41. 廃棄王女、暴走する
薄暗く不衛生な路地裏には至る所に濁った水溜りが形成されていた。
――パシャッパシャッ
汚水が跳ねるのも構わず、私は疾走する。
今の私は風の魔術を纏った状態。私の衣服がはためき、スカートの裾が翻る。それ程の風に水も周囲へと飛び散る。途中、無気力に座り込んでいた浮浪者が汚水を浴びて怒声を上げたけれど、私は構わず走る。
都度々々、わかれ道でまごついたせいで、思ったよりも追いつくのに手間取ってしまいました。
「何だおま……離…よ!」
ですが、やっと私の耳に少年の叫び声が届きました。かなり切羽詰まっているようです。私は声のする方へと迷わず駆け出した。
「何すんだよ!」
「クソガキが、大人しくしろ!」
角を曲がったところで先ほどの少年とガラの悪い男達が争っている光景が私の視界に飛び込んできました。
「このハゲ、離せってんだ!」
「俺はハゲじゃねぇ、これは剃ってんだ」
「おい、さっさと連れていくぞ」
「お前もいちいちガキの戯言を真に受けてんじゃねぇ」
屈強な男達に押さえ込まれ、少年がいくら暴れても身動きを封じられているようです。
「オイラをどうするつもりだ!」
「盗みにも失敗して利子も払えねぇんじゃしょうがねぇだろ」
「借金の形に売り飛ばすしかねぇなぁ」
「よく見りゃ汚ねぇ身なりだが顔立ちは悪くねぇ」
「男娼にしても良いし、そっちの気がある金持ちに売っても良いな」
男達が下卑た笑い声を上げました。自分の暗い未来を知った少年の顔が真っ青です。
「乱暴は止めなさい」
私の声に少年と男達が一斉に私の方へ顔を向けた。争いの中ハンチング帽が脱げたのか、少年は再び緑色の髪を晒している。先ほども思いましたが、男達の言うように悪くない顔立ちです。
「ああん?」
「何だてめぇは?」
男達は《《見える範囲》》に全部で五人。全員、見るからに脛に傷のある種の者達です。もちろん、見た目で判断はできませんが、さっきのやり取りから彼らが聖人君子ではないのは間違いないでしょう。
「その子から手を離しなさいと言っているのです」
男達は一瞬ぽかーんとして、次に顔を見合わせるとゲラゲラと笑い出しました。
「ははは、一人でのこのこやって来たんか?」
「とんだ世間知らずだ」
「だけど、おつむはともかく顔は絶品だ」
「こいつも一緒に攫っちまおうぜ」
「それよか俺達で楽しむってのはどうだ?」
「そりゃあいい」
男達は舌舐めずりしてニヤニヤと下品な笑いを浮かべる。貴族の世界では不美人だと言われてきましたが、まさかこんな場所で容姿を褒められるとは思いもしませんでした。
「こんな上玉、滅多にお目にかかれるもんじゃねぇ」
「黒髪のきつい感じがたまんねぇぜ」
「気の強そうな女をヒーヒーよがらせるのを想像しただけでいっちまいそうだ」
もっとも、舐めるように嫌らしい目でねちっこく見られては嬉しくもなんともありませんが。
「おいバカ、さっさと逃げろ!」
「大丈夫よ、すぐに助けてあげるから」
少年が喚きましたが、私はにっこりと笑って返す。そして、男達をきっと睨み付けました。
「最後の警告です。少年を置いて立ち去りなさい」
「おいおい、命令すれば誰もが言う事を聞くと思ってやがるのか?」
「この状況が分かってないんかねぇ?」
「まあいいじゃねぇか」
「そうそう、お陰で俺達が楽しめるんだからよぉ」
一人が少年を逃げられないよう捕まえて、残りの四人が私の方へと向かってくる。
「私に手を出そうとするなら殺されても文句は言えませんよ?」
