鼓動
まさか一話前半だけでここまでかかるとは思わんかった。
あと説明だけしておくと鬱が酷い時に書いた奴です、でも自分の抵抗というか、実体験として結構死ぬのは緩やかだったり、世界史でも国滅ぶまでとか、夫婦喧嘩が酷くなってもそこから離婚するまでは時間掛かったりとか。
駅前のカフェは昼の匂いで満ちていた。焼けた豆の苦みと甘い焼き菓子の香りが混ざり、入口のガラスに人の熱が貼りついている。女は肩から下げた鞄の位置を直し、足元の混雑に合わせて歩幅を詰めた。胸の奥が早く動き、息を吸ったはずなのに喉の手前で止まる。口を閉じたまま鼻から短く吸い直し、背筋を伸ばして列に入った。
注文口の上のメニューを見上げるふりをしながら、女は呼吸の回数を抑えた。周りに合わせて笑った声、紙袋の擦れる音、ミルクの泡が落ちる音が同じ高さで押し寄せる。その中に、ひとつだけ遅い音が混じった。笑い声だ。弾けず、転がらず、落ち着いたまま残る。女は視線だけ動かし、遅い笑い声の方向を探した。
男がいた。背が高く、立ち方がまっすぐで、靴底が床に吸い付いているように動かない。肩の線は柔らかいのに、首の角度と目線の位置だけが真っ直ぐで、周囲の騒がしさと切り離されて見えた。友人らしい相手が何かを言い、男は一拍遅れて口角を動かした。女の胸の内側が一段早く刻み、指先に熱が集まる。女は目を戻し、カードを取り出す手が震えないように力を抜いた。
支払いを済ませ、受け取り口へ進む。店員が名前を呼び、女は一歩前へ出た。カップに指をかけた瞬間、鞄の口がわずかに開き、薄い革のケースが床に滑った。落ちた音は小さい。人の足に踏まれて消える程度の音だった。女が屈むより先に、影が動いた。
「落ちました。」
振り向くと、男がケースを差し出していた。距離は近いのに、圧がない。女は「ありがとうございます」と言いながら受け取り、指先が一瞬だけ男の指に触れた。温度が伝わる。次の瞬間、触れた部分の奥で脈がゆっくり打った。遅い。強い。女の喉が一度だけ狭くなり、言葉の終わりが掠れた。
男は軽く頷き、受け取り口の表示を見たまま言った。
「混んでますね。」
女は「ええ」とだけ返した。返してから、自分の声が少し早いことに気づく。息の入れ替えが追いつかない。男は女の胸元ではなく喉の動きだけを見て、視線をすぐ外した。見ていないふりの速さが、逆に目立つ。
「席、探してました?」
男の問いは短い。踏み込むようで踏み込まない。女は首を横に振った。男は店内を一度見回し、窓際の二人席を顎で示した。ちょうど鞄を肩にかけた客が立ち上がり、椅子の脚が床を擦った。男は人の流れを乱さない速度でその席へ近づき、椅子を引いた。引き方が丁寧で、動作が早すぎない。
「どうぞ。」
女は立ち止まり、目線を一度だけ男の手に落とした。指の節が硬い。爪は短い。手首の皮膚が薄く、血管の線がはっきりしている。女は「ありがとうございます」と言い、椅子に座った。背中が椅子に触れた瞬間、息が少しだけ深く入る。男は向かいに腰を下ろし、カップを置く音を抑えた。
「拾ったお礼、前払いってことで。」
男がそう言って口角を上げた。女の胸の内側がまた速く刻む。熱いのはカップのせいにして唇を縁に当てると、舌先が一瞬跳ねた。男がそれに気づき、視線を窓へ逃がす。逃がしたのに、頬のあたりだけが少し動く。
女は砂糖の袋を手に取り、折り目をきっちり付けてからテーブルの端に揃えた。揃える動作をしていると指先の震えが隠れる。男はその手元を見て、短く息を吐いた。
「几帳面ですね。」
「癖です。」
女はそれだけ言った。言い終わりに息が掠れ、喉の奥が乾く。男はカップを持ち上げ、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。遅い動きが、女の視線を引き止める。女は目を逸らしきれず、カップの持ち方を真似るように取っ手に指を絡めた。
男が砂糖の袋を一つ摘まみ、女の方へ軽く持ち上げる。
「追加料金、これで足ります?」
女は砂糖をもう一つ取り、差し出した。袋の端で指先が当たった。短い接触の間にも、男の脈の遅さが伝わる。女の指の内側が熱くなり、手を引く動作が少しだけ遅れた。男は何も言わず、砂糖を落とさないように指先で受けた。その受け方が、細かいところまで乱れない。
「さっき、笑い声が聞こえました。」
女が言うと、男は一瞬だけ眉を上げた。
「うるさかったですか。」
「うるさくはないです。」
女は否定し、続ける言葉を探してカップを置いた。カップがソーサーに触れる音が、思ったより大きく響いた。女は指先で取っ手の位置を直し、音の大きさを消そうとしたが消えない。男はその音を聞いたまま、「じゃあ、よかった」と言って視線を戻した。戻った視線は女の目ではなく、女の手元に落ちる。
女の息が浅くなる。浅くなるのを止めようとして、喉が一度詰まる。女は鼻から短く吸い直した。男はその動きを見て、カップを置いた。
「苦しい?」
一語だけ。声は低い。女は反射で首を横に振った。否定の動きが早くなり、余計に息が上がる。女はその矛盾に気づき、指先でテーブルの縁を押した。木の硬さが指に返ってくる。
「大丈夫です。」
女はそう言った。言い方が強くなったことに自分で分かり、口の中が乾いた。男は「そっか」と言って、視線を外した。外した視線が、女に逃げ場を作る。女はその逃げ場の作り方に、胸の内側がまた速くなるのを感じた。
男は窓の外を見ながら言った。
「ここ、息を吸い直しても変じゃない場所にしましょう。」
女は返事をしなかった。返事の代わりに、もう一度だけ息を吸った。さっきより深く入る。胸の奥が痛むほどではない。女はそれを認めたくなくて、砂糖の袋を二つ並べ、端をぴたりと揃えた。
男が小さく笑った。遅い笑いだ。女の胸がその遅さに合わせるように、一瞬だけ落ち着く。女は目線を上げ、男の顔を見た。男の目は笑っていない。笑っていないのに、柔らかい。女は視線を逸らし、カップの縁を指でなぞった。熱があるのに、指先が冷たい。
「名前、聞いてもいいですか。」
女が言うと、男は「いいですよ」と返した。返し方が軽いのに、椅子の座り方が変わらない。女は喉を一度動かし、息を整えた。整えたはずなのに、次の瞬間、心拍が一段跳ねた。男の遅い脈が、さっき触れた指先にまだ残っている。
女は名を言った。男も名を言った。どちらの音も店の雑音に溶けるはずなのに、女の耳には残った。残ったのは、音そのものではなく、名を口にする時の男の喉の動きだった。遅い。揺れない。女はその遅さを、もう一度触れて確かめたいと思い、思った瞬間に指先が熱くなった。
男が立ち上がり、上着の袖を直した。
「時間、大丈夫?」
女は「大丈夫です」と言った。大丈夫という言葉が、自分の呼吸より先に出た。男は頷き、歩き出す前に少しだけ手を差し出した。握手ではない。道を譲るときの仕草に近い。女は迷い、迷ったことがそのまま手首に出て、動きが遅れた。男は待った。待ち方が自然だった。女はその手の横を通り、肩がかすかに触れた。触れた瞬間、男の体温が布越しに伝わる。遅い脈と同じ温度だった。
外に出ると、冬の空気が肺に刺さった。女は一度だけ立ち止まり、吸い直す。男は横で歩幅を合わせ、視線を前に置いたまま言った。
「また、ここでもいい?」
女は頷いた。頷いた瞬間、胸の内側が速く刻み、喉が狭くなる。女はそれを隠すために、コートの襟を直した。襟を直す指先が震え、震えを抑えるために布を強く掴んだ。男はそれを見ないふりをして、歩幅を女に合わせたまま角を曲がった。
男の声は外気に少しだけ掠れて、女の耳に残った。女は頷いた。頷いた瞬間、胸の内側が跳ね、息がひとつ詰まる。詰まったのを誤魔化すように、女はコートの襟を整え、指先を布の上で滑らせた。布の硬さが指に返り、震えが止まるまでの時間を稼げる。
男は歩幅を合わせたまま、ポケットから携帯端末を出した。画面の明るさが冬の夕方に浮く。女が同じように端末を出すと、指先が少し冷えていて反応が遅れ、画面が一度だけ暗くなった。男はそれを待つ。待ち方が自然で、女は余計に焦り、もう一度だけ息を吸い直した。
端末同士が近づき、短い音が鳴った。交換が終わる。女は端末をしまい、鞄の口をきっちり閉めた。閉める動作が終わっても、胸の奥の速さだけが残る。男はそれを見ないふりをして、視線を信号に置いたまま「じゃあ、今度」とだけ言った。
別れ際、男は片手を軽く上げた。女も同じように手を上げ、動きが半拍遅れた。遅れたことを自分で意識した瞬間、熱が頬の内側に集まる。男は振り返らずに歩き出した。歩き出した背中がまっすぐで、足音が一定だった。女はしばらくその一定さを目で追い、追っている間に自分の呼吸がまた浅くなるのを感じて、駅の方向へ歩き出した。
家に着くと、暖房の匂いが鼻に入った。靴を脱いで廊下を歩く間も、女の胸の内側は落ち着かない。鞄をテーブルに置き、コートを掛け、指先を広げて閉じてから、ようやく息を吐いた。吐いた息が白くならない室内で、吐く動作だけが妙に目立つ。
女は手首を押さえた。脈は速い。速さが一定でない。数えようとして数えられず、指先だけが熱くなる。さっき触れた男の指の温度が、皮膚の内側に残っている気がした。遅い脈の感触が、指の腹に引っかかって離れない。女は手を離し、台所へ行って水を飲んだ。冷たい水が喉を通ると、喉の狭さが少しだけ緩む。緩んだぶん、余計なことが頭に入る。男の目線が、女の目ではなく手元に落ちていたこと。砂糖の袋を受け取るときの指先が乱れなかったこと。笑い声が遅く残ったこと。
端末が振動した。通知ではなく、入力中の表示が一瞬だけ出て消えた。女は画面を見たまま待った。待つ間に、胸がもう一度跳ねる。跳ねる音が自分にしか聞こえないのが腹立たしい。次の振動で、短い文が届いた。
「さっきの席、助かりました。次、いつ空いてます?」
女は返事を打ち、消して、打ち直した。短くしようとして短くなりすぎ、丁寧にしようとして長くなる。指が勝手に速く動き、変換候補が暴れる。女は一度だけ息を吸い直し、画面の上で指を止めた。送信を押すとき、指先が少しだけ震えた。
「明後日の夕方なら。混む前がいいです」
送信した瞬間、肩の力が抜ける。抜けたのに、胸の速さは抜けない。女は携帯端末を伏せて置き、台所の流しを指でなぞった。冷たいステンレスの感触が指に返る。返ってくるものがあると、呼吸の浅さに引きずられにくい。
明後日、女は少し早くカフェに着いた。早い時間なのに、人はいる。女は窓際の二人席を探し、空いているのを見つけてから、ようやく入口から中へ入った。注文を済ませ、席に座ると、胸の内側が勝手に速くなる。相手が来ていないのに速くなるのが不快で、女はトレーの端を指で押し、形がずれないように揃えた。
ドアベルが鳴った。女は顔を上げないようにしながら、音だけで男を探した。靴底の音が一定。人の間を抜ける速度が変わらない。椅子を引く音が小さい。女が視線を上げる前に、男の影がテーブルの端に落ちた。
「早いね。」
男が言った。女は「少しだけ」と返し、カップの位置を指で直した。直す必要がない位置なのに直す。直している間、男の視線が女の手元に落ちる。前回と同じだ。女はその視線が嫌ではなく、嫌ではないことがもっと嫌で、口の中が乾いた。
男は席に座り、上着を脱がずに袖を捲った。腕が露わになる。皮膚が薄く、血管の線がはっきりしている。女は見ないつもりで見てしまい、見てしまった瞬間に息が詰まる。男はそれに気づかないふりをして、砂糖の瓶を手前に寄せた。
「追加料金、今日は払える?」
前回と同じ言い方。軽い。女は「今日は利息付きで」と返し、砂糖を一つだけ男のカップの横に置いた。置くとき、指先が瓶の縁に触れて冷たさが走る。冷たさに引っ張られて呼吸が一度だけ戻る。男は砂糖を受け取り、封を切る動作が丁寧だった。切り口がまっすぐで、女はそれを見て、胸の内側がまた速くなる。
会話は長く続かなかった。長く続けようとすると女の息が乱れる。男も長く話さない。短い質問、短い返事、沈黙。その沈黙の間に、女は男の遅い呼吸を勝手に聞き取ろうとする。男はカップを置く音を抑え、女はスプーンの向きを揃える。二人の癖が、テーブルの上でぶつからずに並ぶ。
男がふいに言った。
「手、冷たい?」
女は反射で手を引きかけた。引きかけて止めた。止めたせいで動きが不自然になり、指先が宙で固まる。男はそれを見て、テーブルの上に手の甲を置いた。掌を見せない。押し付けもしない。ただ、置く。女は一拍遅れて、自分の手をその近くに置いた。触れない距離。触れないのに、触れた時の温度が頭に浮かぶ。
男は視線を外したまま、もう一度だけ言った。
「触ってもいいよ。」
女の喉が狭くなる。狭くなって、息が入らない。女は鼻から短く吸い直し、指先を少しずつ男の手へ寄せた。距離が詰まるほど、自分の脈が速くなる。速くなるのに、男の手は動かない。女の指先が男の手の甲に触れた瞬間、温度が伝わる。遅い脈が、皮膚の下で一定に打つ。女はそれを確かめるように指を止め、止めたまま息を吐いた。吐けた。吐けたことが腹立たしい。
男が短く笑った。遅い笑いだ。女の胸の速さが一瞬だけそれに引っ張られ、落ち着きかけて、すぐ跳ね返った。女は指先を離せず、離さないまま、男の目を見た。男の目は笑っていない。笑っていないのに、逃げない。女はその目線に耐えきれず、視線を落として男の手首のあたりを見た。骨の出方がはっきりしている。血管の線が薄い。女の指先がその線の上で止まる。
男は何も言わなかった。女が指を動かすまで待っている。待つ間、男の脈は変わらない。女の脈だけが跳ねる。
女は指先を引いた。引いた瞬間、空気が冷たくなる。冷たくなったのに、指先の内側は熱いままだった。女はその熱を隠すようにカップを持ち上げ、唇を当てた。男は砂糖の袋をもう一つ摘まみ、女の前に置いた。追加料金でも、利息でもない。ただ、置いた。
女はそれを見て、息を吸い直した。今度は、わざとだった。
女がわざと吸い直すと、男の指先が砂糖の袋の上で止まった。止まったまま、男は女の喉の動きだけを見て、視線をすぐ窓へ逃がす。逃がしたのに、逃がしたことが女には分かる。女はカップを置き、指先を取っ手から外してテーブルの縁に揃えた。揃える動作が終わると、手が余り、余った手が熱を持つ。女はその熱を隠すように、もう一度だけ砂糖の袋を折り、折り目をきっちり付けた。
男が短く言った。
「今の、癖?」
女は頷きかけて止めた。止めたせいで首の筋が固まり、息が一瞬詰まる。男はそれを追わず、カップの縁を指で回した。指の動きが一定で、女はその一定さに目が吸われる。一定さを見ていると、自分の胸の速さが少しだけ落ちる。落ちた分だけ、また戻ろうとして胸が跳ねた。
女は返事の代わりに「うん」とだけ言った。言った後で、声が短すぎて口の中が乾く。男はそれ以上聞かない。聞かない代わりに、砂糖の袋を女の前へもう一つ押しやった。押しやった指先が女の指先と当たりそうで当たらず、そこで止まる。止まった位置が近い。
女はその近さに耐えきれず、砂糖の袋を受け取って端へ寄せた。寄せた瞬間に、男の手の甲が見える。皮膚の下に薄い線が走っていて、女の視線は勝手にそこへ落ちた。落ちたまま、戻すのが遅れる。
男が椅子にもたれずに言った。
「仕事、今は何してるの?」
女は一拍置いた。答えはすぐ出るのに、一拍置かないと呼吸の位置がずれる。女は指先を重ね、重ねた指で爪の端を押した。
「管理系。締め切りと、数字と、人の都合」
男は頷いた。頷きが小さいのに、首の動きがぶれない。
「向いてそう。」
女は口を開きかけて閉じた。向いていると言われると、胸が一段速くなる。速くなるのに、否定の言葉が出ない。女はカップの縁を指でなぞり、熱さで指先の感覚をごまかした。
男が続けた。
「俺は走るのが仕事だった。今は、まだ残ってる感じ」
女は「だった」に引っかかった。引っかかったまま声にしない。声にすると息が乱れる。代わりに男の手首を見る。袖を捲った位置の少し上、骨の出方、血管の線。女は自分の手首を同じように見て、線の薄さに目が止まる。目が止まると、喉がまた狭くなる。
男が「もう一杯いく?」と聞き、女は首を横に振った。振っただけで少し息が上がる。男はそれを拾わず、立ち上がる動作を女の速さに合わせた。合わせたのに、合わせていると主張しない。コートを着る音が小さく、椅子を戻す音が小さい。女はその小ささの中に、体の内側が落ち着く場所を探した。
店を出ると、冷たい空気が肺に刺さった。女は反射で吸い直し、吸い直した空気が胸の途中で止まる。止まった瞬間、男が歩幅を落とした。落としただけで、何も言わない。女は歩幅を合わせる。合わせると、胸の速さが少しだけ収まる。収まったことに気づいた瞬間、また跳ね返る。女はコートのポケットに手を入れ、指先を握って開いて、握って開いた。
信号の前で男が止まった。女も止まる。止まったとき、男の肩が一度だけ上下した。息を吐いたのが分かる。ゆっくり。女はそれを盗むように真似し、吐く。吐けた。吐けたことが気持ち悪くて、女は視線を前へ固定した。
青に変わる。人が流れる。男は女の半歩前に出て、車道側へ体を寄せた。寄せたのに、触れない。女の肩が冷たい風に当たるはずの位置が、男の影で少しだけ温くなる。女はその影の温さに、胸の内側がまた速くなるのを感じた。
駅の改札前で女は立ち止まった。別れの位置が決まると、呼吸の置き場が急に無くなる。女は鞄の口を触って閉め直し、閉め直す必要のない金具を確認した。男は少し離れて立ち、視線を女の顔ではなく足元に落としている。落としているのに、女の動きは見ている。
「次、いつがいい?」
男が言った。短い。女は端末を出し、予定を開く。指先が冷えてスクロールが少し遅れる。遅れた分だけ胸が跳ねる。男は待つ。待つ間、男の呼吸が乱れない。
「来週の、同じ時間」
女が言うと、男は頷いた。頷いて「了解」とだけ返す。女はその返事の短さに、胸がまた跳ねる。跳ねるのに、嫌ではない。嫌ではないことが喉の奥を狭くする。女は一度だけ吸い直し、端末をしまった。
男は手を上げた。女も手を上げた。動きが半拍遅れた。男はそれに気づいたようで気づかないようで、口角だけを動かして背を向けた。背中がまっすぐで、足音が一定。一定の足音が遠ざかるのを見ていると、女の胸の内側だけが勝手に速くなる。
家に戻った女は、コートを掛ける前に腕時計型の端末を外した。画面を見て、指先が止まる。数字が並ぶ。昼の数字。さっきの数字。触れた瞬間の跳ね。女は数字を消すように画面を暗くし、暗くしても指先の熱は消えない。女は指を手首に当て、脈を数えようとして数えられず、代わりに自分の喉を一度だけ押した。
男の遅い脈が、まだ指の腹に残っている気がした。残っている気がして、女は流しの前で手を洗い、冷たい水で指先を冷やした。冷えたのに、胸の内側は速いままだった。女はタオルで手を拭き、拭き終わったタオルの端をきっちり揃え、揃えた端を見て息を吸い直した。吸い直した息が、さっきより少しだけ深く入る。深く入ったことに気づいた瞬間、女はタオルを握り、握った跡が消えるまで指を離さなかった。
来週の同じ時間、女は駅の改札を抜ける前に腕時計型の端末を一度だけ見た。数字は平常に寄っている。平常に寄せるために、家を出る前から動きを揃え、階段の上り方を一定にし、息を吸い直す回数を数えて減らしてきた。駅前の雑踏に入った瞬間、その整えたものが薄く剥がれる。人の声が重なり、背中が触れ、ガラスの反射が視界に刺さり、胸の内側が勝手に速くなる。女は歩く速度を落とさず、鞄の金具を指で押し、硬さを返してもらいながらカフェへ向かった。
ドアベルが鳴る前に、もう男はいた。窓際ではない。入口から少し奥、列の流れを避けられる位置に立っている。立ち方が変わらない。足の置き方が一定で、肩が上がらない。女は男の横顔を見て、胸の内側が一段跳ねた。跳ねたのを見せないように顎を引くと、喉が狭くなり、息が短くなる。短くなった息を隠すために、女は視線をメニュー板に向けた。
男が先に気づき、手を上げた。女も手を上げた。遅れは前より小さい。小さくなっただけで、女の指先が熱を持つ。
「混む前で正解だったね。」
男が言う。女は「ええ」と返し、カウンターへ並んだ。注文を終えると男が紙袋を二つ受け取り、ひとつを女の方へ差し出した。温かい匂いが袋から出る。女が受け取ると、指先の冷えが袋の熱に押し戻される。押し戻された瞬間に心拍が跳ね、女は袋の持ち手を指で掴み直した。掴み直すと、震えが止まるまでの時間が稼げる。
