遭難といえば雨
ザク、ザク、ザク。
枯れ葉を踏む音が辺りに響くのを聞きながら、私は散々彷徨わせていた視線を自分のお腹に押しとどめることで今の状況から逃避することにした。
だんだんと暗くなってきた周りの景色が視界の端に入ってきてはいるけど、これ以上周りを見ようとすると嫌が応でも見えちゃうので。これが一番精神的には安定するんですよ。なんて現実逃避を決め込んでいる。
「…………ユーリ」
「……………………はい」
「ちゃんと私の首に手をかけてくれないと歩きづらいのだけれど」
「……………………はい」
できるだけ自分の状況を見て見ぬふりしていたのに、簡単に破られてしまった。それでもどうにかならないかなぁなんて思いつつ、返事をしない選択肢もないわけで。
フレイヤ様に絶賛お姫様抱っこされたまま森を歩いている。そして今、トドメの一撃を食らった気がする。……うん、気のせいじゃないね。トドメだね。
本当だったら顔が真っ赤になるくらい恥ずかしいんだけどかれこれ30分程度はお姫様抱っこされ続けているので、今さら首に腕を回したところで羞恥心は沸いてこない……はず。そう割り切って、行き場がなくなって気をつけに近い体勢になっていた両腕をフレイヤ様の首に巻き付けた。
…………嘘、普通に恥ずかしい。
さっきまでよりもグッと近づいたフレイヤ様の横顔とほんのりと香る程度だった柑橘系の匂いの強まりが脳にダイレクトアタックをしかけてきた。心臓がぎゅっと握られた気がする。耳までほかほかを通り越して火傷するんじゃないかっていうくらい発熱してる。たぶん、すごく赤くなってる。頭の中はてんやわんやだし、何か話をするにしても上手くしゃべれる自信がない。だからただ黙って顔を伏せるしかできない。でもでも、沈黙は沈黙で恥ずかしいし。
ぐるぐる回り続ける私の思考なんて気にした様子もなくフレイヤ様は歩き続けている。その足取りに迷いはないから、きっとどっちに行くべきかわかってるんだろう。
大した装備もなく遭難したら大変だし、このまま何事もなく山を下れればいいなぁ。
フレイヤ様の息づかいを聞きながら、時折視線を彼女に向けて私はそう思った。
なんてことを考えた結果、フラグが立ってしまったようだ。
フレイヤ様の首の後ろに回していた手に水滴が落ちてきたのを感じたのが始まりだった。雨かな?なんて思ったのも束の間、一気に雨脚が強くなり、気づいた時には土砂降りになっていた。パシャパシャと水しぶきを上げながら、フレイヤ様は急ぎ足で森の中を進んでいる。
「あの、フレイヤ様。下ろしていただいたほうが……」
「まだ万全じゃないでしょう。大丈夫よ」
そう言われてしまうとこれ以上のやりとりをして呼吸を乱すほうが申し訳なくなってしまう。だんだんと制服が水を吸い、髪もぺったりと額にひっつく。身体強化を使っていてもずっと私を抱えて歩いていたフレイヤ様の体力だって限りがある。さっきから息が上がってる。
どうにかどこかで雨宿りをしないと。そう思って抱えられたまま視界を巡らせた。薄暗い森の中で一瞬だけ何かが見えた気がした。じっと目をこらすと木々の間に周辺の木とは違う色合いが見えて思わず声を上げた。
「あ!」
「どうしたの?」
「あそこに小屋があります! フレイヤ様!」
「……わかったわ」
私が指し示した方向を確認したフレイヤ様が進行方向を変えた。近づいた先には小さな山小屋があった。所々痛んでいるようだけれど、一時的に雨風くらいは凌げるだろう。幸い、扉に鍵がかかっていることもなくすんなりと中に入れた。
小屋の中は雑多だった。たぶん、木こりだか猟師だかが使っている小屋なんじゃないかな? 山仕事で使いそうな斧などの道具が無造作に積み上げられている。あっちこっちに置いてある物の上には薄っすらと埃が積もっているくらいだから年に何度かは使うんだろう。
部屋の奥には小さな暖炉もあった。暖炉の横には薪が何束か置いてある。これなら寒さも何とかなりそう。
髪や服からぽたぽたと水滴を床に落としながら、フレイヤ様に声をかける。中に入ってもずっと抱っこされ続けてるからね。いい加減おろしてほしい。
「フレイヤ様、あの、もう大丈夫です」
「……そう」
なんかちょっと残念そうな声色なのは私の気のせいだよね?
こころなしかずいぶんゆっくりと足を床におろしてくれてる気がするのも気を遣ってくれてるからだよね?
