39. 廃棄王女、己の侍女をたらしこむ
「ひーん、メディア様ぁ、もう帰りましょうよぉ」
何とも情け無い声をユイリーが上げました。いつもハキハキしているユイリーにしては珍しいですね。
「まだ入口付近に入ったばかりよ?」
「で、でもぉ、こんなに汚い場所なんて私には無理ですぅ」
ユイリーが半泣きで縋ってきましたが、彼女は良家の子女ですから耐えがたいのも仕方ありませんか。
私とユイリーは町娘の服装に着替えてさっそく街へと繰り出しました。ユイリーはカザリアの子爵家の出自です。利発で令嬢教育の行き届いた娘ですが、逆に貴族の世界しか知らず市井の暮らしには疎いのでしょう。
城下街に出ると最初は物珍しそうにきょろきょろしていました。元来、この娘は好奇心旺盛な方ですから、初めて見聞きする庶民の生活に興味津々。
とても楽しそうにしておりました。大通りから脇道にそれるまでは。
そこへ入り込むと急に薄暗くなり、足元はぬかるみだらけ。辺りには浮浪者が生気なく座り込んで、中にはぎらりとした視線を向けてくる者もいます。
屎尿と腐敗したものが混ざったような異臭が漂い、時折どこからか奇声のようなものが聞こえてくる。その度にユイリーが小さな悲鳴を上げました。
耐えかねたようでビクビクと体を震わせユイリーが涙目で私の腕にしがみ付く。いけない。こんな可愛いところを見せられると、ちょっと嗜虐心が湧いて意地悪をしたくなります。
「どうしてメディア様は平気なんです?」
「カザリアでも似たような場所に何度か足を運んだ事があるもの」
カザリアの王都アレントにも貧民街はあり、マリカを連れて視察に赴いた事があります。
「アレントにもこんな場所があるんですか!?」
「貧民街なんてどこの国にもあるわよ」
ただ、多くの人が集まり色んな民族人種の坩堝であるアレントの貧民街はもっとぎらついて殺伐としていました。そこはスリに売春などはまだ可愛い方で、違法薬物や強盗に殺人などの絶えない地域。ですが、逆にみな生きようと必死で、意外にも活気に満ちてもいました。
ところが、ここベリーズは違うようです。そこかしこの人々の目は死人のように生気が感じられず、周辺に漂うのは諦めにも似たどよんとした重い空気。アレントの貧民街の方が危険度は高そうですが、ここよりも生活感があって雑多ながら清潔だったように思えます。
それにアレントの場合は貧民街とそれ以外の場所には明確な線引きがありました。裏路地に入ればすぐに貧民街のような様相となっているベリーズは異常です。
「ううっ、こんな場所がアレントにも……私ぜんぜん知りませんでした」
「それはそうよ。ユイリーの実家は長閑な農業地帯で貧民街とは無縁だし、奉公に来たあなたが王宮の外なんて知る由もないでしょう?」
「でも、マリカ先輩はご存知なんですよね?」
「あの娘は出自が出自だから」
マリカは貧民街で生まれ育った元暗殺者。彼女からすればこんな場所は庭みたいなもの。いつ背後から刺されてもおかしくないアレントの貧民街に比べれば生温いくらい。あの娘なら鼻歌まじりでスキップでも踏みそうですね。
「ううっ、マリカ先輩が戻っていたらお役目を代われたのにぃ」
こんな場所ではマリカの魔眼を重宝します。だから、街の視察はあの子がいつも一緒なのですが、今日は姿が見えずユイリーに供をお願いしました。
「だいたいメディア様の側付が糸の切れた凧みたいに飛んで行っちゃうなんて、マリカ先輩はどうかしてます」
「あの子はあれで良いのよ」
伸び伸びとさせておいた方がマリカは生き生きと働いてくれます。少し甘やかしすぎかもしれませんが。
「猫と一緒で縛り付けられるのを嫌うから」
「随分マリカ先輩を信頼なさっておられるのですね」
「マリカだけではないわよ?」
「そおですか?」
「ええ、マリカは能力が能力だから力を借りる事が多いけれど。でも、ベルナやヤスミンにヨランダも、みんなそれぞれに私を支えてくれているでしょう」
人にはそれぞれ違った能力がある。みんな自分達にできる事で私に尽くしてくれているのですから、信頼しないはずもありません。
「ベルナ様や先輩達は古参ですから」
「ふふふ、まあ付き合いは長いわね」
ちょっと拗ねた感じで私を見上げるユイリーが可愛くて頭を優しく撫でる。
「でも、ユイリーだって頼りにしているわ」
「そんな慰めはいりません」
「お世辞やお為ごかしで言っているのではないわよ」
「そんなに特殊な事ができるわけじゃないのは自分で良く知っています」
「あら、ユイリーは理性的でいつも鋭い指摘をしてくれているじゃない」
「そ、そんなの私じゃなくたって……」
「何を言っているの。直感で動くマリカ達にはできない芸当じゃない」
私はユイリーの考察を重宝しています。彼女もまた得難い人材で、私の一隅を照らしてくれる。
「ユイリーがいないと私は困るわ」
「うっ、メディア様それはずるいです」
ユイリーの顔が心なしか赤く染まる。褒めて少し照れてしまったのでしょうか。
「そんな事を言われたらもうメディア様の為に頑張るしかないじゃないですか」
「ふふ、ユイリーはもう既に頑張ってくれているわよ」
「うーっ、もうっ、もうっ、もうっ!」
いよいよ赤くなったユイリーが私の腕に両腕を絡めて、ぐりぐりと顔を擦り付けてきました。まるで自分の匂いをマーキングしている猫みたいで可愛い。
マリカは灰色山猫でシャノンが野良の黒い子猫。それならユイリーはちょっと気位の高い家猫でしょうか。
「私は果報ものね。ユイリーみたいに尽くしてくれる家臣ばかりなんですもの」
「メディア様はご自分が相当な人たらしだと自覚ないですよね?」
「私は嫌われ者だったけど?」
カザリアでは私は忌み嫌われ、配下になってくれる者も多くありませんでした。もっとも、少ないながら良い家臣に恵まれて、おかげで苦労は少なくてすみましたが。
「それはミルエラ様がメディア様の悪評を流しておいででしたし、国王陛下がメディア様を毛嫌いして遠ざけていたからで……」
「こんな私の下で大変な思いをしたでしょうに、本当にみんなには感謝しかないわ」
「それは一度懐に入った者はみんなメディア様に心酔しているからであって……もう、ホントに無自覚に人たらしなんだから」
ユイリーが呆れたように何かブツブツと呟いています。
「いま何か言っ――きゃっ!?」
ユイリーに尋ねようとした時でした。突然、私は背後から強い衝撃を受けたのでした。




