。熱は触れたい入口だ。触れられないから、女は指先を握り込み、膝へ押し付ける。

男が低い声で言った。「昨日、眠れなかった。近道の言葉が、何回も出た」。女は否定しない。否定したら男は黙る。女は短く置く。「言っていい。言ったら白紙」。男は一拍置き、吐く息を少し長くしてから言った。「心臓のやつ。言えば早いって」。女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。「白紙」。男もすぐ返す。「白紙」。白紙を置いたあと、男は視線を角へ固定して吐く息を長くする。肩がわずかに落ちる。落ちた肩を見て、女の胸の奥が熱くなる。熱は言葉を増やす入口だ。女は増やさず、事実だけ置いた。「今日も、行為にしない」。

時間の合図が鳴る前に、男が小さく言った。「明日、まとめって言われた。まとめが怖い。決まるのが怖い」。女は励まさない。励ますと安心になる。安心は走る。女は短く返す。「怖いは言っていい。決まる前に、枠を使う」。男が吐く息を少し長くする。「枠、ここでも?」女は即答を約束にしない。約束は走る。女は形で守る方へ戻す。「ここは声。三呼吸」。男が頷ききらずに息を押し返し、二人で呼吸を合わせる。ひとつ、ふたつ、みっつ。吐ききって止めない。止めると勝負になる。勝負は走る。

合図が鳴り、面会は終わる。立ち上がらない。焦りは走る。男が最後に言う。「今、ここ」。女も置く。「今、ここ」。扉が閉まる瞬間、女の指先の熱が痛みに変わる。痛みを膝へ押し付け、椅子の角を見る。

その夜、男は個室の窓の外を見ながら、小さく呟いた。「明日、決まるなら、俺はまた言いたくなる」。言いたくなる言葉の形はもう分かっている。分かっているのに、分かっているほど出る。男は喉の乾いた音を小さく鳴らし、先に言う。「白紙」。そして立つ。水を飲む。窓を見る。吐く息を長くする。長い吐息の向こうで、病棟の灯りが揺れないまま残っている。決まる前の夜だけが、まだ走らないまま、残っていた。

朝の採血が終わってから、男は窓の前に立った。外は白くて、空と建物の境目が薄い。薄い境目は頭を速くする。男は境目を数えない代わりに、窓枠の角だけ見て吐く息を長くした。長く吐けても胸の奥の速さは残る。残る速さの上に、今日の言葉が乗ってくる。まとめ。決まる。決まると早い。早いと近道が立つ。

「白紙」

男は声に出してから、立っていた足を一歩だけ動かした。ベッドの端へ戻るのではなく、椅子を一つずらす。動作に逃がす。逃がして、窓へ戻す。吐く息をもう一度長くする。

廊下の靴底の摩擦が近づき、看護師が淡々と入ってきた。

「今から面談。歩ける?」

男は首を振らない。首を振ると否定になる。否定は強がりになる。男は事実だけ言う。

「歩ける。速いけど止める」

看護師は頷かずに言った。

「止め方は?」

「白紙。窓。今、ここ」

看護師はそれ以上聞かず、ドアを開けた。歩く。廊下は白い。白い床の線に吸われそうになる。男は線を見ず、遠い窓だけ見る。見るたびに喉の奥が乾いた音を鳴らし、鳴ったあとに吐く息を長くする。

会議室の前で、男の足が一瞬止まりかけた。止まりかけた足の先に、あの言葉が立つ。ここで言えば早い。言えば終わる。終わるのが怖いほど、言いたくなる。男は自分で言う。

「今、ここ」

それから、ドアノブを握った。握った硬さが指先に残る。残った硬さが、速さを一拍だけ遅らせる。男はその一拍で入った。

中には担当医と調整役がいた。紙の束と端末。端末は予定表を作る。予定表は逃げ道を削る。男は机の端ではなく、窓の角に視線を置いた。役割を混ぜないために。

担当医が短く言う。

「数日の記録は取れた。君は止め方を使えている。波形は跳ねるが、破綻はしていない」

破綻していない、という言葉が安心になりかける。安心は走る。男は喉を鳴らし、乾いた音を小さく出して先に言った。

「白紙」

調整役が淡々と続ける。

「次の段階に進む。ここでの観察は一旦終わり。外出制限は解除される。ただし、自由ではない。生活の枠は維持する。練習は段階的。こちらから提示する手順に従う」

男の胸の奥が熱くなる。熱は嬉しいになる。嬉しいは怖い。怖いと近道が立つ。男は言葉を出す前に、窓の角を見る。吐く息を長くして、答えだけ置く。

「従う」

担当医が言う。

「君の言葉も確認する。君は何を望む」

男は一拍置いた。置いた一拍で、向こう側にいる女のことが立つ。立つと熱が増える。増えた熱が触れたい入口になる。入口の先は走る。男は入口の手前で止めるために、自分の手順を口に出した。

「今、ここ」

それから、事実だけを置いた。

「生きたい。競技も続けたい。近道は出る。出たら白紙にする。行為にしない。……俺の足で進める」

調整役が端末を見たまま言った。

「確認。君が“別の解決”を口にした場合、この手順は止まる。理解しているか」

喉が狭くなる。狭くなると、あの言葉が先に出る。男は出さない。出さないために、先に言う。

「白紙」

調整役は淡々と返す。

「白紙の次は」

男は窓を見る。吐く息を長くする。長い吐息の途中で、言う。

「立つ。水。窓」

担当医が一行だけ紙に書いた。書いただけで読み上げない。男がその通りにやろうとして走るのを避けるためだ。

「今日の面会は同じ枠。短いのが嫌なら嫌だと言っていい。嫌だと言っても、枠は変えない」

短い、が危ない。短いは早いに繋がる。早いは近道に繋がる。男はすぐ言った。

「白紙」

担当医は頷かずに言う。

「それでいい。では同意書。君が読む。君が署名する。彼女は署名しない」

男の指がペンを握りかけて止まる。止まった指に力が入りそうになる。力は勝負になる。勝負は走る。男は窓の角を見て吐く息を長くし、握る力を抜いてから、ゆっくり握った。読む。読んで、署名する。書いた瞬間、胸の奥が熱くなる。熱は嬉しいになる。嬉しいは怖い。男は書き終えた直後に言った。

