閑話⑥ 灰被り猫は散歩する
――ロオカの王都べティーズ。
二十万近い人口を抱える南方最大の都市である。そこは農業と花で有名なロオカらしく、花の都と呼ばれる美しい都。円形状の城郭に護られた都で四方に大門があり、そこから真っ直ぐ中央に向けて大道が伸びている。
――ああ、麗しきべティーズ、朝霧の道に咲く瑞々しき花びらから露の雫が滴り、昼に歌えば陽に照らされし色とりどりの花々が踊る。
――夕陽に染まりし街は、恋を知り頬を染めた乙女の如く可憐な姿よ。夜の帷が降りしのち、街の灯りが花を妖艶に彩り我らを惑わす。
――ああ、べティーズよ、ああ、べティーズよ、そは麗しき花咲く都。
ベティーズは時間や季節ごとで違った表情を見せる美しい。かつてここを訪れた吟遊詩人達はこぞって褒め称えた。その歌に恥じず、大通りの両脇は、いっぱいに敷き詰められた花で飾られており華やかである。
その四つの大道が続く先には優美な白亜の建造物が鎮座していた。ロオカ王国の中心にして国王が座す王城である。
昼には陽光で真っ白な姿を晒している王城も、今は夕陽に染まって僅かに赤い。それがなんとも色香を醸し出している。
その城内では間もなく訪れる夜の闇に備えて、侍女や侍従達が各所を回って明かりを灯し始めていた。
「陽が沈むのが早くなってきたわね」
薄暗くなっていく回廊の燭台に火を入れていた侍女の一人が、ふと窓の外へと目を向けた。窓から涼しい風が吹き込み、赤い夕陽で映える赤髪が軽く嬲られる。
「なにサボってんの」
手を休めていた赤髪の侍女は同僚の呆れ声にハッと我に返った。
「こっちは終わったわよ」
「あっ、待って、すぐ済ませるから」
通路の反対側の燭台を担当していた栗毛色の侍女が腰に手を当てむっとしていた。どうやら彼女の方は手早く仕事を終えたらしい。
置いていかれては堪らないと、赤髪の侍女は慌てて残りの燭台に火を灯す。
「これで終わりっと……ん?」
最後の燭台に火を灯すと、最終確認のため燭台を見回した。が、赤髪の侍女は首を傾げた。彼女の視界の隅に影が入ったからである。それは燭台の火が壁に映し出した人影のように思えた。
「どうしたのよ?」
「えっと、今こっちに人影が見えたんだけど……」
しかし、赤髪の侍女が指差す方には、ただ無人の通路が続いているだけ。栗毛色の侍女は呆れたようにため息をついた。
「誰もいないじゃない」
「おっかしーなぁ」
赤髪の侍女は確かに人影を見た。だが、見回しても自分達以外に誰もいない。かと言って、どこかに隠れられる場所もない。不可解な現象に赤髪の侍女は首を捻った。
「窓の外から入った鳥の影を人影と勘違いしたんじゃない?」
「えー、絶対に人の影だったよぉ」
あれは燭台の明かりが壁に映し出した影にしか見えなかった。絶対に鳥影ではなかったと自信を持って言える。
「でも、現に私達だけでしょ」
「そうだけどぉ」
「ほらほら、仕事は待ってくれないのよ。侍女頭にどやされる前にさっさと仕事に戻る」
「分かったわよぉ」
急かされ赤髪の侍女はしぶしぶながら同僚の背中を追った。二人の侍女が去ると、回廊はがらんとした静けさを取り戻した――かに思えた。
「ふぅ、やばいやばい」
無人の回廊に突如として声が生まれた。いや、先ほど侍女達が見た時には誰もいないように見えた回廊に、一人の女の姿が浮かびあがる。
それは灰色の髪に燻んだ鉛色の瞳、カザリアの侍女服を纏った二十前後の女性――メディアの侍女マリカだった。
「危うく見つかるところだったわ」
さっきまで確かにマリカの姿は侍女達の目には映っていなかった。ところが、ずっとマリカはそこにいたのである。
――隠匿の魔眼
それがマリカの隠された能力。
彼女の持つ魔眼の力であった。
そこにいながら、しかし誰も認識できない。彼女の瞳に囚われると、まるで路傍の石の如く、目に入りながらも取るに足らないものと思わせる。彼女の魔眼はそんな密偵や暗殺者からすれば垂涎ものの力。
