私を1人にしたのはあなたでしょ!!!
秋の風が冷たく頬を撫で、庭園の木々は黄金色の葉を揺らしていた。クラリス・ヴェルモント侯爵令嬢は、庭園の中心に立ち、整えられた花壇の周囲を見回した。薄いリボンで束ねた栗色の髪が風に揺れるが、彼女の青い瞳には怒りと失望の色が濃く宿っている。
今日、この場所で彼女はすべてを終わらせる。長年続いた婚約に、これ以上しがみつく理由はもうない。彼――カイ・ロスフィールドがもたらした数々の失態に限界が訪れたのだ。何度も裏切られ、放置されてきた彼女に残されたのは、傷ついた誇りと、もう二度と彼を信じないという決意だけだった。
クラリスは凛とした佇まいで、カイの到着を待っていた。しっかりとしたドレスの袖口を握る指先に力がこもる。侯爵家の令嬢として、感情を抑えて冷静でいなければならないが、今日だけはそれが難しいと感じていた。
しばらくして、庭園の向こうから姿を現したのは、ロスフィールド子爵家の嫡男、カイ・ロスフィールド。
彼の家系は古い家柄だが、爵位は「子爵」にとどまり、その名誉もここ数年、危うくなっている。ロスフィールド家はかつては貴族社会で重んじられていたが、今では失策続きのカイの評判がその信用を損ないつつあった。
遠目に見えるカイは、いつもと変わらず気の抜けたような表情で歩いてくる。肩に無造作にかけたマントがだらしなく風に流れ、ブーツのかかとを鳴らす音にも緊張感はない。
ゆったりとした足取りはまるで、自分が呼び出された理由すら理解していないかのようだった。
カイがクラリスの前に立つと、眉をひそめながら溜息をつき、鬱陶しそうに口を開いた。
「どうしてこんなことをするんだ、クラリス。」
その言葉にクラリスのこめかみがぴくりと動いた。
「僕はただ、君のために――」
「私のため!?」
クラリスは鋭く遮った。その声は、冷え切った冬の風のように冷酷だった。
「あなたの自己満足のためでしょ。」クラリスの瞳がカイを射抜く。「何一つ、私の気持ちなんて考えたことがなかったくせに。」
カイは顔をしかめ、少し後ずさる。「そんな言い方をしなくても……僕だって、君のためにいろいろ――」
「いろいろ? その『いろいろ』が、私をどれだけ傷つけたか分かってるの?」
クラリスは、心の底からの怒りが込められた声で言い放った。カイはそれを真正面から受け止めることもできず、ただ俯く。しかし、彼の顔には反省の色は見えなかった。
「僕は被害者だ」という意識が、彼の表情に色濃く表れていたのだ。地面に視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「僕は……ただ君を助けたかったんだ。」
彼の声は掠れて弱々しい。まるで、全ての非を他人に押し付けるための予防線を張るかのようだった。
「君は何でもできるだろ? 僕なんかいないほうがいいと思ったんだよ。」
彼はクラリスの目を見ようともせず、靴先で砂利をこすりながら言い訳を続けた。
「君はあまりに完璧すぎて、僕がそばにいると……重荷になるだけだった。」
その瞬間、クラリスの胸に湧き上がったのは、怒りを通り越した冷たさだった。手袋をはめた指先が震えるほどの怒気を、彼女は必死に抑えつける。
「完璧に見えたのは、あなたが私を1人にしたからよ。」
その声は、秋風よりも冷たく、突き刺すようなものだった。
「あなたに頼れなかったから、自分で何とかするしかなかったの。」
カイは困惑したように目を瞬かせたが、再び視線を逸らした。何か言い返そうとするが、言葉が出ない。それでも、彼は諦めることなく、さらに言い訳を重ねる。
「それでも、僕は……精一杯頑張ったんだ。」
カイは首をすくめ、肩を丸める。まるで、彼がこの場の被害者であるかのように見せるための演技のようだ。