「白紙」

担当医が短く言う。

「書けた。今日も壊れていない」

壊れていない、は救いの形に見える。見えるほど怖い。男は息を押し返して、窓を見る。吐く息を長くして、声を落とした。

「今、ここ」

会議室を出ると、廊下の白さがまた刺さる。刺さる白さを避けるように男は窓だけを見て歩いた。足は止まらない。止まらないのに、呼吸は短くなりかける。短くなるたび、男は小さく「白紙」と言って、歩く速度を落とす。落とすだけで、走りにならない。

夕方、面会室。ガラスの向こうで女は椅子の角を見ていた。男は角と角の間にある透明な板を一度だけ見て、すぐ窓の代わりにガラスの角へ視線を置いた。視線を置いた瞬間、喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。男が先に言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

男が低い声で言った。

「まとめ、終わった。次に進むって言われた」

女は「よかった」と言わない。よかったは安心になる。安心は走る。女は事実だけ置く。

「次に進む。あなたが言って、あなたが書いた」

男の胸の奥が熱くなる。熱が増える前に男は言う。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

男は吐く息を少し長くしてから、続けた。

「俺、出そうになった。心臓のやつ。確認された瞬間に、口が勝手に動きそうになった」

女は否定しない。否定したら男は黙る。黙れば身体だけが跳ねる。女は短く置く。

「言っていい。言ったら白紙。行為にしない」

男は一拍置いて、喉の乾いた音を小さく鳴らしてから言った。

「心臓を交換しようって。言えば早いって」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男もすぐ返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は角を見る。吐く息を長くして、肩をわずかに落とす。落とした肩のまま、低い声で言う。

「でも、言わなかった。署名した。俺の足で」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は事実だけ置く。

「言わなかった。書いた。今日も」

合図が鳴る前に、男が小さく言った。

「恋、残る?」

女の胸の奥が熱くなる。熱は触れたい入口だ。触れられない。触れられないまま、女は短く置く。

「残る。走らない形で」

男が吐く息を少し長くする。長い吐息が出たところで、男が言った。

「三呼吸、ここで」

女は即答を約束にしない。約束は走る。女は形だけ戻す。

「声だけ。三つ」

ひとつ。男が吸って吐く。女も吸って吐く。ふたつ。男の吐く息が少し長くなる。みっつ。吐ききって止めない。止めたら勝負になる。勝負は走る。

合図が鳴る。終わり。焦りが立つ。焦りは走る。二人は立ち上がらないまま、最後に同じ言葉を置いた。

「今、ここ」

扉が閉まる。女の指先の熱が行き場を失って痛みに変わる。女は痛みを膝へ押し付け、椅子の角を見る。男は向こう側で窓を見ている。窓の外は白い。白さが刺さっても、刺さるまま吐く息を長くする。

決まったことが増えた。増えたのに、二人はまだ走っていない。走らないまま残すために、明日もまた、白紙を置く。

会議室を出た廊下は白く、白さが眼球の奥を押した。男は床の線を見ないまま窓の方角へ顔を向け、吐く息を長くしようとして途中で短くなりかけたのを押し返した。看護師が先に歩き、調整役が半歩後ろからついてくる。足音の規則性が揃いすぎて、揃いすぎると頭が速くなる。男は唇を閉じ、喉の乾いた音だけ小さく鳴らしてから言った。

「白紙」

言ったあと、男は歩幅を一つだけ落とし、窓枠の角を見て吐く息を長くした。長さが出た瞬間に肩がわずかに落ち、落ちた肩が戻り切らないまま受付の横の小さなカウンターへ案内された。調整役が紙の束を置く。束は揃っていないのに角だけが鋭く見えて、男の胸の奥が速くなりかける。

「観察は一旦ここで区切ります。外出の制限は解除。ただし、生活の報告は続きます。宿泊先は指定の滞在先で、通院は当院です」

調整役の声は淡々としていて、淡々としているほど現実味が増す。現実味が増すと、嬉しいが混ざる。嬉しいは怖い。男は窓を見たまま頷かず、短く返した。

「従う」

調整役は次の紙を引き出す。紙の上に太い枠があり、枠の中に一つの項目がある。保証人。連絡先。緊急時の同意。男の喉が動き、乾いた音が小さく出た。出た音のすぐあとに、近道の言葉が立ちかける。立ちかけたのを男は押し潰すように言う。

「白紙」

調整役は止めずに続けた。

「国外からの受け入れです。こちらでの生活が回るかを見るので、連絡の取れる人が必要です。現地住所と電話。それから、保証人欄は空欄にできません」

男の肩が上がりかけ、上がりかけた肩が落ち切れない。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、押し込んだ指を抜かないまま窓枠の角を見る。女は少し離れた位置で机の端の代わりにカウンターの角を見ていた。角を見ているのに、指先の熱が増えているのが分かる。熱が増えると触れたいになる。触れたら軽くなる。軽くなった反動が怖い。女は触れずに、声だけ落とした。

