42. 廃棄王女、スリの少年を諭す
「粗末なもので申し訳ございませんが」
若く美しい修道服の女性が私の前にお茶を置く。ソーサーも無くティーカップは少し欠けていました。それでも彼女なりに精いっぱいのもてなしなのでしょう。
「お構いなく」
ですが、どうせ手をつけないのです。私にお茶を出す必要はありません。が、形式は大事かもしれませんね。
あの後、私達は目の前の修道女とスリの少年を連れて孤児院へとやってきました。周囲で様子を窺うならず者がいるのに気づいていたからです。
ですので、こんなにも美しい修道女と非力な少年だけ残して立ち去るのは少々気が引けました。彼女達がどんな目に合わされるか容易に想像できましたから。
「この度はフィーノが大変なご無礼を働き申し訳ございませんでした」
スリの少年フィーノが私から指輪を盗んでと聞き、彼女は真っ青になって何度も頭を下げました。どうやら私が貴族らしいと察したようです。
「この償いは私が致します。どうかフィーノには寛大なご処置を」
「シスターは関係ない。オイラが勝手にやった事だ!」
二人が互いを庇い合う。
「フィーノ、あなたに何かを主張する権利はないわ。これ以上彼女に迷惑をかけたくないなら大人しくしていなさい」
「……」
ですが私はそんなお涙頂戴の三文芝居に付き合うつもりはありません。フィーノを無視して私は修道女に真っ直ぐ目を向けました。
「シスター、あなたお名前は?」
「この施設を任されているシェリーと申します」
若く美しい修道女シェリーの挙措は綺麗でしっかりしていました。貴族か裕福な家庭の出自なのでしょう。
「あなたは修道女のようですが、この孤児院は教会の管轄なのですか?」
「えっ、あの……はい、一応そうなります」
「しかし、それにしては……」
私は部屋を見回す。天井には雨漏りの跡、床は腐り、窓は破れていました。外から見ても建物は古く、壁は所々に破れがあり、もはや廃屋の如し。南方のロオカだからいいようなものの、カザリアだったら冬に寒風を防げず凍死していたでしょう。
教会が運営しているにしてはかなり質素な孤児院です。教示に従い清貧を旨とし慎ましく暮らしている——というわけではなさそうです。
「それはお布施が集まらず教会も孤児院に資金を回せないのです」
「王家や貴族の援助は?」
「あいつらがオイラ達に金を出すもんかよ!」
いきり立ちフィーノが怒鳴る。
「だから盗みをしたと?」
「そうだよ。どうせ貴族や裕福な連中はオイラ達から搾取してんだ。そんなヤツらから金を奪って何が悪い!」
「やめなさいフィーノ!」
我慢できず感情を爆発させるフィーノをシェリーが慌てて止めようとしました。しかし、私は手を挙げてシェリーを制する。
「悪いに決まっているわ」
「何でだよ!」
「第一に、私はあなた方から何も搾取はしていません」
「ウソつけ!」
「嘘も何も私はロオカへは来たばかりの人間よ」
フィーノはぐっと悔しげに口を閉じました。
「第二に、あなたは私が若い女、カモだと思って盗みを働いたでしょう」
「それは……」
「威勢の良い事を言っても弱者から奪おうとするのは、あなたが嫌う貴族と何が違うの?」
そんなに反骨精神があるのなら、もっと違う方向で発揮すべきでしょう。
「だけど、貴族は許されてオイラは許されないってのかよ」
「貴族だって義務を果たさないのなら許されはしないわ」
平気で国を裏切り、民への救済のない現状を見るに、どうやらロオカの貴族の大半は許されない部類に入るようですが。
「そして、第三がそれよ。皆が許されない行為を正当化すれば弱者がますます虐げられる世の中になってしまう。それこそ今のあなた達のように」
無法が続けば社会は無秩序となり、富、権力、武力などを持たぬ善良な弱者は全てを奪われより苦しめられていく。
「あなたはけっきょく自分で自分の首を絞めているのよ」
「だったらどうすりゃ良いてんだよ!」
私に向けられるフィーノの瞳に憎悪の炎が燃え上がる。いけない傾向ですね。
「あなたは貧困を脱する為の真っ当な努力をしたのかしら?」
「はっ!」
私の問いにフィーノは鼻で笑った。