「君は僕を責めるけど、僕だって辛かったんだ。毎日、君に追いつけない自分が嫌で……」
そう言ったカイの表情には、自己憐憫の色が濃く浮かんでいた。俯く彼の目は、自分への同情を求めるかのように湿っている。
クラリスの瞳に宿る怒りは、もはや冷笑に変わっていた。
「それで?」彼女は氷のように冷えた声で言い放つ。
「それで私を見捨てて、他の女と仲良くする理由になるの?」
カイは一瞬、動揺したように肩を震わせる。しかしすぐに顔をしかめ、不満げに返す。
「……あれは誤解だ。酔っていて、つい流されただけなんだ。」
クラリスの唇が冷たい微笑を浮かべる。
「夜会の後、迎えに来ると約束したのを破ったことも、酔ったせい? 他の令嬢と一緒に楽しげに馬車に乗っていたのも、私のためだと言いたいの?」
その言葉に、カイは完全に返答に詰まった。だが、すぐに不機嫌そうに顔を歪めて口ごもる。
「……そんな、全部君のせいだなんて言ってない。ただ……僕だってミスすることぐらいあるだろ?」
「ミス?」クラリスの声は冷たさを増し、まるで冬の凍てつく風のようだった。「そのたびに私に尻拭いをさせてきたのに?」
カイは言葉を失ったまま俯き、唇をかみ締めた。だが、その顔には反省の色も謝罪の気配もなかった。
彼の中でくすぶり続けるのは、ひとえに「自分こそが被害者だ」という意識だった。
彼は、自分がどれほどクラリスを傷つけたかなど、一度たりとも本気で考えたことがない。
そして今もまた、同じことを繰り返している。
クラリスは息を整え、カイを冷え切った目で見据えた。その瞳には、かつての愛情の欠片すら残っていない。
「もう分かったわ。」彼女の声は低く、鋭かった。
「あなたは一度も私のために責任を取ろうとしたことがない。あなたが私を見捨てた瞬間から、私たちの関係は終わっていたのよ。」
「……じゃあ、僕が全部悪いって言いたいのか!?」
カイは声を荒げ、握りしめた拳を震わせながら叫んだ。逆上したその態度は、まるで自分が追い詰められた犠牲者であるかのようだった。
「僕だって頑張ったんだ! それなのに君には全然分かってもらえない!」
だが、クラリスは眉一つ動かさず、冷たく問い返す。
「じゃあ、私が悪いって言うの?」
その問いに、カイは言葉を失ったように硬直した。
一瞬、沈黙が二人の間に広がる。カイは額に汗を滲ませながら、苦しげに口を開く。
「……そんなこと、言いたいわけじゃない。でも……」
「でも?」クラリスは容赦なく畳みかける。「あなたは今、そう言いたかったのよね。私が悪いって。」
カイはぐっと唇を噛み、目をそらした。だがその表情には、自分を正当化しようとする思いがはっきりと浮かんでいた。
「……僕だって、できる限りやってきたんだ……。」
声はか細く、自己憐憫に満ちていた。
「でも君が強すぎて、僕にはどうしようもなかったんだよ……」
「つまり、私のせいであなたは何もできなかったって言いたいのね。」
クラリスは冷笑を浮かべる。
「あなたの言葉には、結局いつもそういう意味が込められているわ。」
カイは何も言えず、ただ唇を震わせる。その瞬間、クラリスは冷然とした一言で彼との関係に終止符を打った。
「そしてその責任から逃げ続けた結果、私たちの婚約はここで終わるのよ。」
「婚約破棄だって!?」
カイは目を見開き、まるで現実を受け入れられないかのように震えながら声を上げた。
「僕は悪くないのに……!」彼は言い訳を続ける。「君が僕に期待しすぎたのがいけないんだ!」
その言葉に、クラリスの瞳に宿った怒りがさらに冷たく燃え上がった。
「私があなたに期待しすぎた?」
彼女は低く言い放つ。「それなら、あなたはその期待を裏切るためだけに存在していたということね。」