「距離」

男は頷かずに返す。

「距離」

調整役が女の方へ紙を滑らせた。滑った紙が止まる音が乾いていて、その音の乾きが女の喉を狭くする。女は紙を見ないまま、ペンだけ取った。取ったペンの重さが指先に乗り、乗った重さが熱を一拍だけ遅らせる。女は署名欄の上で止まる。止まった一拍で、男の呼吸が短くなりかける。男が先に言った。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

女は目を伏せずに署名した。文字は丁寧でも綺麗でもなく、揃えようとしない線で、ただ事実として置いた。置いた瞬間、男の胸の奥が跳ねる。跳ねると嬉しいが立つ。嬉しいが立つと、あの言葉が出る。返したい。補いたい。ここで返せるのは一つしかない。男は口を開きかけて止め、喉の乾いた音だけ小さく鳴らした。

「白紙」

女はペンを置き、置いた手を引っ込めないまま指先を軽く握り込む。握り込んだ力を膝へ逃がしながら、男を見ずに言った。

「行為にしない」

男は窓枠の角を見たまま吐く息を少し長くし、長さが出たところで低い声を落とした。

「俺、返したくなる。……今の、返せないのに」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は短く置いた。

「返さない。返すと近道になる」

調整役が紙を揃えずに回収し、次の紙を差し出した。滞在先の鍵受け取り、通院時刻、面会の枠。数字が並ぶ。女は数字を追わない。男も追わない。追うと決まる。決まると早いが立つ。早いが立つと、あの言葉が出る。二人は角だけを見る。

カウンターを離れ、廊下へ戻ると空気が少し薄く感じた。男は胸元に手をやりそうになって膝へ逃がし、逃がした指先を握り込み、吐く息を長くした。女は半歩遅れて歩き、距離を詰めないまま歩幅だけ合わせる。合わせるだけで熱が増える。増えた熱を女は鞄の取っ手へ逃がし、硬さに指先を押し当てた。

外に出ると風が頬を刺した。刺されると喉が狭くなる。男はそれを隠さず、狭くなりかけた喉を押し返して言った。

「俺、怖い」

女は慰めない。慰めると軽くなる。軽さは走る。女は短く返す。

「怖いは言っていい」

男が一拍置き、吐く息を少し長くしてから続ける。

「嬉しいもある。……保証人って、あれ、君の名前だろ」

女は「うん」と返さない。返すと安心になる。安心は走る。女は事実だけ置く。

「書いた」

男の目が揺れる。揺れの先に、返したいが立つ。男はそのまま言った。

「俺、ここで言えば早いって、出た。……君が縛られた分、俺が差し出せば、って」

女の指先が一気に熱くなる。熱が痛みに変わる前に、女は折る。

「白紙」

男もすぐ返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は窓を見る。窓の遠い線に視線を固定し、吐く息を長くする。女はその横で道路の縁石の角を見る。角は遠い線をくれないが、視線を止める場所になる。止めた視線の分だけ、熱が一拍だけ遅れる。

滞在先の部屋は乾いていて、乾いた匂いが喉を狭くする。男は水を飲み、飲んだあとに喉の乾いた音を小さく鳴らしてから言った。

「俺、君を縛りたくない」

女は台所の流しの角を見たまま、短く返した。

「縛られてない。順番が変わっただけ」

男が息を押し返す。押し返した息が短くなりかけ、男が自分で言う。

「止める」

女も置く。

「止める」

男は椅子に座り、膝の縫い目を指先でなぞった。なぞった指が止まり、止まったまま低い声で言う。

「順番を変えたって言うと、俺が納得しやすい。納得しやすいと、嬉しいが増える。嬉しいが増えると、近道が増える」

女は否定しない。否定したら男は黙る。女は息を押し返して短く返す。

「増えるなら、折る回数を増やす」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「折り続けたら……恋は薄くならない?」

女の胸の奥が熱くなる。熱は触れたい入口だ。触れられない。触れられないまま、女は短く置いた。

「薄くしない。薄くなるのは、走ったとき」

その夜、端末が一度だけ震えた。病院からの短い連絡で、明日は生活評価と同行者の聞き取りがある、と書かれている。女は時計を見ない。数字を見たら決まる。決まった数字は走る。女は端末を伏せ、机の角を見る。

男はそれを見て、喉の乾いた音を小さく鳴らした。

「明日、関係を聞かれる」

女は結論を作らない。結論を作ると安心になる。安心は走る。女は息を押し返して事実だけ置く。

「聞かれる」

男が一拍置き、吐く息を少し長くしてから言う。

「言葉を選ぶと、言い訳が出る。言い訳が出ると、近道が出る」

女は短く返す。

「言い訳は増やさない。事実だけ」

男が小さく言う。

「事実って……何だ」

女の指先が熱を持つ。熱が痛みに変わりそうで、女は鞄の取っ手を握り込み、硬さに逃がした。言葉は増やさず、折れるだけ折った。

「今、ここ」

男も置く。

「今、ここ」

明日の質問は、治療でも検査でもなく、二人の言葉を縛る。縛られるほど、近道が立つ。立つほど、白紙が必要になる。夜はまだ終わらない。

朝、女は目を開けたまま天井を見ていた。視線を動かすと余計な情報が増える。増えると整えたくなる。整えると走る。女は動かさずに、窓枠の角だけを視界の端に入れ、息を押し返した。

ベッドの反対側で男が起き上がる。起き上がる途中、胸元へ手が行きそうになって膝へ逃がす。膝の縫い目を指先でなぞり、なぞった指が止まる。止まったまま喉が鳴り、乾いた音が小さく出た。