「これだから裕福なヤツらは」
「あら、何かおかしな事を言ったかしら?」
「オイラ達がどんなに頑張ったって無理なんだよ!」
怒りに任せてフィーノがテーブルを叩いて立ち上がった。私はそれを冷ややかに見つめる。
私の背後でアルトが剣に手をかけた気配が伝わってきました。それに気がつきシェリーがはらはらとしながら両手を祈るように組んで成り行きを見守っています。
「なぜ最初から無理と決めつけるの?」
しかし、私は何事も無かったようにフィーノとの対談を続けました。
「無理なもんは無理なんだよ。お前みたいな何の苦労も知らないお嬢様には分かんねぇよ」
「ええ、分からないわね」
私はあっさり肯定しました。別に私は彼の苦しみを理解するつもりも同情するつもりもないのです。
「フィーノ、あなたは自分だけが苦しんでいると思っているの?」
なぜなら人は誰しも苦しみの中で生きており、その辛さは本人にしか分からないからです。
「私の後ろにいるアルトの頬に傷があるでしょう。これは前の主人の命を救った時に負ったものよ。だけど傷が醜いという理不尽な理由で捨てられた」
淡々と私は語る。それをフィーノは黙って聞いた。人の話に耳を傾けられるのなら、この子にはまだ救いがある。
「私の侍女にマリカという子がいるわ。彼女はあなた達と同じ親なしの貧民街育ち。しかも元暗殺者という凄惨な経歴の持ち主」
彼女の苦境は今のフィーノの比ではありません。
「それでも二人は苦境にあって真っ直ぐ生きているわ。あなたのように安易な道は選んでいない」
「だけどオイラ達みたいに腹を空かせているわけじゃないんだろ」
「貧困だけが苦しみの全てだと思っているの?」
「それ以外にどんな苦しみがあるってんだ」
フィーノの想像力の貧しさは彼自身の責任ではない。この貧民街が世界の全てなのだから、その考えに至るのは当然の帰結。
「あなたは私に何の苦しみもないと思っているの?」
「綺麗なべべ着て、日々のおまんまにも食いっぱぐれない。それのどこに苦労があるってんだ」
ぎりっと歯を噛み締めフィーノは拳が白くなるほど握り締めた。
「お腹が空いても何も口にできないひもじさを、満足な住処も服もなく寒さに震える惨めさを、親の元でぬくぬく暮らしているヤツらを眺めてオイラ達との違いを見せつけられる悔しさを……そんなオイラ達の苦しみをお前は知ってるってのか?」
フィーノは一気に捲し立てる。それは彼が日々の貧しさ中で溜め込んできたものの発露。
「生まれ変われるならオイラだってお前みたいな裕福な家の子になりてぇよ!」
「安易に盗みに走るあなたが私の立場だったなら、今頃はとっくに土の下だったでしょうね」
フィーノがえっと驚いた。
「私が生まれてきて十九年、命を狙われない日はないわ。私はそういう世界に生きているの。さっき話したマリカも元は私に差し向けられた殺し屋よ」
「だけど、そっちの強い騎士にいつも守られてんだろ」
「だから言ったのよ。そんな安易な考えしかできないあなたでは絶対に生き残れないって」
昼夜を問わず暗殺の手は伸びてくる。手段も様々だ。アルトや護衛の騎士だけで生き残れるほど甘くはない。
「もしかしたら暗殺者の中には父の息がかかった者もいたかもしれない。私の世界は親兄弟さえ信じられないのよ。だけど、いくら言葉で説明してもあなたには私の苦しみが理解できはしない」
私は赤い瞳を真っ直ぐフィーノに向けた。彼は見るからにたじろいでいる。
「あなたのように自分の苦しみの中だけで生きている人にはね」
人は誰しも苦しみを抱えて生きている。時にそれは自分を縛る鎖となり世界を狭めてしまう。
「フィーノ、あなたはもっと世界を知るべきよ」
この子には見所がある。彼を縛りつける鎖を断ち切り世界を広げてあげたい。だからこそ私は彼と向き合う必要がある。
この思いは私の独りよがりかもしれない。フィーノに私の思いは伝わらないかもしれない。それでも彼にチャンスを与えたい。
私とフィーノの視線が真っ直ぐぶつかり合う。この場の誰もが口を閉じて私達を見守っている。
「お姉ちゃんだあれ?」
そんな張り詰めた空気を可愛らしい声が打ち破りました。