席に座ると、男は上着を脱がずに袖を捲った。いつもの動作だ。女の視線は勝手に手首の線へ落ちる。落ちたまま戻すのが遅れ、女は慌てて紙袋の端を折って揃えた。揃える必要のない端を揃える。男がそれを見て、口角だけを動かした。
「今日は、利息はもう取らない?」
女は「取る」とだけ返した。返した声が短く、喉が乾く。男は頷き、砂糖の袋を女の前に置いた。前回の続きみたいに置く。置かれた袋の端が女の指先に触れそうで触れない距離に止まる。女は袋を取り上げるより先に、男の指先を見てしまった。爪の端が揃っている。指の節が硬い。硬いのに動きが乱れない。
男がカップを持ち上げ、飲み込む喉がゆっくり動いた。女はその喉の動きを見て、呼吸が一度だけ深く入る。深く入ったことに気づいた瞬間、女はカップに口をつけ、熱さで舌先を跳ねさせた。跳ねたのを隠すつもりで視線を落とすと、男が少しだけ体を前に寄せていた。
「外、歩く?」
男はそう言って、窓の外を顎で示した。女は頷いた。頷いた瞬間に胸が跳ね、息が短くなる。短いのに、外へ出るときの空気の変化を想像して、また吸い直したくなる。女は吸い直しを我慢し、紙袋の持ち手を強く握った。握ると、指先の熱さが自分の中へ戻る。
店を出ると空気が冷たく、肺が一度だけ刺される。女は反射で吸い直し、吸い直した息が喉の手前で止まった。止まった瞬間、男の歩幅が落ちる。落ちるのに言わない。女が落ちるのを待つように横に並び、車道側に半歩ずれる。風が女の肩に当たる位置が変わり、コートの布が静かに鳴る。
川沿いの道は人が少なかった。歩くと靴底の音が一定になり、女の胸の内側も少しだけ一定に寄る。寄ったのに、男の呼吸の遅さが隣で続いていると、女の内側が勝手にそれを追おうとして跳ね返る。女はポケットの中で指を握って開いて、握って開いた。握り跡が残るくらいまで力を入れると、息の浅さが少しだけ後ろへ退く。
男が不意に足を止め、橋の欄干に手を置いた。女も止まる。止まると、動きが止まった分だけ胸の速さが目立つ。女は欄干に触れ、冷たい金属の感触を指先に当てた。冷たさが指先を走り、胸の内側が一度だけ落ちる。落ちたところへ、男の声が入る。
「走ってみる?」
女の喉が狭くなる。狭くなって返事が遅れる。男は待つ。待つ間、男の肩が上がらない。女は「少しだけ」と言った。言ったあと、胸の内側が跳ねる。自分で決めた言葉なのに、体が先に反応する。
二人は歩道の端へ寄り、前方を見た。男は合図を出さない。女が一歩出るのを待ち、女の一歩に合わせて走り始めた。男の足音は軽い。地面を叩く時間が短い。女の足音は少し重い。体が先に空気を欲しがり、息が浅くなる。女は鼻から吸い直し、吸い直しが追いつかず、口が開きそうになるのを歯で止めた。止めると喉がまた狭くなり、胸の内側が速く刻む。
男は速度を上げない。女の横で、同じ距離を保つ。距離を保っているのに、女は置いていかれている感覚になる。置いていかれているのは足ではなく胸の内側だ。女はもう一歩、もう一歩と出すが、呼吸が先に崩れる。視界の端が白くなる。女は立ち止まろうとして、足がもう一歩だけ出て、膝が揺れた。
男の手が女の肘に触れた。掴むというより支える位置だった。触れた瞬間、女の皮膚が熱くなる。熱くなったせいで、息がさらに乱れる。女は立ち止まり、前かがみになりそうになるのを腹の力で抑え、膝に手をついた。空気が入らない。入らないのに胸が速い。女は吸い直し、吸い直し、吸い直しを繰り返し、ようやく一度だけ深く吐けた。吐けたところで、男の遅い呼吸が隣にあるのが分かる。遅いまま、乱れていない。
「ごめん。」
女が言うと、男は首を横に振った。
「いい。」
それだけ。女は顔を上げ、男の首筋を見る。脈がそこにあるはずの場所が、落ち着いた皮膚の下で静かに動いている。女はそれを見て、指先が勝手に男の袖口へ伸びそうになるのを止めた。止めたせいで指が震える。女はその震えを隠すために紙袋を持ち直し、持ち手を指の腹で潰した。
男は女の背中に手を置かなかった。置かない代わりに、女の前へ自分の紙袋を差し出した。温かい。女が受け取ると、熱が指先から入ってくる。入ってくる熱で、女はようやく口を閉じ、鼻だけで呼吸を整え始めた。整いきらない。整いきらないまま、女は男の手首をもう一度見た。遅い。乱れない。乱れないものが隣にあるだけで、自分の乱れがはっきり見える。
歩き出すと、男は女の半歩前に出なかった。半歩前に出ると女の息が追いつかなくなるのを、男は知っているみたいに見えた。女はその見え方に耐えられず、顔を横へ向けた。川面が光り、冷たい空気が頬を撫でる。女の胸の内側はまだ速いのに、男の歩幅に合わせている間だけ、速さが一定に寄る。寄ることが腹立たしくて、女はポケットの中で指を強く握った。握ると、指の内側が痛い。
駅へ戻る道で、男が「また、走る?」と聞いた。女は首を横に振った。振っただけで少し息が上がる。男は「了解」と言った。了解の言い方が軽く、女はそれに引っかかる。軽いのに、女の息を追い詰めない。女は端末を見ずに歩いた。見れば数字が並ぶ。並ぶ数字に縛られる。縛られないために見ない。見ないまま胸の速さだけを感じていると、男の遅い脈の感触が指先に戻ってくる気がした。
別れ際、男は女の紙袋を指で軽く叩いた。叩いた音が小さい。
「温かいうちに飲んで。」
女は頷いた。頷きが遅れ、男が口角だけを動かす。女はその口角の動きに、喉が狭くなるのを感じた。駅の改札を抜けても、紙袋の熱が指先に残り、指先の熱が胸の速さに伝わり、胸の速さが落ちないまま家まで付いてきた。女は玄関で靴を脱いでから、腕時計型の端末を見た。数字が並ぶ。並ぶ数字の中で、走った時間の山がひとつだけ立っている。女はその山を指で拡大し、拡大して、指先が止まった。山の頂点が自分の中で再生される。息が詰まり、肘に触れられ、脈の遅さが隣にあった瞬間。
女は画面を暗くし、暗くしたまま、指先を自分の手首に当てた。速い。速いのに、遅いものに触れた記憶だけが、皮膚の内側で消えない。
次に会ったのは平日の夜だった。駅前のカフェより人が少ない店を男が選び、女はその入口で一度だけ立ち止まった。ガラス越しに見える席の間隔、照明の高さ、空調の風向き。胸の奥が跳ねる前に、吸い直す回数を減らせる場所かどうかを体が先に測る。男は先に入らず、女の横で立ったまま待ち、女が一歩踏み出した瞬間に同じ速度で動いた。店員に案内されるまでの短い時間、男の足音は一定で、女はその一定さに合わせるように鞄の金具を指で押し、硬さを返してもらいながら歩いた。
席に着くと、男は上着を脱いで椅子の背に掛けた。袖を捲る癖は同じで、手首の線が見える。女は見ないつもりで見てしまい、見てしまったことを隠すために水のグラスを持ち上げた。冷たさが指先に走り、呼吸が一度だけ戻る。男はメニューを開き、女の前にもう一冊滑らせた。滑らせる動作が小さく、紙の擦れる音も小さい。女はその小ささに釣られて息を吸い直し、吸い直した息が胸の途中で止まらずに入った。入ったことに気づいた瞬間、女はメニューの端を指で揃え、揃える必要のない端を揃えた。
料理が来るまでの間、男は質問を短く投げた。仕事の時間、帰り道、眠る前に何をしているか。女は答えを短く返した。長く返すと喉が乾き、息が浅くなる。男は短さを埋めようとしない。沈黙が来ても、箸を置く音を抑え、噛む速度を変えない。女はその速度に合わせて水を一口飲み、飲み込む喉の動きを自分で確かめた。乱れている。乱れているのを見つけるたび、指先が熱くなる。熱くなると、また吸い直したくなる。女はテーブルの木目を指でなぞり、硬さに触れて吸い直しを止めた。
食後、男が支払いを済ませ、「少し歩く?」とだけ言った。女は頷いた。夜の街は人の密度が薄く、歩道の端で車の風が時々押す。女はその押しに合わせて肩をすくめ、男は半歩だけ車道側へ寄って影を作った。影が女の肩に重なる位置で、風が弱くなる。女の胸の奥の速さが一瞬だけ落ち、落ちたことが腹の底に残った。女はわざと歩幅を変えず、ポケットの中で指を握って開き、握って開いた。
信号待ちで男が立ち止まり、女も止まった。止まると、動きが止まったぶんだけ胸の速さが目立つ。女は腕時計型の端末に触れそうになって手を引いた。数字を見ると、数字に合わせようとして呼吸が崩れる。女は見る代わりに、自分の手首に指を当てた。速い。速いのに不規則で、数えようとして数えられない。男はその動きを見ないふりをしながら、肩を上げずに息を吐いた。吐く音が小さい。女はその小ささを盗むように吐き、吐けたところで喉が一度だけ狭くなった。
男が言った。
「触る?」
女は返事が遅れた。遅れたせいで首の筋が固まり、息が詰まる。男は急がない。掌を見せず、手の甲を女の前に出した。前に出した位置が近いのに、押し付けない。女は指先を少しずつ近づけた。近づけるほど自分の脈が速くなり、速くなるのに男の手は動かない。女の指先が男の手の甲に触れた瞬間、温度が伝わり、皮膚の下の遅い鼓動が一定に打っているのが分かった。女は息を吐いた。吐けた。吐けたことが腹立たしくて、指先の力を弱めようとして弱められず、指がそのまま止まった。
男は視線を女の目へ上げなかった。女の指先と自分の手の重なりを見て、短く息を吐いた。吐いた息のあと、男の喉がゆっくり動く。
「冷たい。」
女は「冷たくない」と反射で言いそうになって止めた。止めたせいで喉が詰まり、もう一度吸い直す。吸い直した息が胸の途中で止まらずに入る。女は指先を離し、離した瞬間に空気が冷たくなるのを感じた。冷たさが戻る前に、男の指が女の手首の少し上を軽く押した。押した場所が的確で、女の脈が指先に当たる。速い。男は押し返さず、ただ触れているだけなのに、女の手首が男の遅い触れ方に引っ張られる。
男が言った。
「これ、速いね。」
女は頷いた。頷いた瞬間、胸が跳ねる。男の指は離れない。離れないまま、圧だけが少し変わる。女はその圧の変化を追い、追っているうちに自分の呼吸が浅くなる。浅くなるのを止めようとして息を吸い直し、吸い直した息がまた入る。入ってしまう。女は唇を噛み、視線を前へ固定した。信号が青に変わり、人が流れ始める。男は女の手首を離し、先に歩き出さず、女が一歩出るのを待った。
歩きながら、女は自分の指先を握った。握ると男の温度がまだ残っている気がして、残っている気がするぶんだけ胸の奥が速くなる。女はそれを抑えるために歩幅を一定にし、歩道の継ぎ目を数え、息を吸い直す回数を数えた。数えながら、男の遅い脈が皮膚の下で同じ速度で打っていた感触だけが消えなかった。消えないものを指先で追いかけるように、女はコートの裾を握り、握った跡が消えるまで指を離さなかった。
男の指が離れた手首に、女は反射で自分の指を当てた。速い。押さえれば押さえるほど速さがはっきりして、息が一度だけ詰まる。詰まった息を吐く前に、男が歩道の端で立ち止まり、看板の灯りを顎で示した。小さな店の入口。人の出入りが少ない。ガラス越しに見える席の間隔が広い。女は頷き、先に入らず男の横で一拍だけ立った。男はその一拍を待ち、女が足を出した瞬間に同じ速度で動いた。
店内は暖かく、空調の風が直接当たらない席に案内された。女は椅子に座る前に鞄を膝に置き、金具を指で押して硬さを確かめてから椅子に腰を下ろした。座った瞬間、呼吸が少しだけ深く入る。深く入ったことが腹に残り、女は水を頼む声を短くした。男はメニューを開き、女の前に滑らせる。滑らせた紙の端がテーブルの角に揃い、女は無意識にその端を指で押して完全に揃えた。
飲み物が来るまでの間、男はテーブルの上に手を置かなかった。置かないのに、女の視線は男の手首へ戻る。袖口から見える皮膚の薄さ。血管の線。そこに触れたときの温度。女は視線を外し、グラスの縁を指でなぞった。冷たい。冷たさが指先を走ると、胸の内側が一段落ちる。落ちたぶんだけ、また跳ね返る。女は跳ね返りを隠すために、氷の位置を指でずらし、音が鳴らないように動かした。
男が口を開いた。
「無理してる?」
女は首を横に振り、振った勢いで息が少し上がった。男はそれを追わず、視線を窓へ逃がした。逃がしたまま、男は指で自分のカップの縁を一回だけなぞる。動きが遅い。遅いのに迷いがない。女はその遅さを見て、喉が狭くなる。狭くなった喉で短く言った。
「癖です。」
男は「そっか」と返し、砂糖を入れずに飲んだ。飲み込む喉の動きがゆっくりで、女はそれを見たまま、息を吐くのが遅れる。遅れた息が胸の途中で止まり、女は鼻から吸い直した。吸い直したとき、男の目が一瞬だけ女の喉へ落ちた。落ちて、すぐ戻る。戻った視線は女の目ではなく、テーブルの上の女の指先だった。
男が立ち上がり、会計に向かった。女は止めなかった。止める言葉を出そうとすると喉が乾く。男が戻ってくるまでの間、女はポケットの中で指を握って開き、握って開いた。握るたびに指の内側が痛くなり、痛みがあると呼吸が少しだけ整う。男は戻ってきて上着を羽織り、女の立ち上がりを待った。待つ間、男の肩が上がらない。
店を出ると夜の空気が冷たく、女は反射で吸い直し、吸い直した息が胸の奥まで入った。入ったことが嫌で、女は歩幅を一定にしようとした。一定にしようとするほど足が硬くなり、硬くなるほど息が浅くなる。男は女の半歩前に出ない。車道側に寄り、影を作り、女の肩に当たる風だけを弱める。女は影の温さに気づき、気づいた瞬間に胸の内側が速く刻む。女はコートの襟を直すふりをして、吸い直しを一回だけ増やした。
角を曲がったところで、男が立ち止まった。街灯の下、白い光が男の頬骨と首筋を平らに照らす。女も止まる。止まると自分の心拍の速さが耳に近づく。女はそれを隠すために視線を下げ、靴先を揃えた。男の手が、女の顔の高さまで上がる。触れない。触れないまま、指先が女の頬の横で止まり、そこからゆっくり引っ込む。引っ込む途中で、男の指が自分の唇に軽く触れた。乾きを確かめるような動き。女はその動きを見て、喉が狭くなり、息が詰まった。
男が短く言った。
「顔、赤い。」
女は否定の言葉を飲み込んだ。否定すると呼吸が崩れる。女は代わりに目線を上げ、男の目を見た。男の目は揺れていない。揺れていないのに、瞬きが一度だけ遅い。女はその遅さに引っ張られるように、自分の息を一回だけ吐いた。吐けた。吐けたことが腹に残る。男の手が、今度は女の手首に触れる。前と同じ位置。圧は弱い。弱いのに、触れた瞬間に女の脈が跳ねる。
男は女の手首を離さず、顔を近づけた。近づける速度が一定で、女は逃げる理由を見つけられず、代わりに肩だけが固まった。男の唇が女の唇に触れた。短い。押し付けない。触れて、離れる。離れた瞬間、女は息を吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入り、胸の内側がさらに速く刻んだ。男は女の反応を見ないふりをして、女の手首から指を離した。離した指先が、女の手の甲を一度だけ撫でて、戻る。
女は口を開こうとして閉じた。言葉を出すと喉が乾く。代わりに、男の手首へ視線を落とした。袖口の下、遅い脈がそこにあるはずの場所。女は見えないものを見ようとして、目が痛くなった。男は「ごめん」と言わなかった。言わない代わりに「帰れる?」とだけ聞いた。女は頷いた。頷きが遅れ、男の口角が少しだけ動く。女はその動きに、胸がもう一段跳ねるのを感じた。
家に帰ってから、女は玄関で靴を脱ぐ前に腕時計型の端末を見た。数字が並ぶ。山が立っている。立っている山の頂点が、さっきの短い接触の位置と重なる。女は画面を暗くし、暗くしたまま、自分の唇に指を当てた。冷たい指先が触れているのに、皮膚の内側だけが熱い。女は吸い直し、吸い直し、吸い直しを重ねて、ようやく一度だけ深く吐けた。吐けた瞬間、男の遅い脈の感触が、指先の内側で消えずに残ったままだった。
翌朝、女は端末の通知を見てから布団の中で指を一度だけ握った。昨日の山がまだ残っている。残っているのに、画面は平らな顔で数字を並べる。女は画面を暗くし、暗くしても消えない触れ方を唇の内側で確かめるように口を閉じた。指先を自分の手首に当てる。速い。速さが一定になりきらず、数えようとすると息が短くなる。女は数えるのをやめ、台所の蛇口をひねって水を出し、冷たい水で指先を冷やし、冷やした指でコップの縁を揃えた。揃える動作が終わると、余った手がまた熱を持つ。女はその熱を置く場所がなく、端末を取って、昨日の時刻を開き直し、指が止まった。山の頂点が、路地の街灯の下に戻る。近づく速度が一定で、逃げる理由が見つからず、肩が固まった感覚。触れて離れる短さ。離れた瞬間に勝手に吸い直した空気の重さ。女はそこまでで画面を暗くし、暗くしたまま、息を一度だけ吐いた。
昼過ぎに男から短い文が来た。「昨日、急だった」「次、会える?」女は返事を打つ指が速くなり、速くなった指が変換を暴れさせ、消して打ち直し、最後に一行だけ送った。「会える」送信した直後、肩の力が抜けるのに胸の内側は抜けず、女は椅子の背にもたれずに座ったまま、指先で机の角を押し、硬さを返してもらった。夜、待ち合わせの駅で男は先に立っていた。人の流れに押されても姿勢が変わらない。女が近づくと男は手を上げ、女も手を上げ、遅れがほとんど出なかった。男の口角が少しだけ動き、女の胸が一段跳ねる。男は「歩く?」とだけ言い、女は頷いた。二人は店に入らず、川沿いの道を選んだ。人が少なく、靴底の音が一定になり、女の呼吸が浅くなる回数が減る。減ったことに気づいた瞬間、女はコートのポケットの中で指を強く握った。握ると痛みが出て、痛みがあると息の位置が戻る。
橋の上で男が立ち止まり、欄干に手を置いた。女も止まる。止まると胸の速さが耳に近づく。女は欄干の冷たさに指を当て、冷えで一度だけ落ちるのを待った。男が女の手首に触れた。前と同じ位置。圧は弱い。弱いのに触れた瞬間、女の脈が跳ねる。男はその跳ねに手を引かず、指先を少しだけずらし、脈を正面から捉える位置に置いた。女は息を吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまい、腹が立つ。男は「速い」とだけ言い、女は首を横に振りかけて止めた。止めたせいで首の筋が固まり、喉が狭くなる。男は女の手首を離し、今度は自分の手首を女の前に出した。掌は見せない。手の甲。女は指先を近づけ、近づけた分だけ自分の胸が速くなるのを感じながら、男の手首に触れた。遅い。乱れない。遅さが一定で、女の指先が勝手にそこに留まり、留まっている間に女の呼吸が一度だけ深く入った。入ったことに気づいた瞬間、女は指を引こうとして引けず、引けないまま男の首筋を見た。皮膚の下で動くはずのものが、静かにそこにある。男は女の視線を追わず、「寒い?」とだけ聞いた。女は「寒くない」と短く返し、返した声が掠れて喉が乾いた。男は女のコートの襟を指先で整えるふりをし、整える動作の途中で頬に触れそうで触れない位置で止め、止めたまま女の顔を見た。女は目を逸らさずにいられず、逸らした先で男の唇が近づくのを視界の端で拾った。触れる。離れる。前より少し長い。女は肩が固まったまま、息を吸い直し、吸い直した息が胸の途中で止まらずに入ってしまい、指先が熱を持った。男は離れた後、謝らない。代わりに女の手を取る。握る強さは強くない。だが指の腹が女の皮膚を確かめるように押し、女の脈の速さを知ったまま放さない。女は放されない手の重さに合わせて歩幅を整え、整えた歩幅の中で、男の遅い脈の感触だけが指先から消えずに残った。
次に会ったのは雨の夜だった。駅前の舗道が濡れて光り、傘の先がぶつかる音が近い。女は人の流れを避けるために歩幅を詰め、息が浅くなるのを止めようとして鼻から吸い直した。吸い直した空気が胸の途中で止まらずに入る前に、男が女の傘の角度を少しだけ変えた。手の動きが小さく、濡れた布の音も小さい。女は自分の肩に当たる雨粒の数が減るのを感じ、減ったぶんだけ胸の内側が一瞬落ちて、すぐ跳ね返った。
店に入ると空気が温い。女は椅子に座る前に鞄の金具を指で押し、硬さを返してもらってから腰を下ろした。男は向かいに座り、タオルを一枚差し出す。女が受け取ると、指先がタオルの繊維に引っかかり、熱がそこへ集まる。女はタオルで手を拭くふりをして、震えの出る前に指を動かした。男は女の手元を見てすぐ視線を外し、カップの縁を指で一回だけなぞった。