「今日」

男が言う。言葉が短いほど、続きが立つ。続きは走る。女は返事を急がず、鞄の取っ手を握って硬さに指先の熱を逃がした。

「聞き取り」

女が事実だけ置くと、男の肩がわずかに落ちた。落ちた肩が戻り切らないまま、男は口の中で言葉を転がすみたいに唇を動かす。動いた唇の端で、あの言葉が立ちかける。女は先に折らない。先に折ると、男が言葉を隠す。隠すと身体だけが跳ねる。女は距離だけ落とした。

「距離」

男が頷かずに返す。

「距離」

病院までの道は短いのに、短いほど数字が刺さる。刺さる数字を見ないために、女は端末を開かない。男も見ない。見たら決まる。決まったら早いが立つ。早いが立つと近道が立つ。二人は歩幅だけ合わせ、手は伸ばさない。

受付で調整役が待っていた。淡々と紙を二枚渡す。今日の順番。個別の聞き取り。最後に同席で確認。紙に書かれた「同席」という字面が、女の喉を狭くする。狭い喉は言い訳を呼ぶ。言い訳は近道を呼ぶ。女は紙を揃えないまま鞄に入れ、角だけ見て言った。

「確認だけにする」

調整役は頷かず、先に男を案内した。男は扉の前で一拍止まりかけ、止まりかけた足を自分で一歩出した。出した瞬間に息が短くなりかける。男が先に言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

扉が閉まり、女は廊下の椅子に座る。座った瞬間、指先が熱くなる。熱は触れたい入口だ。触れられないから、熱は痛みに変わる。女は痛みを膝へ押し付け、椅子の角を見る。

最初に呼ばれたのは女だった。小さな面談室。机の端が鋭い。鋭い端は視線の置き場になる。女はそこを見る。担当は白衣ではなく、薄い色の服で、声が静かだった。静かな声は安心を作る。安心は走る。女は息を押し返す。

「保証人として署名した理由を教えてください」

理由、と言われると整えたくなる。整えると走る。女は整えずに事実だけを拾う。

「条件だった。空欄にできないと言われた。連絡の取れる人が必要だった」

相手が次を促す。

「あなたが、連絡の取れる人だと判断した根拠は」

根拠、も整えたくなる。女は机の角を見たまま、余計な解釈を削る。

「同居している。生活を見ている。止め方の合図を共有している。通院も一緒に動ける」

「合図?」

女は短く答える。

「距離。白紙。今、ここ。三呼吸」

相手のペンが一瞬止まる。止まると理解に見える。理解は嬉しいを立てる。嬉しいは怖い。女は先に一度だけ言った。

「白紙」

相手はそれを遮らず、淡々と続ける。

「あなたは、彼に依存していますか」

依存という言葉は重い。重いほど、否定したくなる。否定は強がりになる。女は否定しない。肯定もしない。机の角だけ見て事実を置く。

「生活の運用が絡む。私の側の運用も変わった。競技を辞退した。順番を変えた」

「順番を変えた、とは」

説明が増えると走る。女は短く折る。

「今は、彼が生きるための手順が先。私の競技は後」

相手が静かに言う。

「あなたは、その選択に後悔はありますか」

後悔、と言われると感情が立つ。立つと熱が増える。熱は触れたいになる。女は触れられない。女は息を押し返し、言葉を削った。

「後悔は、出る。出ても、行為にはしない」

相手が一拍置く。

「あなたは、彼を救いたいですか」

救いたい、は危ない。救いは近道を呼ぶ。女は救いを言い換えない。言い換えたら整う。整うと走る。女は机の角を見たまま、短く置いた。

「生きてほしい」

言った瞬間、喉が狭くなる。狭くなった喉の奥で乾いた音が出そうになる。女は唇を閉じ、膝へ力を逃がす。相手はそれ以上踏み込まず、最後に一つだけ確認した。

「彼とあなたの関係を、どう表現しますか」

表現、は固定を求める。固定は逃げ道を削る。逃げ道が削れると近道が立つ。女は一拍置き、言葉を選ばずに事実に戻した。

「同居。生活の同伴者。……恋愛はある」

言ったあと、女の指先が熱くなる。熱は痛みへ変わりかけ、女は自分で言った。

「白紙」

相手は淡々と頷かずに言う。

「分かりました。次に彼の話を聞きます。最後に同席で確認します」

廊下に戻ると、空気が薄い。薄い空気は呼吸を短くする。女は椅子の角を見る。手は伸ばさない。伸ばしたら、今の言葉を抱きしめてしまう。抱きしめたら走る。

次に呼ばれたのは男だった。女は扉の前で立ち止まらない。立ち止まると置いていかれた形になる。女は半歩ずれて待ち、床の線ではなく壁の角を見る。

しばらくして男が出てきた。肩が高い。高い肩は短い呼吸を隠していない。男は女を見ない。見たら言葉が溢れる。男は窓の代わりに廊下の端のガラスを見て、低い声で言った。

「聞かれた」

女は頷かずに返す。

「うん」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「関係を、固定しろって」

固定は危ない。女は短く置く。

「固定は、事実だけ」

男は息を押し返し、言った。

「俺、言いそうになった。ここで言えば早いって」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じ、折る。

「白紙」

男もすぐ返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は視線をガラスの角へ固定し、吐く息を少し長くする。肩がわずかに落ちる。落ちた瞬間、男が低い声で続けた。

