第二話 裏道
6月
あの始業式から2ヶ月が経った。
あのとき満開だった桜は終わりを迎え、代わりに青々とした葉が生い茂る。それと同時に様々な色の紫陽花が雨と共に咲き始める。
梅雨が、始まった。
放課後、自習室が隣接されている図書室は多くの人が利用する。その中に天竺葵白もいた。特にこの時期は雨宿りを兼ねた煩い輩のたまり場にもなる。
「すみません、図書室では静かにお願いします。もし無理なようでしたら図書室の外でお願いします。」
「チッ、またお前かよ。めんど」
「毎回ご苦労サンですね。」
「お静かにお願いします」
「はあ、行こうぜ」
どうやら、他の図書委員達は彼らを注意しないらしい。まあ、見るからにヤバいやつの見た目してるもんなあ。
彼らが退室すると、こちらをチラチラと伺っていた何人かの生徒たちが安心したようにそれぞれに作業を再開した。彼らはそんなに危険な生徒なのだろうか?
そんな中、姿勢が美しすぎる天竺葵白は一度も机から顔を上げることはなかった。その目に映されているのは机の上に広げられた教材と一秒たりとも無駄にはしないという意思だけだった。
* * *
帰りの時間になり、図書室の戸締まりをした僕は、鍵を返し、帰路に就いた。
僕は雨が好きだ。視界が悪くなり危ないともいうが、僕にはそれが個人を特定されないという利点に思えた。
人通りのない裏道はもっといい。人と遭遇したくない僕にはとっておきの存在だ。何より、自分が全く違う存在になれるような気がする。
だからこそ、侵入者、しかも知り合いとなれば驚きを隠せないのも無理はない。それは彼女——天竺葵白も同じだったようだ。
見開かれた瞳に笑顔はない。
気高く、精錬された、完全無欠を思わすあの笑顔が、絶望と憎悪に狂った漆黒の色に染まっていた。
僕の傘の中で息を呑む音が聞こえた。
喉元に突っかかりを覚えて手を持ち上げると、手がカタカタと小刻みに震えていた。
その手で喉元を触り、指先を顔面に向かって沿わせる。今度は口元に違和感を感じた。唇の形に合わせて指を添わせる。すると、口角が異常に持ち上がっていた。要するに、笑っていた。
あの子が死んでから十数年、一度も笑ったことのなかった自分が、今、笑っている。天竺葵白の崩れた笑顔に、絶望の色に。
もっと、もっと、もっと、あの笑顔を、崩したい!
彼女とは極力関わらないようにしていた。直接関わってしまったら碌な事にはならない。
気づかれぬように、陰で支え、守るつもりだった。
天竺葵白が自分を認知してしまった。されてしまった。
「同じクラスのま―さ―――んですよね?」
いや、認知されていた。
瞬時に戻作られた天竺葵白の気持ちの悪い笑顔は僕に吐き気を催させる。
それでも、雨の音と言うのは都合が良い。聞きたくない言葉から、音から、自分を守ってくれる。
僕は彼女の質問を無視して歩き出した。
今はクラスメイトとおしゃべりをしてる暇はない。
「この間、転校してきた、てん?じくえーと名前は葵白さん?でしたっけ?こんなに遅い時間にこんなに暗い場所で何をしているんですか?」
さっさと帰れ
「ここは、変質者も、多いですよ」
早く帰れ
「早く帰った方がいいんじゃないですか?門限、あるんじゃないですか?」
そして、僕のことを忘れろ
しかし、天竺葵白は全く動こうとしなかった。代わりに、笑顔が抜け落ち、さっきよりももっと大きく目が見開かれた。
「わ、私、門限あるって、言ったこと、ないです。誰にも。」
しくじった。天竺葵白がまだ帰宅していないという事に気を取られ過ぎてしまっていた。
天竺葵白と僕はただのクラスメイトだ。今まで一言も交わしたことのないただのクラスメイト。そんな僕が門限の存在を知っているのは恐怖以外の何物でもないだろう。ましてや天竺葵白にとっては知られたくないこと、絶対に秘密にしたいこと、をだ。
まずい。どう良い訳をする?それよりも時間が、さっさと家に返さなければ。
「なんで、知って——」
「ごめんなさい!詳しい事情は、また今度話します!だから今日はどうか、どうか、帰ってくだ、さい」
僕の身の上話なんかより天竺葵白の安全の方が大事だ。
しかし、そんな努力も虚しく、彼女は翌日、一つの痣を作って登校した。