食事が来るまでの間、男は話を短く切った。女も短く返した。短く返すと喉が乾き、乾いた喉が息を浅くする。女は水を一口飲み、飲み込む喉の動きを自分で確かめてから、テーブルの端を指で揃えた。男は揃えた端を見て口角だけを動かし、何も言わないまま皿を受け取った。
帰り道、雨は弱まっていた。歩道の水たまりを避けるたび、女の足先が忙しくなり、忙しくなるほど胸の内側が速くなる。男は女の横で速度を上げず、段差の前で半歩だけ先に出て、女が踏み外さない幅を作る。女はその半歩の出し方が正確すぎるのが嫌で、嫌だと思った瞬間に息を吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入り、指先が熱を持った。男は女の手首を取らず、代わりに女の傘の柄を一度だけ叩き、合図のように方向を示して曲がった。
人通りの少ない路地で男が足を止めた。街灯の光が濡れたアスファルトに伸び、女の靴先がその光の端に乗る。女も止まり、止まったぶんだけ胸の速さが耳に近づく。男は女の手を取った。握る強さは強くない。だが指の腹が女の皮膚を確かめるように押し、女の脈が跳ねるのを知ったまま放さない。女は放されない指の重さに合わせて息を吐こうとして、吐く前に喉が狭くなり、吸い直しが先に来た。
男が近づいた。触れる。離れる。雨の匂いと、タオルの柔軟剤の匂いが混じる。女は肩が固まったまま、もう一度だけ吸い直し、吸い直しの回数が増えたことに自分で腹が立った。男は離れた後、「帰る?」とだけ言い、女は頷いた。頷きが遅れ、男の口角が少しだけ動く。女はその動きに胸が跳ね、跳ねたことを隠すために鞄の肩紐を持ち直し、持ち直した指先が熱いままだった。
女の部屋の前で靴を脱ぐと、男は室内に入らず玄関で止まった。止まったまま、濡れた髪から落ちる水滴をタオルで押さえる。女はその動きを見て、喉が乾き、息が浅くなる。男は「水、飲む?」とだけ言い、女は頷いた。女がコップを差し出すと、男は受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。女はその遅さに引っ張られるように一度だけ吐き、吐けた瞬間に自分の胸が勝手に落ちるのを感じた。
男はコップを置き、女の手首に指先を当てた。前と同じ位置。圧は弱い。女の脈が跳ねる。男は何も言わず、指先の位置を少しだけずらし、跳ねを正面から捉える。女は視線を逸らせず、男の指の節の硬さと、触れ方の遅さだけを見る。遅い触れ方に合わせて呼吸を整えようとして、整えきれずに吸い直し、吸い直した空気が胸の奥へ入ってしまう。男は女の手首から指を離さず、女の手の甲を一度だけ撫でて、扉の外へ戻った。
女は鍵を閉め、背中を扉に預けた。部屋は静かで、静かな分だけ胸の速さが大きい。女は腕時計型の端末に触れそうになって手を止め、止めた手を自分の手首へ当てた。速い。速いのに、さっきの遅い指先の感触だけが皮膚の内側で消えない。女は吸い直し、吸い直し、吸い直しを重ね、最後に一度だけ深く吐けた。吐けた息が床に落ちるまで、女は指先を離さなかった。
週末の昼、女は駅のホームで自分の足先を揃え、列の隙間に肩を滑り込ませた。人の熱が近いと胸の内側が先に跳ね、息が浅くなる。女は喉の奥を一度だけ押し、鼻から短く吸い直して、吸い直しの音が外に漏れない角度で顎を引いた。電車が入ってくる風で髪が揺れ、揺れた髪を耳にかける動作で時間を稼ぐ。向かい側の柱の陰に男が立っていて、視線が合う前に片手が上がった。女も手を上げ、遅れはほとんど出なかった。
改札を抜けて外に出ると、日差しが眩しくて目が細くなる。女は目を細めたまま歩幅を一定にし、胸の内側の速さを足のリズムで押し込めようとした。男は横で同じ速度を保ち、車道側へ半歩寄る。寄り方が前と同じで、女はその半歩を見ただけで息が一度だけ深く入った。深く入ったことに気づいた瞬間、女はコートのポケットの中で指を握り、握った痛みで呼吸の位置を戻した。
昼の店は空席が多く、二人は窓際の席に座った。男は上着を脱いで椅子の背に掛け、袖を捲る。女の視線が手首の線へ落ちるのを止められず、止められないのを隠すためにメニューの端を指で揃えた。揃え終わっても目が戻らず、女は水のグラスを持ち上げ、冷たさを指先に走らせた。男は女の目を見ず、グラスの持ち方だけを見てから視線を外した。外した視線の速さが一定で、女の胸がまた跳ねる。
食事が終わり、店を出ると男が「寄る?」と短く言った。女は返事の前に喉が狭くなり、鼻から吸い直す。男は待つ。待つ間、男の肩が上がらない。女は「うん」とだけ返し、うんの音が短すぎて口の中が乾いた。男はそれ以上言わず、歩道の端で女の歩幅に合わせた。
女の部屋に着くと、玄関の床がきれいに拭かれていて、靴の向きが揃っていた。男は靴を脱ぎ、脱いだ靴を揃えた。揃え方が女の揃え方と近く、女は目線を落としたまま鍵を閉めた。室内の空気は外より温く、女は上着を脱いでハンガーに掛け、ハンガーの角度を揃えた。揃える動作の途中で胸の内側が跳ね、女は息を吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまう。男はそれを見ないふりをし、テーブルの端に置かれたコースターを指で少しだけ回して位置を直した。
女はキッチンで水を出し、コップを二つ並べた。並べる間、手元に視線を固定していれば呼吸が乱れにくい。水を注ぐ音は一定で、一定な音に合わせて息を吐こうとすると、喉が一度だけ詰まった。女は詰まりを隠すように水を注ぐ角度を変え、氷が鳴らないようにコップを傾けた。男は椅子に座らず、壁際に立ったまま部屋を見回し、視線が戻る先が女の手元になった。
「整ってる。」
男が言った。女は「散らかるのが嫌」とだけ返し、返した声が掠れた。掠れたのを誤魔化すために、女はコップを男の前に置き、置く音を小さくした。男はコップを受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。女はその遅さを見て、息が一度だけ深く入る。深く入った瞬間、女は視線を逸らし、テーブルの木目を指でなぞった。
男がコップを置き、女の手首へ指を伸ばした。前と同じ位置。触れ方が軽い。女の脈が跳ね、跳ねたのが指先に当たる。女は反射で手を引きかけて止め、止めたせいで腕の筋が固まり、喉が狭くなる。男は掴まない。押さえない。ただ位置だけを少しずらし、跳ねを正面から捉える。女は息を吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまい、腹の底が熱くなる。
「速い。」
男が言った。女は「いつも」と言いそうになって飲み込んだ。飲み込むと喉が乾き、乾きがまた吸い直しを呼ぶ。女は代わりに、男の手首へ視線を落とした。袖口の下、遅い脈があるはずの場所。女は指先をそこへ伸ばし、伸ばした指先が男の皮膚に触れた瞬間、温度が伝わり、遅い鼓動が一定に打っているのが分かった。女は指先を止め、止めたまま息を吐いた。吐けた。吐けたことが腹に残り、指先の力が抜けない。
男が女の顔に近づいた。近づく速度が一定で、女は肩が固まったまま視線を外せず、唇が触れた。前より長い。押し付けない。離れる。離れた瞬間、女は吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまう。男は女の手首から指を離し、代わりに女の指先を一度だけ包むように握った。握る強さは強くない。だが指の腹が女の皮膚の熱を確かめるように押し、女の脈の速さを知ったまま放さない。
女は放されない指の重さに合わせて一歩だけ近づき、男の胸に額が触れた。布越しに体温が伝わる。鼓動は遅い。遅いのに強い。女の胸の内側が跳ね、跳ねた音が自分の耳に近い。女は男の胸の音を追いかけるように、息を吐こうとして吐けず、吸い直しが先に来る。男は女の頭を撫でなかった。撫でない代わりに、女の背中の少し上に手を置き、位置を動かさずに待った。女の呼吸が落ち着くまでの時間だけ、男の遅い鼓動が一定に続く。
女は顔を上げ、男の目を見る前に視線を落とした。視線が落ちた先は男の手首だった。遅い線がそこにある。女はその線を見て、指先が熱を持つのを止められず、止められないままコップの縁を掴んで冷たさを指に走らせた。冷えたのに、胸の内側は速いままだった。男が「帰る?」と聞き、女は首を横に振った。振った勢いで息が少し上がり、女は鼻から吸い直し、吸い直した息がまた深く入った。男の口角が少しだけ動き、女はその動きに胸が跳ねるのを感じた。
男が「帰る?」と聞いたとき、女は首を横に振った。振った勢いで息が上がり、鼻から吸い直す。吸い直した空気が胸の奥へ入ってしまい、腹の底が熱くなる。男の手は女の指先を包んだまま動かず、握る強さだけが一定だった。女はその一定さに合わせて息を吐こうとして、吐く前に喉が狭くなる。狭くなっても男は手を放さず、女の指先の温度を確かめるように指の腹の位置を少しだけ変えた。
女は指先を抜こうとして抜けず、抜けないまま椅子の背に肩を当てた。背に当てた瞬間、体の軸が戻り、呼吸が一拍だけ落ちる。落ちたのに胸の内側は速いままで、速いまま男の遅い鼓動の感触を追いかけようとして跳ね返る。女はその跳ね返りを隠すためにコップを持ち上げ、冷たさを指先に走らせた。冷たさで指先の熱は一瞬引くのに、胸の奥は引かない。
男は女の指先を放し、上着のポケットから鍵束を出してテーブルの端に置いた。置く音を小さくする。女はその小ささを見て、喉が乾く。乾きが来ると吸い直しが増える。女は吸い直しを抑えるために、キッチンの方へ視線を動かし、流しのステンレスの反射に目を固定した。
「何か、飲む?」
男が言った。女は首を横に振った。振る動作が小さくなり、息の乱れも小さくなる。男は「じゃあ」とだけ言って立ち上がり、キッチンへ向かった。歩き方が一定で、床板の音が一定。女はその一定を耳で追い、追っている間だけ胸の速さが少しだけ一定に寄る。寄ったことに気づいた瞬間、また跳ね返る。女はポケットの中で指を強く握った。握ると痛みが出て、痛みがあると呼吸の位置が戻る。
男は戸棚を勝手に開けなかった。流しの前で立ち止まり、女の方を一度だけ見た。見たのは顔ではなく、テーブルの上のコップの位置だった。女は頷き、顎を引いて息を吸い直す回数を減らし、立ち上がって戸棚を開けた。コップを二つ出し、同じ向きに置く。置いた瞬間、揃っていないのが気になり、女は数ミリだけ位置を直した。直した指先が熱い。
男は水を出し、コップに注ぐ。注ぐ角度が一定で、氷が鳴らない。女はその注ぎ方を見て、喉が狭くなる。狭くなって吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまう。男は何も言わず、女の背中の少し後ろに立つ位置を変え、空調の風が女の首筋に当たらない場所へ自分を置いた。置き方が自然で、女はその自然さに腹が立つ。
戻ると、男はコップをテーブルに置き、女の椅子の背を一度だけ押して位置を直した。直す必要のない位置なのに直す。女はその押し方の弱さに、胸の内側が一段跳ねた。跳ねたのを隠すために女はコップを持ち上げ、飲み込む。飲み込む喉の動きが速くなり、喉が乾く。男は自分のコップを持ち上げ、飲み込む喉がゆっくり動いた。女はその遅さを見て、息が一度だけ深く入る。深く入ったことが嫌で、女はテーブルの縁を指で押し、硬さを返してもらった。
男が女の手首に触れた。前と同じ位置。圧は弱い。女の脈が跳ねる。男は離さず、指先の位置を少しだけずらし、跳ねを正面から捉える。女は息を吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまう。男はそれを見ないふりをして、視線を女の手元に置いたまま、指先の圧を少しだけ変えた。変えた圧が一定になり、女の脈の跳ねが指先に当たる間隔が少しだけ揃う。揃ったところで女は息を吐けた。吐けた息が床へ落ちる前に、男の唇が女の唇に触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女は吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入り、胸の内側がさらに速く刻む。
女は男の袖口を掴みそうになって止めた。止めたせいで指が震え、震えを隠すために袖口を掴んだ。掴んだ指先が熱い。男は掴まれたまま動かず、女の指先の力が抜けるのを待つ。待つ間、男の呼吸は乱れない。女はその乱れなさに耐えきれず、男の胸に額を当てた。布越しの体温が伝わり、鼓動が遅い。遅いのに強い。女の胸の内側が跳ね、跳ねた音が自分の耳に近い。女は男の遅い音を追いかけるように息を吐こうとして、吐く前に喉が狭くなる。狭くなって吸い直し、吸い直した空気が胸の奥へ入ってしまう。
男は女の背中を撫でなかった。撫でない代わりに、女の背中の少し上に手を置き、位置を動かさずに待った。女の呼吸が落ち着くまでの時間だけ、男の遅い鼓動が一定に続く。女はその一定に合わせて、ようやく一度だけ吐けた。吐けた息のあと、女の指先の力が少し抜ける。抜けた瞬間、男の手が女の手首をもう一度取った。圧は弱い。弱いのに、女の脈は跳ねる。男の指先は跳ねを知ったまま動かない。
女は顔を上げ、男の目を見る前に視線を落とした。落ちた先は男の手首だった。袖口の下、遅い線がそこにある。女はその線を見て、口の中が乾き、乾いた喉がまた吸い直しを呼ぶのを感じた。女は吸い直しを止めるために男の手首に指先を当てた。温度が伝わり、遅い鼓動が一定に打っている。女は指を止め、止めたまま息を吐いた。吐けた。吐けたことが腹に残り、女は指先を離せなくなる。
男が「泊まる?」と短く言った。女は頷いた。頷きが遅れ、息が一度だけ詰まる。男は「了解」と返し、立ち上がって上着を脱ぎ、椅子の背に掛けた。掛ける動作が小さく、音が小さい。女はその小ささに釣られて息を吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまい、指先が熱を持った。
布団を敷く間、女はシーツの端を揃え、枕の角度を揃え、揃えたものが数ミリずれるのが気になって直し、直しているうちに呼吸が浅くなる。男は手伝おうとせず、女の動作の邪魔にならない距離で立ち、女が息を吸い直すたびに視線を外して待った。待つ間、男の呼吸は乱れない。乱れない呼吸が部屋にあると、女の呼吸の浅さが目立つ。女はそれが嫌で、枕をもう一度だけ押し、形を整えた。
灯りを落とすと、部屋は静かになり、静かな分だけ女の胸の速さが大きくなる。女は横になり、男も隣に横になった。布団越しに体温が伝わる。男の鼓動が遅い。女はその遅さを追いかけるように指先を伸ばし、男の胸に触れそうになって止めた。止めたせいで指が震える。男は何も言わず、女の指先を取って自分の胸へ置いた。置く圧は弱い。弱いのに、遅い鼓動が指先に当たる。
女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのに胸の内側は速いままで、速いまま遅い音に引っ張られようとして跳ね返る。女はその跳ね返りを飲み込むように口を閉じ、鼻から短く吸い直した。男の指先が女の手の甲を一度だけ押し、置いた位置を動かさない。女は目を閉じ、指先に当たる遅い鼓動を数えようとして数えられず、代わりに自分の速い鼓動の音が耳に近づく。
男の遅い音は、隣でずっと一定だった。
朝は早かった。窓の外が明るくなる前に、女の目が開いた。暗い天井がぼんやり白へ寄っていく途中で、隣の気配だけが先に輪郭を持つ。布団越しの体温。寝返りの擦れる音。呼吸の遅さ。女は息を吸い直さないように口を閉じ、鼻から短く吸った。短く吸った空気が胸の途中で止まりかけ、女は喉の奥を一度だけ固めて押し返した。
男は眠っていた。眠り方が深い。肩が上がらない。吐く息が一定で、吐くたびに布団の端がほんの少し動く。女は指先を布団の縁に置き、布の硬さを確かめるように押した。押すと、胸の速さが少しだけ後ろへ下がる。押した指を離すと戻る。戻るのが悔しくて、女は押したまま目を閉じた。
隣で男がわずかに動いた。女の指先が乗っている布団が沈み、沈んだ分だけ女の胸が跳ねる。男の手が女の手の甲に触れ、触れて止まった。握らない。押さえない。触れた位置を動かさずに置くだけ。女はその触れ方の遅さに引っ張られるように、息を一度だけ吐けた。吐けた息が静かに落ちると、喉の狭さが少しだけ緩む。
男が目を開けた。寝起きの目のまま、視線が女の顔へ向かう前に女の手元へ落ちる。落ちて、戻る。
「起きた。」
声が低い。短い。女は頷いた。頷く動きが小さいのに胸が跳ね、鼻から吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えるために唇を軽く噛んだ。
男は起き上がらず、女の手の甲に触れている自分の指を少しだけ動かした。動かした先が女の指の付け根。指の腹が皮膚の熱を確かめるように押し、押した圧は弱い。弱いのに女の脈が跳ね、その跳ねが指先へ当たる。女は手を引きかけて止めた。止めたせいで腕の筋が固まり、喉が狭くなる。男はそれ以上追わず、指を離した。
「水。」
男が言った。女は「うん」と返し、布団から出た。床が冷たく、足裏が一度だけ縮む。縮んだ反動で胸の内側が速くなる。女は足を揃え、歩幅を短くしてキッチンへ向かった。冷蔵庫の前で立ち止まり、取っ手を掴み、掴んだ指先が少し震えるのを冷気のせいにして扉を開けた。水のボトルを取り出し、コップを二つ並べる。並べたコップの距離が数ミリずれているのが気になり、直す。直した指先が熱い。
男は後から来た。足音が一定。床板の鳴り方が同じ。女の背中の少し後ろで止まり、空調の風が女の首筋に当たらない位置へ自分を置く。女はそれに気づき、気づいた瞬間に胸の内側が跳ねた。跳ねたのを隠すために水を注ぐ角度を変え、音が鳴らないようにコップを傾けた。氷は入れていないのに、勝手に音が鳴る気がして手元が忙しくなる。
男がコップを受け取り、飲み込む喉がゆっくり動いた。女はその喉の動きを見て、息が一度だけ深く入る。深く入ったことが腹に残り、女は視線を落として流しのステンレスの反射に目を固定した。男は「ありがとう」と短く言い、言った後で口角だけを動かした。女は返事をしなかった。返事をすると喉が乾く。乾くと吸い直しが増える。女は代わりにコップの縁を指で揃え、揃えた縁の冷たさを指先に走らせた。
朝食は簡単だった。女がパンを出す前に、男が戸棚を勝手に開けないのが分かる。流しの前で止まり、女の方を一度だけ見て待つ。女は頷き、戸棚を開け、皿を二枚出し、皿の角度を揃えた。男は卵を焼いた。火加減を変えず、フライパンを動かす手が一定。女はその一定さに合わせて呼吸を吐こうとして、吐く前に喉が狭くなる。狭くなった喉で吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまう。女はその失敗を隠すためにナイフとフォークの位置を直し、直す必要のない位置を直した。
食べ終える頃、男が上着を手に取った。ポケットから何かが落ちかけ、男の指がそれを押さえる。薄い紙。白い角。女の視線がそこへ落ちた。男は紙を戻す動作を早くしない。早くしないのに、見せない位置へ戻すのが正確だった。女はそれ以上見なかった。見たままだと胸が跳ねる。跳ねるのが自分に腹立たしくて、女は皿を重ね、重ねた皿の縁を揃えた。
玄関で男が靴を揃え、女も靴を揃える。揃える動作が重なり、女の胸が一段跳ねる。跳ねたのを隠すために女は鍵を確認し、確認する必要のない鍵の向きを直した。男は「また」と言い、女の額に短く触れた。キスではない。触れるだけ。触れた瞬間、女は息を吸い直し、吸い直した空気が胸の奥へ入ってしまう。男はそれを見ないふりをして、靴ひもを結び、結び終わったら一歩外へ出た。