「でも、別のこと言った。……同居。生活。合図。恋愛はある、って」

女の指先が熱くなる。熱いまま触れない。女は鞄の取っ手を握って硬さへ逃がし、事実だけ置いた。

「言った」

男が一拍遅れて吐く息を長くする。

「言ったら、怖いのに……嬉しいも出た」

嬉しいは怖い。怖いは近道を呼ぶ。女は慰めない。短く置く。

「嬉しいで走らない」

男が頷きかけて、頷ききらずに息を押し返した。

最後の同席は小さな会議室だった。机の向こうに調整役と医師がいる。医師の声は低く、言葉が短い。短い言葉は余計な説明を呼びにくい。女は机の角を見る。男は窓を見る。役割を混ぜないために。

医師が言う。

「二人の関係性は確認した。治療の条件は変わらない。彼の“別の解決”は受け入れない。言葉が出たら止める。止め方は継続」

男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。出た瞬間、男が先に言った。

「白紙」

医師は頷かず、続ける。

「保証人は法的な窓口だ。感情の担保ではない。感情で背負うと崩れる。崩れると、近道が出る」

女の胸の奥が熱くなる。熱は反論を呼ぶ。反論は整えたくなる。整えると走る。女は言葉を足さず、ただ机の角を見る。

医師が男に問う。

「君は彼女に何を返したくなる」

返す、という言葉が男の胸を跳ねさせる。跳ねた瞬間、あの言葉が立つ。返すなら心臓を差し出せ。男は口を開きかけて止め、喉の乾いた音だけ鳴らした。

「白紙」

医師が短く言う。

「白紙の次」

男は窓を見る。吐く息を長くする。長い吐息の途中で答えた。

「水。立つ。窓」

医師は一行だけ紙に書き、読み上げない。調整役が最後の確認を淡々と置く。

「今日から外出制限は解除。ただし生活報告は継続。面会は枠のまま。同行者の負担は評価対象。二人とも、勝手に増やさない」

女が短く返す。

「確認だけにする」

男も低い声で置く。

「行為にしない」

会議室を出ると、廊下の光が刺さる。刺さる光を見ないために、男は窓へ視線を逃がし、女は角へ視線を固定したまま歩く。外に出た風が頬を刺し、刺さるたび男の呼吸が短くなりかける。男が小さく言う。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

宿へ戻る途中、男が一度だけ足を止めた。止めた足の先に、言いたいが立つ。立った言いたいの形はもう分かっている。男はそれを隠さず、低い声で言う。

「言いたい」

女は否定しない。否定したら男は黙る。女は短く置く。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せ、戻して、小さく言った。

「心臓のやつ。俺が返せば早いって」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は窓を見る。吐く息を少し長くして肩を落とす。落ちた肩のまま、男が小さく続けた。

「でもさっき、関係、言えた。怖いのに……逃げなかった」

女は褒めない。褒めれば安心になる。安心は走る。女は事実だけ置いた。

「逃げなかった。言った」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「恋は……これで残る?」

女の指先が熱くなる。熱いまま触れない。女は鞄の取っ手を握り、硬さへ逃がして短く置いた。

「残る。走らない形で」

その日の夜の三呼吸は、手の甲じゃなく、声だけだった。ひとつ、男が吸って吐く。女も吸って吐く。ふたつ、吐く息が少し長くなる。みっつ、吐ききって止めない。止めたら勝負になる。勝負は走る。二人は止めずに、ただ同じ言葉を口の中へ置いた。

今、ここ。

朝、女は先に起きて、カーテンを半分だけ開けた。全部開けると光が刺さって落ち着く。落ち着くと安心になる。安心は走る。女は机の角へ視線を置き、端末を裏返したまま、紙だけを鞄から出した。

生活報告の初日分。チェック欄と、短い記述欄。睡眠、食事、動悸、呼吸の乱れ。書式が整いすぎていて、整いすぎると男の頭が速くなる。女は紙を揃えずに置き、ペンも渡さないまま言った。

「読むだけ」

男はベッドの端で靴下を履きかけた手を止め、膝の縫い目へ指先を逃がした。喉が鳴り、乾いた音が小さく出る。

「読むと、決まる」

女は頷かずに返す。

「決めない。事実だけ」

男は窓枠の角を見て、吐く息を長くしようとして途中で短くなりかけたのを押し返した。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

女は項目を一つずつ読み上げた。睡眠は浅い。途中覚醒あり。悪夢なし。食事は取れた。水分は増やした。動悸は何回、という欄で男の指が止まり、止まったまま喉がもう一度動く。

「数えると、勝負になる」

女はペン先を紙に当てず、空中で止めた。

「数えない。増えた、減った、だけ」

男は一拍置いて吐く息を少し長くする。

「増えた」

女はそのまま丸を付けず、欄の端に小さく「増」とだけ書いた。整った丸にすると安心が立つ。安心は走る。男はその書き方を見て、言いかけて止めた。

「返したい」

女は折らない。折ると隠す。隠すと身体だけが跳ねる。女は距離だけ落とした。

「言っていい」

男は目を伏せ、戻して、小さく吐いた。

「保証人って、あれ……君が背負った。背負ったなら、俺が返せば早いって」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男もすぐ返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は窓を見て吐く息を長くする。女は机の角を見たまま、紙を一枚だけ引き寄せた。緊急連絡の欄。代理の署名。女の名前はもう入っている。追加で求められているのは、判断の範囲の同意だった。女はそこへ目を落とさず、ペンを持って、署名欄の上で止まった。

止まった一拍で、男の呼吸が短くなりかける。男が先に言った。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

女は署名した。文字は揃えず、線も整えず、ただ事実として置いた。男はそれを見て、喉の乾いた音を小さく鳴らし、口を開きかけて止めた。止めたまま、膝の縫い目へ指先を押し込む。

