第四話 少女
彼女の名前は“ゆき“と言った。この桜の時期には似つかわない眩しい名前だった。
彼女は僕より一つ年上だった。にしては彼女は大人びすぎていた。僕も同い年の子に比べれば大人びていた。しかし、彼女はその僕の数十倍も大人びていた。きっともっと身長が高ければ、大学生と間違えられていたかもしれない。大袈裟かもしれないが、その位に彼女は大人びていた。正直僕は気味が悪かった。僕らは兄弟の歳の差でありながら、小学生と大学生のお姉さんという関係に感じられた。それでも僕はすぐに彼女に懐いた。ちっぽけな僕の心が彼女の放つ光と魅力に負けたのだ。
彼女は僕の話をなんでも聞いてくれた。親がいなくて寂しい話。学校に馴染めず不登校になっている話。僕の悩み事なんかもずっと笑顔で頷きながら聞いてくれた。ゆきお姉さんと呼ぶといつも恥ずかしそうに「一個しか違わないじゃない」といった。彼女はいたって普通の小学生だった。異常に大人びた性格と笑顔、そして白いワンピースから見え隠れする細く白い傷だらけの体を除けば。
それから僕らは頻繁に会うようになっていた。最初は一週間に一度会うか会わないかのものだったが次第に回数を増やしていき、気が付けば毎日会うようになっていた。
桜の花が散り果て、青々とした葉がその木を覆い尽くし、その葉の色が変わり枯れ果て、その裸になった木に真っ白な雪が降り積もっても。雨が激しく降り荒れ、雷の雷鳴が激しく鳴り響いていたとしても。僕らはこの出会いに、命を賭けた。
彼女と会うようになってから僕の生活は変わった。学校に行けなくても勉強は頑張った。学校にも本当に少しずつだけれども通うようになった。隣のあの騒音は気にならなくなった。僕はほんの少しだけこの生活が楽しくなった。
その一方で彼女の傷は増え続けた。痩せこけた頬の上にある目には生気がなかった。あの完璧すぎる笑顔がだんだんと崩れていった。時々僕があげるパンを獣のように貪りついた。それが彼女が唯一見せる人間の姿だった。
そんな僕にとっては幸せな日々はあっという間に過ぎ去った。僕は小学五年生、彼女は小学六年生。そして彼女の小学校生活も残りわずかとなっていた。
あれから僕は、学校生活を徐々に克服していった。そして、今では6時間授業もまともに受けられるようになっていた。それでもやはり、人付き合いが全くもってダメなのは変わっていなくって、ぎりぎりまで学校に行きたくないと心の中で喚き、ゆきお姉ちゃんの顔を思い出してはどうにかこうにか腰を上げ学校に向かう。帰りは、一番に教室を出て一目散に家に帰る。尋常ではない速さで宿題をし、ゆきお姉ちゃんの元へとすっ飛んで行く。そんな毎日だった。そして、それが永遠ではないと知りながらも、漠然と、永遠に続くものだと思っていた。
彼女と最後に交わした言葉はなんだっただろうか?どのような会話をして、どのようなことで彼女は笑ってくれただろうか?平凡だからこそ見落としてしまう幸せのカケラを僕は彼女の分まで覚えていなければならなかった。ただ、あまりにも彼女が僕を普通に扱うから、僕自身が平凡に過ごしすぎてしまったから、自分自身が非凡であることを忘れていた。自分が非凡であることを忘れてさえいなければ、彼女の記憶をもっと、もっと、脳裏に焼き付けて、焼き付けて、熱くて、痛くて、酷い火傷の痕が残るくらいに焼き付けていたのに…。
こんな後悔を並べた所で結局は彼女には二度と会えない。彼女は、つまりは、死んだ、、、のだから。
暦の上では春とはいえど、寒さはすぐに和らぐものではなくて白い吐息を追いかけるように家を出た。その日は何週間ぶりかの大雪の翌日で、ベランダや共用バルコニーの手すりに積もった雪が溶けかけているのを見た。
日は出ているとは言え、視界はあまり良くなくて、つまり、最初はそこに何かがあることしかわからなかった。数歩近づいてそれが人間であることに気づいた。そして、それが彼女と分かった時には彼女を抱きしめていた。
ゆきお姉ちゃんはなんでこんなに寒い所で眠っているんだろう。こんな所で寝ていたら、死んじゃうよ。早く温めないと。僕の家までは運べないし、どうしよう。とにかく起こさないと、起きて起きて、ねえ、ゆきお姉ちゃん。全然温まらない。どうしよう、とりあえず起きてもらわないと。ねえ、ゆきお姉ちゃん。
彼女の体を揺すろうとした時、僕は違和感を覚えた。彼女は薄着だった。とてもこんな雪の日に外に出られるような格好ではなかった。一つ疑問に思うといろんな疑問が次々に湧いてくる。なんでゆきお姉ちゃんはこんな所にいるんだろう。なんでこんな所で寝ているんだろう。なんで全く起きないんだろう。なんで、どうして…?薄過ぎる服から覗く白くて、細くて、痣だらけの腕が視界に入った。
気づいたら僕は発狂していた。狂ったように大声をあげ、泣き叫んでは大声で笑った。最早、感情の区別がつかなくなっていた。