扉が閉まると部屋は静かになった。静かな分だけ、女の胸の速さが大きい。女は腕時計型の端末に触れそうになって手を止め、止めた手を自分の手首へ当てた。速い。速いのに、遅いものに触れた記憶だけが指先の内側で消えない。女は一度だけ息を吐き、吐けた息のあとで、玄関の床に落ちているものを見つけた。白い角。薄い紙。男が押さえたのと同じ質感。女は拾い上げず、指先だけを紙の端に触れ、触れた瞬間に指先が熱を持った。紙には病院の印字があった。日時が並ぶ。女はそれを読まずに目を逸らし、代わりに紙の角を揃えて置いた。揃えた角が机の縁とぴたりと合い、女はそのぴたりに合わせて、息を吸い直した。
女は白い紙を拾わなかった。拾えば指先が熱を持ち、熱を持てば呼吸が浅くなり、浅くなれば吸い直しが増える。紙の角だけを揃えて机の端に置き、印字の行を視界の端で避けた。避けたはずなのに「病院」の文字だけが残り、残った文字が喉の奥を狭くした。女は鼻から短く吸い直し、吸い直しの音が部屋に響くのを嫌がって口を閉じ、もう一度だけ浅く吐いた。
夜になって男から文が来た。「明日、少し遅い」女は返事の文を打ち、消し、打ち直した。遅い、の後ろに何を付けても喉が乾く。乾くと吸い直しが増える。女は短く返した。「了解」送信した直後、机の角に置いた紙が視界に入り、女はそれを見ないふりをしたままコップを洗い、コップの縁を揃え、タオルの端を揃え、揃える動作を増やして時間を潰した。潰した時間の中で、指先の内側に残った遅い鼓動の感触だけが消えなかった。
翌日、男は約束の時間よりさらに少し遅れて現れた。駅前の人の波の中で姿勢が崩れないのは同じだが、立ち止まったときの肩の位置が前より高い。女はそれに気づいた瞬間、胸の内側が一段跳ねた。跳ねたのを隠すために女は鞄の金具を押し、硬さを返してもらいながら近づいた。
「ごめん。」
男の声は低い。短い。女は首を横に振った。横に振るだけで息が少し上がり、鼻から吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えるために唇を軽く噛み、男の袖口の辺りを見るふりをした。袖口の布に細い皺があり、指先がその皺を伸ばしたくなる。伸ばすと触れる。触れると遅い鼓動がまた戻る。女は指を動かさず、代わりに足先を揃えた。
男が歩き出す。女が一歩出るのを待ってから同じ速度で動く。二人の歩幅が揃ったところで、男の呼吸が一度だけ乱れた。乱れは大きくない。だが、吐く息の長さが短い。女の喉が狭くなる。狭くなると自分の息の方が先に乱れる。女は乱れを隠すために視線を前へ固定し、歩道の継ぎ目だけを数えた。
店に入る前に男が「今日は、ここじゃない」と言った。女は返事をしなかった。返事をすると喉が乾く。男は駅と反対側へ曲がり、女はついていく。人通りが少ない道へ入ると、女の呼吸の浅さが少しだけ減る。減ったのに胸の内側は速いままで、速いまま男の背中の一定さを追いかけようとして跳ね返る。女はポケットの中で指を握り、痛みを作って呼吸の位置を戻した。
男が立ち止まったのは、白い建物の前だった。自動扉。受付の明かり。女の目が印字の紙の角を思い出し、喉が一度だけ詰まる。男は女を見ずに受付へ向かい、手続きの紙を取った。取る動作が早くないのに、指先の動きが少しだけ乱れている。女はそれを見て、胸の内側がまた跳ねた。
待合の椅子に座ると、空調の風が足元を撫でた。女は膝の上で手を組み、指先だけを動かして爪の端を押した。押すと震えが少しだけ引く。男は隣に座らず、向かいの椅子に座った。距離がある。距離があるのに視線は女の手元へ落ちている。女はその視線の落ち方で、男が自分の息の癖を知っているのを思い出し、腹の奥が熱くなった。熱が上がると呼吸が浅くなる。女はそれを抑えるために背筋を伸ばし、椅子の縁を指で押して硬さを返してもらった。
名前が呼ばれ、男が立ち上がる。立ち上がる動作が一拍遅れる。女はその遅れに合わせるように立ち上がり、男の横へ並んだ。並ぶと距離が近くなる。近くなると男の体温が分かり、分かると胸の内側が速くなる。女は速さを隠すために歩幅を短くし、歩幅を短くした分だけ息が詰まりそうになるのを鼻から吸い直して押し戻した。
診察室の扉が開く。女医がいた。白衣の袖口が整っていて、机の角に置かれた資料の端が揃っている。揃え方が女の癖と似ているのを女は見てしまい、胸の内側が跳ねた。女医の視線が女の喉に一瞬落ち、すぐ男へ移る。移り方が速い。速いのに乱れない。
女医は男に座るよう手で示し、女にも椅子を示した。女は椅子に座る前に鞄の金具を押し、硬さを返してもらってから腰を下ろした。男は椅子に座り、背中を椅子に預けない。預けない姿勢が、待合のときより硬い。
女医はモニターを見て、必要な言葉だけを落とす。
「睡眠、途切れてる。」
男は頷くだけ。頷きが小さい。女医は男の返事を追わず、脈を測る器具を付け、波形を見た。波形の山が揃わず、山が揃わない間隔が短い。女医は眉を動かさず、手順を進める。進めながら、視線が一度だけ女の指先へ落ちる。女の指先が膝の上で握られているのを見て、女医は視線を外した。
「これ、今は強い負荷は避ける。」
男が口を開きかけて閉じる。閉じたとき、喉が乾く音が小さく出た。女はそれを聞いて息が一度だけ詰まり、詰まりを隠すために爪の端を強く押した。女医は男の喉の動きを見て、机の引き出しから小さな紙を取り出し、男の前に置いた。紙の端が机の縁とぴたりと合う。合うのが妙に目立ち、女は目線をそこから外せない。
女医は男に向かって「次、ここ」とだけ言い、日時を指で叩いた。叩く音が小さい。男は頷き、紙を受け取ろうとして指先が一度だけ滑った。滑った紙を女医の指が止め、止めた指が一拍だけ紙の上に残った。女医はすぐ指を引く。引き方が速い。速いのに乱れない。
男が立ち上がり、女も立ち上がる。女医の視線が女へ戻る。戻った視線は女の目ではなく、女の喉と手元を一度ずつなぞる。女医は言葉を増やさず、最後に「送らない。自分で来る」とだけ男へ言った。男は「わかった」と返し、扉へ向かった。
廊下に出ると、男の肩が少しだけ落ちた。落ちたぶん、女の胸の内側が跳ねる。女は男の手首に触れそうになって止めた。止めたせいで指が震え、震えを隠すために鞄の肩紐を掴み直した。男は女の掴み直しを見ないふりをして歩幅を落とし、女の歩幅に合わせた。合わせられた歩幅の中で、女の呼吸が一度だけ深く入る。深く入ったことが嫌で、女は鼻から短く吸い直し、吸い直した空気を喉の手前で押し返した。
その夜、女医は病院の灯りが落ちた後も一つだけ明かりの残る部屋にいた。机の端は揃い、資料の端は揃い、端末の画面だけが白く光る。画面に心臓の模型が出る。手順が表示される。女医の指が開始に触れ、波形が走り、途中で崩れ、女医は眉を動かさずに同じ条件を呼び出し、また指を動かした。選択肢の一つに線が引かれている。女医はその線を外さないまま、もう一度だけ同じ操作を繰り返した。
病院を出たあと、二人は駅とは逆方向へ歩いた。男は「寄り道」と言わなかった。女も「どこへ」と聞かなかった。聞けば喉が乾く。乾けば息が浅くなる。浅い息を増やすと胸の内側が暴れる。女はそれを知っていて、知っていることが腹立たしくて、歩道の継ぎ目だけを数えた。男の足音は一定ではあるが、さっきより一段硬い。硬いまま歩幅を女に合わせているのが分かり、女の胸が勝手に跳ねた。跳ねたのを隠すために女は鞄の肩紐を持ち直し、持ち直した指先に痛みを作って呼吸の位置を戻した。
信号待ちで止まると、男がポケットの中で紙を指で押さえる癖が見えた。押さえている指先がわずかに忙しい。女は見ないふりをして、見ないふりのまま「さっき」と言いかけて止めた。止めたせいで喉が狭くなり、鼻から吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えようとして、逆に息が一度だけ詰まった。男が視線を女の顔へ上げる前に女の手元を見る。いつも通りだ。女はそれが嫌ではなく、嫌ではないことが嫌で、口を閉じた。
男が先に言った。
「変な心配させた。」
女は首を横に振った。否定は短くしないと喉が乾く。女は「大丈夫」とだけ言い、言い終わりが掠れた。掠れたのを隠すために女はコートの襟を直し、襟の角をぴたりと揃えた。揃えた指先が熱い。男はそれを見ないふりをして歩き出し、女が一歩出るのを待って同じ速度で並んだ。
小さな公園の前で男が立ち止まった。ベンチが一つ空いている。女はそこへ座る前に周囲を見た。人が少ない。呼吸を吸い直しても目立ちにくい。女はベンチに腰を下ろし、鞄を膝に置いて金具を指で押し、硬さを返してもらってから息を吐いた。吐けた。吐けたことが腹に残る。男は隣に座らず、女の正面のベンチの端に腰を下ろした。距離がある。距離があるのに、男の視線は女の喉の動きと手元を一度ずつ拾って、すぐ外した。
「睡眠のやつ、前から?」
女がそう聞くと、声が少しだけ柔らかくなった。柔らかくなったことに自分で気づいて、女は口の中が乾いた。男はすぐ答えない。すぐ答えない間に女の胸が跳ねそうになり、女はポケットの中で指を強く握った。男がようやく頷く。
「ここ最近。」
「最近、っていつ。」
女は追い込むつもりはなかった。けれど追い込む言い方になり、女は一度だけ吸い直した。男はその吸い直しを見ないふりをして、手を膝の上に置いた。指が一度だけ開閉する。止めようとして止められない動き。女の胸が跳ねる。跳ねた分だけ息が浅くなる。女は浅くなるのを抑えるために鞄の金具をもう一度押し、硬さを返してもらいながら言った。
「……運動は?」
男は短く笑いかけて、笑いが出ないまま終わった。
「今は、やると余計に戻らない。」
戻らない、が何にか女は聞かなかった。聞けば喉が乾く。乾いた喉は勝手に吸い直しを増やす。女は代わりに、自分の手首に指を当てた。速い。男はそれに気づいて、女の手首へ指を伸ばしかけて止めた。止めた指が宙で一拍残る。残った一拍が、女の胸をさらに跳ねさせる。女はそれを見て、息を吐こうとして吐けず、吸い直しが先に来た。
男が言った。
「ごめん。」
女は首を横に振った。否定すると呼吸が崩れる。女は否定の代わりに、男の手首へ視線を落とした。遅い線がそこにあるはずの場所。女はそこを見て、指先が熱を持つのを止められず、止められないまま「今日は帰る?」と聞いた。聞いた声が掠れ、掠れたことが嫌で女は唇を噛んだ。
男は首を横に振った。
「少しだけ、一緒にいたい。」
その言い方が短く、逃げ道がなく、女は胸の内側が跳ねるのを感じた。女は頷き、頷いた動きが遅れて息が一度だけ詰まる。男はその詰まりを追わず、立ち上がって女の前に来た。近づく速度が一定で、女は逃げる理由を見つけられず、代わりに肩だけが固まった。男の指先が女の手の甲に触れる。握らない。押さえない。ただ触れて、触れたまま待つ。触れ方が遅い。遅い触れ方に合わせて女は一度だけ吐けた。吐けた息のあと、女の喉の狭さが少しだけ緩む。緩んだことが悔しくて、女は視線を逸らし、ベンチの木目を指でなぞった。
男は女の手を取った。握る強さは弱い。弱いのに、指の腹が女の皮膚を確かめるように押し、女の脈の速さを知ったまま放さない。女は放されない重さに合わせて立ち上がり、歩幅を男に合わせた。合わせた歩幅の中でだけ、胸の速さが少しだけ一定に寄る。寄ったことが嫌で、女は鼻から短く吸い直し、吸い直した空気が胸の奥へ入りそうになるのを喉の手前で押し返した。
その頃、病院の一室で女医は端末の画面を閉じていなかった。画面には心臓の模型が残ったままだ。女医は指先を一度だけ握り直し、机の角に揃えた紙を揃え直し、揃え直した紙の上にペンを置いた。置いた位置が机の縁とぴたりと合う。女医はそのぴたりのまま、短いメモを書いた。男の名前ではなく、日時と条件だけ。条件の下に、線で消された選択肢がある。女医はその線をなぞり直さず、代わりに同じ条件をもう一度だけ呼び出した。救いになるなら、という言葉を口にせず、指だけが開始の上で止まり、次の瞬間に動いた。
女の部屋に戻るまで、男は手を放さなかった。握る強さは弱いのに、指の腹が女の皮膚を確かめるように押し、女の脈の速さを知ったまま離さない。女は放されない重さに合わせて歩幅を整え、整えた歩幅の中でだけ胸の速さが少しだけ一定に寄る。寄ったことが嫌で、女は鼻から短く吸い直し、吸い直した空気が胸の奥へ入りそうになるのを喉の手前で押し返した。
玄関で靴を脱ぐと、男はいつも通り靴を揃えた。揃え方が丁寧で、揃え終わった後も指先が一拍だけ靴の縁に残る。女はその一拍を見て、胸の内側が跳ねる。跳ねたのを隠すために女は鍵を掛け、掛け終わった鍵の向きを直し、直す必要のない向きを直した。男はそれを見ないふりをして、上着を椅子の背に掛け、掛ける音を小さくした。
部屋の灯りは強くしなかった。強くすると視界の情報が増え、女の呼吸が浅くなる。男もそれを知っているみたいに、カーテンの隙間から入る街灯の光に合わせて立つ位置を変え、女の目線が落ち着く角度を作った。女は腹の奥が熱くなり、熱が上がると息が浅くなる。女はそれを止めるためにキッチンへ向かい、コップを二つ出し、コップの距離を揃え、水を注いだ。注ぐ角度を一定にすると音が一定になる。一定な音に合わせて吐こうとして吐けず、女は鼻から吸い直し、吸い直した息が胸の奥へ入ってしまい、指先が熱を持った。
男は流しの前に立たず、女の邪魔にならないところで待ち、女がコップを差し出したときだけ一歩寄って受け取った。指先が触れそうで触れない距離で止まり、女の胸が跳ねる。男はそれを見ないふりをしてコップを口に運び、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。女はその遅さに引っ張られるように一度だけ吐けた。吐けた息のあとで、女は自分の吐けたことが悔しくて、テーブルの端を指で押し、硬さを返してもらった。
男が言った。
「さっきの病院、心配?」
女は返事をしなかった。返事をすると喉が乾く。乾くと吸い直しが増える。女は代わりに、コップの縁を指で揃え、揃えた縁の冷たさを指先に走らせた。男はそれを見て視線を外し、外したまま続けた。
「大したことじゃない。」
大したことじゃない、の言い方が軽すぎて、女の胸の内側が跳ねた。跳ねた瞬間に喉が狭くなり、息が詰まりそうになる。女は鼻から短く吸い直し、吸い直した空気が胸の奥へ入る前に喉の手前で押し返した。押し返したまま、女は男の手首を見た。袖口の下、遅い線があるはずの場所。遅いものを見ると、速い自分が浮き彫りになる。
「じゃあ、なんで眠れないの。」
女の声は短い。短くしないと崩れる。男はすぐ答えなかった。すぐ答えない間に女の胸が跳ねそうになり、女はポケットの中で指を強く握って痛みを作った。男がようやく言う。
「寝ようとすると、余計なこと考える。」
女はその一文で、男が自分のことを「苦しい」と言っていないのに苦しいのが分かった。分かった瞬間、腹の奥が熱くなり、息が浅くなりかける。女は熱を隠すためにコップを持ち上げ、口をつけずに冷たさだけを指先に走らせた。男は女の目を見ず、女の手元を見て、言葉を足した。
「考えなきゃいいんだけど、勝手に出てくる。」
女は頷きかけて止めた。止めたせいで首の筋が固まり、喉が狭くなる。狭くなった喉で、女は一つだけ聞いた。
「何が。」
男は笑いかけて、笑いが出ないまま終わった。
「先のこと。」
女の胸が跳ねる。跳ねたのを隠すために女はテーブルの縁をもう一度押し、硬さを返してもらいながら息を吐く。吐けない。吐けない代わりに吸い直しが来る。女は吸い直しを抑えようとして、逆に短く吸ってしまい、喉の奥が乾いた。男が言い直す。
「ちゃんと考えたことなかった。」
女はそれを聞いて、男の遅い鼓動が「今まで」支えてきたものを想像した。踏み込める身体、折れない上限、終わりを細かく計算しなくても進める日々。女はその想像が腹立たしくて、腹立たしいのに羨ましくて、指先が熱を持つ。熱を持つと息が浅くなる。女は椅子の背に肩を当て、体の軸を戻してから言った。
「考えなくていいって言ってるわけじゃない。」
男は「うん」とだけ返した。その返事が短くて、女の胸がまた跳ねる。
男が立ち上がり、「寝る?」と聞いた。女は頷き、頷いた動きが遅れて息が一度だけ詰まる。男は女の詰まりを追わず、布団の準備を手伝おうとせず、邪魔にならない距離で立ち、女がシーツの端を揃えるのを待った。女は端を揃え、枕の角度を揃え、揃えたものが数ミリずれるのが気になって直し、直しているうちに呼吸が浅くなる。男はその浅さに視線を落とさず、視線を外して待つ。待つ間、男の呼吸は乱れない。乱れない呼吸が部屋にあると、女の浅さが目立つ。女はそれが嫌で、枕をもう一度だけ押し、形を整えた。
灯りを落とすと、部屋は静かになり、静かな分だけ女の胸の速さが大きくなる。女が横になり、男も隣に横になった。布団越しに体温が伝わる。男の鼓動は遅い。女はその遅さを追いかけるように指先を伸ばし、伸ばした指先が宙で止まった。止まったせいで指が震える。男は何も言わず、女の指先を取って自分の胸へ置いた。置く圧は弱い。弱いのに遅い鼓動が指先に当たり、女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのに胸の内側は速いままで、速いまま遅い音に引っ張られようとして跳ね返る。
男が低い声で言った。
「こうしてると、落ち着く?」
女は返事をしなかった。返事をすると喉が乾く。女は代わりに、男の胸の音を指先で確かめるようにじっとして、鼻から短く吸い直した。吸い直しが出たことが悔しくて、女は目を閉じた。男の遅い音は、隣でずっと一定だった。
女の指先が男の胸に置かれたまま、夜はゆっくり沈んでいった。遅い鼓動が一定に当たり続けると、女の呼吸は一拍ずつだけ深くなる。深くなるのに、胸の内側の速さは消えない。速いまま遅いものに引っ張られようとして跳ね返り、跳ね返るたびに喉が狭くなって、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えるために唇を閉じ、鼻から短く吸って、短く吐いた。吐けたことが悔しくて、指先の力だけを少し強めて遅い鼓動を確かめた。
男は女の手を押さえつけない。置いた位置を動かさず、ただ一緒に横になっている。沈黙が続いても、沈黙を埋めようとしない。女が息を吸い直すたびに視線を外し、外したまま待つ。その待ち方が自然で、女は腹の奥が熱くなる。熱くなると息が浅くなる。女は熱を隠すために肩を布団に押し付け、体の軸を戻そうとした。
「……眠れる?」
男が低い声で聞いた。女は返事をしなかった。返事をすると喉が乾く。乾けば吸い直しが増える。女は代わりに、男の鼓動の遅さに合わせるつもりで一度だけ吐いた。吐けた息が落ちると、男の指先が女の手の甲を一回だけ押す。押す圧は弱い。弱いのに、押された位置が確かで、女は自分の呼吸が少しだけ整うのを感じた。
女が目を閉じたまま頷くと、頷きの遅れが自分で分かった。分かった瞬間に胸が跳ねる。跳ねたのを隠すために女は指先を少しだけ引こうとして、引けずに止まった。止まった指先が震える。男は震えを指摘しない。指摘しない代わりに、女の手を自分の胸に置いたままにして、遅い鼓動を続けた。
眠りに落ちかけたとき、男の呼吸が一度だけ乱れた。乱れは大きくない。けれど吐く息が短く、次の吸う息が浅い。女は目を開けないまま、それに気づいてしまう。気づいた瞬間、女の胸の内側が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しが出そうになるのを抑え、代わりに男の胸の上に置いた指先の圧を少しだけ強めた。
男の体が布団の下で硬くなる。肩がわずかに上がり、指先が女の手を掴みそうになって止まる。止めたせいで指が宙で一拍残り、女の胸がさらに跳ねた。女は目を開け、暗がりの中で男の顔を見る。男の目は開いている。焦点が合っていない。呼吸が浅い。浅い呼吸が次の呼吸を呼び、胸の内側が落ち着く場所を失っている。
「大丈夫?」
女の声は短い。短くしないと崩れる。男は返事をしない。返事をしない代わりに、喉が一度だけ動き、乾いた音が小さく出る。女はその音で、自分の喉も乾くのを感じてしまい、鼻から短く吸い直した。吸い直した空気が胸の奥へ入ってしまい、腹の奥が熱くなる。
男がようやく言った。
「今、夢みた。」