「止める」

男が言う。女も置く。

「止める」

朝食の支度で、女は包丁を出さなかった。包丁は刃物で、刃物は「近道」を連想させる。連想は速さを呼ぶ。女はちぎれるパンと、皮を剥かない果物だけを皿に置いた。男はそれでも自分の手を使いたくて、果物を持ち上げ、爪で皮を引っかけようとして指が滑った。

滑った瞬間、果物が床へ落ちる。落ちる音が乾いていて、乾いた音が胸を跳ねさせる。男の肩が上がりかけ、上がりかけた肩が落ち切らない。

「白紙」

男は先に言って、言ったあとに立つ。立って、椅子を一つずらす。窓を見る。吐く息を長くする。動作へ逃がしているのに、指先の震えが残る。女は拾わない。拾うと慰めになる。慰めは安心になる。女は皿をもう一枚出し、落ちた果物を捨て、代わりを置いた。置き方は揃えない。

男が低い声で言った。

「俺、役に立たない」

女は否定しない。否定したら男は強がりで塗る。女は事実だけ置く。

「今は運用が仕事。役に立つ、は後」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「後、って言うと……俺、勝てる気がする。勝てる気がすると、近道が増える」

女は皿の端を押し、硬さに自分の熱を逃がした。

「増えるなら、折る回数を増やす」

その直後、端末が一度だけ震えた。病院からの短い通知で、午前に生活報告の受け渡し、午後に短い説明、というだけが書かれている。女は時刻を見ない。男も見ない。女は端末を伏せ、鞄の取っ手を握って言った。

「行く」

男は「うん」と返さず、窓の角へ視線を置いた。

「行く」

玄関で靴紐を結ぶとき、男の指が一瞬止まる。止まった指先の先に、また返したいが立つ。立った返したいの形はもう一つしかない。男は息を押し返して、言いたいをそのまま口にした。

「言いたい」

女は否定しない。短く置く。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せ、戻して、小さく言った。

「心臓のやつ。俺が差し出せば、君の署名が軽くなるって……」

女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男は窓を見る。女は角を見る。二人は手を伸ばさないまま、歩幅だけ合わせてドアを出た。外の光が刺さっても、刺さるまま、吐く息を長くしていく。

病院までの道は風が強く、強い風ほど息が乱れる。乱れる息は近道を呼ぶ。男は窓の代わりに車のフロントガラス越しの遠い線を見て、吐く息を長くしようとして途中で短くなりかけたのを押し返した。女は男を見ない。見れば、言葉が増える。増えた言葉は整って、整うと走る。女は鞄の取っ手の硬さだけ握り、角だけ見て歩いた。

受付は人が少ないのに音が多い。紙が擦れる音、ペン先の乾いた音、番号を呼ぶ短い声。男は番号を追わない。追うと決まる。決まると早いが立つ。早いが立つと、あの言葉が出る。男は喉の乾いた音を小さく鳴らし、先に言った。

「今、ここ」

女も置く。

「今、ここ」

生活報告の紙を調整役に渡すと、調整役は揃えずに受け取り、揃えずに机へ置いた。揃えないのは配慮じゃない。整えない運用の一部だった。女は頷かず、短く言った。

「事実だけ。丸はつけてない」

調整役が淡々と返す。

「それでいい。数字は医療側が取る。生活側は波形だけでいい」

男の喉がゆっくり動く。乾いた音が小さく出た。数字を誰かが取る、という言葉が胸の奥を跳ねさせる。跳ねた瞬間、男は口を開きかけて止めた。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

