第三話 隣人
僕の両親は共働きだった。いつも朝早くに家を出て、夜遅く僕が寝た後に帰ってくる。それでも僕のことを気にかけ、休みの日には思いっきり遊んでくれた。遊園地や水族館、動物園、色んな所に連れて行ってくれた。今思えば、あれは僕のことを可愛がってくれていたのではなく、親子の関係を続けるためのイベントだったのかもしれない。
僕は人と関わるのが苦手だった。どうしても僕の考えは受け入れられなかったし、受け入れる事ができなかった。学校も学童も楽しくなかった。僕は次第に学校に行かなくなり、2年生になる頃には所謂、不登校になっていた。幸いなことに僕は学校に通わなくてもある程度勉強ができた。両親は何も言わずに受け入れてくれた。
兄弟も友達もいない僕は家に一人でいるようになった。
僕の家は高級マンションと言われるものだった。共働きで一人っ子、お金には余裕があった。エントランスにはコンシェルジュ、とまではいかなかったが厳重に掛けられた鍵に各場所に配置された警備員、簡単には割れない強化ガラスの窓。これらのセキュリティは人を建物に入れないだけでなく、出すことをも難しくさせた。一戸建てのように広い部屋は異常に淋しくって寂しくって、無駄にしっかりとした防音の壁を潜り抜ける音に必死で耳を欹てた。
今から思えばおかしなことだが、僕の隣の家から小さく“どん”という鈍い音が聞こえることが多かった。時間は大体夕方、子供が学校から帰ってくるような時間帯から夜にかけてが多かった。なんとも不気味な音であったがこの頃の僕にとっては“誰かがいる“と言う事実の方がずっと大事だった。
しかし、その後もこの嫌な音は続いた。最初は安心材料にしていた音は徐々に僕に不快感を与えるようになった。
どうやら人間は一度否定的な見方をするとその考えから抜け出せなくなるらしい。一度不快に感じたこの音はその後も僕に不快感だけを与え続けた。
隣の家の会話が聞こえるかもしれない。そんな浅はかな思いは一瞬にして打ち砕かれ、不快感は恐怖心へと変わっていった。
我慢のできなくなった僕は、この時間をマンションの目の前にある公園で過ごすようになった。
隣の家で何が起きてるのか、必要以上にも頭の働く僕には理解する事が出来た。それでも僕は隣の、顔も見たことのないその子と向き合うことを避けた。要するに、僕は、逃げたのだ。
公園は賑やかで、何だか寂しさや恐怖が和らぐ気がした。
「最初っから公園に来ればよかったかなあ。」
そう漏らした独り言が誰にも受け止められずにどこかに消えていった。やはり自分は一人なんだと思い知らされた気がして友達や親と楽しそうに遊んでいる人達が恨めしく思えた。
「やっぱ公園なんて来るんじゃなかった。」
だんだんと沈んでいく強い光を避けて僕は公園が一望できる満開の桜の木の木陰に隠れた。矛盾した自分と春を感じさせる甘ったるい風に苛立ちを覚えた僕は思わず風に向かって背を向けた。
僕がこの公園で時間を潰すようになってから一週間ほど経った。この日も2割ほど花が減った桜の木陰に隠れ、公園を眺めていた。桜は散っても春の風はなかなか止まなくて今日もまた風に背を向けた。
振り返った景色は公園の歩道とベビーカーを押しながら歩く親子が居たり、居なかったり。その横を明らかに速度違反をした車が走っていたり、いなかったり。しかし、そのひはいつもと景色が違った。
突然、真っ白な何かが視界を覆った。いや、真っ白ではなかった。所々破れたり汚れたり、赤いシミのようなものもあった。そこまで来て僕はこれが布であると気づいた。布ー服だ。僕は衝撃だった。貧困家庭なのか、はたまた育児放棄なのか、どれにしても、こんなにもボロボロな服は見たことがなかった。
僕は呼吸を忘れた。ただただそれは、その人は、美しかった。美しくて、でもそれと同時に底冷えした恐怖を感じる人だった。たかだか小学生のクソガキが感じる美しさだったかもしれない。それでもその美しさは、その恐怖を含め、僕の美しさの全てになった。
僕の視線に気付いた彼女はふっと笑顔を綻ばせた。美人の笑顔は嘸かし美しく、可愛らしいのだろう。その時までは僕もそう思っていた。しかし、彼女が僕に向けた笑顔には目に色が、光がなかった。眼球の中央にブラックホールがあるかの様に僕の目を漆黒の世界に吸い込もうとして離さなかった。
彼女の笑顔はまるで作り物の如く完璧なものだった。先ほどの恐怖の原因はこの人形のような笑顔にあったと気づいた。