女は「うん」とだけ返し、男の胸に置いた手を動かさない。動かさないことが、今の自分に出来ることの全てだと分かる。分かると胸が跳ねる。女は跳ねを抑えるために肩の力を抜き、抜いた肩を布団に沈めた。男の呼吸はまだ浅い。浅いまま、女の指先に遅い鼓動が当たり続ける。
「走ってた?」
女が聞くと、男は小さく頷いた。頷きが遅れている。遅れているのに、息だけが急ぐ。女はそれを見て、喉が狭くなる。狭くなった喉で、女は言葉を増やさずに続けた。
「……終わった?」
男は一拍置いてから、「終わってた」と言った。言い方が短い。短いのに、そこに残るものが重い。女はそれを受け止めようとして、受け止める前に自分の息が浅くなる。女は吸い直しを抑えきれず、鼻から短く吸った。吸った瞬間、男の視線が女の喉へ落ち、すぐ外れる。外れた視線が女の胸を跳ねさせる。
男が続けた。
「終わってるのに、まだ走らされてた。」
女はその一文で、男の「先のこと」の中身を少しだけ掴む。掴んだ瞬間、腹の奥が熱くなり、息が浅くなる。女は熱を隠すために、男の胸の上の指先を少しだけずらし、鼓動が当たる位置を正面に捉え直した。遅い鼓動が指先に当たる。一定。女はその一定に合わせて一度だけ吐こうとして、吐けず、喉が狭くなる。
男が低い声で言った。
「……怖い。」
女の胸が跳ねた。跳ねたまま言葉が出ない。言葉を出すと喉が乾く。乾いた喉は吸い直しを増やす。女は言葉の代わりに、男の胸の上で指先を止めた。止めた指先が震える。震えを隠すために、女は男の手を取ろうとして取れず、代わりに自分の手の甲を男の胸に押し当てた。押し当てた圧は弱い。弱いのに、触れていることだけは確かだ。
「何が。」
女は短く聞いた。男はすぐ答えない。答えない間に、女の胸が跳ねそうになり、女は唇を噛んだ。男がようやく言う。
「寝るとき。」
女はそれを聞いて、男が「死ぬ」と言っていないのに、その方向を見ているのが分かる。分かった瞬間、女の喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えきれず、鼻から短く吸った。吸った空気が胸の奥へ入り、胸の内側がさらに速く刻む。女はその速さを隠すために、男の鼓動を指先で確かめるようにじっとした。
男の手が女の手首に触れた。前と同じ位置。圧は弱い。弱いのに、女の脈が跳ねる。男は跳ねを知ったまま動かない。動かないまま、低い声で言った。
「……速いね。」
女は否定しなかった。否定すると呼吸が崩れる。女は代わりに、男の手首へ視線を落とし、遅い線があるはずの場所を見た。見た瞬間、指先が熱を持つ。熱を持つと息が浅くなる。女はそれを止めるために目を閉じ、男の遅い鼓動を指先で追いかけた。
「ここにいる。」
女は言葉を選ばずに言った。長く言うと崩れる。短く言うしかない。男の手が女の手首から離れ、女の手の甲を一度だけ撫でた。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて、女はようやく一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の呼吸が少しだけ長くなる。
暗がりの中で、男が女の額に短く触れた。キスではない。触れるだけ。触れるだけなのに、女の胸の内側が跳ね、喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑え、代わりに男の胸の音を指先で確かめるようにじっとして、遅い鼓動の一定さが戻るのを待った。待つ間、女は自分の速い鼓動がどれだけうるさいかを知ってしまい、そのうるささを消すように、男の遅い鼓動に指先を重ね続けた。
夜は切れ切れに続いた。男の呼吸が乱れかけるたび、女の胸の内側が先に跳ね、跳ねた自分を抑えるために女は男の遅い鼓動に指先を置いた。置いた指先に当たる遅い音が一定に戻ると、男の吐く息が少しだけ長くなる。長くなるのが分かるたび、女はそれを「効いた」と呼びたくなって、呼びたくなった瞬間に喉が乾き、言葉を飲み込んだ。飲み込むと息が短くなる。短くなるのを押し戻すために、女は唇を閉じ、鼻から短く吸って、短く吐いた。
明け方、男の肩がようやく落ちた。落ちたぶん、布団の沈み方が変わり、女の指先に当たる鼓動が少しだけ遠くなる。女は指先を離さず、遠くなった音を追いかけるように位置を数ミリだけずらし、正面に捉え直した。捉え直した瞬間、遅い鼓動がまた当たり、女の呼吸が一度だけ深く入る。深く入ったことが嫌で、女は布団の端を指で押し、硬さを返してもらいながら目を閉じた。
目が開いたのは、窓が白くなってからだった。女の胸の内側はまだ速いが、速さが前より少しだけ揃っている。揃っていることに気づくと余計に跳ね返る。女は跳ね返りを抑えるために、隣の気配を確かめた。男は目を閉じている。呼吸は遅い。遅いのに、吐く息が途中で短く切れる瞬間がある。女はそれを見つけてしまい、喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを抑え、代わりに布団の縁を指で押した。
男の目が開いた。視線が女の顔へ向かう前に女の手元へ落ちる。落ちて、戻る。戻った目が、昨日より少しだけ疲れている。
「……起きてた?」
女は頷き、頷きが遅れて息が一度だけ詰まる。男はその詰まりを追わず、指先で女の手の甲を一回だけ押した。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の喉がゆっくり動く。
「ありがとう。」
女は返事をしなかった。返事をすると喉が乾く。乾けば吸い直しが増える。女は代わりに、男の胸の上に置いた手をゆっくり引いた。引いた瞬間、指先が冷たくなる。冷たさが戻る前に、女は自分の手首に触れた。速い。速いのに、さっきより少しだけ揃っている。揃っているのが腹立たしくて、女は指を離し、起き上がった。
キッチンで水を出し、コップを二つ並べる。距離が数ミリずれているのが気になり、直す。直した指先が熱い。熱いと喉が狭くなる。女は口を閉じ、鼻から短く吸って、短く吐いた。男が後ろに来た足音が一定で、一定な足音に合わせて女はコップに水を注いだ。注ぐ角度を一定にすると音が一定になる。一定な音に合わせて吐こうとして吐けず、女は鼻から吸い直し、吸い直した空気が胸の奥へ入ってしまい、腹の奥が熱くなった。
男はコップを受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。女はその遅さを見て、息が一度だけ深く入る。深く入ったことが嫌で、女は流しのステンレスの反射に目を固定した。固定すると呼吸の浅さが少しだけ減る。減ったのに胸の速さは残り、残った速さが男の遅さに触れた記憶を引っ張り出す。
端末が振動した。男のポケットの中。男はすぐ取り出さず、一拍置いてから画面を見た。画面の明かりが頬の下に小さく光る。女はその光を見ないふりをした。見れば気になる。気になれば喉が乾く。乾けば息が浅くなる。女は見ないふりのまま、コップの縁を指で揃えた。
男が短く言った。
「今日、行かなきゃ。」
女の胸が跳ねた。跳ねたのを隠すために女は「どこ」と聞きかけて止めた。止めたせいで喉が狭くなり、鼻から吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑え、代わりにコップを持ち上げ、冷たさを指先に走らせた。
「病院?」
女が言うと、声が掠れた。掠れたのが腹立たしくて、女は唇を噛んだ。男は「うん」と頷き、頷きが小さい。小さいのに、肩の線だけが硬い。
「……来なくていい。」
男がそう言ったとき、女は「分かった」と返せなかった。返せない代わりに、男の手首を見る。袖口の下、遅い線があるはずの場所。女はそこを見て、指先が熱を持つのを止められず、止められないまま自分の手首に触れた。速い。速いのに、男の遅いものに触れた記憶だけが、速さの理由みたいに居座る。
「送る。」
女は短く言った。短くしないと崩れる。男は「送らなくていい」と言いかけて止めた。止めた一拍が、女の胸を跳ねさせる。男は諦めたように「じゃあ、駅まで」とだけ言った。
支度は早かった。女はコートの襟を整え、端を揃え、揃えた端が数ミリずれている気がして直し、直しているうちに呼吸が浅くなる。男は邪魔にならない距離で待ち、女が吸い直すたびに視線を外して待つ。待つ間、男の呼吸は乱れない。乱れない呼吸が目の前にあると、女の浅さが目立つ。女はそれが嫌で、鍵を掛け、鍵の向きを直し、直す必要のない向きを直した。
駅までの道、男は女の半歩前に出なかった。車道側に寄り、影を作り、女の肩に当たる風だけを弱める。女は影の温さに気づき、気づいた瞬間に胸の内側が跳ねる。跳ねたのを隠すために女は歩幅を一定にし、歩道の継ぎ目だけを数えた。
改札の前で男が止まる。女も止まる。止まると胸の速さが耳に近づく。男が手を伸ばし、女の手首に触れる。前と同じ位置。圧は弱い。女の脈が跳ね、跳ねたのが男の指先に当たる。男はそれを知ったまま動かない。
「今日、無理しない。」
男が言った。女は頷いた。頷きが遅れて息が一度だけ詰まる。男は詰まりを追わず、指先を離した。離れた指先が女の手の甲を一度だけ撫でて戻る。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の口角が少しだけ動いた。
男が改札へ向かい、振り返らずに消える。女はその背中の一定さを目で追い、追っている間に自分の呼吸がまた浅くなるのを感じ、指先を握って開いて、握って開いた。握った痛みで呼吸の位置を戻しながら、女は思った。遅い鼓動は、こんなふうに人を落ち着かせる。落ち着かせるのに、強い。速くならない。速くならないことが、たったそれだけで、こんなに価値になる。
女は自分の手首を見た。速い。速くて、揃わない。努力で揃えることは出来る。見せかけの整えは出来る。けれど、上限そのものは変わらない。さっき診察室で見た波形の山の乱れを、女は思い出してしまう。思い出した瞬間、喉が狭くなり、吸い直しが出そうになった。女は吸い直しを抑え、代わりに端末を握り、画面を見ずに強く握って痛みを作った。
同じ時間、病院の廊下で女医は男の足音を聞き分けていた。一定ではあるが、硬い。硬いまま、止まる位置が正確すぎる。女医はそれを見て、眉を動かさずに言った。
「今日は、検査だけ。張らない。」
男が頷く。頷きが小さい。女医は男の頷きの小ささが「怖い」の形であることを知っているが、それを言葉にしない。言葉にすると崩れる人がいることも知っている。女医はモニターを点け、指示だけを落とす。男の手が一度だけ開閉し、止めようとして止められない動きが出る。女医はそれを見て、紙の端を揃え直し、揃え直した端の上にペンを置いた。ペンの位置が机の縁とぴたりと合う。そのぴたりのまま、女医は一つだけ言った。
「寝るのが怖いなら、怖いままで来ていい。出来ることを、出来る順でやる。」
男は返事をしない。返事をしないまま、息を一度だけ吐く。吐けた息が落ちるのを女医は見て、視線を外し、次の手順へ進めた。
改札の向こうへ男が消えたあと、女はすぐには動けなかった。人の流れが背中を押し、押されるたびに胸の内側が跳ねる。女は跳ねを抑えるために足先を揃え、柱の影に寄り、鞄の金具を指で押して硬さを返してもらった。硬さが返ると、息が一度だけ吐ける。吐けた息のあと、今度は喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを抑え、代わりに唇を閉じたまま鼻で短く吸って、短く吐いた。
女は端末を見なかった。数字を見ると、数字に合わせようとして呼吸が崩れる。崩れるとまた吸い直しが増える。増えると男の遅い鼓動が恋しくなる。恋しくなることが嫌で、女は端末をポケットへ押し込み、駅の外へ出た。
外気が冷たく、肺に刺さる。女は反射で吸い直しそうになり、喉の手前で押し返した。押し返したまま歩き出すと、歩幅が乱れる。乱れると胸が跳ねる。女は歩道の継ぎ目を数え、数えたリズムに足を合わせた。合わせると胸の速さが少しだけ一定に寄る。寄ったことが腹立たしくて、女は指を強く握り、痛みで自分を戻した。
競技場は昼でも静かだった。受付を抜けると、床のゴムの匂いと消毒の匂いが混ざっている。女はロッカーの前で立ち止まり、鍵の向きを揃えてから開けた。揃える動作をすると指先の震えが隠れる。ウェアに着替え、胸に装着するセンサーの位置をきっちり合わせる。ずれると数字が嫌な形になる。嫌な形を見ると息が乱れる。女は自分の癖を知っていて、知っていることが腹立たしくて、ベルトを強く締めた。
トラックに出ると、空気が乾いていて、呼吸が浅くなる。女は準備運動を短く済ませ、走り始めた。脚は動く。動きの癖は矯正できる。上体の角度も、腕の振りも、努力で整えられる。整えたフォームは嘘をつかない。嘘をつかないのに、胸の内側だけが先に跳ねる。跳ねる速さが一定にならず、息が置き去りになる。女は喉の奥を固め、吸い直しを抑え、足の回転だけを一定に保った。
一周、二周。速度を上げる。脚は上げられる。視界もまだ保てる。だが、胸の内側が急に狭くなる。狭くなった瞬間、息が浅くなる。浅くなると吸い直しが出る。吸い直しが出るとリズムが崩れる。女は崩れを止めようとして、逆に胸の奥を押しつぶすように呼吸を詰めた。詰めた呼吸が一拍遅れて戻り、戻ったときには喉が乾いていた。
女は速度を落とした。落としたことが悔しくて、落としたまま走り続けようとして、膝が一度だけ揺れた。女は止まり、欄干に手をつき、吐こうとして吐けず、吸い直しが先に来る。吸い直した空気が胸の奥へ入ってしまい、腹の奥が熱くなる。熱くなるとまた息が浅くなる。女は歯を食いしばり、肩が上がらないように押し下げた。
コーチが遠くから何か言ったが、女は返事を返せなかった。返事をすると喉が乾く。乾くと吸い直しが増える。女は右手でセンサーの端を押さえ、数字を見ずに外した。見れば山が立っている。山の形が、努力では直せないことを言ってくる。女はそれを聞きたくなくて、端末を裏返し、ベンチに座った。
胸の内側がまだ速い。速いのに、男の遅い鼓動が指先に残っている。残っている感触が、余計に速さを意識させる。女はポケットの中で指を握り、痛みで自分を戻しながら、喉の手前で呼吸を押し返した。
端末が振動した。今度は見た。見ないと、男がどこにいるか分からない。画面には短い文が一つだけ出ていた。
「終わった。」
女の指が勝手に動き、「どこ。」と打ちかけて消した。長く打つと喉が乾く。乾くと息が浅くなる。女は短く返した。
「今どこ。」
送信した直後、胸が跳ねる。跳ねたまま返事が来ない時間が続く。続く時間の中で女は息を整えようとして、整えようとするほど浅くなる。浅くなるのを止めるために、女は靴紐を結び直した。結び直す必要はない。必要がないことが分かっていても、指先が動くと呼吸の置き場が出来る。
返事が来た。
「病院の外。帰る。」
女は立ち上がった。立ち上がると胸が跳ね、息が詰まりそうになる。女は吸い直しを抑え、喉の手前で押し返しながら、上着を掴んだ。掴んだ指先が熱い。熱いと余計に急ぐ。急ぐと呼吸が崩れる。女は急がない速度を選び、歩幅を一定にして競技場を出た。
病院の前は明るかった。自動扉の灯りが外に漏れ、ガラスに人影が映る。女は扉の前で一拍だけ止まった。止まると胸の速さが耳に近づく。女は鞄の金具を押し、硬さを返してもらってから、扉をくぐった。
受付の前で、白衣の女医が立っていた。袖口が整っていて、持っているファイルの角が揃っている。女の視線が角に吸われ、吸われた瞬間に息が一度だけ詰まる。女医の視線が女の喉へ一瞬落ち、すぐ女の指先へ移る。移って、外れる。外れ方が速いのに乱れない。
女医は声を落とした。
「来たの。」
女は頷いた。頷きが遅れて息が一度だけ詰まる。女医は詰まりを追わず、廊下の先を顎で示した。
「今、出る。待つなら、壁際。」
女は「分かった。」と短く返した。返すと喉が乾く。乾いた喉を隠すために女は唇を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。女医はそれを見ないふりをしてファイルを胸に抱え直し、抱え直したファイルの角を揃え直した。
女は壁際に立ち、床の目地を数えた。数えていると時間が均される。均されている間だけ胸の速さが一定に寄る。寄るとまた跳ね返る。女は指を握り、痛みで戻した。
廊下の奥から足音が来た。一定だが、硬い。硬い足音が近づくたび、女の胸が跳ねる。跳ねたまま、男が現れた。顔色は変わらない。姿勢も崩れていない。だが、肩の線がほんの少し硬い。硬い肩のまま目線が女の手元へ落ち、落ちた目線がすぐ外れる。
「言っただろ。来なくていいって。」
男の声は低い。短い。語尾に「。」が落ちる。女は「帰るって言った。」と返した。返した声が掠れた。掠れたのが腹立たしくて、女は言葉を増やさずに男の手首へ視線を落とした。袖口の下、遅い線があるはずの場所。女はそこへ指先を伸ばしそうになって止め、止めた指を鞄の金具に移し、硬さで自分を固定した。
男はため息を吐かなかった。ため息は感情を外へ出す。男は外へ出さない。外へ出さないまま、女の横に並んだ。並んだ距離で男の体温が分かり、分かった瞬間に女の胸が跳ねる。男は歩幅を落とし、女の歩幅に合わせた。合わせられると女の呼吸が一度だけ深く入る。深く入ったことが嫌で、女は喉の手前で押し返した。
病院の外に出たところで、女医の声が背中から追いついた。
「無理はだめ。張らない。」
男が振り返りかけて止め、止めたまま「分かった。」とだけ返した。返し方が短いのに、肩の硬さが残る。女医はそれ以上言わず、扉の内側へ戻った。戻りながら、女医の指先が無意識にファイルの角を揃え直すのが見えた。
歩きながら、女は男の横顔を見た。見た瞬間に喉が乾く。乾くと吸い直しが出る。女は吸い直しを抑え、代わりに言った。
「怖いって言った。」
男は返事をすぐには出さなかった。すぐに出さない間に女の胸が跳ねそうになり、女は指を強く握って痛みで戻した。男がようやく言う。
「言った。」
「今日も。」
女の声は短い。短くしないと崩れる。男は目線を前に置いたまま、首を小さく振った。
「今日は、怖いってほどじゃない。」
女はその否定の言い方が、怖さを隠すための形だと分かった。分かった瞬間、腹の奥が熱くなる。熱くなると息が浅くなる。女は熱を隠すために歩道の継ぎ目を数え、足のリズムを一定にした。
男がふいに言った。
「走ってた?」
女は「走った。」とだけ返した。返した声が硬い。硬い声は自分でも分かる。分かると喉が乾く。女は唇を噛み、次の言葉を飲み込んだ。
男はそれ以上聞かなかった。聞かない代わりに、女の手の甲に指先を一度だけ触れた。握らない。押さえない。触れて、触れたまま一拍待つ。遅い触れ方に合わせて女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の指先が離れ、離れた指先が女の手の甲をもう一度だけ撫でて戻る。
その撫で方が遅くて、女は思ってしまう。遅い鼓動は、こんなふうに人を落ち着かせる。落ち着かせるのに強い。強いのに乱れない。努力で手に入るものではない。
女は自分の手首を見た。速い。速くて揃わない。揃えられるのは表面だけだ。上限そのものは変わらない。女は視線を上げ、男の袖口の下を見た。遅い線があるはずの場所を、見えないのに見ようとしてしまう。
その頃、病院の奥で女医はファイルを机に置き、角を揃えた。端末の画面が白く光る。心臓の模型が出る。手順が表示される。女医の指が開始の上で止まり、一拍だけ躊躇い、次の瞬間に動いた。救いになるなら、という言葉を口にしないまま、女医は同じ条件をもう一度だけ繰り返した。
病院から少し離れた角で、男が歩幅を落とした。落としたのに止まらない。止まらないまま、女の歩幅に揃えていく。揃えられると女の胸の奥が一拍だけ落ちる。落ちた分、次の跳ねが目立ち、女は鞄の金具を指で押して硬さを返してもらった。
男は前を見たまま、ポケットの中で紙を指で押さえた。押さえる指が一度だけ滑り、止めようとして止められない動きが出る。女はそれを見て、喉が狭くなり、息を押し返すために顎を引いた。男はその変化を拾わないふりをして、言葉だけを短く落とす。