調整役はそれに反応せず、次の案内だけを出した。

「説明は短い。外来の個室。同行者も入る。本人の意思確認を二回やる」

二回、が刺さる。刺さると勝負になる。勝負は走る。男は窓の代わりに受付のガラスの角へ視線を固定し、吐く息を少し長くする。女は机の端の代わりに椅子の角を見る。

呼ばれて個室に入ると、そこに女医がいた。白衣の袖を少し捲り、端末ではなく紙を持っている。紙の持ち方が雑で、雑さが助かった。整っていないものは、勝負になりにくい。

女医は男を見てから女を見た。見ただけで、女の指先が熱くなる。熱は触れたい入口だ。女は触れないまま鞄の取っ手を握り込み、硬さへ逃がした。

「生活報告、見た」

女医の声は低く、短い。

「眠りは浅い。動悸は増えた。止め方は使えてる」

男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は窓の角を見たまま、事実だけ置いた。

「使ってる。止めてる」

女医は机に紙を置かず、手に持ったまま続ける。

「次は生活の枠を増やす。増やすって言っても、自由を増やすんじゃない。管理の項目を増やす」

増やす、が刺さる。刺さると「早い」が立つ。早いが立つと近道が立つ。男の喉が鳴って乾いた音が出る。男は先に言った。

「白紙」

女医は遮らずに言う。

「白紙のあと、何する」

男は窓を見る。吐く息を長くする。長い吐息の途中で答える。

「立つ。水。窓」

女医はそれを聞いて、紙の端を指で折った。折り目は綺麗じゃない。綺麗じゃないから助かる。

「それでいい。じゃあ確認。保証人の署名、増えたね」

女の指先が熱を増す。熱が痛みに変わりかける。女は机の角を見る。男は膝の縫い目へ指先を押し込み、押し込んだまま言った。

「返したくなる」

女医は表情を変えずに、男へ問う。

「何を返す」

返す、という言葉が胸を跳ねさせる。跳ねた瞬間、あの言葉が立つ。男は口を開きかけて止めた。止めたまま喉の乾いた音だけ鳴らす。

「白紙」

女医は一拍置いてから、女へ視線を移す。移した視線が痛い。女は見返さない。見返すと整う。整うと走る。女医が短く言う。

「あなた、背負い方が雑だね。いい意味で。整えると崩れるタイプだ」

女は褒めだと受け取らない。褒めは安心になる。安心は走る。女は事実だけを置いた。

「整えると、近道が増える」

女医が小さく息を吐く。吐いた息が少し長い。

「分かってる。じゃあ続き。保証人は窓口。感情の担保じゃない。今日から“判断の範囲”が一つだけ増える」

女医が紙を見せた。救急時の連絡先の優先順位。本人が意思表示できない場合の一時的判断。ここで女の喉が狭くなる。狭い喉は言い訳を呼ぶ。言い訳は近道を呼ぶ。女は言い訳を作らずに短く言った。

「確認だけにする。勝手に増やさない」

女医は頷かず、男へ向けて短く言う。

「君は、彼女に判断を渡したくない?」

男は窓の角を見たまま、吐く息を長くしてから答える。

「渡したくない。……でも、今は渡ってる」

女医が続ける。

「渡ってるなら、君がやることは一つ。彼女を軽くしようとしない。軽くしようとすると近道が出る。近道が出ると、君は言いたくなる」

男の喉が鳴る。乾いた音が小さく出る。男はその音のあとに言った。

「言いたくなる」

女医は淡々と聞く。

「何を」

男は一拍置いた。置いた一拍で、女の署名の線が脳裏に刺さる。刺さると胸が跳ねる。跳ねると近道が立つ。男は口を開きかけて止め、代わりに先に言う。

「白紙」

女医は短く言う。

「白紙の次」

男は窓を見る。吐く息を長くする。

「立つ。水。窓」

女医はそこで初めて、紙を机に置いた。置き方は揃えていない。揃えていないまま、低い声で言った。

「私も一つだけ約束する。ここで君を“よくなった”で終わらせない。終わらせると、君は勝負にする。勝負にすると近道が増える」

男は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。男は事実だけ置く。

「続ける」

女医が女へ視線を戻す。

「あなたは、恋をどう扱う」

女の指先が熱くなる。熱は触れたい入口だ。触れられない。触れられないまま、女は鞄の取っ手を握り、硬さへ逃がして短く置いた。

「走らせない。行為にしない」

女医が一拍置く。

「それでいい。次の段階は“生活の中で折る”。病棟より難しい。外は選べるから」

選べる、が刺さる。選べると、逃げ道も近道も増える。男の喉が鳴り、乾いた音が小さく出た。

女医はそこで話を切り、紙を一枚だけ女へ滑らせた。滑った紙の端が机の角で止まる。止まった紙に書いてあるのは、生活報告の提出日と、短い注意だけだった。大きな決定は書いていない。書けば決まる。決まれば走る。

「今日は帰っていい。面会の枠は維持。外出は許可。ただし“二人で勝手に拡張しない”。ここまで」

個室を出ると、廊下の光が刺さる。刺さる光を避けるように男はガラスの角を見る。女は壁の角を見る。歩幅だけ合わせて歩く。

エレベーター前で男が足を止めた。止まった足の先に、言いたいが立つ。立った言いたいの形は、もう一つしかない。男は隠さずに言った。

「言いたい」

女は否定しない。否定したら男は黙る。女は短く置く。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せ、戻して、小さく言った。

「心臓のやつ。俺が差し出せば、署名の重さが消えるって……まだ出る」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男も返す。

「白紙」

白紙を置いたあと、男はエレベーターの扉の角を見る。吐く息を少し長くする。女はその横で鞄の取っ手を握り直し、硬さへ熱を逃がした。

外へ出ると風が頬を刺した。刺されても、二人は走らない。走らないまま歩いて、帰り道の途中で男が小さく言った。

「女医……俺が言う前に止めた」

女は褒めない。褒めれば安心になる。安心は走る。女は事実だけ置いた。

「止めた。あなたも止めた」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「恋、薄くならない?」

女の指先が熱くなる。熱いまま触れない。女は角だけ見て短く置いた。

「薄くならない。走ったら壊れるだけ」

宿のドアを開ける前に、男がもう一度だけ言った。

「今、ここ」

女も置いた。

「今、ここ」

宿のドアが閉まる音は軽かった。軽い音ほど安心が立つ。安心は走る。女は鍵を二回回さず、一回だけ回して止め、鞄を床に下ろした。下ろした瞬間に肩の熱が上がってくる。熱は触れたい入口だ。触れられないから、熱は痛みに変わる。女は痛みを膝へ押し付け、机の角を見る。

男は靴を脱いで揃えかけて、揃えきる前に止めた。揃えたら整う。整うと走る。止めた指が宙で固まり、喉の乾いた音が小さく出る。

「増えた」

男が言う。何が、とは言わない。言えば形になる。形になると勝負になる。女は頷かずに返す。

「増えた。判断の範囲」

男は窓枠の角を見て、吐く息を長くしようとして途中で短くなりかけたのを押し返した。

「俺がやる」

その言葉が、返したいの入口になる。入口の先は近道だ。女は否定しない。否定したら男は黙る。女は事実に戻す。

「あなたは本人。判断は渡ってる。だから止め方を使う」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出る。

「止め方を使うほど、俺は何も返せない」

女は机の角を見たまま、鞄から紙を一枚だけ引き出した。今日渡された注意。提出日。拡張しない。字面が整いすぎているから、女は紙を揃えずに机へ置いて、指で端を折った。折り目は歪む。歪みが助けになる。

