第三話 隣人
僕の両親は共働きだった。
いつも朝早くに家を出て、夜遅く僕が寝た後に帰ってくる。それでも僕のことを気にかけ、休みの日には思いっきり遊んでくれた。遊園地や水族館、動物園、色んな所に連れて行ってくれた。
今思えば、あれは僕のことを可愛がってくれていたのではなく、親子の関係を続けるためのイベントだったのかもしれない。僕が成長すると共に外出は減り、顔を合わせることもなくなっていった。
僕は人と関わるのが苦手だった。僕は根本的に人と考え方や思考回路が違かったのかもしれない。それでも小学生の子供にそんなことがわかる筈もなく、除け者にされ、気付けば存在すら忘れられていた。
学校も学童も楽しくなかった。僕は次第に学校に行かなくなり、小学校2年生になる頃には不登校になっていた。
幸いなことに僕は学校に通わなくてもある程度勉強ができた。両親は何も言わなかった。
兄弟も友達もいない僕は家に一人でいるようになった。
僕の家は高級マンションと言われるものだった。共働きで一人っ子、お金には余裕があった。
エントランスにはコンシェルジュ、とまではいかなかったが厳重に掛けられた鍵に各場所に配置された警備員、簡単には割れない強化ガラスの窓。
これらのセキュリティは一切の侵入者を許さない代わりに、外出も少し面倒だった。
一戸建てのように広い日中の部屋は異常な程静かだった。人のことを避けていた癖に静まり返った空間はとても寂しかった。無駄にしっかりとした防音の壁を潜り抜ける音を探して懸命に耳を欹てた。
今から思えばおかしなことだが、僕の隣の家から小さく“どん”という鈍い音が聞こえることが多々あった。時間は大体夕方、子供が学校から帰ってくるような時間帯から夜にかけて。不気味な音ではあったがこの頃の僕にとっては“誰かがいる“と言う事実の方がずっと大事だった。
しかし、その後もこの不気味な音は続いた。最初は安心材料にしていた僕も徐々に不安を感じるようになっていった。
ある日、廊下に出ようとすると知らない六十代くらいの女性と二十代くらいの男性が隣家の扉の前で話していた。
二十代くらいの男性は隣家の人だった。僕が小学校に入学する頃に隣に引っ越して来た人で挨拶の時に一度顔を合わせていた。男性には僕と同い年くらいの娘と妻がいたと記憶している。
急いで扉を1センチくらいの隙間を作って閉め、何を思ったのか、二人の会話を盗みぎいた。
「——毎晩毎晩バタバタと何をしたらあんなにうるさく出来るの?」
どうやら女性が苦情を言いに来たようだ。
「すみません。恐らく娘が走り回っている音だと思います。しっかりと私から言いつけておきますので、すみません。」
「小学生の足音にしてはかなりの重低音だったけど?」
「ドジっ子でして、よく転ぶんです。」
父親はいかにも娘想いの父親に見えた。
「はあ、娘さんが元気なのはいいことだし、年齢的にも走り回りたい時期なのは分かるけど夜は静かにお願いね。後はちゃんと外で遊ばせてあげなさいね。そうすれば少しは静かになると思うから。」
「アドバイスありがとうございます。今度試してみようと思います。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
「じゃあ、よろしくね」
そう言うと女性の方はその場を立ち去った。
女性が見えなくなると父親は舌打ちをして部屋に戻っていった。次の瞬間、何かが思いっきり壁にぶつかる音がしてばたりと床に落ちる音が聞こえ、静かになった。
それからと言うもの僕は隣家の音に聞き耳を立てることを辞めた。それでも時々聞こえる鈍く重い音に恐怖が募っていった。
我慢のできなくなった僕は、この時間をマンションの目の前にある公園で過ごすようになった。
隣の家で何が起きてるのか、必要以上にも頭の働く僕には理解する事が出来た。それでも僕は隣の、顔も見たことのないその子と向き合うことを避けた。僕は、逃げたのだ。
公園は賑やかで、寂しさや恐怖が和らぐ気がした。
「最初っから公園に来ればよかったかなあ。」
そう漏らした独り言が誰にも受け止められずにどこかに消えていった。やはり自分は一人なんだと思い知らされた気がして友達や親と楽しそうに遊んでいる人達が恨めしく思えた。
「やっぱ公園なんて来るんじゃなかった。」
だんだんと沈んでいく強い光を避けて僕は公園が一望できる満開の桜の木の木陰に隠れた。矛盾した自分と春を感じさせる甘ったるい風に苛立ちを覚えた僕は思わず風に向かって背を向けた。
僕がこの公園で時間を潰すようになってから一週間ほど経った。この日も2割ほど花が減った桜の木陰に隠れ、公園を眺めていた。桜が散っても中々消えない春の風に今日もまた背を向けて座った。
公園はベビーカーを押しながら歩く親子が居たり、遊具や持ってきたボールで遊ぶ子供で賑わっていた。
ぼーっとその景色を眺めていると突然、真っ白な何かが視界を覆った。いや、真っ白ではなかった。所々破れたり汚れたり、赤いシミのようなものもあった。そこまで来て僕はこれが布であると気づいた。布——服だ。僕は衝撃だった。貧困家庭なのか、はたまた育児放棄なのか、どれにしても、こんなにもボロボロな服は見たことがなかった。
「あなた、ひとりぼっちなの?」
そう、その服の主は僕の顔を覗き込んで言った。
僕は思わず呼吸を忘れた。ただただそれは、その人は、美しかった。美しくて、でもそれと同時に底冷えした恐怖を感じる人だった。たかだか小学生のクソガキが感じる美しさだったかもしれない。それでもその美しさは、その恐怖を含め、僕の美しさの全てになった。
僕の驚いた表情に彼女はふっと顔を綻ばせ、その年齢に似つかわしくない大人の笑顔で笑った。その瞳には光がなく、眼球の中央にブラックホールがあるかの様に僕の目を漆黒の世界に吸い込もうとして離さなかった。
彼女の笑顔はまるで作り物の如く完璧なものだった。先ほどの恐怖の原因はこの人形のような笑顔にあったのだと幼いながらに思ったのをよく覚えている。