「検査、数字が増えただけ。」
女は返事を増やさず頷いた。頷きが遅れて息が一度だけ詰まり、詰まりを隠すために女は歩道の継ぎ目を数えた。男の足音は一定に戻りつつある。一定に戻るほど、女の中の速さが余計に浮く。
駅前の横断歩道で止まると、男が手を伸ばした。手首ではない。女の鞄の持ち手の方へ指先が一度だけ触れ、傾きを直す。直す圧が弱い。弱いのに位置が正確で、女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちる前に信号が青に変わり、男は先に出ず、女が一歩出るのを待った。
女の部屋に着くまで、男は特別なことをしない。ただ、風が当たる側に寄り、段差の前で半歩だけ先に出て幅を作る。作った幅が正確すぎて、女の胸の内側が勝手に跳ねる。跳ねを押し返すために女は唇を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。
玄関で靴を脱ぐと、男は靴を揃えた。揃え終わった指先が一拍だけ縁に残り、その一拍が女の目に刺さる。女は鍵を掛け、鍵の向きを直した。直したあと、直す必要のない向きをもう一度直し、指先の熱をやり過ごした。
部屋に入っても、男は座らなかった。壁際に立ったまま、視線を女の手元へ落としてすぐ外す。女はキッチンへ向かい、コップを二つ出し、距離を揃え、水を注いだ。注ぐ角度を一定にすると音が一定になる。一定な音に合わせて吐こうとして吐けず、女は鼻から吸い直し、吸い直した空気が胸の奥へ入ってしまった。
男がコップを受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくり動く。女はその遅さに引っ張られて一度だけ吐けた。吐けたことが腹の底に残り、女は流しのステンレスの反射に目を固定してやり過ごした。
男が低い声で言った。
「今日、走った?」
女の指がコップの縁で止まる。止まった指先が熱を持ち、熱が喉を狭くする。女は短く「走った」と返した。返した声が硬く、硬い声が自分の胸の速さを余計に目立たせ、女は机の角を指で押して硬さを返してもらった。
男はそれ以上聞かず、代わりに自分の袖口を少しだけ直した。直す指先が一度だけ忙しくなる。女は視線を落とし、落とした視線の先で男の手首の薄い線を拾ってしまう。拾った瞬間、口の中が乾き、女は唇を閉じて鼻で短く吸って短く吐いた。
男が、女の目線を追わないまま言った。
「……手、借りてもいい?」
女は返事を言葉にしなかった。言葉にすると喉が乾く。乾いた喉は呼吸を浅くし、浅い呼吸は胸を速くする。女は代わりに近づき、男の手首へ指先を当てた。温度が伝わり、遅い鼓動が一定に当たる。女の胸の内側が跳ね、跳ねた自分を押し返すために、女は指を止めた。
男は目を閉じた。閉じたまま、肩が少しだけ落ちる。吐く息が長くなり、部屋の空気が一段静かになる。女はその静かさに釣られて、息が一度だけ深く入った。深く入ったことが嫌で、女は顎を引き、鼓動の当たる位置を数ミリだけ正面に捉え直した。
男の指が女の手の甲に触れる。握らない。押さえない。触れて、触れたまま一拍待つ。遅い触れ方に合わせて女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の喉がゆっくり動いた。
「こうしてると、戻る。」
戻る、が何にか女は聞かなかった。聞けば喉が乾く。女は男の手首から指を離さず、離さない代わりに視線を男の胸元へ落とした。布越しの鼓動の位置を探すみたいに、指先が一瞬だけ浮く。浮いた指先が熱を持ち、女は鞄の金具へ指を移して硬さで自分を固定した。
男が目を開けた。視線が女の顔へ向かう前に、女の手元へ落ちる。落ちて、戻る。
「さっき、先生が言ってた。張るな、って。」
女は頷いた。頷きが遅れて息が詰まり、女は喉の手前で押し返す。男はその変化を追わないふりをして、ポケットから紙を出し、テーブルの端に置いた。置いた紙の角がテーブルの角とずれている。女の指が勝手に動き、角をぴたりと合わせる。合わせた瞬間、指先が熱くなった。
紙の上には数値の欄が並んでいた。女は文字を追わないふりをして、欄の並びだけを見た。並びは整っているのに、丸が付いている箇所が散っている。散っているのが胸の奥へ触れ、女は鼻から短く吸って短く吐いた。
男が言った。
「昔は、こういうの、全部“良い”って言われた。」
女の指先が紙の端で止まる。止まった指先が震えそうになり、女は端を押して硬さを返してもらった。
「今は、違う?」
男は答えを短くしようとして、一度だけ喉を動かした。乾いた音が小さく出て、女の喉も同じように乾き、女は吸い直しを抑えるために唇を閉じた。
「休んでると遅い。動かすと、上がる。……上がり方が、前より派手になる。」
女は頷いた。頷くと胸が跳ね、跳ねを押し返すために女は机の角を押した。男の説明は長くない。長くないのに、女の中で映像が勝手に立つ。遅い鼓動が地面を掴み、上がり方が限界まで伸び、限界の手前で止まるはずの場所を通り過ぎていく。
女は自分の手首に指を当てた。速い。速いのに、上がり切った先で壁に当たる感じがある。壁の手前まで努力で持っていける。壁そのものは動かない。女は指を離し、離した指先をコップの縁に当てて冷たさで固定した。
男が、女の動きを見ないふりをして言った。
「走るの、やめたくない?」
女は「やめない」と言い切らなかった。言い切ると喉が乾く。代わりに肩の位置を戻し、息を整えようとして整えきれず、鼻で短く吸って短く吐いた。男の視線が女の喉へ落ちてすぐ外れる。外れた視線が女の胸を跳ねさせ、女は鞄の金具を押して硬さを返してもらった。
その夜、病院の奥で女医は一人だった。机の端は揃い、ファイルの角も揃い、端末の画面だけが白く光る。画面には心臓の模型が出ていて、波形が走り、途中で崩れ、また戻る。女医は眉を動かさず、条件を呼び出し直し、指先で開始を押した。
手順が進む。切り替えの直前で女医の指が止まる。止まった指が一拍だけ机の縁をなぞり、なぞったあと、女医は同じ手順を続けた。画面の端に「シミュレーション」と表示され、表示の下に小さく「実施不可」と並ぶ。女医はその文字を見ないふりをして、次の工程をもう一度だけ繰り返した。
同じ頃、女の部屋で男はコップを置き、女の指先を見た。見て、見ないふりをして視線を外し、低い声で言った。
「寝る前、少しだけ。ここ、触っててほしい。」
女は返事の代わりに、男の手首へ指先を当てた。温度が伝わり、遅い鼓動が一定に当たる。女の胸の内側が跳ね、跳ねた自分を押し返すために、女は指を止めたまま目を閉じた。
女の指先が男の手首に当たると、遅い鼓動が一定に返ってくる。返ってくるたび、女の喉の奥が少しだけ緩む。緩むのに、胸の内側は速いままで、速いままその遅さに引っ張られようとして跳ね返る。女は跳ね返りを押し返すために指を止め、止めたまま息を吐こうとして、吐けないぶんだけ鼻で短く吸って短く吐いた。
男は椅子に座らなかった。壁際に寄り、女の動きの邪魔にならない位置で立って、目を閉じた。閉じた目のまま、肩の線だけが少しずつ落ちていく。落ちていくのが分かると、女は腹の奥が熱くなる。熱くなると息が浅くなる。女は熱を隠すために、鞄の金具へ指を移し、硬さを返してもらってから、また男の手首へ戻した。戻す動作が遅れ、遅れたことに自分で気づいて胸が跳ねる。跳ねた自分を押し返すように、女は視線を落として男の袖口の端だけを見た。
男が目を開けた。視線が女の顔へ向かう前に女の手元へ落ち、落ちて、戻る。
「……悪い。」
女は首を横に振った。否定は短くしないと喉が乾く。女は言葉を足さず、男の手首に当てた指先の圧を少しだけ弱めた。弱めると触れている感覚が薄くなって、薄くなった瞬間に男の呼吸が短くなる。女はすぐ戻し、遅い鼓動が指先に当たる位置を正面へ捉え直した。
男が小さく息を吐く。吐けた息が落ちるのを見てしまい、女は悔しくなる。悔しいのに、悔しさを外へ出せない。外へ出すと喉が乾く。女は唇を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。
「明日、仕事?」
男が聞いた。声が低い。短い。女は頷いた。頷きが遅れて息が一度だけ詰まり、詰まりを押し返すために顎を引いた。
「午前だけ。」
男は「そっか」と言って、視線を外した。外した視線の先は、テーブルの上の紙だった。数値の欄が並ぶ紙。女が角を揃えたせいで、机の縁とぴたりと合っている。そのぴたりが部屋の中で妙に目立ち、女は見ないふりをしたまま、指先だけを男の手首に留めた。
男が喉を動かす。乾いた音が小さく出る。女の喉も同じように乾き、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えようとして、逆に短く吸ってしまい、胸の内側が跳ねた。跳ねた自分を押し返すように、女は男の鼓動の遅さを指先で確かめる。
「……先生、あの人。見てた。」
男が言った。女医のことだと分かる。女は「見てた」と返せば喉が乾くのを知っていて、言葉を飲み込んだ。飲み込んだまま、男の手首から指を離さず、代わりに息を一度だけ吐いた。吐けた息が落ちると、男の肩がまた少し落ちる。
「来たの、って言ってた。」
男の言葉が短いのに、女の胸が跳ねる。女は病院の廊下で、女医の視線が喉と指先をなぞった瞬間を思い出してしまう。思い出した瞬間に喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑え、鞄の金具へ指を移して硬さを返してもらい、戻した。
男は紙を指で押さえ、押さえる指が一度だけ滑った。滑った紙の角がほんの数ミリずれる。女の指が勝手に動き、角をぴたりと揃え直す。揃え直した瞬間、指先が熱くなった。熱くなると息が浅くなる。女は目を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。
男がその動きを見ないふりをして言う。
「癖、強いね。」
女は否定しなかった。否定すると喉が乾く。女は代わりに「強い」とだけ言った。短い返事なのに、声が掠れて喉が乾く。女は唇を噛み、掠れを隠すために椅子の背に肩を当てて軸を戻した。
男が、今度は自分から女の手首へ指先を当てた。前と同じ位置。圧は弱い。弱いのに女の脈が跳ねる。男は跳ねを知ったまま動かない。動かないまま、女の脈の速さが指先に当たる間隔を確かめる。
「……すぐ上がる。」
男が言った。女は「上がる」と聞き返したくなって、聞き返せば喉が乾くのを知っていて、飲み込んだ。飲み込んだ瞬間に胸が跳ね、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑え、代わりに男の手首へ視線を落とした。遅い線があるはずの場所。そこを見ただけで、女の指先が熱を持つ。
男は女の脈から指を離し、女の手の甲を一度だけ撫でた。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて、女はようやく一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の喉がゆっくり動き、呼吸が少しだけ長くなる。
「寝る前、これ、効く。」
男が言う。女は返事を言葉にしなかった。言葉にすると喉が乾く。女は代わりに、男の手首に指先を当てて、遅い鼓動が一定に当たる位置を探し、見つけて止めた。
そのまま、布団の準備に移った。女はシーツの端を揃え、枕の角度を揃え、揃えたものが数ミリずれている気がして直し、直しているうちに呼吸が浅くなる。男は手伝おうとせず、邪魔にならない距離で立ち、女が吸い直すたびに視線を外して待った。待つ間、男の呼吸は乱れない。乱れない呼吸が部屋にあると、女の浅さが目立つ。女はそれが嫌で、枕をもう一度だけ押し、形を整えた。
灯りを落とすと、静けさが来る。静けさは女の胸の速さを大きくする。女が横になり、男も隣に横になった。布団越しに体温が伝わる。男の鼓動は遅い。女はその遅さを追いかけたくなって、指先を伸ばし、伸ばした指先が宙で止まる。止まったせいで指が震える。男は何も言わず、女の指先を取って自分の胸へ置いた。置く圧は弱い。弱いのに、遅い鼓動が指先に当たる。
女の呼吸が一度だけ落ちる。落ちたのに、胸の内側は速いままで、速いまま遅い音に引っ張られようとして跳ね返る。女は跳ね返りを飲み込むように唇を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。男の指先が女の手の甲を一回だけ押し、置いた位置を動かさない。女は目を閉じ、遅い鼓動を数えようとして数えられず、代わりに自分の速い鼓動の音が耳に近づく。
男が低い声で言った。
「こういうの、変だよね。」
女は返事をしなかった。返事をすると喉が乾く。女は代わりに男の胸の音を指先で確かめるようにじっとして、鼻で短く吸って短く吐いた。男は「うん」とも「違う」とも言わず、ただ呼吸を続けた。
しばらくして、男の吐く息がまた短くなる。短くなるのが分かった瞬間、女の胸が跳ね、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑え、男の胸の上の指先の圧を少しだけ強めた。遅い鼓動が当たる位置がぶれないように、数ミリだけ捉え直す。捉え直した瞬間、男の肩が少し落ち、吐く息が長くなる。長くなるのを感じてしまい、女は悔しくなる。悔しいのに、嬉しさも混じってしまう。混じると腹の奥が熱くなる。女は熱を隠すために目を閉じ、喉の手前で呼吸を押し返した。
男が言う。
「今日、先生に言われた。」
女は目を閉じたまま、指先を止めた。
「……このままだと、先、短いかもって。」
その言葉は「死ぬ」と言っていないのに、そこへ触れる。女の胸の内側が跳ね上がり、喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えようとして短く吸ってしまい、胸の奥が熱くなる。男の視線が女の喉へ落ちてすぐ外れる。外れた視線が女の胸をさらに跳ねさせる。
女は言葉を探した。探すと喉が乾く。乾くと息が浅くなる。女は言葉を諦め、代わりに男の胸の上の指先を動かさず、遅い鼓動を確かめ続けた。確かめ続けることだけが、今の女に出来る返事だった。
男が続けた。
「でもさ、こういうの、誰にも説明できない。」
女はそれを聞いてしまう。説明できない、の中に、男の心臓そのものが含まれているのが分かる。遅いのに、必要なときに上がる。上がるのに、戻る場所がある。戻る場所があることが、ただそれだけで価値になる。価値になるのが分かった瞬間、女の胸が痛む。痛むのに、欲しいという熱が腹の奥に立ち上がる。立ち上がる熱に気づいた瞬間、女は自分が怖くなる。怖くなると息が浅くなる。女は唇を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。
男の遅い鼓動は変わらない。変わらないのに、女の中だけが勝手に騒ぐ。女は騒ぎを押し返すために、男の胸に置かれた指先の圧を弱めようとして弱められず、弱められないまま、低い声で短く言った。
「ここにいる。」
男の指が女の手の甲を一度だけ撫でた。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて女は一度だけ吐ける。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少し長くなる。
そのとき、男の端末が布団の外で小さく振動した。男はすぐ取らない。一拍置いてから画面を見る。画面の明かりが頬の下を小さく照らす。女は見ないふりをした。見れば喉が乾く。乾けば息が浅くなる。女は見ないふりのまま、男の鼓動だけを指先で追った。
男が短く息を吐き、画面を伏せた。
「先生から。来週、もう一回。」
女は「うん」とだけ返した。短い返事なのに喉が乾く。女は唇を噛み、乾きを隠すように指先の位置を数ミリだけ直して、遅い鼓動が当たる場所を正面に戻した。
暗がりの中で、女は思ってしまう。努力で整えられるものと、努力では動かないものがある。フォームは直せる。筋は付く。癖も矯正できる。けれど、上限の形は、最初から決まっている。決まっている形が、隣で遅く、強く、乱れずに打っている。
女はその事実を、まだ言葉にしない。言葉にすると壊れる。壊れると分かっているから、女は指先を離さず、遅い鼓動を確かめ続けた。確かめ続けるほど、恋と欲が同じ場所で絡まり、絡まるほど、悲しさの匂いが濃くなるのに、女は目を閉じて、鼻で短く吸って短く吐いた。
男の遅い音は、隣でずっと一定だった。
端末の振動が止んだあとも、女の指先は男の胸の上から離れなかった。離せば、自分の速さが一気に露になるのが分かっている。遅い鼓動が一定に当たり続ける間だけ、女は「呼吸の置き場」を借りられる。借りているのに、借りていることが悔しい。悔しさは熱になる。熱は喉を狭くする。狭くなった喉で吸い直しが出そうになって、女は唇を閉じて鼻で短く吸って短く吐いた。男は暗がりで目を開けたまま、女の喉の動きを見ないふりをして、低い声で短く言う。「来週、また検査だって」女は「うん」と返し、それ以上の言葉を足さない。足すと乾く。乾くと浅くなる。浅くなると、速さが暴れる。
「先、短いかも」その言葉の余韻が、布団の中でまだ熱を持っていた。女は“死ぬ”を口にしないで済む距離で、男の心臓だけを感じ続けた。指先に当たる遅さは、ただ遅いだけじゃない。必要なときに上がって、上がったあとに戻る場所がある。戻る場所があることが、今の男の救いにもなっていて、同時に女の中の欲を刺激する。欲を刺激される自分が一番嫌で、女は目を閉じたまま、指先の位置を数ミリだけ直して、鼓動が当たる場所を正面に戻した。男の吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かった瞬間、女はまた悔しくなる。悔しいのに、嬉しさも混じる。混じった時点で負けだと分かっているのに、女は負ける。
明け方、男がようやく眠りに落ち、女は天井を見たまま動けなくなった。眠っている男の肩の線は少しだけ柔らかい。女はそれを見て、触れたくなる。触れたくなるのに触れない。触れたらまた“遅さ”が手に入ってしまう。手に入ると、手放せなくなる。女は自分の手首に指を当てた。速い。揃わない。走り込めば整えることは出来る。整えることは出来るが、上限の形は変わらない。変わらないものを前にして、隣で「変わらないように見える遅さ」が鳴っている。女はその対比だけで吐き気がしそうになり、吐き気が来ると呼吸が浅くなり、浅くなるとまた吸い直しが増える。女は布団の端を指で押し、硬さを返してもらいながら、喉の手前で息を押し返した。
朝、男が目を覚ます前に女はキッチンに立った。コップを二つ出して距離を揃え、水を注ぐ角度を一定にする。一定にすれば音も一定で、音が一定だと呼吸の置き場が出来る。出来るのに、今日は出来ない。指先が熱い。熱いのは、眠れない夜のせいじゃない。眠れない夜のせいにしたいのに、せいに出来ない。「先、短いかも」のせいで、女の中に“対策”という言葉が立ち上がっている。対策の語感は、女にとって甘い。努力で勝てる気がするからだ。努力で勝てない領域に触れたとき、人は余計に努力へ逃げる。逃げている自分が分かって、女はコップの縁を指で揃えたまま、指を止めた。
昼前、男は病院へ向かった。女は「付いていく」と言わなかった。言えば押し付けになる。押し付けになるのが嫌というより、男が嫌がる顔を見るのが怖い。怖いから言わない。言わないまま、玄関で男の靴の向きを揃えるのを見て、女は喉の奥が乾くのを感じた。乾きを隠すために、女は男の袖口ではなく、男の手の甲にだけ一度触れた。握らない。押さえない。触れて一拍待って離す。触れ方を遅くすると、男の呼吸が少し長くなる。その“効き方”を覚えてしまっている自分が、女にとっていちばん危ない。