実際、マリカは元暗殺者であった。
マリカは下町で生まれである。幼い時に親に捨てられ掃き溜めのような場所で、マリカは魔眼の力で生き抜いてきた。そんな彼女が暗殺という裏稼業に染まるのも必然の流れだったのかもしれない。
どんなに警備が厳重であっても、誰にも悟られず暗殺を完遂する。その者に依頼すれば確殺を約束される正体不明の暗殺者。
十代半ばにして、マリカは姿無き恐怖と呼ばれる、恐るべき暗殺者に育っていた。
しかし、この頃のマリカは組織に言われるまま無感動に淡々と暗殺を繰り返すだけ。そんな操り人形のような少女であった。
ただ彼女は人を殺し、金を得て、その日の食事を取り、夜にはただ眠る。それがマリカにとってのありふれた普通の日常。
人を殺すのに何の躊躇いもない。それはただの仕事。生きるために稼ぎ食べる。そこに喜びはない。疲れれば寝る。次の日に夢を見ることなく。
ただただ繰り返される日々は延々と終わることなく続くのだと、マリカはそう思っていた……あの日までは……
マリカに転機が訪れたのは十五の時。彼女に大きな仕事が舞い込んできた。
――東方の大国カザリアの第二王女メディアの暗殺。
これが成功していれば、後世の歴史にマリカの名が残ったかもしれない。
だが、残念ながら、いや、マリカにとってもメディアにとっても、そしてカザリアの国民にとっても幸運なことに、この暗殺は失敗に終わった。マリカの隠匿の魔眼は、メディアの魔力探知の網を潜り抜けられなかったのである。
メディアの魔術にマリカはあっさりと捕えられたが、しかし彼女は無表情なままだった。失敗の悔しさも、死への恐怖も何もない。ただ、これで終わるのだと思っただけだった。
マリカの燻んだ鉛色の瞳に映った少女は自分に死を齎す死神。
(綺麗……)
だけど、マリカには黒い髪と赤い瞳の王女が、この世のものとは思えないほど美しく映った。これからマリカに死を宣告する相手であるのにもかかわらず。
(私、死ぬのか)
だからだろうか。これから処刑されると理解していながら、マリカは今の現状が現実のものとは思えなかったのである。
「この娘を私の侍女にします」
ところがメディアは意外な宣言をした。周囲の反対を押し切ってマリカを自分の側に置き、仕事に失敗して狙われる側になった彼女を保護したのである。
最初こそ同情などいらないと、人間不信の捨て猫が毛を逆立てるようにマリカは反抗的だった。しかし、メディアは忠誠を強要することなく、ただカザリアのために尽くす自分の姿勢を見せ続けたのである。
そんなメディアの私心無き為政者の姿にマリカは次第に絆されていった。その日々の中で、いつの間にかマリカは夢を見るようになっていた。
そう、メディアの横で笑う夢を……
それ以来、メディアの隣がマリカにとって、かけがえのない居場所となった。
だから、メディアのためなら何でもやると決意している。だが、メディアは決してマリカに汚れ仕事をさせない。
マリカはメディアのためなら誰でも暗殺しても良いと考えているのに。第三王女のミルエラだろうと、カザリアの国王ソレーユだろうと、メディアに無礼を働くロオカのギルス王子だろうと。誰だって。
だが、こうやって魔眼の力を使って、ほうぼうを散歩することさえメディアは嫌う。それを分かっていながら、それでもマリカはメディアのために今日もせっせと散歩に精を出すのだ。
「さて、今日の目的は宰相デュマンなんだけど……」
先日、マリカはデュマンこそがカルミアだと推理を披露した。その裏付けを取ろうと、最近の散歩コースにデュマンの執務室も入れたのである。
「どこに行ったのかなぁ」
ところが、部屋を覗いてみたが、デュマンは不在だった。それで城内をウロウロしていたのである。
「今日は諦めて帰ろうかな?」
外を見ればもう日が暮れそうだ。
夕陽はメディアの瞳のように真っ赤で目を奪われるほど美しい。その太陽が山の向こうへ沈んでいく。完全に姿を隠せば、メディアの髪を連想させる黒い闇の世界となってしまう。