「返すのをやめる、じゃない。返す“形”を変える」

男が一拍置いた。返す形、と聞いた瞬間に期待が立ちかける。期待は嬉しいを呼ぶ。嬉しいは怖い。男は先に言う。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

白紙を置いたあと、女は台所の流しへ行き、湯を沸かした。沸騰の音は規則的で、規則的な音は呼吸の枠になる。女はカップを二つ出す。並べない。並べると整う。整うと走る。男は机のそばに立ったまま、カップの位置を揃えようとして止めた。

「やめる」

男が低く言う。女は頷かずに返す。

「やめる」

湯気が立ち、匂いが広がる。匂いは落ち着きを作る。落ち着きは安心になる。安心は走る。女は匂いを吸い込まず、吐く息を少し長くしてからカップを置いた。男の前に、触れない距離で置く。置いた指先が震えそうで、女は指を握り込んで膝へ逃がした。

男はカップに手を伸ばしかけ、伸ばしきらずに止めた。止めた指の先に、また返したいが立つ。返したいの形はもう一つしかない。男は隠さずに言った。

「言いたい」

女は否定しない。短く置く。

「言っていい。言ったら白紙」

男が目を伏せ、戻して、小さく言う。

「心臓のやつ。俺が差し出せば、判断の範囲が消えるって……」

女の胸が跳ねる。跳ねた反動で喉が狭くなる。女は唇を閉じて押し返し、折る。

「白紙」

男もすぐ返した。

「白紙」

白紙を置いたあと、男はカップを持った。持った手がわずかに震える。震えが見えると女の指先の熱が増える。増えた熱は触れたいになる。触れたら軽くなる。軽くなった反動が怖い。女は触れずに、机の角だけ見て言った。

「震えてるなら、置く」

男は反発しない。反発すると勝負になる。勝負は走る。男は吐く息を長くし、カップを机に戻した。

「置く」

沈黙が落ちる。沈黙は言葉を増やす入口になる。増えた言葉は言い訳になる。言い訳は近道になる。女は沈黙を埋めない代わりに、紙の注意書きを指で押さえた。押さえた硬さが熱を一拍遅らせる。

そのとき端末が震えた。女は画面を見ないまま、通話だけ取った。病院の番号だと分かる音。調整役の淡々とした声が落ちてくる。

「確認です。緊急時の連絡先、優先順位。本人が意思表示できない場面の一次判断。あなたが窓口で間違いないですね」

女の喉が狭くなる。狭い喉は言い訳を呼ぶ。言い訳は近道を呼ぶ。女は机の角を見たまま、短く答えた。

「間違いない」

調整役が続ける。

「本人の希望は“別の解決をしない”。こちらで共有済みです。あなたも共有しますか」

女の胸の奥が熱くなる。熱は声を揺らす。揺れは弱さに見える。弱さに見えると男が返したくなる。女は揺らさず、事実だけ置く。

「共有する」

通話が終わった瞬間、男の肩が上がりかけた。上がりかけた肩が落ち切らず、男は膝の縫い目へ指先を押し込む。喉の乾いた音が小さく出る。

「今の、俺のことだろ」

女は頷かない。頷けば安心になる。安心は走る。女は短く置く。

「そう」

男の呼吸が短くなりかける。短くなると、あの言葉が立つ。男は自分で言う。

「白紙」

女も置く。

「白紙」

男は吐く息を少し長くしてから、低い声で言った。

「俺がいない方が、君は軽い。軽いなら、勝てる。勝てるなら……」

勝てる、は危ない。勝負は走る。女は否定しない。否定したら男は強がりで塗る。女は形で止める。

「止める」

男も置く。

「止める」

女は机の端を押さえたまま、言葉を増やさずに一つだけ置いた。

「軽くしようとするのが近道。だからしない」

男の喉がゆっくり動き、乾いた音が小さく出た。

「じゃあ、俺は何をすればいい」

女は結論を作らない。結論は安心になる。安心は走る。女は事実だけに戻した。

「今夜は、水。食べる。眠る。折る。以上」

男が一拍置き、吐く息を少し長くした。

「恋は」

女の指先が熱くなる。熱いまま触れない。女は鞄の取っ手を握り、硬さへ逃がして短く置く。

「残す。走らない形で」

夜の三呼吸は声だけでやった。ひとつ、吸って吐く。ふたつ、吐く息が少し長くなる。みっつ、吐ききって止めない。止めたら勝負になる。勝負は走る。二人は止めずに、ただ同じ言葉を口の中へ置いた。

「今、ここ」

男が言い、女も置く。

「今、ここ」

呼吸が落ち着いても、痛みは消えない。痛みがあるまま、恋は残る。残したまま、明日もまた、拡張しない。

朝、女はカップを洗い終えたまま、濡れた手を拭かずに流しの角を見ていた。湯気はもう立っていないのに、部屋の空気だけがまだ乾いている。乾きは喉を狭くする。狭くなると声が揺れる。揺れると男が返したくなる。女は声を出さず、タオルを握って硬さに指先の熱を逃がした。

奥の部屋で男が起き上がる音がした。マットレスの沈みが戻る音。足が床に触れる音。そのあと、息が一度だけ浅くなる。浅くなったのが戻り切らないまま、男が低い声で言う。

「今、ここ」

女も台所から置く。

「今、ここ」

男は返事を求めないまま、洗面へ行った。水の音がしばらく続き、止まる。止まった直後に、息が短くなる気配が一つ混じる。短くなると、近道が立つ。立つ前に折るには、距離が必要だ。女は動かずに、耳だけをその方向へ向けた。

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