病院の廊下で女医が女を見つけたのは、その日の午後だった。偶然のふりをして、角を揃えたファイルを胸に抱え、声を落とす。「来たの」女は頷き、頷きが遅れて息が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引いた。女医は詰まりを追わない。追わないまま言葉だけを正確に落とす。「本人には、怖がらせない。張らせない。休ませる。今はそれが一番効く」女は短く「分かった」と返し、返した声が掠れた。女医は掠れに反応しないふりをして、最後に一つだけ追加する。「もし、頭の中で“移植”って単語がよぎっても——今は言わないで」言い方が短くて、逃げ道がない。女は息を吸い直しそうになり、喉の手前で押し返した。女医の視線が、女の喉に一瞬落ちて、すぐ外れる。外れ方が乱れないのが、余計に刺さる。
その夜、女医はまた一人で端末を点ける。心臓の模型。波形。条件。開始。画面の端に小さく「シミュレーション」と出て、その下に「実施不可」が並ぶ。女医は眉を動かさない。動かさないまま、指先だけが机の縁を一拍なぞり、次の瞬間にはもう一度開始を押している。救いになるなら、と口にしないまま、救いの形を繰り返し練習する。女はそのことをまだ知らない。ただ、遅い鼓動の価値を知ってしまった指先だけが、今夜も男の胸を探しそうになるのを、必死に止めていた。
女は「移植」という単語を、口の中で発音しないように噛み砕いた。噛み砕くと乾く。乾くと息が浅くなる。浅くなると胸の内側が跳ねる。女はそれを知っているから、代わりに指先で机の角を押し、硬さを返してもらってから、端末の画面を暗くした。暗くしても言葉は消えない。消えない言葉を、消えないまま棚の奥に押し込むみたいに、女はタオルの端を揃え、皿の縁を揃え、揃える動作で頭の中を平らにしようとした。
その日の夜、男が帰ってきたのはいつもより遅かった。玄関の鍵が回る音が小さく、靴を脱ぐ音も小さい。小さい音ほど女は拾ってしまう。拾うと胸が跳ねる。女は台所にいたふりをして、鍋の蓋を一度だけ持ち上げ、湯気を逃がす。湯気が上がると視界が曇って、呼吸の置き場が一瞬だけ出来る。
男が部屋に入ってきて、上着を椅子の背に掛けた。掛ける動作が小さい。小さいのに、肩の線が硬い。硬い肩を見ると、女の胸が勝手に跳ねる。跳ねたのを隠すために女は「おかえり」と短く言い、短く言ったせいで喉が乾き、乾きが来る前に水を口に含んだ。
男は「ただいま」と返して、視線を女の手元へ落としてすぐ外した。外した視線の外れ方が、今日は少しだけ急いでいる。急いでいると分かると、女の息が浅くなる。浅くなるのを止めるために女は鍋の取っ手を握り直し、熱と硬さで自分を固定した。
「検査は?」
女が聞くと、男は「終わった」とだけ言った。短い。短いほど、言葉の外に残るものが増える。女は増えた分を拾いそうになって拾わない。拾うと喉が乾く。乾くと吸い直しが出る。女は拾わない代わりに、鍋の火を弱め、火の音を一定にした。
男はテーブルの端に紙を置かなかった。置かないのに、ポケットの位置が一度だけ気になる仕草をする。女の視線がそこへ行きかけて止まる。止めたぶんだけ胸が跳ね、女は鞄の金具がない代わりに、エプロンの紐を指で押し、硬さを返してもらった。
「今日は、寝るの、怖くない?」
女は聞いてしまってから、聞き方が直球すぎたことに気づく。気づくと喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを抑え、唇を閉じた。
男は少しだけ黙った。黙った時間の中で女の胸が跳ねそうになり、女は鍋の縁を指で押して硬さを返してもらった。男がようやく言う。
「怖いってほどじゃない。……でも、眠る前に考えるのは、止まらない。」
女は「何を」と聞き返さなかった。聞き返すと喉が乾く。女は代わりに、器を二つ並べ、距離を揃え、揃えた距離の中で息を一度だけ吐こうとして、吐けずに鼻で短く吸って短く吐いた。
「考えるの、やめてって言われた?」
女が言うと、男は首を横に振った。
「言われたのは、張るな、って。」
「張るな、か。」
女はその言葉を口にして、妙に苦く感じる。努力で上がってきた人間に対して、「上げるな」という命令は、呼吸を止めるみたいなものだ。女はその苦さを見せたくなくて、箸の向きを揃え、揃える動作で顔を隠した。
男が椅子に座らずに立ったまま、女の背後に回る。回る足音は一定なのに、止まる位置が正確すぎる。空調の風が女の首筋に当たらない位置。女はそれに気づき、気づいた瞬間に胸が跳ね、跳ねたのを押し返すために鍋の火をもう一段弱めた。
男の手が、女の手首に触れた。前と同じ位置。圧は弱い。弱いのに女の脈が跳ねて、跳ねたのが男の指先に当たる。男はその跳ねを知ったまま動かない。動かないまま、低い声で短く言う。
「……速い。」
女は否定しなかった。否定すると呼吸が崩れる。女は代わりに、男の手首へ指先を当て返した。温度が伝わり、遅い鼓動が一定に当たる。女の喉の奥が少しだけ緩む。緩むのが悔しくて、女は目線を鍋へ固定し、匂いと湯気だけを吸った。
男は女の手首から指を離し、代わりに女の手の甲を一度だけ撫でた。撫で方が遅い。遅い撫で方に合わせて女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少し長くなる。長くなったのを感じてしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱は危ない。危ないと分かっているのに、熱は勝手に立つ。
食事は静かに終わった。男は箸を置く音を小さくし、女は皿の縁を揃えて重ねた。片付けの途中、男がふいに言った。
「俺さ、走るの、好きだったと思う。」
女の指が皿の縁で止まる。止まると胸が跳ねる。女は跳ねを押し返すために皿を水で濡らし、濡れた感触で指先を固定した。
「……“だった”?」
女が聞くと、男は笑いかけて、笑いが出ないまま終わった。
「今は、好きかどうかより、やめたら俺が何になるのか分かんない。」
女はその言葉に、自分の胸の奥が熱くなるのを感じる。熱くなると息が浅くなる。女は熱を隠すために蛇口の水を少しだけ強くし、音を一定にした。
「親?」
女が短く聞くと、男は頷いた。頷きが小さい。
「親の言葉で生きてきた。結果が出ると楽で、結果が出ないと……ずっと怖い。」
怖い、が男の口から出た瞬間、女の喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを抑え、代わりに男の手首へ視線を落とした。遅い線があるはずの場所。そこを見るだけで、女の指先が熱を持つ。
「私も同じだよ。」
女は言葉を増やさずに言った。増やすと壊れる。壊れるのが分かっているから短く言う。男はその短さを埋めようとしなかった。ただ、女の肩の少し上に手を置き、位置を動かさずに待つ。撫でない。撫でないのに、置き方が遅くて、女は一度だけ吐ける。
寝る前、男はいつものように女の手を取って、自分の胸へ置いた。遅い鼓動が一定に当たり、女の呼吸が一拍だけ落ちる。落ちたのに胸の内側は速いままで、速いまま遅い音に引っ張られようとして跳ね返る。女は跳ね返りを押し返すために目を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。
暗がりで男が言う。
「ねえ。」
女は返事をしなかった。返事をすると乾く。男は続ける。
「もし、俺が走れなくなったらさ。……好きでいてくれる?」
女の胸が跳ね上がる。跳ね上がった瞬間、喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えようとして短く吸ってしまい、胸の奥が熱くなる。熱が上がると余計に怖くなる。怖いのに、今答えないと男の呼吸が短くなるのが分かる。女は答えを短くする。短くしないと壊れる。
「好き。」
言った瞬間に喉が乾く。女は唇を閉じ、男の遅い鼓動の位置を数ミリだけ正面に捉え直して、吐ける呼吸を探した。
男の指先が女の手の甲を一度だけ押す。押す圧は弱い。弱いのに位置が確かで、女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少し長くなる。
その長くなった息の隙間に、女の頭の中で「対策」という単語がまた立ち上がる。立ち上がった単語のすぐ隣に、「移植」という単語が影みたいに伸びる。女はその影を見ないふりをする。見れば欲が形になる。形になると、言葉になって外へ出る。外へ出た瞬間、恋が壊れてしまう気がする。
翌日、女は病院の近くまで行かなかった。行けば女医の言葉が戻る。「今は言うな。」その命令は、女にとって珍しく“努力では超えられない壁”だった。だから腹が立つ。腹が立つから、女は走る。走って、上限にぶつかって、努力で超えられないものを身体に思い出させる。思い出すたびに、男の遅い鼓動の価値が増えていくのが分かって、女は自分が怖くなる。
その夜、女医はまた端末の前にいた。机の端は揃い、資料の端も揃い、ペンの位置も縁にぴたりと合う。画面に心臓の模型。開始。波形。条件。女医の指が一拍だけ止まり、止まった指が机の縁をなぞり、次の瞬間には開始を押している。実施不可の文字を見ないふりをして、救いになるなら、と口にしないまま、救いの形だけを繰り返す。
同じ時間、女は暗い部屋で男の胸に指先を置きながら、遅い鼓動を確かめ続けた。確かめ続けるほど、恋が深くなって、深くなるほど、奪うという発想が現実味を帯びる。女はそれを拒むために、声を出さずにただ一度だけ息を吐いて、吐けた息が床に落ちるまで、指先を離さなかった。
朝、女は男より先に起きた。起きた瞬間に昨夜の「好き」が喉の奥に残っていて、残っているのに口の中が乾く。乾くと息が浅くなる。浅くなると胸が跳ねる。女はそれを押し返すために、台所で蛇口をひねり、水の音を一定にした。一定な音に合わせて吐こうとして吐けず、鼻で短く吸って短く吐く。吐けたような気がしたところで、隣の部屋の床が一度だけ鳴った。
男が起きた。
女は振り返らなかった。振り返ると表情が出る。表情が出ると喉が乾く。女はコップを二つ並べ、距離を揃え、揃えた距離を見ないふりをして水を注いだ。注ぐ角度を一定にすると音が一定になり、音が一定だと呼吸の置き場が出来る。出来るのに、今日は出来ない。指先が熱い。熱さの正体が「好き」だけじゃないことを、女は知ってしまっている。
男は足音を一定にして近づき、女の背後で止まった。止まる位置が正確すぎて、空調の風が女の首筋に当たらない。女はそれに気づいて胸が跳ね、跳ねたのを押し返すためにコップの縁を指で揃えた。
「おはよう。」
男の声は低い。短い。女は「おはよう」と返し、返した途端に喉が乾く。乾いた喉を隠すように、女はコップを男へ渡した。指先が触れそうで触れない距離で止まり、止まった距離が余計に胸を跳ねさせる。男は受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。女はその遅さに引っ張られて一度だけ吐けた。吐けたことが悔しくて、女は流しの金属の反射に目を固定した。
男はコップを置き、ポケットの中で紙を押さえた。押さえる指が一度だけ滑る。女の目線がそこへ行きかけて止まり、止めたぶんだけ胸が跳ねる。女はエプロンの紐を押し、硬さで自分を固定した。
「今日、行く。」
男が言った。病院だと分かる言い方。女は「うん」とだけ返した。返した声が掠れ、掠れたのが腹立たしくて、女は鍋の火をつけるふりをしてスイッチを触っただけで止めた。
男が一拍置いて言う。
「昨日の、……好き。ありがとう。」
女は言葉を返さなかった。返すと乾く。乾くと浅くなる。浅くなると、胸の奥にいる影が形になる。女は返事の代わりに、男の手首へ視線を落とした。袖口の下、遅い線があるはずの場所。そこを見るだけで指先が熱を持つ。熱が危ない。危ないと分かっているのに、女の中で「対策」という単語がまた立ち上がる。
男が靴を履く。靴を揃える。揃え終わった指先が一拍だけ縁に残る。女はその一拍を見て、胸が跳ねた。跳ねを押し返すために女は玄関の床の目地を数え、数えながら短く言った。
「終わったら、連絡。」
男は頷いた。頷きが小さい。小さいのに、女の喉が狭くなる。男はそれ以上言わずに出ていき、扉が閉まる。
静けさが来る。静けさは女の速さを大きくする。女は自分の手首に指を当てた。速い。揃わない。揃わない速さが、昨夜の「好き」と同じ場所で鳴っているのが分かってしまい、女は指を離した。離した指先が熱い。熱さのまま、女は走りに行った。
トラックは空いていた。女はフォームを整える。整えることは出来る。脚も、腕も、角度も。整えたフォームで一周、二周、速度を上げる。胸の内側が先に跳ねる。跳ねが一定にならず、息が置き去りになる。女は喉の奥を固め、吸い直しを抑え、足の回転だけを一定に保つ。保とうとした瞬間、胸の奥が狭くなる。狭くなると息が浅くなる。浅くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを押し返し、押し返すほど胸の奥が熱くなる。熱くなるほど、遅い鼓動の価値が頭の中で増えていく。
増えていくのが分かって、女は止まった。止まると速さが耳に近づく。女は欄干に手をつき、吐こうとして吐けず、鼻で短く吸って短く吐いた。吐けた息が落ちた瞬間、端末が振動する。
「今から、少し時間ある?」
男からだった。女の指が勝手に動き、「どこ」と打ちかけて消す。長く打つと乾く。乾くと浅くなる。女は短く返した。
「どこ。」
返事はすぐ来た。
「病院の隣の公園。」
女は上着を掴んだ。掴んだ指先が熱い。熱いまま急ぐと呼吸が崩れる。女は急がない速度を選び、歩幅を一定にして病院へ向かった。
公園のベンチに男がいた。姿勢は崩れていない。顔色も変わらない。けれど肩の線が硬い。硬い肩のまま、目線が女の手元へ落ちてすぐ外れる。女はその外れ方で、男が「平気」を作っているのが分かる。分かると胸が跳ねる。女は跳ねを押し返すために鞄の金具を押し、硬さを返してもらってから、男の前に立った。
男が低い声で言った。
「先生に、言われた。……今すぐじゃないけど、準備はしとけって。」
準備、の中身を女は聞かなかった。聞けば言葉が形になる。形になれば、影が輪郭を持つ。女は輪郭が怖くて、短く聞いた。
「怖い?」
男は首を横に振る。横に振る動きが小さい。
「怖いっていうより、……現実になった。」
女はその一文で、昨夜の影が一段濃くなるのを感じた。影の名はまだ言わない。言わないまま、女は男の隣に座らず、男の正面に腰を下ろし、息を短く整えようとして整えきれず、鼻で短く吸って短く吐いた。
男が言った。
「手、いい?」
女は返事の代わりに、男の手首へ指先を当てた。温度が伝わり、遅い鼓動が一定に当たる。女の喉の奥が少しだけ緩む。緩むのが悔しくて、女は視線を地面へ落とし、落としたまま鼓動が当たる位置を正面に捉え直す。
男の肩が少し落ちる。吐く息が長くなる。長くなるのが分かってしまい、女はまた悔しくなる。悔しいのに、今日も指先は離れない。離れないまま、女は自分の中の影にだけ命令する。
――今は言うな。今は、恋でいろ。
女の指先が男の手首に当たると、遅い鼓動が一定に返ってくる。返ってくるたび、男の肩の硬さが少しずつ落ちるのが分かってしまう。分かってしまうのが嫌で、女は視線を地面へ落とし、落としたまま鼓動が当たる位置を数ミリだけ正面に捉え直した。正面に戻すと男の吐く息が長くなる。長くなると「効いている」が見えてしまう。見えると、女の腹の奥が熱くなる。熱は危ない。危ないと分かっているのに、指先は離れない。
「準備って、何を」
女は言葉を短くした。短くしないと喉が乾く。乾くと息が浅くなる。浅くなると胸の内側が跳ねる。男はすぐには答えなかった。答えない沈黙の間、女は自分の呼吸を押し返すことに集中し、鼻で短く吸って短く吐いた。男がようやく言う。
「今すぐ手術とかじゃない。でも、薬で誤魔化すだけじゃ限界が来るから、って。……いつか、代わりが必要になるかもって」
代わり、の四文字が喉の奥に引っかかる。女はその引っかかりを噛み砕かない。噛み砕けば「移植」が割れて出る。出れば恋が壊れる。女は壊さないために指先を動かさず、ただ遅い鼓動の一定さだけを確かめ続けた。男の目線が女の喉へ落ちて、すぐ外れる。外れ方が少しだけ早い。早い外れ方は、男が自分の弱さを見せたくないときの形だと、女はもう知っている。
「……俺さ」
男が言って、そこで止まる。止まった一拍が女の胸を跳ねさせる。女は跳ねを押し返すために唇を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。男は続ける。
「“準備”って言われた瞬間、変な安心が来た。終わりが見えると、逆に楽になるっていうか」
女はその言葉の危うさを、説明なしで分かってしまう。終わりが見えると楽になる。楽になってしまう人がいる。男は「死にたい」とは言っていないのに、死に方の形を先に持ってしまうタイプの人間だ。女はそれを止めたい。止めたいのに、止め方が分からない。分からないと喉が乾く。乾くと息が浅くなる。女は言葉を増やさずに、ただ指先の位置を正面に保った。
「嫌?」
女が短く聞くと、男は首を横に振る。横に振る動きが小さい。
「嫌っていうより、怖いの種類が変わった。今までは“いつ終わるか分からない”が怖かった。今日は“いつか来る”が怖い」
女は頷きかけて止めた。止めたせいで首の筋が固まり、喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを抑え、代わりに男の手首に当てた指先の圧をほんの少しだけ強めた。強めると男の肩が落ちる。落ちるのが分かってしまい、女の腹の奥がまた熱くなる。熱が立つと、頭の中で「対策」が立ち上がる。立ち上がった対策の影に「移植」が伸びる。女は影を見ないふりをして、命令の続きを胸の中で繰り返した。――今は言うな。今は、恋でいろ。
男が息を吐き、吐けた息のあとで笑いかける。笑いが出ないまま終わる。
「こうしてるとさ、怖いのが一回、戻る。戻るっていうか……外に出ていく」
女はそれを聞いて、胸の奥が痛む。痛むのは、役に立てているからじゃない。役に立ててしまう自分が、危ない方向へ滑っていくのが分かるからだ。女は滑りを止めるために、男の手首から指を離そうとして離せず、離せないまま短く言った。
「帰る?」
男は頷いた。頷きが遅れて息が一度だけ詰まる。女は詰まりを押し返しながら立ち上がり、男も立ち上がる。立ち上がった瞬間、男の手が女の手を取る。握る強さは弱い。弱いのに、指の腹が女の皮膚を確かめるように押し、女の脈の速さを知ったまま放さない。女は放されない重さに合わせて歩幅を整え、整えた歩幅の中でだけ自分の速さが少しだけ一定に寄る。寄るのが悔しくて、女は喉の手前で息を押し返した。
道すがら、男がぽつりと言う。
「君、走るときの顔、怖いよね」
女は「怖い」と返さなかった。返すと喉が乾く。女は代わりに「真剣」とだけ言った。短い返事なのに声が掠れ、掠れたことが腹立たしくて、女は唇を噛んだ。男はそれ以上言わない。言わないまま、女の歩幅に合わせて歩き続ける。合わせられるほど、女の中の熱が増えていく。増えていく熱を、女は努力で抑えられると思ってしまう。努力で抑えられると思うこと自体が、もう危ない。
部屋に着くと、男は靴を揃えた。揃え終わった指先が一拍だけ縁に残る。女はその一拍を見て胸が跳ね、跳ねを押し返すために鍵を掛け、掛け終わった鍵の向きを直し、直す必要のない向きをもう一度直した。男は「ごめん」と言わない。言わない代わりに、女の手の甲に一度だけ触れて離す。触れ方が遅い。遅い触れ方に合わせて女は一度だけ吐けた。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少し長くなる。
「今日さ」
男が言って、テーブルの角に視線を落とす。落とした視線が紙の位置を探すみたいに揺れて、すぐ戻る。
「先生、最後に言った。“準備しとけ”って言ったのに、“張るな”って言った。矛盾してるよね」
女は首を横に振る。否定は短くしないと崩れる。
「矛盾じゃない。今、張ったら壊れる」