(メディア様の黒髪は本当に綺麗)
暗殺を生業としていたマリカは夜の闇が嫌いではない。むしろ、人に安らぎを与える優しさがあると思う。それはメディアの闇夜の如き黒い髪も同じ。
「漆黒の髪と真っ赤な瞳。メディア様は誰よりも美しいのに」
魔眼を使った時の黄金の瞳などいっそ神々しさまであるとマリカは思う。
「それに比べて」
マリカは自分の灰色の髪を一房握ってため息を漏らした。
「私も黒髪だったら良かったのになぁ」
マリカは自分の灰色の髪が嫌いだ。白でもない黒でもない中途半端な色。だから、メディアと同じ黒髪のシャノンが羨ましかった。別段、彼女を嫌っているわけではないのに。いつも歪みあっているのは、マリカのそんな小さい嫉妬のせいもある。
だけど、メディアはマリカの色が大好きだと言ってくれた。灰色の髪は落ち着いていて、燻んだ鉛色の瞳はとても優しい、と……
「……もうちょっと探してみるか」
敬愛するメディアの姿が脳裏に浮かんだマリカは、帰るのをやめて上階へと向かった。
宰相であるデュマンが自分の執務室以外で他に行きそうなところとなると、ロオカ国王ジョルジュの元だろう。
「さすがに警備は厳重ね」
国王の私室に近づけば、衛兵の数も多くなる。
マリカの力とて万能ではない。隠匿の魔眼は姿を消すのではなく、相手の認識を阻害するだけ。多数の人間の目を欺くにはそれだけ負担がかかるのだ。
「だけど、ロオカのボンクラども相手なら楽勝楽勝」
マリカは軽い軽いと踊るような軽い足取りで奥へと進み、ジョルジュの部屋の前まで難なく到着した。
――カチャリ
ちょうど扉が開いて中から侍従が出てきた。マリカはこれ幸いと部屋の中にさっと体を滑り込ませた。
「……の方は順調に進んでおります」
「うむ、デュマンの申すようにシヴァ王子は軍事演習と同盟を反故にはしなかったな」
マリカの予想は的中。デュマンはジョルジュの元にいた。
(しかも、話の内容ももしかしたら……)
絶好のタイミングだったとマリカはほくそ笑む。マリカが侵入しているとは夢にも思っていないのだろう。ジョルジュとデュマンは密談を続けた。
「カザリアの陰謀は着実に進んでおりますからな」
「ふむ、初めは実の娘を犠牲にするとは信じられなかったが……」
(ビンゴ!)
カザリアの陰謀に、実の娘の犠牲。それはメディアの婚姻の件に違いない。今まさにマリカが聞きたい内容である。
「密偵の情報によればギルス殿下はメディア王女の悪評を広めているご様子です」
「そんなことで国家間の取り決めを破れるはずもないのだが」
「しかし、予定通りギルス殿下はメディア殿下に婚約破棄を突きつけるでしょう」
「我が息子ながら、どうしてあそこまで愚かに育ったのか」
ジョルジュは暗い顔でため息を漏らした。話の内容から自分達の思惑に沿って事が運んでいるみたいだが、ジョルジュはむしろ嘆いているように見える。
「心中お察しいたします」
「いや、これも全て私の不徳が招いた結果よ」
沈痛な面持ちのデュマンにジョルジュは自嘲気味に笑う。
「陛下、カザリアの謀略の件、このまま進めてよろしいのですね?」
「構わぬ。もう覚悟はできておる」
おやっとマリカは首を捻った。
(なんだろう……違和感があるけど……)
初めて謁見の間で見た時は無気力そうな王だと感じた。しかし、目の前のジョルジュには強い覇気がある。
(だけど、宰相デュマンがソレーユ陛下と結びついているのは確定ね)
とにかく、カルミアはデュマンで決まりだ。この情報を持ち帰ればメディアからお褒めの言葉をもらえるだろう。
その想像にうきうきしながら、マリカはデュマンの退室に合わせて部屋を抜け出した。
だが、マリカはもう少し居残るべきであったかもしれない。
「我が身一つで済むのなら……それでロオカを救えるのなら……」
そのせいで、部屋に残されたジョルジュの命を賭した決意の言葉を聞き逃してしまったのだから。