フレイヤ様の態度になんだか背中がむずむずするけど、今は脇に置いておこう。ふたりともずぶ濡れだし、まだ秋になったばかりとはいえ日も暮れて肌寒い。とりあえず暖炉に火をつけようと思い、暖炉に近づいた。身体はだいぶ回復したみたいで、足元がおぼつかないということもない。ちょっと怠いけど。
できるだけ薪や暖炉の中を濡らさないように気をつけながら火をつけ、ちょっと周りを見渡して使えそうなものを探していく。とりあえず毛布なんかもあったら嬉しい。濡れてる服も乾かさないと。
ちょっと埃っぽいけど比較的清潔で大きめな毛布を一枚見つけた。あとのは……うん。毛布っていうよりはボロ布。臭いもひどいし、これが精一杯かなぁ。
床に座るのにレジャーシート代わりの薄い布を敷いてフレイヤ様に振り返った。まだ入口近くで水滴を滴らせている彼女は小さく震えている。やっぱり寒いよね。
「服、脱いで乾かしましょうか」
「…………え?」
「このままだと、風邪ひいちゃいますよ。あ、毛布使ってくださいね」
私はシャツを一回絞ってから羽織ろう。ちょっとひんやりするけど。
そう思い、ぐっしょりと濡れたブレザーを脱ぐ。濡れてる服って脱ぎにくいよねぇ。ちょっと苦戦しながらも一枚ずつ脱いでいき、暖炉の熱が当たるように備え付けのロープにかけていった。下着一枚になったらやっぱり寒い。できるだけ水滴を絞ったシャツを肩にかけ、可能な限り火に当たれるように近寄りながら、体育座りをする。
……聞こえている衣擦れは気にしない。聞こえない。聞こえてないことにする。
視界の端に白い肌がチラチラしている気もするけど見えない。見えてない。見えなかったことにする。
それよりも何よりも、なんだか心臓がうるさい。バクバクと大きな音がしてるんですけど。これは聞こえないふりはできない。なんせ私の耳の横で鳴ってるんでね。
さっきからずっとバックバクだからね! しれっと「服脱いで」なんて言ったけど身体中真っ赤になるくらい内心焦ってるからね!!!
心の中でうろ覚えの般若心経を唱えながら揺らめく炎を見つめ続けていたところで、ふと隣に人の気配がした。次の瞬間には私の左肩にフレイヤ様に渡したはずの毛布がかけられて、右肩から腕にかけて濡れたシャツ越しに温もりが当たる。
心臓の鼓動が駆け足から全速力ダッシュに変わった。
「…………あ、あの……フレイヤ、さま?」
カラカラになった口の中。押し出した声は完全に上ずっている。情けないくらい、顔が真っ赤になってる。
「……こうしたほうが、暖かいでしょ」
右耳から聞こえてくる彼女の声はいつも通りで、でもどこか緊張しているようにも感じた。
冷えていたはずの身体が熱い。苦しいくらいに胸が痛い。微かに香る彼女の匂いに思考が溶けてしまいそうだ。
なんで自分がこんなに取り乱しているのかわからない。幼い頃からずっと一緒にいたフレイヤ様とふたりきりなんて当たり前にあったことなのに。
ずっとバクバク言っている心臓と右側からの人の体温をできるだけ考えないようにしながら火だけを見つめ続けた。どのくらい経ったかわからない。何も言葉が出ないままの沈黙がふとした瞬間に破かれた。
「…………ユーリ」
焚き火の爆ぜる音に紛れてフレイヤ様の声が聞こえた。耳が敏感になってる気がする。
これでもかと暴れまわっている鼓動を細く息を吐き出して抑え込み、いつもの調子を意識しながらフレイヤ様に顔を向けた。
「どうしました、フレイヤさ――」
口の形を「ま」にしたまま、私の思考は完全に止まった。
当たり前だけどフレイヤ様は今、服を着ていない。いや、下着は身につけたままなので裸っていうわけじゃないよ? 何なら水着だって見てるんだから、それと変わらない。変わらない、はずだ。
それなのに。
雨に濡れ、いつもよりもボリュームが少なくなった金髪と白く透き通った肌。服の下に隠されていたその肢体を隠すように膝を抱えているけど、私のほうが背が高いわけで。必然的に座っていても私が少し見下ろすような姿勢になるわけで。そうすると見えてしまうよね。なんて頭の中で言い訳をする。でもそれ以上に、私を見つめる潤んだ蒼い瞳。それに射抜かれてしまった。
じわじわと、フレイヤ様との距離が近づいていく。
ゆっくりと、その瞳に吸い寄せられていく。
――あぁ、やっぱり綺麗だ。
初めて見たときからずっと。人形のような愛くるしさの中にある小さな宝石。
怒ったり、泣いたり、笑ったり、いろんな貴女を見てきたけれどいつだってその瞳がキラキラと輝いていて、私はそれをずっと見ていたかった。守りたかった。貴女のことを私はずっと――――
「ユーリ! フレイヤ!!」
バン!と大きな音と共にノアの声が小さな小屋の中に響いた。
弾かれたように私とフレイヤ様の距離が大きく開く。勢い余って毛布がぱさりと床に落ちる。
「やっと見つけた。無事………………ごめんなさい、邪魔したみたいね」
「じゃ、邪魔ってなに?!」
「いいのよ、ふたりがそうなるなら私は応援するわ。むしろやっとかって感じだし」
「ノア! だからそれは――!」
慌てた様子でノアに詰め寄るフレイヤ様。いつの間にか落ちた毛布を身体に纏っている。
あっちのことはフレイヤ様に任せよう。私は今それどころじゃないので。