私の忠告は男達には無意味なようです。その余裕の表情から、彼らは自分達が痛い目を見るなど露ほども思っていないのでしょう。
私は諦めのため息を漏らすと右手を前に突き出し呪文の詠唱を始めました。
「永劫に煉獄を彷徨う汝の名はウィリアム……」
「――!?」
「このアマ、魔術師か!」
「慌てんな、呪文を唱え終わる前に押さえ込んじまえ!」
男達の判断は正しい。呪文さえ封じ込めれば魔術師に打つ手はないのですから。もっとも、私の場合は魔眼があるので、その限りではありません。ですが、ここで手の内を晒すのは得策ではなく、だから私は一般的な魔術師の基本戦術を取りました。
「……携えし石炭の燃えさしここにもて!」
男達が私に掴みかかろうと手を伸ばしたのと時を同じくして呪文が完成する。あまりに短い詠唱。魔術師は一つや二つ近接戦用の魔術を用意しているものです。
「愚者の残火」
私の突き出した右掌から複数の光が飛び出しました。
「うわっ!?」
「眩しっ!」
「目がぁ!」
それは男達の顔面を襲う。ですが、この魔術に殺傷能力はありません。ただ彼らから一時的に視覚を奪うだけ。この場に僅かな間隙が生じる。でも、それで十分です。
「木々草花を枯らすは北の主、生命を貪りし粗暴なりし風の神レアース、汝の翼をもっては暴風を生み、汝の息にて嵐を巻き起こせ……」
より強力な魔術を準備できるのですから。
「暴威の旋風」
それは強力な風の魔術。
四人の男達の中央に旋風が巻き起こり、やがてそれは竜巻となって彼らを吹き飛ばす。ニ人は凄まじい勢いで壁に激突し、二人は空中へと巻き上げられ大地に叩きつけられてました。
打ち所が悪ければ即死、そうでなくとも大怪我で身動きが取れないでしょう。残すは少年を取り押さえている男だけです。
「あなたはどうしますか?」
「ヒィッ!」
私が足を一歩踏み出せば、男は情け無い悲鳴を上げました。
「大人しくお仲間を連れて消えてくれるのなら見逃してあげます」
「コンチクショー!」
「わっ!?」
少年を突き飛ばすと男は短剣を抜き滅茶苦茶に振り回しながら私に向かってきました。明らかに素人です。魔術を使うまでもないでしょう。
私は学んだ護身術の構えを取る。しかし、その私の横を赤い風が通り抜けました。そう認識した瞬間、目の前に迫っていた男がドウッと地面に叩きつけられる。
男を投げ飛ばしたのは赤髪の美丈夫。男を押さえ込むと、彼は青い瞳を私に向けた。私の護衛騎士アルトです。
「アルト、ユイリーを置いてきたの?」
「彼女は部下に任せてあります」
声に険があります。これは怒っているようですね。
「お一人で動かれるなど……お立場をお考えください」
「私なら大丈夫よ?」
「あなた様のお力は存じ上げておりますが、戦いの場に絶対はございません」
「ごめんなさい、アルトの言う通り軽率だったわ」
「ぜんぜん反省なさっておられませんよね?」
私の謝罪が軽く感じたようで、アルトは作戦を変更してきました。
「まあ、お小言は帰ってからベルナ嫗にお願いしましょう」
「それはお願いだから勘弁して」
その切り札は卑怯です。
「それで、その少年はどうされるのですか?」
「そうねぇ」
スリの少年はまだ逃げ出してはいませんでした。賢明な判断です。私は《《見える範囲》》の無頼漢を倒しましたが、隠れて私達を窺っている者達がいますから。
「放っておくわけにもいかないか」
「フィーノ!」
私が少年を保護しようと動いた時、若い女性が私達の間に割り込んできました。
「あなた達、この子をどうするつもりですか!」
それは修道服を着た美しい女性でした。