カイは言い返そうとしたが、何も出てこなかった。ただ、追い詰められたように震える彼の姿は、もはや貴族としての誇りすら失われていた。
「あなたとの婚約は、今この瞬間で終わりよ。」
クラリスの宣言は、冷たく、絶対的だった。彼女は迷うことなく、その場を立ち去ろうとする。カイは必死に手を伸ばしたが、彼女は振り返ることさえしなかった。
「僕は悪くない……僕が全部悪いはずがない……」
彼は呟くように繰り返した。だが、その言葉はもう誰の耳にも届くことはなかった。
秋の冷たい風が吹き抜ける庭園の一室に、ヴェルモント侯爵家とロスフィールド子爵家が顔を合わせていた。そこには、婚約破棄の正式な場としての重苦しい空気が漂っている。中心に立たされたカイは、追い詰められているという自覚すらなく、なおも自己憐憫に浸った態度を崩さない。
「どうして僕だけがこんな目に遭うんだ……」
カイは頭を抱え、絞り出すような声で言った。
「僕だって頑張ったんだ。いつだって、君のために最善を尽くしてきたのに……君が僕に期待しすぎたせいで、追い詰められただけなんだよ!」
その言葉に、クラリスは冷ややかな目を向ける。彼女の隣に立つヴェルモント侯爵の表情には怒りが宿り、その眼光がカイを冷酷に見据えた。
「ロスフィールド子爵殿。貴家の子息は、今この場においても自らの失態を認めようとはしていない。」
侯爵の低い声が空気を震わせる。
「それどころか、全てをクラリスのせいにし、己の非を顧みることすらしないとは……こんな無責任な男に、我が娘を任せることなど到底できない。」
「お言葉の通りです、ヴェルモント侯爵。」
ロスフィールド子爵は、重々しく頷きながら息を吐いた。
「クラリス嬢、そしてヴェルモント家に対し、息子が取り返しのつかない無礼を働いたこと、心よりお詫び申し上げます。すべては我が家の責任です。」
彼は静かに頭を垂れ、誠心誠意の謝罪を示した。
クラリスは、子爵の誠実な態度を受けても顔色を変えなかったが、内心でその冷静さを評価していた。
「今後もヴェルモント家とロスフィールド家の関係が変わらぬものであることを、願っています。」
「もちろんです。」子爵は毅然とした声で応じた。
「このような息子の愚行で、両家の絆を揺るがせるわけにはいきません。」
一方、会話の中心から外されつつあることに気づいたカイは、焦りから声を荒げた。
「待ってくれ、父上! 僕はそんなに悪くないはずだ……ただ少し、間違っただけなんだ!」
だが、ロスフィールド子爵は冷然とした目で息子を見下ろし、重々しい口調で告げた。
「カイ。お前は今日限りでロスフィールド家を離れることになる。」
「え……?」カイは愕然として立ち尽くした。
「お前は貴族としての義務を果たさず、家の名誉を汚した。」子爵は淡々と告げる。「お前に貴族としての資格はない。これからは、ロスフィールド家の一員として名乗ることを許さない。」
「そんな……嘘だろ……?」カイの顔は青ざめ、声は震えた。
「誰もお前を許さない。」ヴェルモント侯爵の冷たい声が響く。
「お前はもはや貴族社会で認められることもない。以後、どこへ行こうと誰もお前を貴族として扱うことはないだろう。」
その言葉が持つ重さに、カイは息を詰まらせた。周囲の全てが、自分を拒絶し、見捨てたと。
「そ、そんな……僕は、ただ……」カイは震えながら言い訳を試みたが、その声は誰にも届かなかった。
ロスフィールド子爵は、冷ややかな視線で一言を付け加える。
「後悔する時間は十分にあるだろう。だが、もう我々に縋ることは許されない。」
カイはその場に崩れ落ちるように膝をついた。誰も彼を助けようとする者はなく、その姿にはかつての誇りも何も残っていなかった。
貴族社会において、もはやカイの名が語られることはないだろう。
彼の存在は忘れ去られ、ロスフィールド家とヴェルモント家の結束は、むしろこれまで以上に強固なものとなったのだ。