言ってしまってから、言い方が鋭すぎたと気づく。気づくと喉が狭くなる。狭くなると吸い直しが出る。女は吸い直しを抑え、代わりにコップを二つ出し、距離を揃え、水を注ぐ角度を一定にした。一定な音が出て、やっと呼吸の置き場が出来る。出来た置き場に、女は短く息を落とした。
男はコップを受け取り、飲み込む喉の動きがゆっくりだった。女はその遅さに引っ張られて一度だけ吐ける。吐けたことが悔しくて、女は流しの金属の反射に目を固定した。固定したまま、男が小さく言う。
「ねえ。俺、準備って言われたけどさ。……君に準備させたくない」
女の胸が跳ね上がる。跳ね上がった瞬間、喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は吸い直しを抑えようとして短く吸ってしまい、胸の奥が熱くなる。熱くなると、頭の中の影がまた伸びる。女は影を見ないふりをして、短く言った。
「私がしたい」
言った瞬間に喉が乾く。女は唇を閉じ、男の遅い鼓動の位置を思い出すように指先を握って開いて、握って開いた。男は返事をすぐにはしない。しないまま、女の手首へ指先を当てる。前と同じ位置。圧は弱い。弱いのに女の脈が跳ね、跳ねたのが男の指先に当たる。男はそれを知ったまま動かない。
「……速い」
男が言う。女は否定しない。否定すると崩れる。女は代わりに、男の手首へ指先を当て返す。温度が伝わり、遅い鼓動が一定に当たる。女の喉の奥が少しだけ緩む。緩むのが悔しくて、女は目を閉じた。
同じ夜、病院の奥で女医は端末の画面を開いていた。心臓の模型。条件。開始。波形。途中で崩れ、戻る。戻り切らない箇所に赤が付く。女医は眉を動かさず、赤の付いた箇所だけを拡大し、手順を一つ戻し、同じところをもう一度だけ繰り返す。画面の端には小さく「シミュレーション」と出て、その下に「実施不可」が並ぶ。女医はそれを見ないふりをして、机の角を揃え直し、ペンの位置を縁にぴたりと合わせ、開始を押した。救いになるなら、と口にしないまま、救いの形だけを反復する。
女の部屋では、男が布団へ向かい、女の手を取って自分の胸へ置く。遅い鼓動が一定に当たり、女の呼吸が一拍だけ落ちる。落ちたのに胸の内側は速いままで、速いまま遅い音に引っ張られようとして跳ね返る。女は跳ね返りを押し返すために目を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。吐けた息が落ちると、男の吐く息も少し長くなる。その長くなった息の隙間に、女はまた命令する。――今は言うな。今は、恋でいろ。
暗がりで、彼の鼓動が指先に当たり続ける。遅い。遅いのに、落ち着きのふりじゃない硬さがある。彼女はその硬さを「頼れる」と感じてしまう瞬間がいちばん怖い。頼る、は、欲へ滑る入口だからだ。だから彼女は目を閉じたまま、指先の位置だけを数ミリ整えて、当たり方を正面に戻し、戻したぶん彼の吐く息が長くなるのを聞いてしまって、聞いてしまったことに腹が立つ。腹が立つと熱が立つ。熱が立つと喉が狭くなる。狭くなった喉で言葉は出さない。出さない代わりに、彼女は彼の胸に指先を置いたまま、浅くならない息を探して、見つけたところで一度だけ吐いた。
彼は眠りに落ちきれず、目を開けたまま天井を見ていた。焦点が合っていない。合っていないのに、彼女の呼吸の癖は拾ってしまう。その目線が喉へ落ちる前に外れるのが分かって、彼女は余計に苦しくなる。苦しくなると自分の方が先に速くなる。速くなるのを見せたくなくて、彼女は彼の胸から手を引こうとして引けず、引けないまま「寝て」と短く言った。短い言葉は乾く。乾きが来る前に、彼女は唇を閉じた。彼は「うん」と返す代わりに、彼女の手の甲を一度だけ押して、置いた位置を動かさずに待った。押す圧は弱いのに、位置が確かで、彼女はその確かさに合わせてもう一度だけ吐ける。吐けた息のあと、彼のまぶたが少しだけ重くなり、吐く息が長くなる。その長くなる隙間に、彼女は胸の中で命令する。――今は、恋でいろ。今は、奪うな。
朝、彼は「行く」とだけ言って出た。病院の話だと分かるのに、彼女は「どこまで」と聞かなかった。聞けば言葉が増える。増えれば乾く。乾けば、あの影が輪郭を持つ。彼女は玄関で靴の縁を揃える彼の指先を見ないふりをして、見ないふりのまま、彼の手の甲にだけ一度触れた。握らない。引き留めない。触れて離す。触れ方を遅くすると、彼の呼吸が少しだけ長くなる。その効き方を覚えてしまっている自分が怖くて、彼女は触れてすぐ離し、背中へ「終わったら連絡」と短く投げた。扉が閉まって静けさが来ると、自分の速さが大きくなる。彼女は走りに行かなかった。走ると“努力で届かない壁”にぶつかって、壁が彼の遅い鼓動の価値を勝手に増やすからだ。代わりに部屋を片付け、端を揃え、角を揃え、揃えている間だけ頭の中が平らになるのを待った。
昼過ぎ、端末が震えた。「今日、少し来れる?」送信者は女医だった。文が短いのに、胸の奥が先に跳ねる。彼女は返事を長く打たず、「今どこ」とだけ返し、返ってきたのは「病院の裏、職員口」。彼女は息を整えようとして整えきれず、上着を掴んで外へ出た。職員口の廊下は静かで、静かな分だけ自分の足音が目立つ。女医は白衣ではなく、上着の袖口だけ整ったまま立っていた。視線が彼女の喉へ一瞬落ちて、指先へ移って、すぐ外れる。外れ方が乱れないのが、彼女には怖い。
女医は言葉を増やさず、必要な部分だけを落とした。「検査が進む。今日は“準備”の中身を説明する段階に入った。本人には重く聞こえる。だから、あなたがここで踏ん張るときに“移植”は言わないで」彼女は頷いた。頷きが遅れて喉が詰まり、詰まりを押し返すために顎を引く。女医はその詰まりを追わず続ける。「代わりの選択肢は、現実には“順番”になる。順番は待つ。待つ間に心は勝手に近道を探す。あなたの頭の中の近道が、あなた自身を壊す」言われた瞬間、彼女は自分が見透かされているのを感じて腹の奥が熱くなった。熱くなると息が浅くなる。浅くなりかけたのを押し返して、「分かった」と短く返す。女医は頷かず、代わりに視線を彼女の目へ一瞬だけ合わせて外し、「私は、順番の外にある近道を、まだ“出来る”と思ってない。思ってないけど、出来るかもしれない形を捨てきれない」とだけ言った。その言い方が短くて、逃げ道がない。彼女は息を吸い直しそうになり、喉の手前で止めた。女医はそれ以上言わず、最後に「今日、本人は戻る。今夜は、触れるなら“手首”じゃなくて“手の甲”くらいにして。依存の形を増やさない」とだけ付け足し、背を向けた。
夕方、彼は帰ってきた。顔色は変わらない。姿勢も崩れていない。なのに、上着を掛ける指先の動きが一拍だけ忙しい。彼女はそれを見て胸が跳ね、跳ねたのを隠すためにキッチンで水を注ぐ角度を一定にした。彼は「今日は説明された」と言い、説明の中身を長くは語らなかった。ただ、「順番」と「待つ」という言葉だけが落ちた。落ちた言葉は重いのに、彼は重さを表に出さない。出さないまま、彼女の手元を見る前に見ないふりをして、「お願い」とだけ言った。彼女は言葉を返さず、手首じゃなく、手の甲にそっと触れた。触れ方を遅くしすぎない。握らない。押さえない。触れて、離さない距離で一拍だけ待つ。彼の肩が少し落ち、吐く息が少し長くなる。長くなったのが分かってしまい、彼女はまた悔しくなる。悔しいのに、恋も同時に深くなる。深くなるほど、影が伸びるのが分かる。だから彼女は目を閉じて、短い息を一つだけ吐き、吐いた息が床に落ちるまで、触れていることだけを守った。言葉を出せば、恋が欲へすり替わる。すり替わった瞬間、取り返しがつかなくなる。彼女はそれを知ってしまっている。
同じ夜、病院の奥で女医は端末の画面を開いた。心臓の模型。波形。条件。開始。画面の端の「実施不可」が視界に入りそうになるたび、女医は紙の端を揃え直し、ペンの位置を縁にぴたりと合わせ、指だけで手順をなぞり直す。救いになるなら、という言葉を口にしないまま、救いの形だけを繰り返して、繰り返すほどに自分がどちら側に立っているのか分からなくなるのを、女医は表情だけで押し殺した。
夜、部屋の灯りを落としてから、男の指先が先に動いた。布団の中で、女の手の甲を探るみたいに触れて、触れたまま止まる。止まる圧は弱い。弱いのに位置が正確で、女の胸の内側が一段跳ねた。跳ねた反動で喉が狭くなり、鼻から短く吸いかけて、女は唇を閉じて押し返した。押し返した息の置き場を探している間に、男の指が女の手を引いた。引く距離は数センチ。引いて、男の手首の方へ寄せる。
女の指先が止まった。止まったまま、関節だけが小さく固まる。男の手首は布団の下で温かい。温かさが近づくだけで、女の指先が熱を持つ。熱が上がる前に女は指を引き、引いた指を男の手の甲へ戻した。戻した瞬間、男の肩がわずかに上がり、吐く息が短くなる。短くなるのが分かってしまい、女の胸がまた跳ねた。跳ねを隠すために女は男の手の甲に触れたまま、指の腹をほんの少しだけ動かして、触れている面を広げた。
男の指が女の指を掴みそうになって止まる。止まった一拍が長い。女はその長さを数えず、布団の端を指で押して硬さを返してもらい、吐ける呼吸を探した。探した呼吸がやっと一つ落ちたとき、男の手が女の手の甲を一度だけ押した。押す圧は弱い。弱いのに確かで、女はもう一度だけ吐けた。吐けた息のあと、男の肩が少し下がる。
男が暗がりで言った。
「ここ。」
声が低い。短い。語尾が落ちる。女は返事をしなかった。返事をすると口の中が乾く。乾くと息が浅くなる。浅い息が胸を速くする。女は返事の代わりに、男の手の甲へ触れている指先の位置を数ミリだけ直した。直すと、男の吐く息が少し長くなる。長くなるのが分かってしまい、女の腹の奥が熱を持つ。女は熱を上げないために目を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。
男の手首が布団の中で動いた。女の指先の下へ、ほんの少しだけ潜り込む。潜り込むだけで、女の指先が勝手にそっちへ寄りそうになる。寄りそうになった指を女は止め、止めたまま男の手の甲を押さえない程度に包む。包む手の形を作った瞬間、男の喉がゆっくり動き、吐く息が伸びる。伸びた息の先で、男の指が女の指を一度だけ強く握って離す。強さが一瞬で、離したあとの指先が熱い。
そのまま、男の呼吸が整いきる前に、男の唇が女の唇へ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸の内側が跳ね上がり、喉が狭くなり、鼻から短く吸いかけて、女は喉の手前で止めた。止めた息のせいで頬の内側が熱くなる。熱を逃がす場所がなくて、女は男の手の甲へ触れている指先を動かさず、ただ指の腹の面だけを広げた。
男の指が女の指をもう一度だけ引き、手首へ寄せる。寄せる距離がほんの少し長くなった。女の肩の筋が固まり、固まったまま首がわずかに引ける。男は引いた手を止め、止めた位置で待つ。待つ間の呼吸が短くなる。短くなるのが分かってしまい、女の胸が跳ねる。跳ねた自分を押し返すために、女は男の手の甲に触れたまま、指先を一度だけ開いて閉じ、吐ける呼吸を作った。
男が目を閉じ、閉じたまま言った。
「それでいい。」
女は返事をしない。返事の代わりに、男の手の甲に触れたまま一拍待つ。待つ間に男の肩が少し落ち、吐く息が伸びる。伸びた息の長さが部屋に残って、女はその長さを見ないふりをして、目を閉じたまま鼻で短く吸って短く吐いた。
翌朝、男はいつもより早く起きた。キッチンで水を飲む音が小さく、コップを置く音も小さい。女は布団の中で目を開け、天井を見たまま、喉の奥が乾くのを感じた。乾きが来ると吸い直しが増える。増える前に女は布団の端を指で押し、硬さを返してもらってから起き上がった。
男は上着を手に取っていた。袖口を直す指先が一拍だけ忙しい。女の胸が跳ね、跳ねたまま喉が狭くなる。女は「行く。」とだけ言った男の声を聞いて、返事を短くするために顎を引いた。
「うん。」
短い返事でも口の中が乾く。女は水を口に含み、飲み込む喉の動きを遅くして、乾きの勢いを落とした。男は靴を揃え、揃え終わった指先が縁に一拍だけ残る。女はその一拍を見ないふりをして、男の手の甲にだけ一度触れた。触れて離す。触れ方を遅くしすぎない。男の吐く息が少し伸び、伸びたのが分かってしまい、女の腹の奥が熱くなりかける。熱が上がる前に女は指を離し、玄関の床の目地へ視線を落として息を押し返した。
扉が閉まる。静けさが来る。静けさが女の速さを大きくする。女は端末を見なかった。見れば数字が出る。数字に合わせようとすると喉が狭くなる。女は代わりに部屋を片付け、端を揃え、角を揃え、揃える動作で指先の熱を散らした。
昼過ぎ、端末が震えた。画面に短い文が一つだけ出る。「来れる。」送信者は女医だった。女の胸が跳ね、跳ねた反動で喉が狭くなる。女は鼻で短く吸いかけて止め、返事を短く打った。
「どこ。」
返ってきたのは「裏。」だけだった。女は上着を掴み、掴んだ指先の熱を持て余しながら、歩幅を一定にして外へ出た。
病院の裏の通用口は静かだった。静かな分だけ、女の足音が床に残る。女医は白衣ではなく、上着の袖口だけ整えたまま立っていた。視線が女の喉へ一瞬落ち、指先へ移り、すぐ外れる。外れ方が乱れない。
女医は言葉を増やさず、ファイルを一枚だけ差し出した。紙の角が揃っている。揃っている角が女の指を呼ぶ。女の指が動きかけて止まる。止まった指先が熱を持ち、女は唇を閉じて喉の手前で息を押し返した。女医の指が紙の一箇所を叩く。叩く音は小さい。叩かれた場所に「待機」の文字が見えた。女の胸が跳ね、跳ねたまま喉が狭くなる。女医は紙を引かず、短く言った。
「言わない。」
女は頷いた。頷きが遅れて息が一度だけ詰まる。女医は詰まりを追わず、もう一枚の紙を重ねて渡した。そこには「同意」の欄が並んでいた。署名の空欄が白い。白い空欄が広い。女はその白さを見て、指先が冷たくなるのを感じた。冷たくなると逆に胸の内側が跳ねる。女は紙を受け取り、紙の角を揃えないように指を止め、代わりに親指の腹で紙の端を軽く押した。
女医が言った。
「触るなら、手。」
女は返事をしない。返事をすると乾く。女は頷きだけで答え、紙を鞄へ入れた。鞄の金具を指で押すと硬さが返る。硬さが返ると吐ける呼吸が一つ落ちる。女は落ちた息のあとで、女医の手元に視線を置いた。女医の指先が無意識にファイルの角を揃え直す。揃え直した角の上に、女医の指が一拍だけ止まる。止まった指先の白さが、女の目に残った。
夕方、男が帰ってきた。上着を掛ける音は小さい。靴を揃える音も小さい。小さい音ほど女は拾ってしまう。拾うと胸が跳ねる。女はキッチンで水を注ぐ角度を一定にして、音を一定にし、一定な音に呼吸を寄せようとして寄せきれず、鼻で短く吸って短く吐いた。
男は「説明。」とだけ言った。テーブルの端に紙を置かない。置かないのに、ポケットの位置を一度だけ押さえる。女の目線がそこへ行きかけて止まる。止めた指先が熱を持ち、女は鞄の金具を押して硬さを返してもらった。
男が女の手を取った。手首ではない。手の甲。握る強さは弱い。弱いのに、女の皮膚を確かめるように指の腹が動き、女の脈の速さを知ったまま離さない。女の胸が跳ね、喉が狭くなり、吸い直しが出そうになる。女は唇を閉じて止め、止めた息の置き場を作るために男の手の甲に触れたまま一拍待った。男の肩が少し落ち、吐く息が伸びる。伸びたのが分かってしまい、女の腹の奥が熱くなる。熱が上がる前に女は目を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。
男が低い声で言った。
「待つ。」
語尾が落ちる。女は返事をしなかった。返事の代わりに、男の手の甲に触れた指先を動かさず、触れている面だけを少し広げた。男の喉がゆっくり動き、吐く息が少し長くなる。
その夜、布団の中で男の指がまた女の指を引いた。手首へ寄せる。寄せる距離が昨日より少し長い。女の指先が止まり、関節が固まる。男の吐く息が短くなる。短くなるのが分かってしまい、女の胸が跳ねる。女は止めた指をほどき、男の手の甲へ戻した。戻した瞬間、男の指が女の指を一度だけ強く握って離す。離したあとの指先が熱い。女はその熱を押し込めるために、布団の端を指で押し、硬さを返してもらい、吐ける呼吸を一つだけ落とした。
男が言った。
「だめ。」
短い。命令に近い。女の胸が跳ね上がり、喉が狭くなる。女は吸い直しを抑えようとして短く吸ってしまい、胸の奥が熱くなる。男の手が女の指を引き、手首へ寄せる。寄せられる距離で女の指先が勝手に熱を持ち、熱の勢いが喉へ上がる。女は熱を止めるために指を引き、引いた指で男の手の甲を包み、包む手の形で動きを止めた。
男の呼吸が短くなり、短いまま止まりかける。女は男の手の甲に触れたまま、指の腹の面を広げ、広げた面を動かさずに一拍待った。待った一拍のあと、男の吐く息が落ちる。落ちた息が床へ沈む前に、男の唇が女の唇へ触れた。短い。押し付けない。触れて離れる。離れた瞬間、女の胸が跳ね、喉が狭くなり、鼻で短く吸いかけて止めた。
男が低い声で言った。
「ここじゃないと、戻らない。」
女は返事をしない。返事の代わりに男の手の甲へ触れたまま、指先の位置を数ミリだけ直し、触れている面を広げて、吐ける呼吸を探した。探した呼吸が一つ落ちたとき、男の指が女の指をもう一度引いた。手首へ。女の指先が止まる。止まった指先が熱を持つ。熱が上がりきる前に、女は男の手の甲に触れたまま首を小さく振った。
男の手が止まる。止まった手が震える。震えを抑えるみたいに男は女の手を強く握り、握ったまま力が抜けていく。抜けていく指先の重さが女の手に残り、女の胸の内側が速く刻む。女は速さを押し返すために唇を閉じ、鼻で短く吸って短く吐いた。
そのとき、枕元の端末が小さく振動した。男のではない。女の端末。女は取らなかった。取れば光が出る。光が出れば顔が見える。顔が見えれば喉が乾く。女は取らないまま、男の手の甲に触れている指先を動かさず、吐ける呼吸をもう一つだけ落とした。
振動がもう一度来た。今度は短い音が付いた。男の目が開き、視線が端末へ落ちる。落ちた視線が女の喉へ移り、すぐ外れる。外れ方が急いでいる。女の胸が跳ねる。女は跳ねを押し返しながら、端末を取って画面を伏せたまま滑らせ、布団の外へ置いた。置いた位置がずれ、女の指が勝手に動きかけて止まる。
男の声が低く落ちた。
「見せて。」
女は返事をしなかった。返事をすると乾く。男の指が女の指を掴み、掴んだ指先が熱い。女は掴まれたまま、端末を伏せたまま渡した。男が画面を起こす。白い光が頬の下を照らす。女は光を見ないふりをして目を閉じ、喉の手前で息を押し返した。
男の呼吸が止まる。止まったあと、吐く息が短く落ちる。短く落ちた息の音が、布団の中で妙に大きい。男の指が画面を一度だけ押し、押したあとで動かなくなる。女は目を閉じたまま、男の指先の重さの変化だけを拾う。
男が言った。
「・・・誰。」
声が低い。短い。語尾が落ちる。女は答えを長く作れない。作れば乾く。乾けば浅くなる。浅い息が速さを呼ぶ。女は唇を閉じ、鼻で短く吸って短く吐き、男の手の甲に触れている指先を動かさないまま、言葉を一つだけ落とした。
「医者。」
男の指が端末を握る。握った指の骨が浮き、手首の線が布団の外に一瞬だけ出る。女の指先が勝手にそっちへ寄りそうになって止まる。止まった指先が熱を持つ。熱を上げないために女は男の手の甲へ触れている面を広げ、吐ける呼吸を一つだけ落とした。
男がもう一度言った。
「・・・何の話。」
女の喉が狭くなる。狭くなった喉で言葉を増やすと崩れる。女は答えず、男の手の甲に触れている指先を動かさず、ただ一拍待った。待った一拍のあと、男の吐く息が短く落ちる。落ちた息が床へ沈む前に、男の指が端末の画面をもう一度押し、画面を女の方へ傾けた。
そこには「待機」と「同意」の文字が、白い光の中に並んでいた。
私は父親は母親がイカれてたせいでストレス性脳出血で出産から一週間くらいで死んでますけどね。
あと母親は私が浮気相手の子じゃないので虐待されて、元々短命な血縁だったので四十代までいかないのがストレスで心拍数削った結果短命って私の実話を当て嵌めた奴です。