裁きの場でロスフィールド家とヴェルモント家の決断が下され、静寂が辺りを包んでいる。カイは状況を理解したくないというような茫然自失の表情を浮かべている。彼の世界が崩れ落ちていく音が聞こえるかのようだったが、それを止める手立てはどこにもなかった。
「さあ、帰ろう。」
ヴェルモント侯爵はクラリスに静かに声をかける。
クラリスは、冷たく感情を押し殺した目で彼を見つめていた。もう言うべきことはほとんど残されていなかったが、最後に彼へ伝えるべき言葉が一つだけあった。
「あなたは、自分が被害者だと思い続ける限り、何も変われない。」
彼女の声は低く静かだったが、その言葉の一つひとつが、まるで冷たい刃のようにカイの心を切り裂いていく。
「私はもう、あなたに期待することも、あなたを許すこともない。」
カイは息を呑んだ。自分が貴族としての身分を失うという現実。これが最後だと理解が追いついた瞬間、彼の中で理性は完全に崩れ去る。
「待ってくれ、クラリス……行かないでくれ……!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を晒し、カイは彼女のドレスの裾を掴む。もう威厳も何もない。貴族の気品もプライドも忘れ、ただ必死に縋りつく。
「僕が悪かった!謝るから!だから、お願いだ……僕を見捨てないでくれ……僕には、君しかいないんだ!」
嗚咽まじりの声は支離滅裂で、彼の言葉はもはや何の意味も成していなかった。
クラリスは冷たい目で見下ろしながら、手を振り払おうとするが、カイはなおも必死に腕を掴み、地面に這いつくばって縋りついてくる。
「僕を見捨てたら君だって後悔するはずだ……!僕を救えるのは君だけなんだ!」
その目は恐怖と狂気に満ち、汗と涙で顔は歪み、見るも無惨な醜悪さを漂わせていた。
「いい加減にしろ!」
ヴェルモント侯爵はカイを乱暴に引きはがすと、彼を地面に突き飛ばした。
「お前のような男に、これ以上クラリスを触れさせるわけにはいかん。」侯爵の声には怒りと軽蔑がにじんでいる。
「父上!助けてくれ!僕を追い出すなんて言わないで……!」
カイは今度は父親に向かって這い寄ろうとするが、その瞬間、ロスフィールド子爵の拳が彼の顔面を強打する。
「この愚か者が!」
怒りに燃えた父の声が庭園に響く。再度、力の限り殴りつけられたカイは地面に崩れ落ちた。
「恥を知れ!お前のような男は、ロスフィールド家に置いておけん!今すぐ出て行け!」
子爵の怒号は凍てついた空気を切り裂き、カイの胸を突き刺した。
カイは泣き叫びながら、無様に地面に這いつくばったまま動けずにいるが、誰一人として彼に目もくれない。クラリスも、ヴェルモント侯爵も、ロスフィールド子爵さえも、その背中はもう彼に向けられていた。
クラリスは一度も振り返らず、前を向いて歩き出す。
「私はもう、誰にも頼らない。自分の力で生きていく。」
クラリスの胸の中には不思議なほどの静寂が広がっていた。怒りや悲しみといった感情はすでに昇華され、決して揺らがない覚悟だけが彼女の中に残っている。彼女はもう、過去に囚われることもなければ、他人に救いを求めることもない。彼女の未来はまだ白紙だが、これからは自分の手で切り拓いていくのだ。
カイは地面に突っ伏したまま、嗚咽を漏らし続けた。もはや彼は全てに見放されている。彼は今後、二度と貴族社会に受け入れられることはなく、追放された身として忘れ去られていく運命にある。
こうして、クラリスは己の道を歩み始めた。もう誰にも足を引っ張られることなく、自らの人生を生きるために。
そしてカイ――彼はただ一人、永遠に孤独の中へと消えていく。過去の亡霊となって消えていく運命を受け入れるほかなかった。




